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まだ見ぬ未来への加速・八島游舷『Final Anchors』

 

 自分がSFを好きな理由は、多分「物語が、そして人間の想像力が軽やかに現実を超えて行く瞬間が見られる」からなのではないかと思う。

 本作はAI制御による自動運転技術が発達した近未来を描いている。それは作家ではない自分が想像する近視眼的な未来予想図とは比べ物にならない様な、遥か先を見据えた未来像だ。ただそれは『未来』ではあるけれど、荒唐無稽な『空想』ではない。あくまでも今自分が立っているこの現実世界と「地続き」になっている。何年後か、何十年後かはわからないけれど、自分達が歩みを進めて行った先に、本作で描かれている様な未来が確かに存在するのだろうと思わせる様な現実味がある。それが本作の面白さなのではないかと思う。

 この「地続き感」を説明するにはどうしたら良いだろう。

 例えば自動車を自動運転させる技術と聞いて、自分が思い描くのは精々「自動運転車が事故を起こしたら、その責任は誰に帰するのか」というレベル止まりだ。

 自分は運送会社で運行管理者をしていた事がある。地方の、中小企業レベルの運送会社だったけれど、各地の営業所を合わせれば毎日60台以上のトレーラーや大型車が運行する。そうすると、どんなに無事故を目指していても毎月何かしらの事故が起こるものだ。せめてひと月くらいは無事故の月があっても良いだろうと思うのだけれど、「バック中の安全確認が不十分で他車や器物に接触した」という比較的軽微な事故から「雪道でスリップした挙句に歩道を乗り越えて民家の壁を突き破った」なんていう大事故まで、本当に毎月何かしら事故が発生していた。死亡事故が無かった事だけが救いだったけれど、一歩間違えば或いはそうなっていたかもしれない事故は数知れない。事故の度に自分は保険会社と連絡を取り、先方に謝罪し、場合によっては過失割合を協議した。そして実感したのは「事故処理というのは責任を処理する事だ」というものだ。

 事故が起きた時にハンドルを握っていたドライバー個人の責任。それが仕事であれば、雇用主である会社が安全教育を疎かにしていなかったかどうか、運行管理者が過労運転をさせていなかったかどうかという責任もある。そして相手車も走行中であったという事なら、発生した事故についての過失割合が問われる。事故状況は分析、整理され、実際の事故と類似した過去の裁判例を基準にして話し合いが行われる。誰に、どれだけ事故の責任があるのかを明確化して行く事。それが事故処理だと自分は思う。

 自動運転技術の普及は、その「責任の所在」というものについて一石を投じるだろうと思う。ドライバーが完全に自動運転に頼って走行する様になった時、事故の責任は自動運転技術を開発したエンジニアに帰するのか、自動運転に必要な各種センサーを含めた車体を製造した自動車メーカーに帰するのか。自動運転車と一般車の事故ならどうか。自動運転車同士の事故の場合はどうなるか。
 そうした自分の想像が近視眼的だというのは、本作で描かれる世界はそれを遥かに超えた先を描いて行くからだ。

 名前を持ち、人格を有したAIが自動運転を制御する。それでも避けられない事故が発生する場合、人間では知覚すら出来ない様な、衝突までの僅かな時間――0.5秒――の中で、AI同士の通信が行われる。それは人間にとっての欠席裁判だ。今まさに衝突しようとしている2台の車両に乗っている人間の「どちらを生かすべきか」を決める為の。

 走行中の車両を制動距離ゼロで停止させる為に路面に打ち込まれる強制停止アンカー。片方がそれを使用すれば衝突は回避されるが、エアバッグでも吸収しきれない衝撃に晒されるドライバーはほぼ確実に死亡し、車載AIもその衝撃で自壊する仕様になっている。故に通称「ファイナル・アンカー」と呼ばれる最終手段を、どちらの車両が使うべきか。それを決める為に、AI達は仮想法廷で対峙する。自分自身と、ドライバーを生かす為に。

 自分の目に見えている未来が「事故責任の所在」という直近の変化までしか捉えられていないものであるのに対し、本作が描く未来は「人間よりも遥かに優れた能力を有するAIが、人間には知覚すら出来ない時間の中で『人間の価値』に言及し、それを比較検証し、誰が生き残るべきかを決めて行く」というレベルにまで高度化した世界だ。しかもそれは完全な空想の世界として宙に浮いている訳ではなくて、今自分達が立っているこの現実から進んで行った先に「地続きの未来」として確かに存在しているだろうと思わせるものだ。その事が、自分には恐ろしくもあり、興味深くもある。

