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本当に心を失っているのは誰なのか・辺見庸『月』

 

 本作は実際に起きた『相模原障害者施設殺傷事件』に着想を得て書かれたという『小説』だ。その「あくまでも小説である」という部分と、現実の事件を想起させる部分との折り合いを付けながら読む事は難しい。

 自分は今、ある社会福祉法人が運営する障害者支援施設で事務員をしている。直接ご利用者の介護を担当する生活支援員ではないが、日々、重度の知的障害者と接している。長期に渡って入所生活を続けている人。日中一時支援や短期入所を利用される人。その保護者。そして職員。立場は様々だ。でも共通の認識として、あの相模原で起きた事件は「過去のものではない」という事があるのだと思う。

 テレビやネットが事件を報じなくなっても、現在の犯人の様子が聞こえなくなっても、言い換えれば世間の関心が薄れ、事件そのものが賞味期限の切れたネタとしてゴミ箱の中に放り込まれたに等しい現在でも、自分達の中で事件は過去のものとはなっていない。むしろ事件が引き起こした動揺は続いている。

 自分が現在の職場に入ったのは事件後だったが、この事件の事は念頭にあった。そうした現在進行系の事件に関して、それが小説になり、フィクションとして世に出るというのは複雑なものがある。この辺りの割り切れなさは、東日本大震災による原発事故と、以前に感想を書いた岩井俊二氏の小説『番犬は庭を守る』との関係にも似ている。

 本作は、施設入所者の「きーちゃん」の一人称で語られる。自分はその事でもまた、ある種の落ち着かなさを感じるのかもしれない。

 きーちゃんは目が見えず、発語ができない。表情も乏しく、上下肢に麻痺があり、歩行できず、食事や排泄といった一切に介護を必要とする。そのきーちゃんが、非常に饒舌に、豊かな語彙を用いて内心を語り、物語を描写して行く事に、自分は慄く。きーちゃんのあり方はまるで、「不自由な肉体という檻に健常者の精神が幽閉されている」かの様だ。

 仮に、今こうして文章を書いている自分の肉体を、端から鈍器で叩き壊して行ったと仮定する、まずキーボードを叩いている指を潰す。逃げようとする脚を捕らえて膝を叩き割り、大腿骨を粉砕し、肩や肘を破壊し、抵抗の術を失わせたところで頚椎を潰して体の自由を奪う。眼をくり抜き、声帯を潰して意味のある発語が出来ない用にする。そうすれば他者の言葉を聞く事と考える事以外を奪われた人間が出来上がるだろう。まるできーちゃんの様な。

 「我思う、故に我在り」という言葉を昔聞いた気がするが、何かを思ったところで、それを表出させる術がなければそれは誰にも届かない独り言だ。暗闇の中、たったひとりで漂っているのと大差ない。むしろ本当に自分以外の他人がひとりもいなければ諦めも付くが、そうではない。声が聞こえてくる。でも、自分がここで思っている事を、相手に伝える術がない。そんな絶望を想像してみる。自分なら、3日ともたないだろう。

 翻って、現実を考えてみる。
 相模原の犯人は、本作でも引用されている様に『心失者』という造語を用いて「彼等を安楽死させるべきだ」とした。心が失われた者。人格を有しない者というその定義は、果たして正しいのだろうか。

 実際、施設には意味の通じる言葉を話せない人がいる。文章が作れず、単語の羅列になってしまう人や、そもそも単語も話せない人もいる。歩行が出来ず、食事や排泄等の生活全般に介護が必要な人もいる。発作が起こると奇声を上げ続ける人もいるし、自傷や他害といった問題行動が止められない人もいる。では、彼等には心が無いと言えるのか。自分はそこに、殺人犯の短絡があると見る。

 自分は彼等の頭の中に、本作におけるきーちゃんの様な複雑な心の揺れ動きがあるとは思わない。ただ、お腹が空いたとか、心地良いとか、おむつが濡れて不快だとか、そんな乳幼児の様な情動があるのは確かだろうと思う。そして自分達は言葉が話せないからといって、自力で身の回りの事が何ひとつ出来ないからといって、赤ちゃんに心がないなどとは思わない。むしろまだ言葉は通じないと知っていても話しかける。その伝わり難い心を、読み取ろうと努力する。重度知的障害者に対する態度だって、それと同じではいけないのか。そう言ったら、綺麗事に過ぎると思われるのだろうか。

