現実の苦味には優しい嘘を・百波秋丸『チェンライ・エクスプレス』

 

 群像劇という奴が好きだ。
 様々な登場人物達が、それぞれの思いを胸に行動する。結果として彼等の歩む道程は時に交差し、また様々な方向に枝分かれして行く事になる訳だが、その「互いに影響し合う」という所が何となく好きだ。傍から見れば取るに足らない様な人間にも、人との関わりの中ではその存在が全くの無意味という事はない。たとえ自分自身の存在意義を自分で信じる事ができなくても、その『存在』という奴は誰かに影響を与えている。良い意味でも、悪い意味でも。それを失うという事はあり得ないし、また自分から捨て去る事もできない。群像劇はそんな風に、ゆるやかに人間の存在意義を肯定してくれる様に思う。まあ本作の登場人物達は一般的な「人間」ではないけれど。

 本作の舞台はアジアの小国、チェンライ王国だ。どこか東南アジア的な世界観に彩られたその舞台に上るのは、なぜか人外のものばかり。「心をなくした人造人間」「魔法が使えない魔女」「カマをなくした死神」「死にたがりのアンデッド」等々、個性的な面々が揃っている。彼等は各々の目的を果たす為に勝手気ままに行動する訳だが、その行動の結果は他者に影響を及ぼして行く。現実に生きる自分達がそうである様に。

 一言で言えば、本作は群像劇として『全ての登場人物達にハッピーエンドをもたらす事』を目的に描かれている。これは現実にはなかなか難しい。例えば自分が今こうして生きている事や、ここでこうして何事かを書いている事が、誰かにとって良い影響を与えているのならそれに越したことはないけれど、実際は悪影響を与えていたり、誰かの気分を害していたりという事もあり得るし、その可能性の方が高いとさえ思える。自分にとって都合の良い事が、他の誰かにとっては不都合になる様に、また自分にとっての正義が他の誰かにとっては悪になってしまう様にこの世界はできている。誰もそこから逃れる事は出来ない。それは時に自分の存在が無意味ではないという肯定でもあり、また同時に自分が他の誰から見ても潔白であるという事はないのだという悲観でもある。できればその中で肯定的な方を信じて生きていたいとは思うけれど、本当にその通りかどうかは誰にも検証できない。全ては個人の力では把握できない規模の物事として流れて行く。
 しかし、虚構の物語の中でならば「皆がハッピーエンドになる群像劇」を描く事も出来る。酷い言い方をすればそれは「御都合主義」であり「嘘」でもあるのだが、それでもそんな嘘を許容できない社会は余裕が無い、生き難い世界ではないか。そう思う。

“「なあトウア、世の中には優しい嘘ってもんが存在するんだ。人を喜ばせてみんなが幸せになる、素敵な嘘ってもんがな。嘘をつけば良いってものでもないが、全部本当のことを言えば良いってものでもない。杓子定規に考えなくて良いんだ」”

 作中である登場人物が『優しい嘘』と口にする様に、この物語も可能な限り登場人物達の願いが叶う様に、犠牲になる者が出ない様にと進んで行く。それは現実から見れば確かに不可能事で、ある意味では嘘でしかないのだろうけれど、でもこんな優しい嘘で形作られた物語が世の中に増えて行く事を、きっと自分は読者として望んでいるのかもしれない。御都合主義ばかりもどうかと思うけれど、正直、現実の暮らしに苦味が増えて行くと虚構の物語でまで悲観的な物語を読みたくないというか何というか。

 というわけで、現実の苦味に疲れたら、たまにはこんな物語を。ちょっとおとぎ話の様な、どこか懐かしい甘味のする嘘を味わってみるのも良いものだと思う。

  

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

疑心暗鬼という最大の敵・山形石雄『六花の勇者2』

 

 連休明けからこっち、仕事に忙殺されて本を読む時間すら無いという潤いの無い生活をしていた。そろそろ通常に戻りたいところだけれど、どうなるか。

 さて、そんな訳で久しぶりの更新は山形石雄氏の『六花の勇者2』。シリーズのあらすじについては前作である『六花の勇者』の感想を参照して頂くとして、今回もまた「世界を救う選ばれし六人の勇者の中に、招かれざる七人目が敵として紛れ込んでいる」という状況下での戦いが描かれる。

