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明日は自分の掌に・野島一人『デス・ストランディング』

 

 『繋がり』とは何だろうかと考える。

 日常の中に、それはある。普通に。飾る事も無く。

 買い物に行く。棚から商品を取る。レジに行って会計を済ませ、車を運転して帰路に就く。そうだ、途中で給油もしよう。そしてまた通い慣れた道路を走る。言葉を交わす人もいない。買い物も、ガソリンスタンドでの給油もセルフで済ませられる。外に出ても一人。家に帰っても一人。一人でいるのは気が楽だ。遠慮する事がない。誰かに迷惑を掛ける事を心配しなくてもいい。

 でも、こんな暮らしの中にもたくさんの『繋がり』がある。

 商品は店の棚から勝手に生えて来る訳じゃない。誰かがそれを工場で生産し、また別の誰かが店まで運送し、店員が棚に並べてくれるから自分はそれを買う事が出来る。ガソリンスタンドだって、ガソリンや軽油が地下から湧き出している訳じゃない。誰かが海の向こうからタンカーで運んで来た原油が精製されて燃料になり、それをタンクローリーで陸送して各地のガソリンスタンドまで運ぶ人がいる。それから自分が自動車で走っている道路は誰が舗装した? 橋はどうだ? 家は誰が建てた? こうして今文字を打ち込んでいるパソコンは誰が製造した? 電気は? ガスや上下水道等のライフラインは誰が繋いでいる?

 そこには必ず『誰か(サムワン)』がいる。

 そんな事は誰だって知っている。子どもだって知っている。当然の事だ。常識だ。

 でも自分達は、それらが余りにも当たり前だからこそ、その事を忘れて生きている。だから『DEATH STRANDING(デス・ストランディング)』の様な物語が必要とされるのだろう。その当たり前の『繋がり』や『誰か』の存在を、思い出す為に。

 逆に言えば、デス・ストランディングの様な、人類が滅亡一歩手前のギリギリの状態に追い込まれでもしない限り、自分達は目を覚ます事が出来ないのかもしれない。でも、本当にその時が来てからでは遅いのだ、きっと。だから本作の様な物語が必要とされる。もしも現実が物語を追い越す時が来たなら、その時は既に手遅れかもしれない。

 実際に、東日本大震災の様な大災害は自分達の社会の繋がりを脅かした。

 物流網は寸断され、被災地には物資はおろか燃料すら届かず、ガソリンスタンドの地下燃料タンクはあっという間に空になったし、店舗からは商品が消えた。各地で断水や停電が起こり、自分が暮らす福島県では原発事故が起きて汚染物質が飛散した。そこまで追い込まれてやっと、自分達は今まで『繋がり』によって生きて来た事を思い出し、それが失われた事を思い知らされた。衝撃を受け、慌てふためいた。

 でもそれも、過去になりつつある。

 喉元過ぎれば、の話ではないが、当時あれだけ『絆』という言葉を連呼していた自分達は、日常が回復しつつある中であっさりとその事を忘れた。生まれた時から一人で生きて来た様な顔をして、他の誰かをしたり顔で批判したり、差別したり、無視したりする暮らしに戻って行った。例えば顔も知らない『誰か』の事を、ネット上で批判する。そうする事で少しの優越感を得る。自尊心を満足させられる。そんなみみっちい暮らしを取り戻して行った。傍目から見れば喜ぶべき事だ。傷は癒やされ、日常が取り戻されて行く事は良い事だ。でも、本当に?

 ネット上の言論空間では、常に『誰か』が『誰か』を攻撃している。批判し、嘲笑し、差別し、非難し、排除しようとしている。見えない銃弾が飛び交って、撃たれた者は撃ち返し、互いに血を流し、呻き声を上げている。その結果、本作の表現を借りればあちこちでネクローシスが起こり、いくつものクレーターが地に穿たれ、自分達は大きな繋がりを断たれて小さな集団の中に引きこもる様になった。自分が仲間と認める集団の中でだけ生きて行く事を選んだ。仲間以外の集団は潜在的な敵だし、仲間であってもいつ裏切られるか分からず、疑心暗鬼になった。それは『棒』の世界だ。互いが武器を手に睨み合う世界だ。本作が描く『縄』の世界、人々が繋がりを回復して行く世界とは真逆の世界だ。

