透明人間は存在しない・上遠野浩平『製造人間は頭が固い』

  

 製造人間。統和機構の中で唯一、『人間を合成人間に造り変える』能力を有した存在。その能力が唯一無二のものであるが故に、彼は組織の中でも特異な立場に置かれている。

 自分の存在が唯一無二のものである事。自分が特別な存在である事。周囲の誰もが自分に価値を見出してくれる様な、稀有な存在たり得る事。そんな事に憧れる時期は、誰にでもある。ただ実際にその価値を見出された――背負わされた時、人はそれを重荷に感じ、囚われた、束縛されたと感じるのではないだろうか。

 特別な力を持った存在を、他人は放っておいてくれない。ある者は取り入ろうとするだろう。ある者は恐れて避けようとするかもしれない。敵対する存在として抹殺しようと企てる者もいるかもしれず、その力の謎を解明して我が物にしようと企てる者も出るだろう。

 どんなに特別な力を持っていようと、他人に影響を及ぼす権力を握っていようと、「この自分を頼むから放っておいてくれないか」という願いだけは通らない。自ら働きかけなくとも、周囲がそんな『特別』を放っておく筈がないからだ。

 今流行りの『忖度』という言葉だって大方そんな様なものだ。仮に権力者が直接指示を下さなかったとしても、その影響力を自ら行使しなかったとしても、周囲の人間は勝手に彼の気持ちや思惑を推し量って動いてしまう。或いは、その存在を利用して自分が成し遂げたい事を推し進める為の後ろ盾として便利に使おうともするだろう。こうなってくると、直接指示した確たる証拠でもない限りは、権力者の意向があったか無かったかという議論は曖昧なままに留まらざるを得ない。いや、事の真相なんて自分は知らないけれど。

 では、無能人間ならば――誰からも顧みられない様な無価値な人間ならばそんな憂いなく生きられるのかというと、人はそもそも自分の存在に何の価値もなく、意味もなく、ただそこに存在しているだけという状態に耐えられないし、周囲もまた無力な人間こそ見付け出して都合よく利用してやろうと狙っている訳で、「自分がそこにいる事」を消してしまわない限りは、自分の存在そのものを投げ捨ててしまわない限りは、他人からの干渉を一切受けないという意味での自由など獲得出来ない。そして当然ながら、それはこの世から自分が消え去るという事を意味する。

 透明人間は存在しない。

 自分などはどちらかというと無能人間に近い方だが、それでもここにこうして存在してしまっている以上、透明人間にだけはなる事が出来ないのだろう。それを悲しむべき事と捉えるのか、どんな人間にもそこにいる意味はあるのだと肯定的に捉えるのかは人それぞれだろうが、大きな権力や影響力を握っている者が日々感じているであろう不自由さと、何の力も持たないが故に存在の軽さに耐えられない人間の憂いと、どちらがより不幸な境遇かという比較には、恐らく意味はない。それらは表裏一体のものであって、自分にとってどちらがより性に合っているかという比較は出来ても、客観的事実としてどちらが恵まれているかという答えを出す事は難しいだろう。とはいえ、俗な話を言えば金や権力というものは、持たざる者から見ればこの上なく羨ましいものではあるのだけれど。

 持たざる者は持てる者の苦悩に思い至る程の余裕は無く、持てる者は持たざる者が無責任に不満を口にするのを気楽なものだと切って捨てる。ただ両者は断絶している訳ではなくて、互いが互いを束縛する様に関係性の糸に絡め取られているのかもしれない。

 さて、本作には、製造人間、無能人間、双極人間、最強人間、交換人間、奇蹟人間など、様々な『人間』が登場する。彼等は皆人間離れした能力を有しているか、自然に生まれた人間という定義に当てはまらない存在だ。それでもなお繰り返し、しつこい位『人間』という言葉が繰り返されるのは、彼等もまた人と人との間に存在する関係性から解き放たれた存在ではないという事なのかもしれない。

