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この世界のどこにもいない君へ・三秋縋『君の話』

 

 読み終えて、本を机の傍らに置いてから天井を見上げてみる。次に目を閉じて、ゆっくりと、今結末を迎えた物語を反芻する。全力疾走した後の短距離走者がゴールの後に息を整える様に、或いはダイバーが水から上がる時の様に、自分は少しずつ『現実』に帰って来る。自分の体が置かれている現実との同期を取り戻す。
 そして目を開けて、いたる所に本が置かれた部屋を見回して思うのだ。

 「この部屋は、<義憶>ばかりだ」

 本作について、自分は客観的な、そして冷静な感想を書く事は出来ないだろうと思う。その理由について、同じく三秋縋氏の『恋する寄生虫』の感想で書いた事を引用するならばこうだ。

 “BUMP OF CHICKENの『才悩人応援歌』という曲があって、その中に『自分のために歌われた唄など無い』という歌詞がある。それはきっと「だからこそ自分自身が、自分の為の歌を歌うべきなんだ」という意味に繋がっているのだろうと思うけれど、自分はこうも思うのだ。たとえその唄が、自分の為に歌われたものではないのだとしても、それを自分の為の唄だと思い込んだって良いのではないかと。そしてそれは、小説でも同じなのではないかと思う。”

 本作『君の話』についても自分は同じ様な受け止め方をしてしまう。この物語が、あくまでも自分の為に存在する物語であるかの様に勘違いしてしまうし、その勘違いに気付いていながら訂正しようとも思わない。そうして自分は数多くの小説や漫画、映画やゲームといった『物語』を、<自分の為の物語>として受容して来た。

 物語の登場人物に感情移入する事も、ゲームを操作しながら主人公に自分を投影して行く事も、映画を見て涙を流す事も、全ては極論すれば自分にとってかけがえのない<義憶>を得ようとする行為だったのではないかという気さえする。

 義憶。自分の中の欠損を埋める為に、偽りの記憶を書き込むという事が現実に出来る様になった世界。そして不都合な記憶を消去する事が出来る様になった世界。そこでは心の傷に対して、体に負った傷を治療するのと同じ様に手当てを施す事が出来る。心の傷は忘却によって丁寧にその傷跡を消され、孤独な者の心には大切な人との思い出が書き込まれる。実在しない<義者>との温かい思い出が、現実を生きる上での支えになってくれる。

 それらは嘘で、偽りで、だからこそ優しい。

 恋愛ドラマのキャッチコピーで、よく『真実の愛』という言葉を目にする。でもそういうものに触れて来なかった自分にとっては、真実なんて贅沢で手の届かないものの様に感じてしまう。恋愛以外だって同じ事だ。他者からの承認とか、自己実現とか、もっと青臭く言えば夢とか。それらは綺麗で、手を伸ばしたくなるけれど、掴み取る事が出来ない。いや、出来なかった。そのまま自分はここまで来てしまった。

 だから自分は物語に飢えているのだ。その事を本作に改めて指摘された気がする。

 常日頃意識しないでいようと目を逸らしている事。見て見ぬふりをしようと決め込んでいる事を改めて指摘される、その怖さと痛み。自分の中の脆くて弱い部分に鋭利な何かを突き刺される様な。だから自分は本作を読み始めてすぐに、これは怖い話だと思った。そして読み終えて、その予感は正しかったのだと思う。この物語は怖くて、痛い。でも心に痛みがあるのは、胸が苦しいと感じるのは、心に突き刺された何かが冷たいものではなく、むしろ温かいものだったからだ。優しさすら感じる程の。

 自分を理解してくれる誰か。自分が支えになりたいと思える他者。そうした『誰か』との出会いを自分達は心のどこかで待っている。それは山崎まさよし氏やスピッツの歌の中にいる『君』の様にとらえどころがない、具体的な名前のない『君』の様にも思える。