 作家の目に見えている未来は、自分の様な凡夫が想像する未来よりも遥か先にある。そして自分は、作品を読む事で作家が見据える未来像に追い付く事が出来る。その加速を感じる時の快感は、日常生活では得難いものだ。だから自分はこれまでも、これからも、こうした物語を求めて行くのだろうと思う。

 

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ジャンル : 小説・文学

新潮45問題(2)・本当に議論されるべき「生産性」とは何か

 個人的な事なのであまり公にするものではないと思うが、昨年に転職した事で障がい者福祉の分野と繋がりを持つ事になった。普段政治問題や時事問題を取り上げているブログでもないのに、なぜ自分が前回の記事を書いたのかと言えば、その理由の半分以上は「重度知的障がい者とその家族の様な、自分達から声を上げる事が出来ない人々」の主張が、ただ声が大きいだけの論客の雑語りにかき消されていく様が許し難いからだ。

 常日頃言葉遣いが荒くならない様に気を配っているつもりだが、この問題について自分は珍しく怒っている。激怒と言っていい。

 2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件は世間を震撼させた。しかしその後の検証報道が十分行われたとは言い難いと自分は思っている。事件当時自分はまだ前職にいて、障がい者福祉のしの字も知らなかった自分は、今になって当時の異常さを振り返っている。

 思えば犯行に及んだ植松聖個人の異常性ばかりが報じられた事件だった。ただ自分が恐ろしいと感じたのは、一部の人間がネットの匿名性を利用して彼の犯行を「よくやった」と称賛していた事だ。

 高齢化社会になり、働き手である現役世代が減少して税負担が増える一方、社会福祉にかかる支出が増加している事は由々しき問題ではある。そうした流れの中で「これ以上の負担は背負えない」という本音が、様々な場所から噴出している気がする。
 生活保護費の不正受給等、批判されるべきものもある。ただその他にも、例えば「死刑廃止論者は死刑囚を生かしておく為の公費を全額自己負担してから言え」とか「植松は自分達に出来ない事をやってくれたのだ」という様な、「公費支出を減らす=自分達の負担を減らす為には切り捨てるべきはどんどん切り捨てろ」という暴論を支持する層が一定数存在する事もまた浮き彫りになった。正に前段で杉田水脈氏が雑に扱った「生産性の有無による差別」という問題が、障害者福祉の分野では2016年からずっと危惧されていた訳だ。

 生産性のない者=子どもを産まない者・自身が収める税よりも福祉として受け取る金額の方が大きい者は、社会のお荷物であるとでも言うかの様な風潮は、少なくとも障がい者福祉の世界では「植松聖個人の異常性に見えていたものは、本当は広く大衆の中に存在する差別意識なのではないか」という危惧を持って受け止められていた。次に排斥されるのは自分達なのではないか。第二、第三の植松が現れるのではないか。そんな恐れで張り詰めていた所に、無造作に「生産性」という言葉を投げ入れてきた事。それこそが杉田水脈氏が受け止めるべき批判の本質であり、自省を求めたい点である。

 そして杉田氏が発したメディア批判の流れを引き継いで氏を擁護する為に現れた小川榮太郎氏は、本来杉田氏にとって「メディア批判のついで」だったLGBT問題に直接火をつけに来た点で更に悪質だと言えるが、こちらは引用や書き起こしをするのも気が滅入るので要約する。「LGBTとは伝統保守主義者からすればふざけた概念」という主張がそれであり、わざわざ公に取り上げる程の問題ではなく、言ってみれば「ずっと表に出ずに引っ込んでいろ」と言いたい訳だ。氏の言葉を借りるなら「人間ならパンツは穿いておけよ」という事になる。恥部は表に出すな。隠しておけ。そう言っているとも取れる。

 小川氏がそんな主張を展開できるのは、自身が多数派であるという揺るぎない自身の現れだと思う。性的指向においても、言論空間であっても、自分は多数派であるという安心感が氏の言葉を選ばない雑な文章から伝わって来る。自分が多数を占めている側に立っていると思えばこそ、また自分の主義主張の正しさを信じて疑わないからこそ、「伝統保守主義者」などという事を言ってのける訳だ。

 自称多数派、自称伝統保守主義者がそうした雑語りを大声でする一方で、少数派の声はかき消されて行く。社会福祉に支えられて生きている人々が大きな声を上げられないのは、仮に現行の社会制度に何らかの問題があるのだとしても、自分達がそれに支えられて生きている事を知っているからだ。謙虚にじっと耐えている誰かの姿を、伝統保守主義者様は少しでも想像してみた事があるのか。仮にこの国に未だ解決されない人権問題が横たわっているのだとしたら、それを解決できなかった、或いは放置してきた責任の一端はこれまで日本の伝統を守り続けて来た(と自称する)伝統保守主義者の側にあるのではないか。