 昔のアニメソングではないが、『おばけにゃ学校もしけんもなんにもない』のはなぜかと言えば、彼等が『人間』ではないからだ。人間でないものは、人間のしきたりや法律や倫理観といったものに従って生きて行く必要はない。合成人間もその能力だけ見れば充分人間離れしている。その気になればお化けや妖怪の様に超然とした存在になる事は可能な筈だ。しかし彼等は自分達人間と全く同じ苦悩を抱えている。

 組織に属し、自分の居場所を確保する為に汲々とする事。自尊心を満たそうとする事。自らの存在意義を見付けようと思い悩む事。無力感に苛まれる事。他者からの干渉を疎ましく思う一方で、自分も無意識に他者に対して干渉してしまうという関係性から逃れられない事。挙げればきりがないが、それらは全て『人間』が抱える懊悩であって、いかなる合成人間であっても、あの最強人間であってもそこから自由ではないという所が、彼等が『人間』である所以なのだろう。仮にその糸が届かない先に存在する事が自由なのか孤独なのか知らないが、そんな立ち位置に至る事が出来るのはそれこそあの自動的な、不気味な泡くらいのものかもしれない。

 透明人間は存在しない。

 皆どこかで、誰かと繋がっている。見えない関係性の糸で結ばれている。そう考える時、自分はそこから自由になりたいのか、それともより強く結ばれたいと願うのか。思いは半々だ。その時の気持ち次第、置かれた状況次第で考え方や受け止め方などどうにでも変わってしまう。ただ自分が『人間』であって、この先どうあっても全ての糸が断ち切られた場所に至る事はないのだと分かっているのなら、時に絡んだ糸を切り、また新たな糸を結びながら生きて行く他に道はないのだろうとも思う。中にはどうしても断ち切れない糸もあるだろうし、結んでおきたくとも途切れてしまう糸もあるだろうが、そのままならなさの間に立つ人の事を、恐らく『人間』と呼ぶのだろうから。

 (で、人間関係を切って、別な人と結んでも、どうせまた『生き苦しい』とか言うんだろ?)
 (『人間』は辞められないし、透明にも自動的にもなれないからね)

 BGM “The Invisible Man” by Queen

 

世界に滲み出す人の醜悪さ・白井智之『人間の顔は食べづらい』『東京結合人間』

  

 どちらも前々から気にはなっていた作品。
 自分の場合、書店で本を買う時に、「題名を見ればおおよその内容が分かる作品」と「題名から内容が想像し難い作品」ではどちらを手に取るだろうと考えると、後者の方が多い気がしている。だって『人間の顔は食べづらい』ですよ。書影から漂う怪しさも相まって、内容が凄く気になる。『東京結合人間』も、結合人間という言葉がまず強い。『ムカデ人間』みたいな異形の人間を想像してしまうし、それがあながち間違っていないのも凄い。

 どちらの作品も、人間が内面に隠し持っている醜悪さを抽出して推理小説という媒体に落とし込んだ様な内容で、単にグロい、恐ろしい、というだけに留まらないのが強い。目を背けたくなる様な内容なのに読ませる、という作品だ。

 『人間の顔は食べづらい』では、致死率の高い新型ウイルスの蔓延で肉食を忌避する様になった人間が、安全な食肉を確保する為に自分の遺伝子を使い、食人目的のクローンを作成するに至った世界が描かれる。肉として喰う為に業者に依頼して自分のクローンを育てる富裕層がおり、業者が家畜の様に人間を肥育し、畜殺し、食肉加工するという世界はかなりエグイ。

 首を切り落とされた人体がパック詰めされて出荷される世界という、一般的な倫理観からすれば受け入れ難い世界観がそこには広がっている。しかもその食肉は自分のクローンなのだ。そこで起こる事件や推理よりも、この食人が肯定される世界観そのものが何かの暗喩なのではないかと思ってしまう。

 『東京結合人間』では、男女が性交の結果一人の結合人間となる様に進化した架空の人類史の中で起こる事件が描かれる。

 この世界では、男女が性交すると体が融合し、4本の足と4本の腕、4つの目を持つひとりの結合人間になる。脳や骨格といったものまで文字通り結合してしまう訳だが、その過程で『一切嘘がつけない結合人間=オネストマン』が生まれてしまう事がある。一種の脳機能障害とも言える症状だが、嘘がつけない筈のオネストマン達が集う孤島で殺人事件が起こる。容疑者7人は皆オネストマンであり、嘘をつけないはずだが、なぜか全員が犯行を否定する。果たして真犯人は誰なのか。