 前作の感想にも書いた通り、魔法や特殊能力がまかり通るファンタジーの世界で「犯人探し」のミステリを展開する事はなかなか難しい。例えば『ドラゴンクエスト』の様な世界で殺人事件が起こり、犯人探しをしなければならない状況に陥ったとしても「ザオリクかけろよ」と言った瞬間に殺人事件という前提そのものが崩壊する。死者が蘇る世界では名探偵の出番はなく、蘇った死者に犯人を尋ねれば良い。それでもなお「被害者は犯人の姿を見る事無く殺された」として話を作る事は出来るかもしれないが、ぶっちゃけ「まあ、被害者も生き返った事だし別段問題は無いよね」という現実では考えられない様な台詞で事件がスルーされる可能性はある。容易に死者蘇生が可能な世界では人の命の価値も大暴落だ。

 話は脱線するが、何せドラゴンクエストといえば世界を救う為に送り出される勇者の初期装備が『ドス(銅の剣)一本と五十ゴールドだけ』という世界である。それはつまり任侠映画の世界で言う所の『鉄砲玉』という奴であり、この辺りにも命の軽さが垣間見える気がする。ちなみにこの文章はかの冲方丁氏が書いた『ドラゴンクエストII 任侠鉄砲玉伝説』からの引用である。個人的にはドラゴンクエストシリーズの二次創作小説としてこれ以上のものはない位の傑作だと思うので、埋もれさせない為にもウェブアーカイブにリンクしておきます。(本サイトからは消えてしまっている模様)

 で、脱線した話を元に戻す。
 『六花の勇者』では本来六人である筈の勇者が七人になってしまっている事、そしてその『七人目』は確実に敵方の内通者として他の勇者の命を狙っているという前提がある。周りは敵だらけ、しかも魔神の完全復活までのタイムリミットが刻々と迫って行くという状況下で、味方内部に潜んでいる七人目が誰なのかを互いに探りあわなければならないというのはなかなかにスリリングだ。そして今回は「七人目探し」の他にも「新たに登場した強敵の弱点探し」という推理が要求される事になり、六花の勇者達は更に追い込まれて行く事になる。

 魔法や特殊能力が存在する世界でミステリを成立させる為には、登場人物達の能力の限界をどこに置くか、そして彼等が置かれた状況をどの様に設定するかという部分での調整が不可欠になる。作者の山形氏はそこを上手くコントロールする事で読者を物語に引き込んで行く訳だが、読者としては「どんなに強力で確実に思える能力であろうとも、その裏をかく事は可能」という事は心しておいた方が良さそうだ。更に続く彼等の物語で、いつ七人目が明らかになるのか、そして彼等は世界を救う事が出来るのか、まだ謎は深い。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

鎌倉小旅行記・或いは『鎌倉ワンダラー』

 R0011269.jpg

 上の写真は長谷寺の『良縁地蔵』……ちょっと和む。
 
 さて、せっかくのゴールデンウィークなので、日頃なかなか会えない遠方の友人と会う機会があればと思っていたのだけれど、各々仕事だったりで自分と予定が合わず、それならばと突発的に一人旅に出た。いざ鎌倉。

 なぜ鎌倉か。ここで書いた事があったかどうかは忘れたけれど、実は自分は仏教美術が好きな人間だったりする。そういう人間にとって鎌倉に行く目的といえばそれは寺巡りであり、仏像を訪ね歩く旅という事になる。
 今でこそ仏像ガールなんていう言葉もあって(まあこれは山ガールみたいにある程度はメディアが作っていた部分もあると思っているのだけれど)「仏像好きってこんなにいたのね」という様に市民権を得ている……様に思う。著名人ではみうらじゅん氏も仏像好きを公言されているけれど、自分がなぜ仏像好きになるに至ったのか、仏像の魅力とは何かという事を説明し出すと、恐らくかなりの長文になる上に明確な結論は出ないだろうから割愛する。

 それで、二日かけて色々な所を歩いて来たのだけれど、旅行記を書く上でこの『仏像巡り』というものは結構厄介だ。何故なら主役である仏像は大抵撮影禁止なので、時系列にそって、写真を交えて書いて行こうとすると寺の山門等の風景写真が大半を占める事となり、ぱっと見何が目的で歩いているのか不明だし、画的にも地味この上ない。それに仏像の名前を細かく出しても写真が無ければイメージが掴めないだろうから、この辺りはざっくりと削ってしまおう。