 まだ出会う事がない、もしくは過去にすれ違ってしまったかもしれない『君』の事を思い描く時の胸の痛みは、きっと義者との優しい思い出を思い起こす時に感じる暖かさと同じなのではないかと思う。その『君』は本当はどこにもいない。でも、『君』について思い描く時、そして物語の登場人物に感情移入する時、その「嘘の思い出」や「虚構の優しさ」が与えてくれる感情は、現実の誰かを思う時のそれと同じなのかもしれない。

 だから自分は、物語に執着する。

 現実が与えてくれない分を埋める為の義憶。人によっては虚しい事だと感じるかもしれない。虚構に耽溺する前に現実に目を向けるべきだと言われるかもしれない。ただ、自分はその事に反論しようとは思わない。何となれば、数々の物語が、言い換えれば義憶が、自分をこれまで生かしてくれた事を知っているからだ。

 そしてまたひとつ新しい義憶を自分は手に入れた。折に触れて読み返す事になるのかもしれない義憶だ。そしてこれからも貪欲に求め続けるだろう。それが本作の様な義憶なら幸いだと思う。

 

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ジャンル : 小説・文学

窮屈な現実世界からの、軽やかな解脱・八島游舷『天駆せよ法勝寺』

  

 最初に告白する。
 自分は古橋秀之氏の『ブラックロッド』が大好きで、それだけが理由ではないが、何を思ったか大学では寺の跡取りでもなければ美術を専門に学んだ事もない門外漢なのに仏教美術を専攻した人間である。そんな人間に「その中に金堂を内包した巨大な九重塔が、『佛理学(ぶつりがく)』によって駆動するロケットと化して星の海に飛び立つ」などという小説を与えるとどうなるか。

 素晴らしすぎてそれを言い表すには語彙が追い付かない。

 何せ『摩尼車(マニぐるま)』に『フライホイール』というルビが振ってある作品である。いや確かに回るけど! このルビは自分の中で『ブラックロッド』にあった『機甲祈伏隊(ガンボーズ)』辺りに匹敵する。しかも本作では摩尼車を高速回転させ、高速自動読経の結果として発生する功徳により佛の力が現出したりする。凄いぞ摩尼車。

 これらをギャグとして、一発ネタとしてやるならば、そんなに心惹かれるものは無いのだが、『ブラックロッド』にせよ『天駆せよ法勝寺』にせよ、物語そのものは非常にシリアスだ。ギャグでもなければネタでもない。そこが良い。

 スチームパンクが蒸気機関や機械式計算機が発展した架空の世界を描き出す様に、仏教が基幹となって佛理学が発展した世界を構築する。そこでは、現実世界では目に見えないし計測も出来ない『功徳』がエネルギーとして実在するし、曼荼羅は航宙図やレーダーとして機能する。そうした数々の『言葉の再構築』とでも言うべき言い換えや意味付けによって、実在する仏教用語はたちまちSF的な意味を付加され上書きされて行く。

 それは言い換えれば『世界を創る』という事だ。

 現実を解体し、言葉の意味を上書きし、それによって虚構の世界を再構築する。それは全くの白紙に自由に世界設定を書き込んで行くのとはまた違った快感があるのではないだろうか。そして読者の側からすれば、自分が見知っている筈の世界が、言葉が、異なる色に一気に塗り替えられて行くというのもまたひとつの快楽である。

 こうした『言葉の再構築』は、例えば冲方丁氏の『ばいばい、アース』等の中にも見られるが、それはルビの多用や言葉遊びという以上に、現実の解体と再構築として自分の目には映る。作者は自由に想像力を働かせつつ、仮に全ての名詞を自作した時程には作品が「現実離れ」しない。読者にしても元の言葉を見知っているが故に、その言葉の言い換えや意味の上書きに対して具体的なイメージを持ち易い。