 だから本作は問う。自分達は、互いに傷付け合い憎み合う様な『明日』が望みなのかと。

 『TOMORROW IS IN YOUR HANDS. (明日は君達の掌に)』

 この言葉がゲームの中で、またプロモーションの中で何度も繰り返されるのは、きっと自分達に問い掛けているからだ。あなたは、どんな『明日』を望むのかと。

 自分はもう中年だ。『未来』を夢見るには歳を取り過ぎているかもしれない。でも、『未来』というのがいつの事なのかと言えば、それは遥か彼方の話ではなく、『今日』のほんの少し先の『明日』を積み重ねた先の事だ。自分はどんな形の『明日』を求めるのか。自分は『明日』がどんな形であって欲しいと願うのか。その小さな自分の願い、自分も含めた『誰か(サムワン)』の『明日』への願いが連なった先に、『未来』がある。

 社会にとって、世界にとって、自分の存在は取るに足らない。自分には格好良い通り名や二つ名の様な、或いはワークネームの様な名前はない。自分はどこまで行っても『誰か』でしかない。

 でも、この世界を作っているのはそんな『誰か』達だ。そしてその中には、自分だって繋がっている。名前のない『誰か』の一人として。だから『明日は自分の掌に』ある事を忘れてはならないのだろう。その荷物を背負っているという事を、蔑ろにしてはならないのだろうと思う。

 当然、その荷物は軽くない。今より少しでもより良い『明日』を引き寄せたいと願うのなら、自分達には責任がある。辛くても途中で投げ出す訳には行かない。だから、疲れた時、孤独だと感じた時、声を掛けて欲しい。「誰かいるか!?」って。そうしたらきっと「俺がいるぞー!」と返すから。『誰か(サムワン)』の一人として。同じ荷物を運んでいる仲間として。無理に手を繋がなくてもいい。きつく縄で結ばなくてもいい。ただその手は誰かを殴り付ける為の固めた拳じゃなく、少し力を抜いて開いていて欲しい。そう、いつでも互いに手を振って合図できる様に。自分がここにいる事を。

  

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ジャンル : 小説・文学

本質を貫く、哲学の鋭さ・國分功一郎『原子力時代における哲学』

 

 自分は福島県民だ。

 あの3.11・東日本大震災と、その後の原発事故が自分達に与えた衝撃は大きかった。当時自分は水素爆発で吹き飛んだ原子炉建屋の様子をテレビ越しに見ながら、「もしかすると自分は地元を捨てて他県に出て行かなければならないのか」と真剣に悩んでいた。

 放射能は目に見えない。テレビでは『有識者』などと言われている人達が繰り返し注意喚起していたが、それもどこか他人事の様に聞こえ、現実味が無かった。何をどこまで防護すれば良いか分からない中、同僚は外に出る時は日傘を差し、帽子を被り、手袋とマスクをして、なるべく放射性物質の付着から身を守ろうとしている様だった。それは完全に非日常的な光景だったが、それでも自分達の『日常』は続く。仕事があり、日々の暮らしがある。

 いっそ原発の周囲に住んでいて、自宅が非難区域に指定されれば諦めも付いたかもしれない。そうなればもう政府の指示に従うしかない。家を捨てて避難するしか無い。でも、原発から直線距離で約60キロという半端な場所で暮らしていた自分達にあったのは、自主避難するかこの場に踏み留まるかという二択だった。そして自分は、地元で暮らし続ける事を選んだ。自宅や職場といった生活基盤を全て捨てる事は出来なかった。

 その時の選択が正しかったかどうかは分からない。色々な事を言う人がいる。でも、誰が正しいかはいまだに分からないままだ。

 原発事故以来、地方ニュースの天気予報には『今日の県内各地の空間放射線量』という項目が追加された。各地のモニタリングポストで計測された空間放射線量が毎日テレビから流れてくる。でも、それを気にして何になる? 自分達一個人にどんな対策が立てられるというのか。だからその情報は「今日の洗濯指数」とか「今日の花粉の飛散量」等に比べると、既に何の意味もない、ただ日常の中を流れて行くだけの数字になっている。自分達は既に麻痺しているのだろう。