 初日、鶴岡八幡宮と鎌倉国宝館を観てから円覚寺、東慶寺、建長寺等を徒歩で巡る。寺は基本的に山の上にある事が多いので、このコースでも結構な運動量。田舎者は都会育ちより体力がある様に思われているけれど、少なくとも自分の場合、都内に住んでいた頃よりも歩けなくなったなと思う。田舎は基本どこに行くにも車だから。これは肉体的にも精神的にも相当鈍っているなと思ったので、建長寺で座禅を組ませて頂く。自分の様な観光客でもタイミングが合えば坐禅会に参加出来るので、興味のある方は問い合わせてみるのもいいかもしれない。
 藤沢に宿泊し、二日目は江ノ電に乗って極楽寺駅まで移動。極楽寺、成就院、長谷寺、そして高徳院等を巡る。初日もそうだったけれど、途中若い女性の旅行客と多数すれ違い、また建長寺の坐禅会でも多数の女性参加者がいたので「仏像ガールって実在してたのか……」と驚愕した。意外と若いカップルも多い感じ。もちろん年配の方はもっと多いが。長谷寺へ向かう前に、由比ヶ浜へ寄り道。もうサーファーや海水浴客で賑わっていた。

 R0011282.jpg

 撮影不可の仏像が大半を占める中、皆が写真を撮りまくっていた『鎌倉大仏』こと高徳院の『阿弥陀如来坐像』。やっぱり皆仏像を見ると写真が撮りたくなるのだなと思う。自分も撮って来ましたとも。撮影の腕が無いのは如何ともし難いけれど。

 R0011295.jpg

 さて、そんなこんなで鎌倉小旅行記でした。
 江ノ電に乗った時にASIAN KUNG-FU GENERATIONの『サーフブンガクカマクラ』を思い出したのだけれど、今回の旅行をそれ風に言えば『鎌倉ワンダラー』といったところ。たまにはこういう旅もいいものです。

テーマ : 神社・仏閣巡り
ジャンル : 旅行

少年の空虚を埋めるもの・西尾維新『悲鳴伝』

 


“地球が悲鳴をあげてるぜ”

 『バトルフィーバーJ』より

 ……ただし、その『地球の悲鳴』が人間に助けを求めているものだとは限らない。

 地球の悲鳴。その『大いなる悲鳴』が世界中に轟いた時、それを聞いた全人類の3分の1は絶命した。まるでマンドラゴラが引き抜かれた時に発するという、それを聞いた者の命を奪う『死の悲鳴』の様に、地球が発したというその『大いなる悲鳴』はあらゆる人間の命を無作為に刈り取った。自然災害や天変地異などとは比べ物にならない、人間だけを狙い撃ちにした「攻撃」によって、地球上の総人口の3分の1を一瞬で削り取られるという多大なる被害を受けた人類は、以前にも増して『悪しき地球との戦い』を強いられる事となる。そしてこの手の、一般人の手には負えない巨悪と戦うのは、昔から変身ヒーローの役目だと相場が決まっているのだった。

 本作は、一言で言えば変身ヒーローものだ。ただし、その中身は相当に屈折している。本作に登場するヒーローを動かすのは正義感でも使命感でもない。西尾維新という作家はそんな人間味にあふれた人物を、本作の主人公に設定しなかった。そして主人公以外の登場人物達もまた、一般的な感覚からすればどこか『壊れた』人間ばかりだ。この辺りのバランス感覚がいかにも西尾氏の面目躍如といった感があるが、そもそも物語に登場する様な正義のヒーローが現実にいたとして、それがまともな神経で務まるのかと言えば限りなく怪しいという事に自分達も薄々気付いているのかもしれない。