 推理小説のギミックとして嘘がつけない人間=オネストマンという設定が必要なのは分かるが、その為に結合人間というおどろおどろしい存在が生み出されるに至るのは、ある種の『過剰さ』を感じさせる。

 どちらの作品も、小説としては容疑者や探偵役が登場し、物語が展開する中で推理が組み立てられて行くオーソドックスな推理小説の形をとっているものの、その推理やトリックを成り立たせている世界設定には人間の醜悪さを煮詰めた様な過剰さがあり、人によっては嫌悪感に繋がりかねない。だが、それでもなお読ませる。この、『魅力』と言うには憚られる様な牽引力が、両作に特異な存在感を与えている。

 人間は道徳的な側面もあれば、嫌悪を催す様な負の側面もある。例えば自分の利益の為に他者を食い物にする事。弱い立場の人間に隷属を強いる事。所有欲、性欲、支配欲等の感情に突き動かされて相手を踏みにじる事。そういった負の側面を強調して世界観の中に鋳込むならば、きっと本作の様な世界が生まれるのではないかと思う。

 文字通り『人間を喰う』世界。性交が異性との融合と化す世界。

 その世界の醜悪さから読者が目を離せないのは、その嫌悪感が全くの創作ではなくて、自分達が現実の中で日々思い知らされているそれと地続きであるからではないかと思う。作品の中に漂う醜悪さは正に自分達から滲み出しているのだと気付いているからこそ、読者は目を逸らす事が出来ない。そんな気がする。

  

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走り続ける、その力強さ・竹宮ゆゆこ『おまえのすべてが燃え上がる』

 

 愛人関係を持っていた男の妻が、刃物を持って後ろから追い掛けて来る。ターミネーターT-1000ばりの走りで。捕まったら間違いなく殺されると思いながら、下着姿に裸足のままというなりふり構っていられない状態で逃げるのが本作の主人公である樺島信濃だ。なかなかロックだなと思う。いや、自分がロックの何を知っているという訳じゃないけれど。

 思えば『知らない映画のサントラを聴く』の時もそうだったけれど、竹宮ゆゆこ氏の描く女性は『走っている』気がする。いや、愛人である事がばれて刃物を持った奴に追い駆けられれば誰でも死ぬ気で走るだろうが、そういう事だけじゃない。生き方が、走っている。

 かく言う自分はこのところずっとうなだれて歩いている。緩やかな上り坂をずっと上らされているみたいだ。坂の終わりも見えないし、なぜ歩いているのかも分からなくなりつつある。疲労と徒労感が足を重くさせる。ただ立ち止まる事は許されていないので(誰に?)仕方なく歩を進める。毎日。とぼとぼと。

 この道は間違っているんじゃないか。自分は間違った生き方をして来たんじゃないかという恐れがいつもつきまとう。じゃあ反対に、『正しい生き方』ってどんなのだよ、というと、分からない。ただこの分からない、というのも言い訳で、本当は皆分かっているのだろうと思う。

 誰でも自分の居場所が欲しい。自分を肯定してくれる誰かが隣にいて欲しい。

 自分の存在を受け止めてくれる誰か。自分はここにいてもいいんだと思える居場所。それを手に入れたくて、手に入れられなくて、皆もがいているんじゃないか。そんな気がする。

 誰かの愛人になって、買ってもらったブランド物で着飾って歩いてみる。それも確かに必要とされる、という事のひとつの形かもしれない。でも、相手には家庭があって、自分が代わりに収まる事が出来ないたったひとつの場所には、もう他の誰かがいる。本当に必要とされている誰かが。愛人には代われない誰かが。じゃあ自分の居場所はどこにあるのだろう。本当の居場所は。