 現実世界はある意味、『既に固まった世界』であると言える。良く言えば安定している。ただそこから一歩空想世界の側に踏み出して行こうとする時、その硬さは窮屈だ。人間の想像力や言葉は、もっと自由であっても良い。ただ空想の度が過ぎると、そこには現実味がなくなり、読者の共感を得る事が難しくなる。引力と斥力が釣り合う一点を探す様に、作者も読者も物語が安定する一点を探しているのかもしれない。現実に縛られず、それでいて作品が読者を置き去りにして空想世界の彼方に飛んで行ってしまわない様な、ある調和の取れた一点を。

 本作もまた、そうした調和を目指しているのではないか。窮屈な現実世界から飛び立つ星寺は、読者をも乗せて飛翔して行くのだろう。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

人の再生の物語として・黒澤いづみ『人間に向いてない』

  

 書店で本を選んでいる時、不意に買う予定のなかった本に吸い寄せられる事がある。本作もそんな本だった。

 顔が溶け出した様な母親が、これもまた体が溶け出している子どもを抱きかかえている様に見える表紙。『人間に向いてない』という飾らない題名。帯にある「ある日、息子が虫になりました。」という書き出しで始まる文章。これは何だろう、と惹きつけられる何かがあった。

 本作では『異形性変異症候群』という病によって、人が一夜にして異形の存在に変質してしまう様になった世界が描かれる。カフカの『変身』を、虫になってしまった青年の視点ではなく、彼の家族の側から描いてみせる様な物語だ。

 『異形性変異症候群』は人を異形の存在、有り体に言えば化物の様な姿に変えてしまう。ある者は人の顔を持った犬の様になり、またある者は人間の目玉を持った魚の様になる。葉の代わりに人の指を茂らせた植物の様になってしまう者もいるし、芋虫の様な姿になってしまう者もいる。

 体の構造が人間とはかけ離れてしまっているからなのか、変異者の多くは言葉を発する事が出来ない。変わってしまった彼等の中に、姿形が変わる前と同じ心があるのかどうかは推し量れない。何よりその外見の気味の悪さから、当初はそれが家族の変わり果てた姿とは気付かれずに殺害されてしまうケースが相次ぐ事になった。やがて政府は、この病によって変異してしまった人間を法的には死亡したものとして扱い、全ての人権を停止する事を決める。だから変異者を殺しても罪にはならないし、扶養する義務もない。

 社会がパニックに陥る寸前で持ち直したのは、この病が若年層、特にニートや引きこもりといった背景を持つ者の間にだけ発症するものだという事がわかってきたからだった。多くの人にとってこの病は「自分とは関係がない」と切り捨てられる類のものであり、中には結果として社会的弱者を『間引く』事になったこの病の発生を「因果応報であり、天の配剤だ」と喜ぶ者さえいた。

 では、変異者本人にとって、そしてその家族にとって、この病とはいかなるものなのだろうか。本作は引きこもりの息子が芋虫の様な姿に変異してしまった、ひとつの家族の姿を追う事で、それを丹念に描いて行く。

 身内から変異者を出したと知られる事は、自分達が「失敗した家族」である事を衆目に晒されるのと同じなのかもしれない。問題のある家族を抱えていたという事。そして変異するまで救う術を持たなかったという事。そして物言わぬ変異者は、その事を責めている様にも思える。だから多くの家庭では、変異者を保健所に引き渡す。または育てきれなくなったペットの様に野山に捨てる。変異者に人権はないから。彼等はもう死んだものとして扱われるのだから。厄介者の存在を捨てて、人生を、家族をもう一度やり直すチャンス。そう捉える者がいたとして、誰がそれを責められるだろうか。

 でも一方で、そんな割り切り方が出来ない者もいる。化物の様な姿になってしまっても、息子を、娘を捨てる事は出来ないし、保健所に引き渡して『処分』してもらう事も出来ない。まして自ら手を下すなど。ならば、どうしたら良いのだろう。

 変異者の家族は、彼等が変異してしまった事で、あらためて我が子の、そして家族の問題に向き合う事を迫られたのだと言える。引きこもりの我が子がいつか立ち直るのを期待して、干渉を避け、ただ食事を部屋に運ぶ様な暮らしを続ける事はもう出来ない。彼等が本当は何を考え、どんな悩みを持ち、何に苦しんでいたのか。どうしてその悩みを我が事として共有する事が出来なかったのか。自分は失敗したのか。失敗したのだとしたら何が悪かったのか。そして、今からやり直す事は出来るのか。失われた信頼関係を、もう一度築き上げる事は可能なのか。