 自分は施設にいるご利用者と日々会話する。その中で、時折はっとする様な事を話す人がいる。驚いて「今どういう意味で言ったの?」と聞き返すと、言った本人も意味なんて考えていなくて「何となく」とか「言ってみただけ」とか「テレビで言ってた」とか、まあ適当な返事が帰ってきたりして互いに苦笑する。だから、彼等が自分で言葉にする全てを理解しているとは思わない。逆に自分が言う事に返事をしてくれたとしても、その意味が通じていないかもしれない。かろうじて会話が成立している様に見えて、全くのすれ違いである可能性は常にあるし、むしろその方が多いかもしれない。でも一方で思う事がある。そんなのは、相手が誰であれ同じ事だ。

 自分だって自分の内心を全部理解している訳ではない。さっき言った時には確かに心からそう思っていた事が、数時間後には「言ってみただけ」になっている事なんてざらにある。健常者のつもりで生きていて、いつの間にか心を無くしている事もある。数年前の自分の様に。

 今、自分が恐ろしいのは、「目には見えないが確かにそこにある悪意」だ。
 具体的には相模原の事件の後で、ネット上に湧いた「犯人は良くやった」という書き込みの向こう側にいる人間の事だ。社会保障費の負担が重くのしかかっている事も分かる。助けて欲しいのは自分だって同じだという気持ちは理解できる。ただ、そこで人が殺された事を、自分達の負担が軽くなったと喜んで「もっとやれ」「誰か後に続け」と願った人間がいる事を自分は忘れない。そういう「心無い」人間がこの社会に一定数存在している事を忘れない。

 誰が障害者なのか。誰が心失者なのか。

 きっと厳密に言えば自分だってどこか障害者で、時に心失者にもなり得るのではないか。今の自分は、そう思っている。

 

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戦い続けた彼へ・萩原慎一郎『歌集 滑走路』

 

 “群衆の一部となっていることを拒否するように本を読みたり”   「群衆」

 小説が読めなくなってしまった。

 こういう事は時々ある。長い文章を読む為の集中力が維持できない。いつもなら意識しなくても、心が作品世界の中にするりと入り込んで行くのに、今の自分は潜水していて息が続かなくなった時の様に、途中で現実に浮かび上がってきてしまう。一章が読み切れない。途中で現実に捕まって、引き上げられる様に本を閉じてしまう。

 端的に言って、弱っているのかもしれない。もう本読みとして駄目になってしまったとまでは思いたくないけれど。

 本の感想を書く事は、自ら物語を書く事に挫折した自分に残った、ただひとつと言っても良い取り柄の様なものだと思う。本を読んでいる間は、日常生活ではむしろ殺している感受性を思い出す事ができる。だから自分は本を読んできたのかもしれないとすら思う。

 この社会の中で、自分は群衆であり、労働者であり、納税者であり、時に生産性や社会に対する貢献度を問われたりもする顔を持たない存在だと思う。そうした日々を生きる時に、感受性は邪魔になる。小さい事でくよくよしたり、心を痛めたりしてしまう様な弱さ。言い換えれば「心の中の柔らかい部分」を晒して生きていたのでは「生き苦しさ」に潰されてしまう。

 だから普段は何でもない様な顔をして生きていなければならない。心はなるべく平坦に。感動も喜びも悲しみも怒りもとりあえずどこか奥の方に押し込んで、蓋をしておこう。できる事なら鍵もかけておこう。他の誰かではなくて、自分に見付からない様に。

 そうして日々をやり過ごす。生きるのではなく、やり過ごす。それを一日続けられたら、一週間、一ヶ月、一年と積み上げて行く。どこかを目指している訳じゃないし、何者かになろうとしていた頃はとうに過ぎてしまった。それでも続いて行く日々をどうにかしなければならない。

 叶うなら自分は螺子になりたい。そうすれば機械的に生きる事に疑いを持たずに済む。

 でも自分はまだどんなに願っても機械にはなれないので、何かの拍子に感受性を思い出しては、それを物語によって慰めるという事をしてしまう。ずっと忘れていた方が楽だと知っていながら。

 “いつか手が触れると信じつつ いつも眼が捉えたる光源のあり”  「光源」                            

 “説明のできぬ感情抱きながら本を読みたり解読のため”       「風景画」

 歌人として生きるという事は、自分がこうして感想を書くよりも遥かに感受性を研ぎ澄ます事を求められるものだと思う。それを社会に削られながら続けて行く様な強さを、自分は持つ事が出来なかった。昨年、32歳という若さでこの世を去った萩原氏と自分との間に違いがあったとすれば、彼は辛くとも真摯に世の中や自分の感受性と向き合って生きる事を選び、自分はそこから逃げ出したという事なのではないかと思う。