 例えば、重度知的障がい者の方は選挙に行く事が出来ない。

 何を当然の事を言っているんだと思われるかもしれないが、選挙に行けないという事は、例えば自分達に直接関係がある障がい者福祉の分野に理解のある候補者を推す事が出来ないという事だ。権利は持っていても、それを行使する能力がないからという理由で、選挙制度上彼等に与えられている一票は無効になってしまっている。選挙で票を投じる事が出来ないという事は、彼等が議会制民主主義の中から閉め出されている事に等しい訳だが、ずっとそれは仕方のない事だとされ続けているし、だからこそ彼等の様な少数派は、多数派の中にも少数派の意見に耳を傾けてくれる人がいる筈だという「善意」を信じて生きて行くしかない訳だ。その善意に期待する事すら出来なくなったとしたら、彼等はどうすればいい? ある日突然植松の様な人間がまた現れて、それに対して匿名で「よくやった」なんていうコメントが集まったとしたら、それに対する怒りや悲しみや恐れには誰が寄り添ってくれるというのか。

 ここまで書いて来て、人間怒りを通り越すと逆に悲しくなり、それすら通り越すと今度は感情の起伏が無くなって来るのだなという事に気付いたりもする訳だが、最後に言う事があるとすれば、保守だとかリベラルだとか、右翼だとか左翼だとか、そういう自分の立場を明確に定めて相手と対立して行くだけの言論に存在価値はあるのかという事だ。対立する相手の意見は全否定して聞く耳を持たず、自分の意見だけを押し通そうとする。そうやって相手を批判する為に、本来無関係の人々が抱えている人権問題まで巻き込んで傷付けておきながら、それを指摘されると今度は言葉狩りだと居直る。そこに何らかの「生産性」があるのかよ、という事だ。生産性を議論するならこちらの方が先なんじゃないのか。


 声の大きな論客の皆様。あなたの発言に「生産性」はありますか?


 自分はここから、ずっと見ているつもりです。だから何だ、と言われるでしょうが。

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新潮45問題(1)・杉田水脈氏から小川榮太郎氏まで「リベラル系メディア批判の度が過ぎる」

 ここは政治について語るブログではないのだけれど、最低限この問題については言っておかなければなるまいと思うので書く事にする。

 言論の自由、表現の自由といったものは確かに誰にでも認められなければならない権利だが、それがただ誰かを罵倒する為のものであったり、差別的であったり、相手を不快にさせたり、もっと言えば精神的に傷付けるだけのものであったりした場合、その言説はカウンターとしての批判を甘んじて受け入れるべきだろう。何の事かと言えば、杉田水脈氏の論考に端を発した『新潮45』の問題である。

 杉田水脈氏の『「LGBT」支援の度が過ぎる』と題された論考が世に出ると、たちまち批判に晒される事になった。

 “例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです”

 この「子どもを作る事」と「生産性」を結び付けた事、そして生産性のない人間に税金を使うべきではないという姿勢があたかも弱者切り捨てや優生思想を思わせるという事が批判の要因ではあるのだが、これら批判に対してのカウンターが新潮45・2018年10月号の特集記事である『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』である。この特集に寄せられた論考の中で、主に小川榮太郎氏の『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』と題されたものが余りにも差別的かつ偏見にまみれているというので再炎上した訳だが、一読してさもありなんという感じがした。言葉の選び方が雑であり、読む者に不快感を抱かせる悪文の典型だったからだ。

 杉田論文に対する批判をかわす為の主張として「『生産性』という言葉だけをクローズアップして叩くのは『言葉狩り』である」というものがあるのだが、この「言葉狩り」という言い方が自分は嫌いだ。揚げ足取りをするな、全体を見ろ、という事なのだろうが、失言を批判された際に「言葉狩り」と言って居直る事が許されたら、世の中は他人を傷付ける言葉で溢れかえってしまう。言葉狩りを主張する前に自分が発した言葉が相手にどう受け止められたのかを自省するべきであろう。

 そして、「言葉尻をとらえて批判するな」という事なので、文脈を整理してこの問題について書いておこうと思う。その軸は「リベラル系メディアと保守派の深刻な対立」である。ここでのリベラル系メディアというのは保守派から見た場合という事にしておこう。