 でも、これだけの事故を経験してなお、「原発再稼働はすべきだ」という意見がある。全国でじゃなく、福島県内に限ってもそうだ。少なくとも福島県民はあれだけの原発事故を経験したのだから、皆反原発でまとまっているんだろうと思われるかもしれないけれど、そんな事もない。物事はそんなに単純じゃない。

 そんな中で、自分は本著を手に取った。

 まず、原子力発電の是非について語る時、これまで主に問題にされたのは発電コストと燃料の安定供給という『経済的問題』と、温室効果ガスを削減する為には原発が必要なのではないかとする『環境問題』が主だったと思う。そこでの主役は経済評論家や環境問題の専門家の様な人々だ。或いは電力が安価に、安定的に供給される事を望む財界の著名人や、政治家や官僚といった人々だ。別の場所で、その事については書いた。

 しかし、本著では『哲学』によって原発問題に切り込む。なぜ人は兵器である原子爆弾や水素爆弾がもたらす危険性には敏感に反応する一方で、原子力発電の様な核技術の平和利用には寛容だったのか。早くから核技術に対する警鐘を鳴らした哲学者・ハイデッガーの思想を中心に、著者は考察を重ねる。

 哲学が原発問題に対して切り込む際の手がかりになる事。まずその事が新鮮だった。それも、「哲学の分野でも原発問題は語り得る」というよりは、「哲学でなければ語り得ない原発問題の本質がある」という踏み込み方で、その事は自分の中にも存在しなかった気付きだった。

 同時に、哲学によって原発問題が語り得るのならば、自分が今まで抱えて来た原発問題に対する疑問や疑念を、自分自身が過去に学んだ仏教学の分野から語るという事もまた可能なのではないかという事にも気付かされた。特に原始仏教には哲学的な側面が色濃い。また、そこまで構えなくとも、「経済や環境問題だけが原発問題の本質ではなく、様々な分野の専門家がそれぞれの立場から意見を述べて行く事が必要なのではないか」という事がより鮮明になった気がする。

 例えば、(仏教学からという構えた意見ではなく、一個人の肌感覚からしても)原子力発電が抱える問題点のひとつは、「将来にツケを回す事で現時点での利益を得る」という『利益の先食い』にあるのだと言える。

 「原発は発電コストが安く、燃料の安定供給が可能だ」という主張があるが、仮にその主張が正しいとしても、原子力発電所という「金の卵を産むガチョウ」の寿命は60年しかない。標準的な40年の耐用年数と、最長20年の延長期間だ。それ以降は、廃炉にしなければならない。そして、福島第一原発の様に事故を起こして吹き飛ばなかったにしても、その廃炉費用と廃炉にかかる期間は相当なものになるだろうし、高度経済成長期に全国各地に建設された原子炉が、次々と耐用年数を超えて廃炉になる未来は、近い内に必ず来るのだ。

 更に言えば、使用済み核燃料や、高レベル放射性廃棄物をどの様に廃棄(貯蔵)するのか。最終処分場もこの国にはない。処分場を作れる見込みもない。(にも関わらず、福島県内には『中間貯蔵施設』があるのだが、いつまで中間貯蔵するつもりなのか誰も知らない)

 かくして自分達は、今この場で背負い切る事が出来ない、ある種の『負債』を、将来自分以外の誰かが背負わなければならなくなると知っていて、その上で原子力発電によって得られる利益だけを『先食い』してしまっている。それら『負債』が表面化し、誰かが困る時には自分は責任のある立場にはいないから、或いはこの世にいないから関係ないとでも思っているのだろうか。

 これと同じ事は、様々な場面で見て取れる。ある時は先程と同じ『利益の先食い』であり、またある時は『過去に積み上げた信用の切り売り』だったりもする。例えば外国人技能実習生に満足な報酬を支払わず、技能研修も行わずに単純労働者として使い潰す行為は、過去の日本人が築き上げた国際的な信用を切り売りして現金化する行為であると同時に、将来の日本人への不信という負債を積み上げる行為に他ならない。端的に言って愚かだ。