 自ら命を絶った彼が弱かったのではない。
 戦う事を選べなかった弱さが、結果として今の自分を生かしているだけだ。

 この悲しみを何としよう。やり場のない憤りを、何としよう。
 歌を詠む事も出来ない自分にやれる事があるとすれば、ここでこうして今の気持ちを書き留めておく事くらいだ。
 それでは足りない事を知っていたとしても。

 

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まだ見ぬ未来への加速・八島游舷『Final Anchors』

 

 自分がSFを好きな理由は、多分「物語が、そして人間の想像力が軽やかに現実を超えて行く瞬間が見られる」からなのではないかと思う。

 本作はAI制御による自動運転技術が発達した近未来を描いている。それは作家ではない自分が想像する近視眼的な未来予想図とは比べ物にならない様な、遥か先を見据えた未来像だ。ただそれは『未来』ではあるけれど、荒唐無稽な『空想』ではない。あくまでも今自分が立っているこの現実世界と「地続き」になっている。何年後か、何十年後かはわからないけれど、自分達が歩みを進めて行った先に、本作で描かれている様な未来が確かに存在するのだろうと思わせる様な現実味がある。それが本作の面白さなのではないかと思う。

 この「地続き感」を説明するにはどうしたら良いだろう。

 例えば自動車を自動運転させる技術と聞いて、自分が思い描くのは精々「自動運転車が事故を起こしたら、その責任は誰に帰するのか」というレベル止まりだ。

 自分は運送会社で運行管理者をしていた事がある。地方の、中小企業レベルの運送会社だったけれど、各地の営業所を合わせれば毎日60台以上のトレーラーや大型車が運行する。そうすると、どんなに無事故を目指していても毎月何かしらの事故が起こるものだ。せめてひと月くらいは無事故の月があっても良いだろうと思うのだけれど、「バック中の安全確認が不十分で他車や器物に接触した」という比較的軽微な事故から「雪道でスリップした挙句に歩道を乗り越えて民家の壁を突き破った」なんていう大事故まで、本当に毎月何かしら事故が発生していた。死亡事故が無かった事だけが救いだったけれど、一歩間違えば或いはそうなっていたかもしれない事故は数知れない。事故の度に自分は保険会社と連絡を取り、先方に謝罪し、場合によっては過失割合を協議した。そして実感したのは「事故処理というのは責任を処理する事だ」というものだ。

 事故が起きた時にハンドルを握っていたドライバー個人の責任。それが仕事であれば、雇用主である会社が安全教育を疎かにしていなかったかどうか、運行管理者が過労運転をさせていなかったかどうかという責任もある。そして相手車も走行中であったという事なら、発生した事故についての過失割合が問われる。事故状況は分析、整理され、実際の事故と類似した過去の裁判例を基準にして話し合いが行われる。誰に、どれだけ事故の責任があるのかを明確化して行く事。それが事故処理だと自分は思う。

 自動運転技術の普及は、その「責任の所在」というものについて一石を投じるだろうと思う。ドライバーが完全に自動運転に頼って走行する様になった時、事故の責任は自動運転技術を開発したエンジニアに帰するのか、自動運転に必要な各種センサーを含めた車体を製造した自動車メーカーに帰するのか。自動運転車と一般車の事故ならどうか。自動運転車同士の事故の場合はどうなるか。
 そうした自分の想像が近視眼的だというのは、本作で描かれる世界はそれを遥かに超えた先を描いて行くからだ。

 名前を持ち、人格を有したAIが自動運転を制御する。それでも避けられない事故が発生する場合、人間では知覚すら出来ない様な、衝突までの僅かな時間――0.5秒――の中で、AI同士の通信が行われる。それは人間にとっての欠席裁判だ。今まさに衝突しようとしている2台の車両に乗っている人間の「どちらを生かすべきか」を決める為の。

 走行中の車両を制動距離ゼロで停止させる為に路面に打ち込まれる強制停止アンカー。片方がそれを使用すれば衝突は回避されるが、エアバッグでも吸収しきれない衝撃に晒されるドライバーはほぼ確実に死亡し、車載AIもその衝撃で自壊する仕様になっている。故に通称「ファイナル・アンカー」と呼ばれる最終手段を、どちらの車両が使うべきか。それを決める為に、AI達は仮想法廷で対峙する。自分自身と、ドライバーを生かす為に。