 <杉田水脈氏と朝日新聞の因縁>

 そもそも『「LGBT」支援の度が過ぎる』は『日本を不幸にする「朝日新聞」』という特集に寄せられたものだ。この通り、最初はメディア批判がメインの論考だったのであり、LGBT問題はメディア叩き=朝日新聞叩きの材料に過ぎなかった。なぜ杉田氏が朝日新聞を目の敵にしなければならないかというと、それは『従軍慰安婦問題』に端を発する。

 日韓の間で問題化している従軍慰安婦問題だが、そのきっかけとなった吉田清治氏の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』や、氏の発言内容を繰り返し報じたのが主に朝日新聞であった。ただ、結論から言うとこの「吉田証言」は正確性を欠いた内容であり、創作も含まれるなど、事実の裏付けが取れない虚偽の内容であった。しかし朝日新聞は記事の訂正や取消、謝罪を行わず、結果として朝日新聞による慰安婦報道の取消が行われたのは2014年であった。

 『記事を訂正、おわびしご説明します 朝日新聞社 慰安婦報道、第三者委報告書』

 ただその頃には時既に遅く、従軍慰安婦問題は国際問題化されてしまっており、昨今報じられる各国に飛び火する少女像の設置問題等でも分かる様に、日本の国際的な信用、評価は毀損されてしまっていた。ここに、保守派とリベラル系メディアの根深い対立がある。

 従軍慰安婦報道だけではなく、政治家の靖國神社参拝問題等でもリベラル系メディアは批判的な報道姿勢によって外交問題化させてきたではないか、というのが保守派の主張であり、「火の無い所に煙は立たない」と言うが、言ってみれば「火の無い所に煙を立たせようと放火して回っている」のが朝日新聞に代表されるリベラル系メディアではないのかという批判が繰り返されてきた。その朝日新聞批判の急先鋒であったのが杉田氏である。

 杉田氏から言わせれば、LGBTの権利を守らなければならないというメディアのキャンペーンは、裏を返せば「日本はまだLGBTに代表される少数派の人権を守ろうという意識が低い国ですよ」と諸外国に喧伝されているに等しく、「リベラル系メディアがまたありもしない人権問題に火をつけて日本の国際的信用を失墜させようとしている。阻止しなければ」という事になる。だから以下の様な発言が出る。

 “しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。”

 これは、明確に「火消し」の意図を持った発言である。従軍慰安婦問題の様に大きな炎になる前に、自分が火消しをしなければならないという使命感が言わせている訳だが、問題は、「では本当に日本に人権問題は無いのか。差別は無いのか」という事だ。


 <「ありもしない差別」扱いされた当事者達の反論>

 杉田氏は「従軍慰安婦の強制連行など存在しなかった」「日本人が慰安婦を性奴隷として扱ったなどという事実はない」という論調そのままに「LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか」と言い放った訳だが、ここで問題なのは、実際に虚偽証言が発端であった従軍慰安婦問題と、事実そこに存在している様々な人権問題とを同列に扱った事である。

 日々差別意識を向けられていると感じているLGBTの人々はもちろん、自分同様、子どもを持たない生き方をしている人や、例えば相模原障害者施設殺傷事件の犠牲になった、社会福祉に頼って生活している重度の障がい者等にとって、「生産性」という言葉が無造作に投げ込まれ、「生産性の有無を尺度に公費を使うべきか判断するという姿勢を他ならぬ与党議員が見せた事」は、恐らく杉田氏本人が全く想定していなかった大きな批判を引き出す事になった。

 今そこにある問題や差別の渦中にいる人々にとって「そんな問題などない」と言われる事の絶望感は筆舌に尽くし難いが、杉田氏が迂闊だったのはよく調べもせずに「リベラル系メディアが言っている事なんて虚偽に決まっている。リベラル系メディアは日本の国際的評価を落とす為に活動している売国奴の集まりだ」とでも言う様な、言ってみればアメリカのトランプ大統領が自身に批判的なメディアを片っ端からフェイクだと決め付けているのと同じレベルの批判に基いてこの論考を書いた事だ。

 杉田氏が、従軍慰安婦問題で朝日新聞との間に出来た遺恨にとらわれる事なく、ひとつひとつの報道内容に対して精査する事ができていれば、今回の批判は起こらなかっただろう。そしてこの「リベラル系メディアと保守派の深刻な対立」の先に、杉田氏より更に酷い小川榮太郎氏の論考が登場する事になる。なぜなら彼はその著書『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』の内容が名誉毀損にあたるとして、朝日新聞社から損害賠償訴訟を起こされているからだ。