 本作はそうした事を考える為の寓話なのだろうと思う。そして、「強者による弱者切り捨て」ではなく、「弱者による弱者切り捨て」が起こり始めているこの国の行末に警鐘を鳴らすものでもあるのだろう。

 自分の様な、中流より下に位置する暮らしぶりをしている人間が、例えば生活保護に頼って暮らしている様な人を見て「自分はこんなに苦労して今の生活を維持しているのに、なぜ何もせずに食べて行ける様な人がいるの?」と思ったとする。正直、自分もたまに思う。冗談半分でではあるけれど。それは「自分も誰かに助けて欲しい」という気持ちが負の方向に裏返って、自分も働かなくて食べて行ける身分になってみたい=親に食べさせてもらえるニートや国に食べさせてもらえる生活保護受給者は、何の努力もせず、種を蒔かずに実を食べるばかりでずるい、という短絡的な思考に陥るからだ。

 「こいつらさえいなければ」
 「この世から消えてくれれば」

 自分の人生の足枷になっている奴に消えて欲しい。そうすれば自分は楽になれる筈だから。

 この考えは、結論から言うと間違っているのだけれど、理屈としては一見正しそうに見えて共感を集め易い所が非常に質が悪い。屁理屈に見えない屁理屈とでも言うのだろうか。ただそれは、自分が社会的弱者に日々どんな視線を向けているのかという事を端的に示すものでもある。これではどっちが『化物』なのか分からない。

 そしてもうひとつ、自分の様に自分自身を『人間に向いてない』と思う事がある様な人間にとって、変異者の姿と彼等が抱えている苦悩は身近なものだ。実感を伴ったものとして、自分は本作を読む事が出来る。ただ、たとえ人間に向いていないとしても、自分はこれまでもこれからも人間でいるしかないのだ。いっそドロップアウトしたい。消えてしまいたいと思っても、その願いは叶わないし、叶えてはいけない類のものだろう。ならばどうするか。再生への道を見付けるしかない様にも思える。

 再生とは何か。例えばそれは社会の再生であり家族の再生なのかもしれない。個人の自己実現や、自己肯定感を取り戻す事も一種の再生だろう。そして、それらは『人間関係の再生』というテーマに繋がっているのだろうと思う。本作の様に、人間が人間でなくなってしまう様な事態にならなければそれに気付けないのか、やり直せないのかと問われれば忸怩たるものはあるが。

 人間に向いていない自分は、ある日突然どんな変異者になるのだろうと考える。そしてその時、誰が寄り添ってくれるだろうか。薄気味悪い姿になった自分を捨てずに、手を差し伸べてくれる誰かはいるだろうか。そして自分もまた逆の立場であれば誰かに手を差し伸べる事が出来るだろうか。そうした事を思いながら目を閉じる時に、人間に向いていない自分でも、まだ人間でありたいのだなという事に気付いたりもする。目を開けた時に、毒虫に変わっている自分を見付けたくはないから。

 

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静かな怒りを燃やし続けて マーガレット・アトウッド:著 斎藤 英治:訳『侍女の物語』

 

 最近、大人があまりにも幼稚な振る舞いをするのを見るにつけ、自分にしては珍しく怒ったり落ち込んだりと気持ちの上で忙しかった。端的に言えば、自分はこの世の中はもう少しまともだと思っていたのだけれど、その期待は裏切られたらしい。

 自分には「きちんとした大人になる事が出来なかった」というコンプレックスがあって、当然それは自分の中の「こうあって欲しい大人像」というものと自分が乖離しているから生じる気持ちなのだけれど、こうも大人が(それも社会的な地位も名誉もある大人が)情けない姿を晒してしまうと、もしかしてちゃんとした大人などというものはこの世には存在していなくて、自分はただ自分勝手に抱いた理想が裏切られた事に憤っているのかもしれないとは思う。