 他にも、環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏が怒りを顕にした様に、先進諸国の大人達が地球温暖化の問題についてその責任を回避しているのではないかという鋭い指摘がある。自分達大人は、既に将来ある若者たちの未来を食い潰す事が許されないのだと気付かなくてはならない。

 それは仏教的視点から見ると、人間が持っている『欲』というものを、いかに社会全体でコントロールして行くかという事でもあり、自分の責任から逃れていたいという人間の(自分達の)弱さについて、どんな風に倫理的なアプローチをして行くべきかという問題でもある。その上で、先進国と新興国の様な世界的な富の偏在について、どんな手当てをして行く事が出来るかという事もまた問われている。先進国が自国の若者達の未来を先食いしてしまったのと同様に、環境問題が表面化するまでに、自分達は本来新興国が使える筈だったリソースをもあらかた食い尽くしてしまっていた訳だから。

 この様に、政治経済が核技術や原子力政策を語るならば、倫理や宗教学や哲学もまた、自分達のいる場所からそれら社会問題を語り得るし、語らねばならないのだという事。本作はその事を鋭く指し示している。自分は集合知を盲信する訳ではないが、たった一人の意見や見識よりも、集団の中で知恵が鍛えられる事を、今は信じたい。

 

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例えば二人で同じ星を見上げていても・斜線堂有紀『不純文学 1ページで綴られる先輩と私の不思議な物語』

 

 読書って割と『誤読』だと思う事がある。

 別の場所で、百田尚樹氏の『永遠の0』の感想を書いた上で、「私の感想は作者からすれば誤読かもしれない。でも私にとっての読書体験というのはそういうものだよ」という話をした。「作者はきっとそんなつもりで書いていないけれど、でも私はこの様に受け取った」という事はままある。

 そして、本作でもまた私はきっと誤読をしている。

 本作は1ページの掌編を124話収録した文庫なのだけれど、それらは全て『先輩』と『私』の物語だ。先輩と後輩という二人の関係性と、二人を取り巻く、時に奇妙な世界観が楽しい。

 ひとつひとつの物語は1ページの掌編で完結しなければならないから、場面の描写等が必要最低限に抑えられている。例えばそれは「先輩」や「私」の容姿とか。だから私は物語を読み進めながら頭の中で色々な想像をする。そして勘違いをする。

 これは多分私の側のバグなのだけれど、『先輩』と『後輩』という関係性を提示された時に、なぜか私はそれをまず『同性』で想像する様に思考回路が組まれてしまっているらしい。別に先輩が男性で後輩が女性でも「先輩後輩」という関係は成立する筈なのに。異性と縁遠い生活をしているからだろうか。

 だから私は当然の様に本作を誤読する。女性二人の物語であるかの様に。

 そして、作中で先輩が「俺」という一人称を使ったり、「偽装夫婦」という言葉が出て来たりする辺りで初めて、「ああ、先輩は男性だったのか」と思い直して今までのイメージを修正しようとする。叙述トリックというか、これは単純に誤読である。

 そして、ふと思う。「私は自然と後輩である『私』を女性だと思って読んでいるけれど、そもそもそれにしたって明言されていただろうか?」そして次に思うのは、「別にこれらの物語は、『全てが同じ先輩と後輩の物語である』とは書かれていない」という事だ。いや、そう読む事が自然である事は分かるけれど。

 この辺りで、私は軽く目眩を覚える。

 物語に触れる時、読者がどんな世界を想像するか。そこにはどんな『先輩』と『私』がいるのか。

 1ページの掌編という形式では、物語の中のあまりにも多くの部分が読者の側に(良い意味で)投げ出されていて、自由に解釈され得る『余地』を残している。作者が物語を書く時に頭の中で描いていたイメージはあるのだとしても、それを知りようがない読者からすれば、「好き勝手に読む」事しか出来ず、しかもその答え合わせは不可能なのだ。