 自分の目に見えている未来が「事故責任の所在」という直近の変化までしか捉えられていないものであるのに対し、本作が描く未来は「人間よりも遥かに優れた能力を有するAIが、人間には知覚すら出来ない時間の中で『人間の価値』に言及し、それを比較検証し、誰が生き残るべきかを決めて行く」というレベルにまで高度化した世界だ。しかもそれは完全な空想の世界として宙に浮いている訳ではなくて、今自分達が立っているこの現実から進んで行った先に「地続きの未来」として確かに存在しているだろうと思わせるものだ。その事が、自分には恐ろしくもあり、興味深くもある。

 作家の目に見えている未来は、自分の様な凡夫が想像する未来よりも遥か先にある。そして自分は、作品を読む事で作家が見据える未来像に追い付く事が出来る。その加速を感じる時の快感は、日常生活では得難いものだ。だから自分はこれまでも、これからも、こうした物語を求めて行くのだろうと思う。

 

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新潮45問題(2)・本当に議論されるべき「生産性」とは何か

 個人的な事なのであまり公にするものではないと思うが、昨年に転職した事で障がい者福祉の分野と繋がりを持つ事になった。普段政治問題や時事問題を取り上げているブログでもないのに、なぜ自分が前回の記事を書いたのかと言えば、その理由の半分以上は「重度知的障がい者とその家族の様な、自分達から声を上げる事が出来ない人々」の主張が、ただ声が大きいだけの論客の雑語りにかき消されていく様が許し難いからだ。

 常日頃言葉遣いが荒くならない様に気を配っているつもりだが、この問題について自分は珍しく怒っている。激怒と言っていい。

 2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件は世間を震撼させた。しかしその後の検証報道が十分行われたとは言い難いと自分は思っている。事件当時自分はまだ前職にいて、障がい者福祉のしの字も知らなかった自分は、今になって当時の異常さを振り返っている。

 思えば犯行に及んだ植松聖個人の異常性ばかりが報じられた事件だった。ただ自分が恐ろしいと感じたのは、一部の人間がネットの匿名性を利用して彼の犯行を「よくやった」と称賛していた事だ。

 高齢化社会になり、働き手である現役世代が減少して税負担が増える一方、社会福祉にかかる支出が増加している事は由々しき問題ではある。そうした流れの中で「これ以上の負担は背負えない」という本音が、様々な場所から噴出している気がする。
 生活保護費の不正受給等、批判されるべきものもある。ただその他にも、例えば「死刑廃止論者は死刑囚を生かしておく為の公費を全額自己負担してから言え」とか「植松は自分達に出来ない事をやってくれたのだ」という様な、「公費支出を減らす=自分達の負担を減らす為には切り捨てるべきはどんどん切り捨てろ」という暴論を支持する層が一定数存在する事もまた浮き彫りになった。正に前段で杉田水脈氏が雑に扱った「生産性の有無による差別」という問題が、障害者福祉の分野では2016年からずっと危惧されていた訳だ。

 生産性のない者=子どもを産まない者・自身が収める税よりも福祉として受け取る金額の方が大きい者は、社会のお荷物であるとでも言うかの様な風潮は、少なくとも障がい者福祉の世界では「植松聖個人の異常性に見えていたものは、本当は広く大衆の中に存在する差別意識なのではないか」という危惧を持って受け止められていた。次に排斥されるのは自分達なのではないか。第二、第三の植松が現れるのではないか。そんな恐れで張り詰めていた所に、無造作に「生産性」という言葉を投げ入れてきた事。それこそが杉田水脈氏が受け止めるべき批判の本質であり、自省を求めたい点である。

 そして杉田氏が発したメディア批判の流れを引き継いで氏を擁護する為に現れた小川榮太郎氏は、本来杉田氏にとって「メディア批判のついで」だったLGBT問題に直接火をつけに来た点で更に悪質だと言えるが、こちらは引用や書き起こしをするのも気が滅入るので要約する。「LGBTとは伝統保守主義者からすればふざけた概念」という主張がそれであり、わざわざ公に取り上げる程の問題ではなく、言ってみれば「ずっと表に出ずに引っ込んでいろ」と言いたい訳だ。氏の言葉を借りるなら「人間ならパンツは穿いておけよ」という事になる。恥部は表に出すな。隠しておけ。そう言っているとも取れる。