 人間は生まれながらに善であり、時に誘惑に負けて悪に落ちるものなのか、それとも生まれながらに悪であり、放っておけばどんどん堕落してしまうので、不断の努力で理性や善性を保っているのか。今は後者である様な気がしている。

 人間の本質が『悪』だとして、(まあこの悪というのもどんなものを指して悪というのかが難しいのだけれど)例えば身近な所で日常的に行われているセクハラやパワハラといった権力の濫用もその悪の一例だろうし、様々な差別意識やモラルハラスメントの類もそれに当たるのだろうけれど、それらが日常の中にはびこっているというのは、何もそれを行う側が意図的に相手を痛めつけてやろう、傷付けてやろうと「意識して行っている」からではなく、むしろ自然に、何の悪気もなく、「無邪気に」行っているからだろうなと思う。むしろ「良かれと思ってやっている」という気もする。そうする事が世の中の為であり、国益であり、正しい事であり、つまりは『善』であるという思考の結果が、あらゆる『悪』に繋がって行くというのは、何だか人間というものの業の深さを見せ付けられる様で息苦しい。

 自分の行いは本当に正しいのか。

 それを自ら疑ってかかるというのは苦しい事だし、愉快な事ではない。でも、自分に対するそうした『疑いの目』を捨ててしまった時、人間が本来持っているべき倫理観といったものは容易に損なわれてしまうのだろう。本作『侍女の物語』の様に。

 本作では様々な要因から「健康な子どもを出産出来る女性が限られる社会」という架空の未来史を設定し、その中で主に女性がどんな生き方を強いられて行くか、そして男性がそれにどう関与して行くのかが描かれる。

 まず、女性の権利が徐々に削ぎ落とされて行く。例えば全ての女性はある日突然に雇用主から解雇通告される。そして自分名義の口座は凍結され、配偶者がこれを管理する様になる。次には健康な子どもを身籠る事が出来る女性が選別され、それまで一緒に暮らしていた夫や子どもと引き離されて、子を儲ける事が出来ない特権階級の家庭に『侍女』として配属される様になる。侍女の役目は、高官達の妻の代わりに子を産む事だ。そして子を産む能力が無いとみなされた女性や、従順ではない者、また反体制派と繋がりがあると目された者は過酷な強制労働が行われるという『コロニー』に送られて行くか、或いは絞首刑にされる。

 主人公はとある高官の侍女として彼と性交をする事を求められる。その行為には愛情も快楽も存在しない。義務的に、事務的に、高官の妻に監視される中で行われる「それ」は、女性が自由にパートナーを選んで行っていたそれとは当然違うし、かといって犯罪行為として行われる強姦でもない。侍女達は仕事として、日々の生きる糧を得る為に、自分の社会的地位を守る為に、男性の、或いは国家というシステムの所有物として扱われる事を自ら選ばなければならない。当然他の選択肢など存在しない訳だが、その「選択の余地がない選択」を女性に強いて行く過程が妙に生々しい。

 本作はディストピア小説とされる。そして大抵のディストピアがそうである様に、社会をその様に構築している側は、つまり男は全くの正気で、むしろ良かれと思ってそれを行っている。女性の社会的自立を妨げる事も、それこそ『産む機械』発言ではないけれど、女性の役割は「子を孕む事」であると定める事も、当然の事として行われて行く訳だ。他にも女性の衣服に制限をかける事はむしろ女性を守る為だとされるし、男性にしても誰が子を持つ権利を有するかを国家が統制する事は当然の事だとされる。社会的地位が低い男性や反体制思想の男性は、子を持つ権利を間接的に奪われる訳だが、それは結果的には断種と同じ事だ。断種は言うまでもなく「人道に対する罪」であるが、国家それ自体が断種行為を是とするならば、それを裁く者はいなくなる。