 きっと本作を読んだ人達を集めて座談会をしたり、読書会を開いたりすれば、様々な姿の『先輩』と『私』が登場するのだろうと思う。あるイメージは誰かにとっては誤読であり、またある人にとっては『地雷』だったり『解釈違い』だったりする。そう考えると、意地悪な考え方だけれど、ちょっと楽しい。

 かくして私は、私の中の『誤読』を訂正する事を放棄する。

 映画やテレビ、ゲーム等の「映像や音声によって彩られた物語」は、見る側に均一なイメージを提供してくれる。例えばファンが集まって、それらについて語る事は不思議な一体感をもたらす。でも読書は、「読者が物語の中に潜って行って、どんなイメージを掬い上げて来れるか」という意味で「とても個人的な遊び」なのだと言える。その体験を誰かと共有したっていい。でも、例えば同じ小説を読んだ人同士であっても、『私の中の物語』は、私だけのものだ。正解なんて無い。間違いもない。読者の数だけ世界がある。そこには読者の数だけ『先輩』がいて、『私』がいる。

 だから私はもう答え合わせをしない。正解を求めないし、間違いを恐れない。私の中の先輩がどんな人なのかを語らない。そうしておけば、私の中の先輩は、ずっと私のものだ。私だけのものだ。

 今日もページをめくると、そこには私だけの先輩がいて、私の事を待っていてくれる。

 だから私は、読書を愛し続ける。多分先輩と、同じくらいに。

 

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ジャンル : 小説・文学

夢を無くした世界で、拳を固く握り締めながら チャック・パラニューク:著 池田真紀子:訳『ファイト・クラブ』

 

 自分は職場の会議室で、両手にボクシンググローブを着けて立っている。目の前にはパンチングミットを着けた上司が、トレーナーよろしくゆらゆらと両手を動かしながら、自分の動きを待っている。

 「さあ打って来い。ワンツーだ」

 自分はぎくしゃくした動きで左のジャブと右のストレートを繰り出す。それでも殴っているのがパンチングミットだから、それなりに良い打撃音が響く。自分の拳が届く前に、上司が構えるミットが迎えに来ているからかもしれない。

 机も椅子も片付けられた会議室の白い床はリング上に見えない事もない。そこでひたすらワンツーを打ち続ける。上司は余裕綽々でそれを捌く。時々わざとミットをずらしてパンチを避ける。勢い余ってよろける自分を、上司は嗤う。

 自分はこの上司が心底嫌いだった。

 自分が本当に殴りたかったのは上司の腹だった。顔面だった。いつだっていい加減にしろよと思っていた。本当に殴りかかったとしても、上司はきっと難なく躱しただろう。「ボクシング経験者に素人のパンチなんて当たらない」と口癖の様に言っていた。もうひとつの口癖は「ボクシングはいい。相手を全力で殴っても、怪我をさせても罪にならないから」だった。

 自分はこの上司が心底嫌いだった。

 思考も嗜好もマッチョで、声がでかく、粗暴でパワハラ気質で、自分が絶対に正しいと信じて疑わない自信たっぷりのこの男が嫌いだった。社員を大声で叱責する時に、本当は手を出したくてうずうずしているのがまるわかりな所が嫌いだった。元プロボクサーである事を誇りにして、若い頃の武勇伝を語って悦に入るこの男が大嫌いだった。

 そんな人間と、会議室というリングの上で向き合っているのは、自分が社員で、彼が実質的な経営者だったからだ。自分にとって彼の「思い付き」や「誘い」は「業務命令」だった。彼にとっては部下とのスキンシップやコミュニケーションといった単なる遊びだったかもしれないが。

 でも、『ファイト・クラブ』を読み終えた今なら、本当の理由はそんなものじゃなかったんだという事が分かる。

 自分が上司とリング上にいるのは、ここが『敗者のファイト・クラブ』だからだ。
 自分の力で「何者か」になる事に失敗した者達の吹き溜まりだったからだ。


 本来の『ファイト・クラブ』では、男達が互いに戦い、殴り合う中で、自分を縛り付ける日常や価値観、常識といった軛から解放されて行く。たったひとつの世界に、常識に閉じ込められていた自分を、新たな世界に叩き込む事。その開放の先に見えるものを掴みに行く為に、閉塞した今の世界を自分ごと叩き壊す事。その為に必要なのがむき出しの暴力だとしても彼等はもう立ち止まらない。