 『小川榮太郎氏ならびに飛鳥新社に対する訴訟提起について』

 そして杉田水脈氏と小川榮太郎氏といえば、『民主主義の敵』というそのものズバリの対談本をこの7月に刊行している様なのだが、ここまで来ると新手の炎上商法かと疑いたくもなってくる。第1章からして「左翼メディアに異議あり!」とか狙い過ぎだろう。「問題があるからメディア批判する」のなら良い。ただそれが「メディア批判の為によく調べもしていない問題に口を挟んでくる」様になったら問題の当事者にとってそれは迷惑だ。日頃野党について「批判の為の批判に終始している」と主張している保守派の論客なら、それがどれだけ害悪か分かっている筈だ。

 どんな立場で、どんな論考を発表するのもいい。その自由は誰にでも保証されるべきものだ。ただ、「声が大きい」人間が大声で何かを主張する時に、かき消されてしまう小さな声がある事をわきまえて喋って欲しい。その発言内容で傷付く人間がいるかもしれない事を、どうか頭の片隅にでもいいから入れておいて欲しい。自分の正しい主張を誰かに聞いて欲しいと思うのなら、相手を不快にさせる口汚い罵り方をそのまま紙面に書き起こした様な雑な論考を発表するのではなくて、推敲を重ねるという事を覚えて欲しい。『愛国無罪』を常日頃批判しているのだから、それは自分達にも当てはまるのだという想像力を働かせてもらいたい。これらはそんなに難しい要求なのか、というのが偽らざる自分の感想ではある。

追記:新潮45問題(2)・本当に議論されるべき「生産性」とは何か

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きっと仕事が自分達を形作っている・柞刈湯葉『未来職安』

 

 感想書きもちょっと間が空いてしまってリハビリが必要な感じ。本を読む時間を他の事に回していたせいもあるのだけれど、昨年の秋頃に転職した為に新しい業務内容や職場環境に慣れないといけないという事もある。まあそれも気付けばもうすぐ1年が経つ訳だけれど。

 さて、仕事といえば結構前から、いわゆる『お仕事小説』というものが注目される様になって、働く読者達の共感を集めていたのだけれど、本作は題名の通り『職安小説』であり、それも「未来の職安」をテーマにしている所が面白いと思う。どの位「未来」なのかと言うと、それはもう今自分達が(というよりもメディアがかな?)戦々恐々としている「AIに仕事を奪われる」未来が現実になって、仕事が無くなるどころか「国民の99%は働かない<消費者>としてベーシックインカムをもらいながら生き、残り1%が<生産者>として働く世界」という所まで行き着いてしまった未来が描かれる。そんな時代の「職安」って何なの? 成立するの? という疑問に作者がどう答えて行くかという点が本作の面白さなのではないかと思う。

 とはいえ、本作に登場する「職安」は自分達が良く知っている職安の「受付をして検索機の順番待ちをする」「検索機から求人票を出力したら窓口に出してまた順番待ちをして応募可能かどうか確認を取ってもらう」「沢山の求職者で混み合っていて、自分だけが求職者ではないのだなという安堵と、早くここから抜け出さないと、という焦燥感が入り混じった感覚に襲われる」といったいわゆる「職安独特の雰囲気」とはかけ離れている。仕事に就く<生産者>が人口の1%しかいない世界なのだから当然といえば当然なのかもしれないが、本作に登場する職安は個人探偵事務所の様だ。そこに仕事を求めてやって来る求職者達もまた、厄介な依頼を探偵事務所に持ち込む依頼人に似ている。

 普通、<生産者>が1%しかいない世界というと「物凄い才能を持った、能力とやる気に溢れた人間が、決して機械には代替出来ない類の研究開発や先進的な分野を切り開く為に生産者をやっていて、残りの<消費者>はそれにぶら下がっているだけ」という様な世界を思い浮かべがちだと思う。実際それは間違っていない部分もある。ただ、それだけじゃない未来のお仕事というものもきっとあって、言ってみれば本作は「人間が労働力として必要とされなくなった世界で、何が人間の仕事として残るだろう」=「機械に代替されない人間らしさとは何だろう」という事を考えてみる物語でもある様に思う。そして当然の事ながら、人間というのはいい加減で無駄が多く非合理的な生き物なのであって、そんな人間らしさから生じる仕事というものもまたどこか滑稽で皮肉が効いていて笑えるものが多い。例えば「自動運転車が交通事故を起こした際に頭を下げて辞職する為の仕事」とか。