 『正気』によって下されて行った判断の数々が、結果として巨大な『狂気』の構造を形作って行くこの過程は、男女の性差や価値観の違いといった小さい原因から生じているのではなくて、人間というものがそもそも『邪悪』だからなのではないかと思わせる。邪悪という言葉が悪意に満ちているというのであれば『無邪気』と言い換えてもいい。人は自分が思う程には正しくもないし正気でもない。その事に自覚的でないと、自分達は容易に選択を誤るし、誰かを傷付ける。それも致命的に。

 セクハラやパワハラといった言葉がニュースで流れる度に、自分達は何だかそれに慣れてしまって、何が起きても驚かなくなり、憤らなくなってしまっている様に思う。それは「あり得る事」であり、「仕方のない事」に成り下がってしまっている。じゃあ自分がこの間日大に対して思いをぶち撒けた様に、ただ単なる怒りを勢いに任せて書き殴れば良いのかというと、そうでもない。それはただ単に個人のストレス発散以上の意味を持たないし、自分もその事を反省しなければならない。

 きっと社会に必要なのは「静かに怒り続ける事」なのだろう。

 世の中に蔓延っている不正や差別といったものに向き合い、正しく怒り、それを本作の様な形に昇華して広く世に問うて行くという事。怒りを爆発させるのではなく、その静かな怒りの炎によって言葉を鍛造し、鋭く研ぎ上げ、世に斬り込む事。そうした冷静さが、静かな怒りがある事が、きっとこの世界を、社会を、昨日よりはマシなものに作り変えて行く。

 自分が今感じている怒りは、憤りは、理不尽さは、本当に仕方がない事だろうか。その怒りは、消してしまうべきか。そして怒りを燃やし続けるならば、それによって自分はどんな言葉を発して行くべきなのか。本作は広く人々にその事を問うている様に思う。

 

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ジャンル : 小説・文学

日大付属高校の卒業生として『日大アメフト部 悪質タックル強要問題』

 こういう事を書くのはこのブログの趣旨ではないし、書こうか書くまいか散々悩んだのだけれど、監督やコーチに反則行為を強要された(に等しいと自分は思っているのでこう書く)選手の事を思うと、何だか悶々として夜も眠れなくなってしまい、吐き出すに近い形になってしまっても自分の考えを書き残しておくべきだろうと思った。

 自分は数ある日大付属高校のひとつをかれこれ20年以上前に卒業した人間だ。そして教員免許を取得する為に短い期間ではあるけれど教育実習生として母校に戻り、教壇に立った人間でもある。

 自分は結局日大に進学出来なかったし、(当時勉強が大嫌いだったせいで単純に成績が足りなかった)教員免許は取ったものの教員採用試験は受けなかったという、世間から見れば何だか半端な経歴の持ち主なのだけれど、それでも付属高校を母校として育った人間ではある訳で、本当は母校が連なる日本大学を悪く言いたくはない。言いたくはないが、正直ここまで腐った体質を連日報道されると何をやっているんだと思うし、将来のある若者に責任を押し付けて自己保身に走っている様に見える大学側の姿勢を見るにつけ、もう今日明日にでも関係者は教育者を名乗るのをやめて職を辞してもらいたいとすら思う。

 さて、日大付属校の全てがそうなのかは知らないが、自分が卒業した付属高校には高校の校歌はなく、(一応学校独自の歌として『学生歌』というものはある)高校でも日本大学校歌を歌う。その歌詞は次の通りだ。

 日に日に新たに 文化の華の
 さかゆく世界の 曠野の上に

 朝日と輝く 国の名負いて
 巍然と立ちたる 大学日本

 正義と自由の 旗標のもとに
 集まる学徒の 使命は重し

 いざ 讃えん 大学日本
 いざ 歌わん われらが理想

 これを歌っている高校生でも分かる事だが、日本大学は『日本』という国の名を背負っている訳で、その名に恥じぬ様に常に毅然としていなければならない。今回、誰よりもその事を認識していなければならない大学本体が自らその名に泥を塗った訳だが、なぜこの様な事が起きてしまうのか。自分は付属校を含めた巨大組織日本大学が外部からの視点に乏しく、組織内部ばかりを気にしなければならない体質である事にそもそもの問題があるのではないかと思う。