 小川氏がそんな主張を展開できるのは、自身が多数派であるという揺るぎない自身の現れだと思う。性的指向においても、言論空間であっても、自分は多数派であるという安心感が氏の言葉を選ばない雑な文章から伝わって来る。自分が多数を占めている側に立っていると思えばこそ、また自分の主義主張の正しさを信じて疑わないからこそ、「伝統保守主義者」などという事を言ってのける訳だ。

 自称多数派、自称伝統保守主義者がそうした雑語りを大声でする一方で、少数派の声はかき消されて行く。社会福祉に支えられて生きている人々が大きな声を上げられないのは、仮に現行の社会制度に何らかの問題があるのだとしても、自分達がそれに支えられて生きている事を知っているからだ。謙虚にじっと耐えている誰かの姿を、伝統保守主義者様は少しでも想像してみた事があるのか。仮にこの国に未だ解決されない人権問題が横たわっているのだとしたら、それを解決できなかった、或いは放置してきた責任の一端はこれまで日本の伝統を守り続けて来た(と自称する)伝統保守主義者の側にあるのではないか。

 例えば、重度知的障がい者の方は選挙に行く事が出来ない。

 何を当然の事を言っているんだと思われるかもしれないが、選挙に行けないという事は、例えば自分達に直接関係がある障がい者福祉の分野に理解のある候補者を推す事が出来ないという事だ。権利は持っていても、それを行使する能力がないからという理由で、選挙制度上彼等に与えられている一票は無効になってしまっている。選挙で票を投じる事が出来ないという事は、彼等が議会制民主主義の中から閉め出されている事に等しい訳だが、ずっとそれは仕方のない事だとされ続けているし、だからこそ彼等の様な少数派は、多数派の中にも少数派の意見に耳を傾けてくれる人がいる筈だという「善意」を信じて生きて行くしかない訳だ。その善意に期待する事すら出来なくなったとしたら、彼等はどうすればいい? ある日突然植松の様な人間がまた現れて、それに対して匿名で「よくやった」なんていうコメントが集まったとしたら、それに対する怒りや悲しみや恐れには誰が寄り添ってくれるというのか。

 ここまで書いて来て、人間怒りを通り越すと逆に悲しくなり、それすら通り越すと今度は感情の起伏が無くなって来るのだなという事に気付いたりもする訳だが、最後に言う事があるとすれば、保守だとかリベラルだとか、右翼だとか左翼だとか、そういう自分の立場を明確に定めて相手と対立して行くだけの言論に存在価値はあるのかという事だ。対立する相手の意見は全否定して聞く耳を持たず、自分の意見だけを押し通そうとする。そうやって相手を批判する為に、本来無関係の人々が抱えている人権問題まで巻き込んで傷付けておきながら、それを指摘されると今度は言葉狩りだと居直る。そこに何らかの「生産性」があるのかよ、という事だ。生産性を議論するならこちらの方が先なんじゃないのか。


 声の大きな論客の皆様。あなたの発言に「生産性」はありますか?


 自分はここから、ずっと見ているつもりです。だから何だ、と言われるでしょうが。

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新潮45問題(1)・杉田水脈氏から小川榮太郎氏まで「リベラル系メディア批判の度が過ぎる」

 ここは政治について語るブログではないのだけれど、最低限この問題については言っておかなければなるまいと思うので書く事にする。

 言論の自由、表現の自由といったものは確かに誰にでも認められなければならない権利だが、それがただ誰かを罵倒する為のものであったり、差別的であったり、相手を不快にさせたり、もっと言えば精神的に傷付けるだけのものであったりした場合、その言説はカウンターとしての批判を甘んじて受け入れるべきだろう。何の事かと言えば、杉田水脈氏の論考に端を発した『新潮45』の問題である。

 杉田水脈氏の『「LGBT」支援の度が過ぎる』と題された論考が世に出ると、たちまち批判に晒される事になった。

 “例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです”

 この「子どもを作る事」と「生産性」を結び付けた事、そして生産性のない人間に税金を使うべきではないという姿勢があたかも弱者切り捨てや優生思想を思わせるという事が批判の要因ではあるのだが、これら批判に対してのカウンターが新潮45・2018年10月号の特集記事である『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』である。この特集に寄せられた論考の中で、主に小川榮太郎氏の『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』と題されたものが余りにも差別的かつ偏見にまみれているというので再炎上した訳だが、一読してさもありなんという感じがした。言葉の選び方が雑であり、読む者に不快感を抱かせる悪文の典型だったからだ。