 そんな馬鹿な、と思うか、ああ、それって確かに人間らしいよね、と思うか。自分は後者だったけれど、そうした人間らしさと仕事の関係というものをもう一度考え直す作品としても本作は機能すると思う。

 少し真面目な話をすると、近年、ブラック企業や非正規労働の常態化によって心や体を壊される労働者が多いと思う。自分も仕事がもとで体調を崩した結果転職をした訳だけれど、労働者がそうして「壊れてしまう」のは、「非人間的な労働環境に自分を適応させる為に無理を強いられる」からだと自分は思っている。もちろん他にも「職場の人間関係」という人間性から発する問題もある事はあるのだけれど、これとて職場環境が非人間的である余裕の無さから生じている軋轢だと考えられない事もない。長時間労働、サービス残業といった労働者を人間扱いしない制度が労働法を無視した職場内の不文律として横行する事、そして労働者が自らの生活を守る為に、有り体に言えば収入を失わない為にそれらの理不尽を飲み込んで、自分の方を歪な形態の仕事に合わせようと無理をする事にそもそもの問題はある。

 自分は思う。企業や雇用者が求める労働力に人間性を認めていないのだから、そうした「人間性を失わなければ適応できない仕事」はどんどん機械化、自動化されて奪われて行けば良い。最初から人間性を持たないものに任せれば良い。人間が、人間だからこそやるべき仕事、できる仕事というものがこの世にはまだある筈で、その事に注力する為のリソースを奪っているのはこの手の非人間的な仕事なのではないか。

 そして、もうひとつ。『仕事』とか『職場』というのは単純に収入を得る為の手段であり場である一方で、労働者である個人が社会との接点を持つ場でもあるという事。それを『自分の居場所』とまで思ってしまうのは危険なのかもしれないけれど、先に述べたマイナス面と同じ位に、きっとこちらも大事な事なのだろうと思う。自分がいる事が、自分の仕事が、誰かの助けになったと思える時にちょっと気持ちが温かくなったりする事は確かにある。それが「やりがい搾取」の様な形で悪用されてしまうのは大問題ではあるのだろうけれど、その素直な達成感とか、小さな自己実現を否定してしまうのも辛い事だ。

 昔、大学の恩師が自分に語ってくれた様に、人間は良くも悪くも一生の内の大部分を仕事に費やす事になる。だからどんな仕事に就くかというのは、どうやって糊口を凌ぐかという切実さと同じ位には「仕事とは自分自身を規定するものなんだ」という位に大きな問題として捉えるべきなのだろう。自分が望む仕事に就ける様な幸運に恵まれるのは一握りの人間だけなのだとしても、どこか頭の片隅に「仕事が自分を形作っている」という事を覚えておく事。それが意外と大事な事なのかもしれない。

 

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ライトノベルの表紙イラスト規制・ゾーニングを求める人へ

 事情があって読書から離れている間に、Twitter上で「ライトノベルにおける表紙のポルノ化」が話題になっていて、賛否両論が巻き起こってしまっていた。大本のツイートをそのまま引用すると下記の通り。




 これ、写真を見ると『境界線上のホライゾンXI<中>』の事を指して言っているのかなと思うのだけれど、イラストレーターであるさとやす氏の画風に慣れていると特異性を感じない事が、見慣れない人からすれば「自分の属する性別の体が性的に異様に誇張されて描かれ、ひたすら性的消費の道具として扱われる気持ち悪さ」「それを子供の眼前に公然と並べる抑圧はほとんど暴力」という事になり、ひいてはそれを問題視していないライトノベル読者並びに出版業界は感覚的に麻痺してしまっているのであって異常である的な論調に繋がってしまっているのかなと察する。

 最初の問題提起が「(主に)男性による女性の性的消費」という最大限に膨らませたテーマで行われた為に、ライトノベルの読者以外にも幅広い方々が論戦に加わってしまい収拾不可能のまま投げっぱなされている印象だ。これでは「(ライトノベル読者を含む)サブカル層と出版業界は女性の性的消費に無批判であるばかりかむしろ積極的にそれで商売をしている」といった様な偏見が広まってしまいそうで危うい印象を受ける。

 自分は一介の本読み(男性)として思うのだけれど、「まずあらゆる商品はマーケティングの上に成り立っている」という一般論があって、それは本件でも同じだろうと思うのだ。ライトノベルの表紙に女性キャラクターが目立つ理由は、いきなり「(主に)男性による女性の性的消費」という大テーマを持ち出さなくとも説明が付く。本件はまず「商品の売り出し方」「顧客を惹き付けやすい表紙デザインの変遷」というマーケティング論的な小さいテーマで考証すべきであって、多数を巻き込むジェンダー論的な「ポルノを消費する男性の無神経とそれを咎めない男性中心社会がけしからん」とか「それを見たくない子どもの眼前にわざわざポルノを陳列する大人達の狂気」といった様な炎上しやすいテーマから切り込んでも騒ぎが大きくなるだけで実りがない様に思われるのだ。