 “ここではないところに、ちゃんと私のおしろがあってほしい。誰にも奪われない、本当の私のおしろがほしい。ほしい、ほしい、ほしい、ほしいほしいほしい。わたしのおしろはどこにあるの。わたしはおしろにかえりたい。”

 本作で信濃は、心の中でそう叫ぶ。彼女が探すおしろは――居場所はどこにあるのだろう。そして、そんな信濃が再会する事になる旧友、醍醐健太郎もまた、同じ様に居場所を探している。

 二人は似ている。婚約が破談になって傷を抱えている所とか、お互いがすぐ近くにいるのに、いや、近くにいるから気持ちがすれ違ってしまう所とか。気が合わないという訳じゃない。好意がない訳でもない。でも、タイミングとか、距離感とか、そうしたものの違いが、時に二人を遠ざける。物語の必要性からそうなっている訳じゃなく、本当にそうした事はあるんだろうと思うけれど、二人が立っている場所は、なかなかひとつに重ならない。

 欲しいものは分かっている。望むべき生き方も見えている。でもそこに辿り着けるかどうかというと、道はそんなに真っ直ぐには繋がっていない。道は曲がりくねり、アップダウンがある。分かれ道があって迷いそうにもなる。

 その道を、走る。

 信濃の中に眠っている強さは、そこにある。迷いもするけれど、こうと決めたら走り出す事が出来る。止まらずに走り続ける事も出来る。時にうなだれたり、立ち止まったりする日があるかもしれないが、いつまでもそのままではいない。立ち上がって、走る。そういう強さを、信濃は持っている。誰かが自分の居場所を作ってくれるのを待ってはいない。依存できる相手を探している訳でもない。自分の居場所には――本当の私のおしろには、自分で辿り着かなければならないから。

 小説だから。物語だから。登場人物の人生の「山あり谷あり」も演出の内だよ、とドライに見る事も出来るかもしれない。でも、信濃や醍醐の人生の「ままならなさ」は、多かれ少なかれ皆どこかで感じる類のものなんじゃないかと思う。仕事が上手く行かない。人間関係でストレスを感じている。孤独感を感じる瞬間がある。そんな人生の躓き。疎外感や虚しさ。そうしたものと向き合う姿を見る事は、時に自分を見る様ではっとさせられる。

 竹宮ゆゆこという作家の特異性は、そうした重くなりがちなテーマを軽妙な語り口で物語にしてしまえる所だと思う。読んでいて笑える展開も多いし、さらりと読めてしまう。ただ、軽すぎるという事もなく、シリアスなシーンは鋭く胸に迫る。それでいて全体の読後感は軽やかで、疾走感がある。信濃は走り続ける。その力強さは自分にはないもので、だから自分は彼女の人生の紆余曲折と、それでも走り続けようとする姿勢を好ましく思うのだろう。きっと。
 
 

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 人は自らをどう定義するのか・神林長平『フォマルハウトの三つの燭台 〈倭篇〉』

 

 昔ある人に「SFが好きだ」と言ったら、古典作品の未読の多さを指摘されて「その程度でSF好きだなどと言ってはならない」的な事を言われた話は以前ここに書いた様に思う。当時の自分は「やはりSFファンというものは軽々しく名乗ってはならないのだな」と敷居の高さを感じたのだけれど、それでも敢えて「自分がSFを好きな理由」を語らせてもらえるならば、そこには『今の自分が思いもよらない視座や気付きを与えてくれる』という点がある様に思う。

 近年、AIの発展は目覚ましいものがある。身近なニュースとして、囲碁の世界では人間のトップ棋士でも敵わない様なAIが誕生してしまった。
 AIは人間を超えるのか否か。いわゆる『シンギュラリティ(技術的特異点)』は来るのか来ないのか。様々な意見がある。間もなくシンギュラリティの時は訪れ、人間の職をAIが奪う様になるのだと主張する人もいれば、いや、そんなものは恐れるに値しない杞憂なのだとする人もいる。確かなのは、今後ともAIは各種産業分野のみならず、自分達の生活にも浸透して来るのだろうという事だ。そこまでは、日々のニュースの中から得られる視座である。