 アニメや特撮といった子供向け番組に出て来る変身ヒーロー達は皆正義の人だ。全人類を守護する正義の味方。そして大抵の場合、敵は人間ではない悪魔の様な怪人連中や巨大怪獣で、人類を一人残らず滅ぼそうとか奴隷支配しようとか、単純に破壊衝動に従って何もかもを壊してしまおうとか考えている。お互いに交渉の余地は無く、どちらかが倒れるまで戦いは続く訳だが、大抵の場合は正義の味方が勝って一件落着となる。これはある意味時代劇の様な、勧善懲悪という様式美の世界で展開される物語だ。その現実離れした世界観の中だからこそ、誰の目から見ても非の打ち所のない、異論を差し挟む余地のない正義のヒーローというものが成り立つ。
 だが、現実を生きる自分達、それも大人が冷静に考えれば、実は正義という言葉ほど扱い難く胡散臭い言葉も無い事に気付く。それは「自由と正義」の為に世界中至る所で繰り広げられる戦争や紛争の様に、お互いの立場が変われば意味を変えてしまう言葉だからだ。正義の味方が味方するのはどんな正義なのか。それは誰にとっての正義なのか。それが誰からも受け入れられる正義である事は、現実にはまずない。お互いの立場の違い、主義主張の違いが消える事など無い様に、複数の正義が潰し合いを続けるのがこの世界の有り様だからだ。そして、往々にして正義というものは、目的達成の為ならば犠牲が出る事を厭わない。そして唱える正義が大きい程、許容出来る犠牲の総量も増えて行く。国家間の戦争や紛争といったものが個々人としての兵士達の都合や心情を斟酌しないのと同じ様に。

 では、この物語にある様な「人類を守る」という立場の正義に立つならば、一体その過程でどれ程の犠牲が出る事を許容出来るものだろうか。例えば1人の敵を討つ為に100人の人間を巻き添えにしなければならないとして、その1人の敵を生かしておく事が地球上の全ての人間を脅かす脅威となり得るならば、100人を道連れに敵を倒す事を厭わない、という種類の正義も存在する。もちろん巻き添えにされる側にとってはたまったものではないが、正義という名の使命を帯びたヒーローは躊躇無くそれを行える人間でなくてはならない。人類を守るという大目的の為ならば、目の前にいる100人の命を切り捨てられるのがヒーローの、英雄の資質だとするなら。

“英雄になりたければなればいい。
 誰もそれを邪魔したりしない。
 きみが誰かの邪魔者になるだけだ。”

 かくして世界はヒーローという名の人格破綻者の登場を要求する。

 あらゆる事に心を動かされず、地球人類を守護するという目的遂行の為ならば、言い換えれば正義の為ならばどんな悪行も虐殺も不道徳も許容し得る壊れた人間を求める。この『悲鳴伝』はそうして集められた壊れた人間達による群像劇であり、その中でも最も大きな欠陥を、欠落を抱え込んでいる主人公、空々空という少年の物語だ。ある意味ではその名前の通り空っぽな少年である彼が、この物語の中で何を喪い、そして何を手に入れるのか。つまるところ、この話はそれだけの物語だと言っていい。一人の少年が生き、その中で他者と出会い、別れるというありふれた物語。荒唐無稽な世界観を引き剥がせば、きっとこの物語はそんな風にシンプルなものになる。できればその中に僅かばかりでも救いがあって欲しいと願うのは、読者である自分の勝手な思いなのだろうけれどね。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

 コミュニケーションという言葉の定義・押井守『コミュニケーションは、要らない』



 まず、この『コミュニケーションは、要らない』という題名は「看板に偽りあり」だという話から始めなければならない。

 最近の新書の売り方として「一般人が常識と考えている事とはあえて逆の事を言って注目を集めよう」という方法がある様に思う。コミュニケーション能力が重要だと思っている人が多いから『コミュニケーションは、要らない』という題名の本を出す。葬式は必要だと思っている人が多いから『葬式は、要らない』という本を出す。病気になれば医者に行くものだと思っている人が多いから『大往生したけりゃ医療とかかわるな』という本を出す。『アリとキリギリス』の話にもある様に、アリの勤勉さが大事だと思っている人が多いから『働かないアリに意義がある』という本を出す。どれも常識とのギャップで注目を集める事を狙っていると言える。

 更に本作の場合『コミュニケーションは、要らない』というタイトルの下にある帯には『つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。』とまで書かれており、ご丁寧にもその隣にツイッター、メールという単語が添えられている。これだけを見ると「ツイッターやメール等のコミュニケーションツールを多用する事によって人はバカになる。そもそもコミュニケーション自体、人間には不要なのだからまとめてゴミ箱に捨ててしまうべきだ」という内容の本なのかと錯覚するだろう。
 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)がこれだけもてはやされているご時世に、アンチSNS的なタイトルを付ければ確かに注目は集め易い。しかし著者である押井守氏が、本著の中で「SNSによるコミュニケーションなんて何の役にも立たないから今すぐやめるべき」と言っているのかというと当然そんな事はない。このあたりが「看板に偽りあり」という事だ。