 そもそも、ライトノベルの表紙デザインの変遷について自分は確固たるデータを揃えている訳ではないので適当な事を言う訳にも行かないのだけれど、ライトノベルが「キャラクター小説」とも言われる様に、登場人物を魅力的に描き出す事で人気を博しているジャンルである事、そして表紙絵や挿絵が入る事によって一般文芸等よりも作品の人気にイラストが寄与する部分が大きい事は「ライトノベルの表紙にキャラクターが(男女問わず)大きく描かれる事が多い理由」のひとつである。作品の中で重要な位置を占めるキャラクターが表紙を飾る事に違和感はないだろう。

 次に考えるべきは「ライトノベルの表紙における男女比」ではないかと思うのだが、あくまで顧客として書店の陳列棚等を見た場合の印象という事で良ければ、確かに女性キャラクターが多い印象を受けるし、今回の問題提起をした元ツイートの写真を見てもその様に見える。単純に表紙絵の男女比だけを見た場合、出版業界が「男性キャラクターを表紙にするよりも、女性キャラクターを表紙にした方が売上が良い」というデータを持っているのかどうか定かではないが、結果としてはそうなっているという事だ。ただ、表紙絵の男女比に偏りが見られるという事は何も「女性キャラクターの表紙の方が売れるから」というざっくりしたマーケティングのみによるものではないと考える。ライトノベルは小説であってイラストや写真のみで構成されたポルノ雑誌ではないからだ。

 ライトノベルはキャラクター小説でもある。作中で魅力的なキャラクターが活躍し、表紙にもそのキャラクターが描かれる事は常であるのだから、表紙を女性キャラクターが占める割合が多いという事は、小説の中でもそれだけ女性キャラクターが重要な役割を占め、活躍しているのだという様に取る事も可能だ。これは個々の作品に対する内容の検証が必要な部分であり、表紙絵単独であれこれと論考できる部分ではない。
 余談ではあるが、作品の内容という事で言えば『境界線上のホライゾン』は「ブックエンドが無くても本の厚みで自立する」程分厚く文章量の多い文庫であり、レーベル内での人気も高くアニメ化も行われ、幅広いファンを獲得している作品である。当然その中には女性ファンもいる。作品の内容までがポルノ的であり女性の性的消費を助長する描写に終始しているというものではないだろう。

 ここまでを前段とした上で、ようやく『ライトノベル表紙のポルノ化は事実か。事実であればそれは是か非か。規制はどうすべきか』という本題に入る事ができる訳だが、自分は「ライトノベルを出版する出版社が意図的にポルノ的な表紙を作成して男性の性的欲求に訴えようとしている」とは考えていないし、男性読者の多くがライトノベルにポルノ要素を要求しているとも考えていない。ただ、「表紙を女性キャラクターが飾る事が多くなった結果として、他の本との差別化を図る為に女性キャラクターの描かれ方が多様化して行った可能性」はあると思っている。

 同じ様に女性キャラクターが表紙に描かれている本が2冊並んでいたら、(小説の内容以前に)初見で手に取ってもらうにはどんな表紙にするべきか。少なくとも比較対象と同じ様な構成では新味はないし、その他大勢的な埋もれ方をしてしまう。だから魅力的かつ個性的な絵を書くイラストレーターが求められるし、誰に向かって売ろうとしているのかというマーケティングも重要になってくる。この小説を、物語を読んで欲しい読者としてどんな年齢層、人物像の読者を想定しているか。その結果として表紙絵の方向性も変わって来るだろうと思う。

 問題があるとすれば、上記を全て踏まえた上で、それでも「出来上がってきたものが(主に女性から見た際に)ポルノ的であるとみなされる場合」だと思うのだけれど、例えば(外部による)表現規制、自主規制、意見として多く聞かれたゾーニング(成人向け書籍同様売場を分ける)等を個々の作品に対して求めて行くとして、素直にその要求が受け入れられるかというと否ではないかと自分は思う。それは「男性優位社会の弊害」でもなければ「出版業界のモラル欠如」でもなく「発信者がポルノのつもりで作っていない作品に対して、外部からポルノ認定をして規制やゾーニングを求める事の困難さ」なのではないかと思うのだがどうだろうか。