 なぜそこまでする必要があるのか。それは、自分達を取り巻く現在の社会が、それだけ強固に個人を縛っているからだ。

 現在、個人の価値は様々なもので計られる。そして資本主義社会では、物の価値も人の価値も金銭で表される。どんな仕事をして、いくら稼ぎ、どんな物を買うか。生活は豊かか貧しいか。貯蓄は? 昇給は? 賞与は? 比較、比較、また比較だ。過去の自分との比較、同僚との比較、他人との比較、平均値との比較。勝ち組と負け組。上流と下流。富裕層と貧困層。自分はどこにいて、上には誰がいて、下には誰がいるか。それによって個人の価値が判断される。人に値札が付けられる。

 そんな中で、いつまでも夢を追い掛けていたいなんていう奴は、バカ呼ばわりされる。

 元プロボクサーの上司は、創業者一族の一人だった。いつかは自分も重役にならなければならない事は本人が一番よく分かっている。喧嘩をしたり、バイクを乗り回したり、リングの上で他人を殴ったりする事は彼なりのモラトリアムだった。その中で、ボクシングでプロになれた事は、いずれ与えられる社会的地位とは違って、自分で掴んだ成果だった。勲章だった。だから引退してからも元プロボクサーだった事が自慢だった。

 本人は否定するだろう。仕事でだって自分は成果を上げているし、重役である事を無理強いされている訳じゃない。いずれ自分はこの会社だって自分が望む方向性に作り替えてみせる。自分色に染めてみせるんだ。そう言うだろう。でも自分は思うんだ。貴方が拳を振るっていた過去は、いずれ自分が社会の価値観に縛られる事を受け入れる為に必要だったんだろうと。『一度は気が済むまでやったんだ』という実績を得て、それを糧にして、自分勝手に振舞う事が許されていた時代を埋葬して、不自由な社会で生きて行く覚悟を決める為に必要な事だったんだろうと。

 そしてそれは、自分だって同じ事だ。

 大学を卒業してから、おとなしく地元に帰って就職先を探すのが嫌で、夢を追い掛ける様な事を言ってフリーターを続けていた。学問の世界に未練があったし、大学との繋がりが断たれてしまうのも嫌だった。そして同じバイト先で知り合った奴は、劇団員だったりバンドマンだったり、自分と同じ様に社会に溶け込めない理由を『夢』と言い換えて生きている様な連中ばかりで、皆、社会に押し着せられる役割以外の「何者か」になる為にもがいていた。

 でも、今思えば現実と戦っていた訳じゃない。
 いつか現実に捕まるのが怖かった。

 自分が無価値である事を、自分の選択が間違いだった事を思い知らされるのが恐ろしかった。だから問題の解決を先延ばしにしていたかった。夢に縋って、でもそれを叶えるだけの力は無かったから、途中で折れた。もっと真っ当な仕事をして、金を稼がなければ生きて行けないんだ。そろそろ大人にならなきゃいけないんだ。これは仕方がない事なんだと自分に言い聞かせた。

 結果、自分は地元に帰って死んだ様に働く事になった。自分と似た境遇の上司に拾われて。

 自分はこの上司が心底嫌いだった。

 かつて自分と似た挫折を味わったであろう、ある意味で自分と似た者同士の上司の姿が、鏡に映った自分の姿を無理矢理見せられている様で大嫌いだった。

 自分はタイラー・ダーデンじゃない。

 アナーキストの様に、今ある秩序を暴力で破壊して自分の意志を押し通す様な強さやしたたかさを持ち合わせてはいない。他人からの非難を恐れない様な意志の強さもなければ、自分には失うものなんてない、という様な開き直り方も出来ない。