 これは巨大組織がしばしば抱える問題で、一般的な価値観や倫理観よりも、組織内部の要求をいかに達成して行くか、また組織内部でいかに自分の立ち位置を守って行くかという事に組織構成員の意識がすり替わって行ってしまう事により発生する。

 今は変わっているかもしれないが、ひとつ昔話をしよう。

 自分が付属高校に入学した時に、当時の校長がしきりに言っていたのは「5カ年計画で日大統一テストの平均点を何点上げる(具体的な点数は忘れた)」という事だった。

 今は統一テストの制度も変更され、名前も変わったらしいが、当時日大の付属高校には統一テストと呼ばれる大学への推薦枠を得る為の試験があった。高校3年間の学習成績(評定)と3年生時に各付属高校で実施される統一テストの成績で日大の各学部に推薦される制度で、一般受験とは完全に別枠で日大進学の可否が決まる。

 統一テストの学内平均点が重要視されたのは、その成績如何で大学側から貰える推薦枠が決定する為らしく、日大に何人進学させられたかがひとつの評価基準とされる付属校側にとって統一テストの成績はある種の死活問題だった。当然校長も事ある毎に統一テストの名前を出して勉学に励む様にと生徒に念押ししていた。

 だた、当時の自分が半笑いでそれを聞いていたのは、自分の入学年度が5カ年計画とやらの2年目で、自分達が卒業する時までに結果が出るものではなかったからだ。それに当然、付属校に入学したからといって、全ての学生が日大進学を希望するものではない。同級生にも法政大学に進学した者もいれば東大や芸大、音大に進学した者もいた。

 少なくともこの学校の上層部は、統一テストの結果を重視するあまり生徒個人を見ていない。当時の自分はそう思った。

 統一テストの成績を上げて、日大進学者数というある種の実績を作る事に躍起になっている学校側と、彼等から常に尻を叩き続けられる生徒との微妙な価値観の齟齬は当時から感じていた。校長を始めとする教員は付属校を含めた日大という巨大組織の内側でどう立ち回るかを常に意識している。そして生徒はとにかく日大に進学できる学力を付ける事を第一に教育される。統一テストで重要視されるかどうかが授業内容の時間配分を決定していたから、テストで取り上げられる割合が低い内容はあからさまに省略されるなどしていた。自立した高校というよりも日大進学を目標にした巨大な学習塾の様だった。

 他にも各付属校の成り立ちによる正付属、特別付属、準付属といった系統分けの様なものも妙な格付けとして機能していて、正直自分には大人達が何を本気になって競っているのか最後までピンとこなかった。

 当時から常々思っていたのだけれど、日大『付属』高校である以上、常に本体である日大を意識しなければならないのはやむを得ないのだとしても、「高校独自にやがて社会に巣立つ生徒をしっかりと育てて行くのだ」という姿勢が感じられなかったのはなぜなのだろうか。二言目には統一テストだった校長然り、授業内容然りだ。進学校と言われているとはいえ、高校から社会人として世に出て行った仲間もいた。他大に進学した仲間もいた。彼等にとってはあくまでも日大という組織内部での学力をはかるものでしかない統一テストの成績を稼ぐ方法などよりも、もっと学ぶべき大事な事があった筈だ。人生の中でその一時期にしか得られない学びの機会があった筈だった。でもそれらはどこか二の次にされていた様に思う。

 そうした中で、文字通り大学の出先機関であり付属物であるかの様な母校の振る舞いだけは、自分は最後まで好きになれなかったし馴染めなかった。もちろんそうではない先生方もいて、自分はそうした先生方の授業にしか興味がなかったのでみるみる成績に偏りが出て一部教科で赤点を連発するという、学費を出している親からすれば噴飯ものの問題児になってしまった。そのくせ大学に行ったら学問が面白くて仕方なくなり、しれっとした顔で教員免許を取りに実習生として母校に舞い戻って来るのだからなお質が悪いのだが、これはまあ余談である。