 実際に近年ある女性芸術家が自らの女性器を型取りして作った作品を公開したり、女性器の3Dデータを配布したりした際に「それらはわいせつ物か、芸術作品か」という事が散々議論され、大揉めに揉めた挙げ句決着しなかった事があった。作者本人も逮捕されているが、裁判では無罪を主張している。作り手にポルノの意図がないものを、(極論すればそれが性器そのものの形をしたものであっても)外部からの指摘でポルノやわいせつ物として認めさせ、何らかの規制を受け入れさせるというのは並大抵の事ではないという事だ。実際に作者が逮捕され、裁判沙汰になっても自らの主張を曲げなかった前例がある訳だから、外部からの圧力によって表現規制やゾーニングを求めて行く方向性は難しいのではないかと思う。

 次に自主規制に関して言えば、自主規制のラインは時代の変遷と共に変化するものでもあり、今回の事例で言えば「女性が見た際に不快に感じる可能性がある性的表現のレベルを決めて、ボーダーラインを超えた絵については成人指定した上でゾーニングするか絵そのものを修正させる」という方法が取れるのかどうかという問題もある。「はっきりした成人指定までは行かないけれども書店側が配慮して子どもが立ち寄る可能性がある漫画売り場等から該当のライトノベルを遠ざける」等の方法もあるのかもしれないけれど、ライトノベルというジャンルは今や盛んにコミカライズが行われている事もあり、漫画との親和性が高い。多くの書店では売り場も漫画売り場のそばが定位置であり、そこから該当作品だけを隔離するのか、ライトノベルのレーベルごと移動させよという話になるのかは議論が必要だが、いずれにせよ実現するだろうか。

 個人的にまだ実現の可能性がある方法として、「通常の表紙絵が描かれたカバーの上に、カバーと同じ大きさの帯を付けて売る」というのも考えてみたのだが、『文庫X』の様に(あれは全く違う理由で付けられた帯ではあるけれど)書店側の売り方の工夫として個々に対応するには限界があるし、表紙絵を完全に隠してしまう様な売り方は作品にとってもマイナスだと思う。理想を言えば出版社側が公式にカバーとして別の表紙絵が描かれた帯を付けた状態で出荷する事だけれど、帯用のイラストと本来の表紙用のイラストが必要になるのでコストはかかりそうだ。読者としては一冊の文庫で違った表紙絵が楽しめる事になるので上手くやれば販促になるかもしれないが、この辺りの自主規制案を安易に受け入れてしまうと「ほらやっぱりポルノの自覚があったんだよね」という話にもなりかねないから、今すぐ行えるという訳でもないだろう。男性向けグラビア誌で見かける(今もあるのかな?)袋とじの様な扱いになって「帯の下だからもっときわどい絵でもいいよね」となっては本末転倒という事もある。

 外部規制にせよ自主規制にせよ、新たな規制を設けるという事は、誰かがその規制値を超えていないかどうか個々の作品について判断しなければならないという事だ。それを自社なら、或いは業界団体なら誰がやるのか。規制値はどの様に、誰が決めるのか。今回の件で言えば胸が大きく描かれているさまが不快という事の様だが、個人の主観ではなく一般的な基準としてどの程度までなら許容されるのか。その基準を誰が認定するのか。そうした問題をひとつひとつクリアして行くのは言う程簡単ではない。

 以上を踏まえて、今消費者である自分達にできる事があるとすれば、「各々が自分が嫌う表現から逃げる術を身に着けておく」という事でしかないのではないかと思う。その上で何らかの規制を設ける事を求めるならば、まずは「ゾーニングが難しい販売形態で成人向け書籍を販売し続けるコンビニエンスストアの是非」(これは昔コンビニ勤務だった実体験から長々と語れる)といった個別具体的な問題から詰めて行くのが得策ではないかと思う。

 今回の様な小説の表紙にしろ、その他の表現にしろ、自分が受け入れられない表現というものは実は世の中に溢れていて、まずは自衛手段としてそれを避ける術を身に着けておかないといちいち傷付かなければならず大変な事になる。そもそも作り手がそうしたものを世に出さなければいいのだ、というのは正論の様に聞こえるが、結局は暴論になりがちだ。親として自分の子どもに見せたくない表現というものが目の前にあるとしても、その現状を変えて行こうと問題提起するならば、表現規制や性の消費という大きなテーマから語るのではなく、各論から入って個別具体的な解決策を模索する方が建設的なのではないかと自分は思うのだが、どうだろうか。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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