 だから流れ着いた。『敗者のファイト・クラブ』に。

 ここにあるのは秩序を打ち破り、殻を割って外に出る為の暴力じゃない。
 モラトリアムな時代にだけ許されていたわがままを懐かしんで、そっと指先でなぞる様な懐古主義と、傷の舐め合いや慰め合いの様な弱々しいやり取りがあるだけだ。音だけは勇ましくパンチングミットを鳴らすワンツーは、実際のところ何者にもなれずに社会に取り込まれた人間の溜息だ。それ以外の意味なんてない。何も変えられやしない。

 だから、今振り返ると思うんだ。

 あの時、自分は上司の腹にボディーブローを叩き込むべきだった。
 上司の顔面を全力で殴り付けるべきだった。

 それが出来るか出来ないか。当たるか躱されるかは問題じゃない。
 自分はタイラー・ダーデンじゃないかもしれないが、だからといって会社の奴隷でもなければあんたの玩具でもないと言ってやる機会を逃すべきじゃなかった。もちろんそんな事をしたらキレた上司にボコボコにされただろう。でもあの時反抗できなかったせいで、その後数年をかけて自分は摩耗して行った。毎月の給与を滞りなく受け取る権利を上司様から授けて頂く代わりに、本当に欲しかったものを、本当に大切だったものを見失った。

 そしてそれは、今でも取り戻せていない。そんな気がする。
 これからそれを取り戻せるのかという事も、もう分からない。

 戦うべき時に戦えなかった後悔というのは、そういう事だ。
 夢を叶えて、自ら何者かになる事が出来た人間には嗤われるだろう。でも夢が叶わなかった後の世界で生きて行く事になる人間だっている。自分の様に。

 自分が本当に殴りたいのはあの頃の上司じゃないのかもしれない。不甲斐ない人生を生きている自分自身なのかもしれない。だからきっと夢の中で自分自身に会えたなら、自分はこう言うだろう。

 「おれを力いっぱい殴ってくれ」

 殴り返す為の拳を、固く握り締めながら。
 そして心ゆくまで殴り合おう。『ぼくらはぼくらだ』っていう言葉が、信じられる様になるまで。

 

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未来に続く、祈りの為に・伴名練『なめらかな世界と、その敵』

 

 本作を読み終えた今の気持ちを、どうやって書き残したら良いか分からない。
 だから書きあぐねている気持ちの輪郭をなぞる様な迂遠な文章になってしまうかもしれないけれど、それでも書き残しておこうと思う。

 SFが好きだ。

 なぜ?と問われれば、「好きだという気持ちは確かなのに、理由を聞かれるといつも上手く答えられない類の質問」なのだけれど、本作を読み終えた今、なぜ自分はSFが好きなのだろうと改めて自問自答すると、その答えは「それは祈りだから」という事になるのではないかと思う。

 自分は大学時代に仏教美術を専攻していた。寺の跡取りでもないのに仏教を学ぼうと思ったのは、まあ色々と理由があったのだけれど、宗教について本気で学んでみて得られた知見として、「人間は常に『物語』=『生きる意味』を求めて来た事」「救いを求める気持ち=『祈り』が形を得たものが仏像をはじめとした仏教美術として継承されて来た事」の2点がある。

 例えば疫病や飢餓、或いは戦争で人が無差別に死んで行く時、彼等の死と、生き延びた者の生に理由はない。理不尽に、無作為に、ある者は死に、ある者は生きる。その中で生まれるのは、「自分達の生死には、人生には、そもそも何の意味も無いのではないか」という疑義であり無力感だ。

 仏教に限らずあらゆる宗教は、その「本当は無意味(無価値)かもしれない生」に物語を与える為に生み出されたといっても良いのではないだろうか。死後の世界や復活を描く事、来世や彼岸を描く事で自分達の生きる今と未来に「意味をあらしめる」事。かつて宗教はその様に人々の心を、あくまでも現世で救済しようとした。自分達がこの生命を生きる事には、確かに意味があるのだと。