 大きく回り道をして、話は今回の不祥事に戻る。

 前段の話を踏まえて頂ければ、日本大学という巨大組織が持つある種の『異質さ』や『内向きな姿勢』が今回の問題にも大きく影響しているであろう事がご理解頂けるのではなかろうか。

 20を超える付属校を束ねる日本大学は、ある意味で『閉じた帝国』の様なものだ。今回問題を起こした内田前監督はその帝国の人事担当常務理事であり、日大のナンバー2と報じられる『権力者』だ。権力者が白といえば黒いものでも白くなるのは何も日大に限らず世間一般の悪しき慣習だが、日大の様に「世間から閉じた組織内部の価値観に基づいて、組織のトップから末端までが動く」様な場所では、トップに近い人間の行使する権力に際限がなくなる。「法を犯していようが道義に反していようが、俺がやれと言ったらやるんだよ」とでもいう様な無理な要求を拒める人間が誰もいない状況で発せられる『指示』は、その指示に従った人間の個人的な責任を問う事が酷に思える程強烈だ。

 正当な理由もなく日本代表への参加を止めさせられる。練習や試合に出られない状態に置かれ、試合出場と引き換えに反則を強要される。挙句の果てに責任を問われる段階になれば全ての責任を押し付けられて切り捨てられる。ある意味で保護者から大切な家族をお預かりして教育を行う大学の、大人のやる事がこれだという事が、最早末期だ。日大という組織が付属校も含めて世間ずれしているとか、組織内部の基準に則ってしか行動できていないとか、或いは今この時も望まない組織防衛をするしかない立場に追いやられている教職員や広報担当者が哀れだとか、そういう次元を通り越している。前途ある学生を傷害事件の加害者にしてまで勝たなければならないスポーツの試合などというものがこの世に存在するとは思えないし、仮に相手選手を故意に負傷させ、選手生命を脅かし、以降の試合に出場できない状態に追い込む事で甲子園ボウル2連覇を達成したとして、内田氏はそれに意味があると本気で考えていたのか。もし考えていたのだとすれば、「貴方は日大の中では帝王なのかもしれないが、いい大人が無邪気に、無自覚にその権力を振り翳すな」と言いたい。

 昨今、セクハラやパワハラといった、地位と権力を笠に着たハラスメントが枚挙に暇がないが、共通しているのは権力を持っている側が、自分が権力を濫用しているという事実に無自覚だという事だ。「自分は明確な指示など出していない(実行者が勝手にやった事)」「嫌なら拒めば良かったのだ」という様な事を平気で言う人間ほど質が悪く、自覚が無い。そうした自覚なき権力の濫用について、一般市民が辟易している所にトドメとばかりに今回の事件が来た訳だが、この期に及んで日大が内田氏を庇う(又は不本意ながら庇わざるを得ない)状態が続くなら、付属校の卒業生として、母校の親である巨大組織日本大学の振る舞いや価値観がいかに間違ったものであるか折に触れて語って行くつもりだし、書き残して行くつもりだ。

 国の名を背負って毅然と立つ事が日大のあるべき姿だと言うのであれば、一刻も早くその姿を取り戻して欲しいし、それが出来ないと言うならば、そんなただ肥大化しただけの組織は倒されるべきだ。自分はそう思うが、諸先輩方は如何だろうか。

 5/23 記者会見後追記

 どうやら自分の知る日大はもう死んでいた様です。
 
 この先、生き返る事もないでしょう。怒りを通り越して悲しみすら無くなって、最後に虚無が残りました。

 これが大人の姿なんですね。ご立派過ぎて涙が出ますが。

 恩師のこんな姿を見た後に、選手は人生の目標をどう見定めたら良いのでしょうか。

 心ある方、何卒彼だけは助けて下さい。

テーマ : 教育問題
ジャンル : ニュース

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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