 押井氏が本著で問題にしているのは『コミュニケーション』なる言葉が何を指し示しているのか、日本人がコミュニケーションをどの様に履き違えているのかという事だ。
 日本人がコミュニケーションの重要性を説く時、それは「周囲との協調を重要視するコミュニケーション」の事である場合が多い。周囲の人間と衝突する事無く協力してやって行く為に、あえて相手の欠点を指摘しないとか、本音と建前を使い分けるとか、意見が分かれた時に合理的な意味もなく間を取るとか、そんなコミュニケーションだ。押井氏にいわせればそれは『現状を維持するためのコミュニケーション』という事になる。これは日本人が得意なコミュニケーションだ。よく言えば人間関係を良好に保つ為のコミュニケーションという事だが、悪く言えば生産性がないなあなあのコミュニケーションだとも言える。
 一方、押井氏が重要視しなければならないと指摘するのは『異質なものとつきあうためのコミュニケーション』だ。異質な世界、異質な文化とつきあう為、新しい関係性を生み出す為のコミュニケーションがこちらにあたる。それは議論であり、交渉であるから、時として摩擦を生じる。しかしこのコミュニケーションを避けていたのでは新しい関係性や価値観が生まれる事はない。

 本著において押井氏が懸念しているのは、日本人全体がまともな議論ができない人間の集まりになりつつあるという事だ。『現状を維持するためのコミュニケーション』に終始し、『異質なものとつきあうためのコミュニケーション』を蔑ろにしてきた結果として、日本人は議論するという事ができない民族になりつつある。例えば原発問題を語るにしても、原発推進派と反原発派の意見のやり取りは既に議論になっていないのではないかとの指摘だ。そして押井氏は本著の中で『僕は原発推進派である』とまで書く。福島県在住である自分は少し驚いたが、それはもちろんこれからも原発を無秩序に作って行けば良いと思っている、なんていう意味ではない。
 反原発派が「原発反対」「既存の原発は全て廃炉にするべき」という時、それは『情動的な原発批判』になってしまっているのではないか。情緒に基づいて反原発と言う事は理性的な議論を阻害する。それならばあえて自分は『原発推進派になります』と言う事にしよう、というのが押井氏のスタンスだ。氏は以下の様に指摘する。

“ジブリの横断幕がまさにその象徴だが、情緒というのは正常な思考を麻痺させる。
 計画停電以外の自主節電にしても、僕にはすべてが情緒と後ろめたさによって遂行されていたように感じられた。
 節電とはなんだったのか? むやみな自粛によって、沈没していく日本経済を見ていることなのか? これは情緒に流されて考えていい問題ではない。
 だから、僕は今、あえて「原発推進派になります」と言っている。
 それはひとことで言えば「責任をとらなければいけないだろう」という話であり、文化的にも歴史的にもそれが正しい態度だと考えているからだ。
 今さら「私は反原発派だ」などと言うことは、暗に「だから、私は原発については何も知らないし、関係ない」という態度を表明して、責任逃れをしているに過ぎない。自分たちを正義の味方と定義し、東電を悪と定めてもなんの解決にもなりはしない。反原発だろうが推進派であろうが「原発をどうするのか?」という問題は、現在抱えている問題なのだ。”

 ちなみに、引用文内の『ジブリの横断幕』とは、スタジオジブリが自社ビルの屋上に掲げた『スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい』という横断幕の事だ。これを見た押井氏は「正直がっかりした」という。いかにも押井氏らしい感想だ。

 繰り返しになるが、自分は福島県在住だ。だから押井氏があえて原発推進派を名乗るというのであれば、反原発の立場から意見を言うだろう。押井氏が批判する様な情緒によって麻痺した思考の結果としての反原発ではなく、可能な限り理性的に、実現可能な方法を考えた上で反原発の意見を表明したい。「あえて」だろうが何だろうが「自分は原発推進派だ」なんて間違っても言えないのが自分の立場だからだ。その上で意見を異にする両サイドの人間が議論する事、そして議論の結果として創造的な方針が打ち出される事、それが押井氏が今の日本人に要求しているコミュニケーションという事だ。「コミュニケーションは、要らない」訳がない。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