 そして、そうした生きる意味や価値といった「目に見えない概念」を、視覚的に、感覚的に捕まえて、人々の目の前に現出させようとする行為が、仏教においては仏像であり、寺院建築であり、書画といった仏教美術の役割だった。『悟り』という概念を言葉だけでは捉え切れないから、悟った人(覚者)の像として仏像があったし、曼荼羅は精神世界の縮図だった。また中尊寺金色堂などは浄土の具象化だった。それは言い換えれば、人が救われたいという『祈り』を形にして、目で見て手で触れられる様にあらわす試みだった。

 人は昔から悩み苦しみ、そこから救われたいと願い、祈って来た。その生に、現代人と変わる所があるだろうか。

 自分達は今、自宅にいながらにして世界中の情報にアクセスし、地球の裏側で何が起きているかまでリアルタイムで知る事が出来る。遠く離れた人と会話する事も出来る。SNSを通じて不特定多数の人々と繋がりを持つ事も出来る。それは過去の人間からすればまるで神の御業か魔法の類だ。でも自分達はそこまでの社会を築いた今になってもまだ、過去と同じ様に「生きる意味」や「救い」を求めている。

 ならば現代にも、かつて宗教がその役割を果たした様に『物語』が必要な筈だ。

 それがSFなのではないかと自分は思う。

 現代だからこそ生じている問題を掬い上げて、そこから生まれている苦しみや『生き苦しさ』に目を向け、物語という形に昇華する事。現在から未来へ、或いは過去へと自由に意識を飛ばし、「あり得るかもしれないもうひとつの世界」を描いてみせる事によって、「今自分達が生きているこの世界」と対比させる事。そこから得られる「新しい視座」「新たな視点」が、日常を生きる事に汲々としている自分の様な人間には見出だせない、新しい気付きを与えてくれる。だから自分は感動するのだと思う。

 誤解を恐れずに言えば、その物語で描かれる世界がユートピアか、ディストピアかといった違いは些事であって、作者が今この世界に向ける眼差しがどんなものであり、その先にある未来にどんな景色を見ているか、どんな祈りを抱いているかを自分は読んでいるのかもしれない。

 本作で言えば、収録作には様々な『分断』が描かれている。

 表題作『なめらかな世界と、その敵』では、異なる世界を生きる二人の姿が。
 『シンギュラリティ・ソヴィエト』では、東西冷戦という現実の歴史における思想的な分断と対立から飛躍して、人工知能と人間、更にはそれを超えて行くものとの関係が。
 『ひかりより速く、ゆるやかに』では、異なる時間の流れに分断された人々の人生が。

 そしてまた、『人間の心や関係性』の問題も描かれる。

 『ゼロ年代の臨界点』では好意や敬意と表裏一体の愛憎が。
 『美亜羽へ贈る拳銃』『ホーリーアイアンメイデン』では、他者からの干渉や自らの意思によって人格が書き換えられる中で、何が本当の自分と呼べるものなのかという事が。

 そして、全体を読む事で、作者がこの現実の世界に対してどんな景色を見ているのか、どんな未来像を見ているのか=祈りを抱いているのかを、読者は感じ取る事が出来る。

 世界の『分断』については、『繋がり』を取り戻して行く物語を。
 『人間の心や関係性』の問題では、不器用でも、すれ違いがあろうとも、目の前の他者に手を伸ばそうとする事、分かり合おうとする事を。そしてそれが容易には叶えられない悲哀を。

 そうした未来を希求する事。その祈りをもって現実の潮流に抗おうとする事。言葉では言い表しきれないものを、同じ言葉である小説によって捕まえようとする事。(例えばそれは、複雑な世界観を『なめらかな世界』というたった一言で言い表してしまう様な技巧で実現されている)それらを積み重ねて行った先に、まだ多くの人が辿り着いていない場所に、皆を連れて行く事。そしてそこから見える先の景色に触れさせる事。

 それらを成し遂げる存在だから、自分はSFが好きだし、小説家を敬愛するし、自分も読者としてその後に付いて行きたいと思うのだ。少しでも先の景色をこの目で見る為に。少しでも明るい未来に触れる為に。

 そして現実の側を、望むべき未来に引き寄せる為に。

 それがこの世界に対する、今の自分の祈りだから。

 

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プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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