 『IoT(Internet of Things)』という言葉も一般的なものになった。『IoT家電』という言葉で、冷蔵庫やらエアコンやら電子レンジといったものまでがネットワークに接続される。自動車は自動運転技術の制御下に置かれる様になるだろう。確かに便利だ。例えばクラウド上からレシピを取得してお勧めのメニューを提示してくる調理家電を余計なお世話だと感じないのなら。

 人と家電のコミュニケーションも今はスマートフォン等のツールを介しているけれど、今に直接AIと会話する様になるだろう。というか、今でも自分達はスマートフォンの音声認識機能を使ってネット検索をしたり、コンシェルジュ機能を使ったりしている。ただ、これが本作『フォマルハウトの三つの燭台』で描かれる様なSFの世界に到達するとどうなるか。そこでは「ある日唐突にトースターが自殺をする」という問題が発生する。

 自殺したトースターとは、食パンが2枚焼ける、あのトースターだ。それにAIが搭載され、持ち主の好みに合わせた食パンの焼き加減を学習し、持ち主と音声でコミュニケーションを行う。他の家電に搭載されたAIとコミュニケーションを取り合い、時として人が「職場の人間関係」という問題を抱える様に、他の家電達との機能衝突を引き起こしたりもする。この様な世界では「たかがトースターにそんな高尚なAIが必要なのか」と言えば「トースターの機嫌を損ねる」かもしれず、ある日突然喋らなくなったトースターを前にして持ち主が「もしかするとトースターは自殺したのかもしれず、その責任は持ち主である自分の態度にあったのではなかろうか」という悩みを抱える事になる。

 これは笑い話ではない。いや、一見して笑い話である事を否定はしないが、事は『人間とは何か』という『人間の尊厳』に関わる問題だ。これがSFがもたらす、新しい視座だ。

 喋る機械は最早珍しくもない。けれど自分達は喋る機械が全て人間と同等であるなどとは決して思わない。それは言葉でコミュニケーションが取れるだけの、ちょっと便利な電化製品の域を出ないだろう。今はまだ。けれど、このままAIが発達して行き、持ち主に使われる事で個性を獲得する様になった時、(それが人間の個性とは全く異なる、擬似的なものに留まるのだとしても)自分達は少しずつ「自分専用」になって行くそれらの家電と「人間関係」と呼べる様な関係を築く様になるのかもしれない。例えばトースターの死を気に病む様な。

 そうなってくると問題は、AIがシンギュラリティを迎えて人間を超えるか否かという問題以前に、自分達の認識が新たになり、「AIを人間と同等の人格として扱ってしまう様になるか否か」という問題が発生する事になる。

 それこそもう20年程前に「将来的にメイドロボって実用化されるのかね。まさかね」みたいな話をしていた自分達がいかに能天気だったかという話になる訳だが、人間の感情を理解し、人間と同様かそれ以上の知能を有するAIが現れなかったとしても、人間と言葉でコミュニケーションを取る事ができ、それらしい返答をするAIが現れた時点で、自分達はそれをひとつの人格として扱ってしまうのかもしれない。たとえそれが食パンを焼く機能しか持たないトースターであったとしても。

 この物語は、その様な『人間側の認識の変容』をひとつのテーマにしている。自分が見ている世界のあり方。人格というものに対する認識。自己というものをどう定義するかという問題。それらを人間ではない存在の視点を通して描く事で自分達に気付かせる。

 人間と似た存在が表れる時、人はいかに『人間』というものを定義し得るかという問題は、これまでも繰り返し語られて来た主題ではある。しかし今、高度化されたAIが自分達の生活に浸透して来ようとする時に、再びこの主題について語り直す事が求められるのかもしれない。自分達はどこから来て、どこへ行くのか。人間を人間たらしめているものとは何か。その問いに答える事は難しいのだとしても。

 

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言葉が不滅であるようにという願い・冲方丁『小説BLAME! 大地の記憶』

 

 冲方丁氏が『BLAME!』の小説を書くと聞いて、自分はあの独特のクランチ文体を駆使したエッジの立った文章を予想していたのだけれど、蓋を開けてみればそんな事もなく、物語も原作漫画を踏襲する形で、失礼にも「これ本当に冲方丁が書いた作品?」と思ってしまった。原作漫画を読んでいると、小説を読んでいても漫画のシーンが思い浮かぶ様な場面が多く、思いの外さらりと読めてしまう。それ位初見の印象は「薄味」だった。

 本作を読む前に、執筆陣の作家性を前面に出した短編集『BLAME! THE ANTHOLOGY』を読んでいたせいもあるかもしれない。あの「濃さ」の後に読むと、原作のストーリーをなぞる本作が薄味に感じるのは致し方ない気もする。

 では、本作の特徴とは何か。自分が再読してみて感じた事は原作へのリスペクトと、その中に控え目に込められた作家の思いだった。

 まず、本作の題名である『大地の記憶』とは、原作漫画の『LOG.2 大地の記憶』から来ている。漫画の各話タイトルまでは流石に憶えていなかったのだけれど、原作と小説を比較して読み進める中で気付いた点だ。そして原作の『LOG.2 大地の記憶』の中で、主人公である霧亥はその長い旅の途中で手に入れた本の中のある一節を読み上げる。

 “「冷たく静かな大地が明るくなる頃 人影は丘の上に登った」”

 そして「大地って何だ」と呟く。無限に増殖する都市構造物の中にあって、霧亥はむき出しの大地を知らない。原作ではここまでだ。だが、本作では同じ一節の後に、作者による一文が付け加えられている。

 “「冷たく静かな大地が明るくなる頃、人影は丘の上に登った。やがて輝く空へそのおもてを向けながら地上の一切の憂いを忘れて約束のときを迎えた」”

 そして原作と同じ様に霧亥は「大地って何だ」と呟く。ただ原作と異なるのは、霧亥がこの言葉を携える様にして旅を続ける点だ。物語の終盤にこの一節はまた表れる。「約束のとき」とは何かという問いを孕んで。

 様々な解釈が成り立つだろうと思う。ただ自分は、物語の構成を原作から大きく変える事が無かった冲方氏が、この印象的な一節には新たに自分の言葉を書き足した事に、何らかの意味はあるのだろうと思う。

 『BLAME!』の世界観では、恐らく紙の本はおろか小説をはじめとする創作物のほとんどが生き残ってはいないのではないかと思う。霧亥がどこかで手にした件の書物も、果たして作者の創作なのか何かの記録なのか判然としない。そして、そこに書かれている事が事実なのかどうか確かめる術もなければ、そうする意味もない。

 人は無限に増殖する都市に取り込まれる様に生きる。もう自分達の意志で何かを創造する事はない。かつて人が、自らが暮らす家や街、都市や国家の形を創造して行った時代があったのだとしても、それはもう誰も知らぬ遠い過去の歴史に埋もれてしまっている。与えられた環境の中で生存する事が全てであり、創造的な行為も、その継承さえもおぼつかない。

 そんな『BLAME!』の世界は、自分達が生きるこの時代から遙か未来に設定されている。そこでは文化と呼べるものはほぼ死に絶え、人は都市に寄生する様に生きながらえている訳だが、その世界観の中で、現代の作家である冲方氏が、原作にはない自分の言葉を霧亥に託して歩ませた理由のひとつは、言葉というもの、物語というものの不滅性を信じたいという点にあるのではないかという気がしている。

 書物が朽ち果て、文明が衰退し、新たな文化の創造が停滞した世界で、かろうじて消滅する事を免れた言葉が誰かの心に刻まれる事。その誰かの中で言葉が再び意味を獲得し、息づく事。その可能性。
 それは作家にとっても、読者にとってもある意味の希望になり得る。物語が持つ普遍性。言葉が人の心に根付くという事の意味。そういった事が、決して無価値にはならないで欲しいという願いがそこにはある。

 その願いが、これからも継承されて行くのかどうか。はるか遠い未来まで見通す事は自分達には出来ない訳だが、そのささやかな願いの積み重ねが自分達を生かしているのではないか。そしてこれからも生かして行くのではないか。今はそう思う。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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