 杉田論文に対する批判をかわす為の主張として「『生産性』という言葉だけをクローズアップして叩くのは『言葉狩り』である」というものがあるのだが、この「言葉狩り」という言い方が自分は嫌いだ。揚げ足取りをするな、全体を見ろ、という事なのだろうが、失言を批判された際に「言葉狩り」と言って居直る事が許されたら、世の中は他人を傷付ける言葉で溢れかえってしまう。言葉狩りを主張する前に自分が発した言葉が相手にどう受け止められたのかを自省するべきであろう。

 そして、「言葉尻をとらえて批判するな」という事なので、文脈を整理してこの問題について書いておこうと思う。その軸は「リベラル系メディアと保守派の深刻な対立」である。ここでのリベラル系メディアというのは保守派から見た場合という事にしておこう。


 <杉田水脈氏と朝日新聞の因縁>

 そもそも『「LGBT」支援の度が過ぎる』は『日本を不幸にする「朝日新聞」』という特集に寄せられたものだ。この通り、最初はメディア批判がメインの論考だったのであり、LGBT問題はメディア叩き=朝日新聞叩きの材料に過ぎなかった。なぜ杉田氏が朝日新聞を目の敵にしなければならないかというと、それは『従軍慰安婦問題』に端を発する。

 日韓の間で問題化している従軍慰安婦問題だが、そのきっかけとなった吉田清治氏の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』や、氏の発言内容を繰り返し報じたのが主に朝日新聞であった。ただ、結論から言うとこの「吉田証言」は正確性を欠いた内容であり、創作も含まれるなど、事実の裏付けが取れない虚偽の内容であった。しかし朝日新聞は記事の訂正や取消、謝罪を行わず、結果として朝日新聞による慰安婦報道の取消が行われたのは2014年であった。

 『記事を訂正、おわびしご説明します 朝日新聞社 慰安婦報道、第三者委報告書』

 ただその頃には時既に遅く、従軍慰安婦問題は国際問題化されてしまっており、昨今報じられる各国に飛び火する少女像の設置問題等でも分かる様に、日本の国際的な信用、評価は毀損されてしまっていた。ここに、保守派とリベラル系メディアの根深い対立がある。

 従軍慰安婦報道だけではなく、政治家の靖國神社参拝問題等でもリベラル系メディアは批判的な報道姿勢によって外交問題化させてきたではないか、というのが保守派の主張であり、「火の無い所に煙は立たない」と言うが、言ってみれば「火の無い所に煙を立たせようと放火して回っている」のが朝日新聞に代表されるリベラル系メディアではないのかという批判が繰り返されてきた。その朝日新聞批判の急先鋒であったのが杉田氏である。

 杉田氏から言わせれば、LGBTの権利を守らなければならないというメディアのキャンペーンは、裏を返せば「日本はまだLGBTに代表される少数派の人権を守ろうという意識が低い国ですよ」と諸外国に喧伝されているに等しく、「リベラル系メディアがまたありもしない人権問題に火をつけて日本の国際的信用を失墜させようとしている。阻止しなければ」という事になる。だから以下の様な発言が出る。

 “しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。”

 これは、明確に「火消し」の意図を持った発言である。従軍慰安婦問題の様に大きな炎になる前に、自分が火消しをしなければならないという使命感が言わせている訳だが、問題は、「では本当に日本に人権問題は無いのか。差別は無いのか」という事だ。


 <「ありもしない差別」扱いされた当事者達の反論>

 杉田氏は「従軍慰安婦の強制連行など存在しなかった」「日本人が慰安婦を性奴隷として扱ったなどという事実はない」という論調そのままに「LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか」と言い放った訳だが、ここで問題なのは、実際に虚偽証言が発端であった従軍慰安婦問題と、事実そこに存在している様々な人権問題とを同列に扱った事である。

 日々差別意識を向けられていると感じているLGBTの人々はもちろん、自分同様、子どもを持たない生き方をしている人や、例えば相模原障害者施設殺傷事件の犠牲になった、社会福祉に頼って生活している重度の障がい者等にとって、「生産性」という言葉が無造作に投げ込まれ、「生産性の有無を尺度に公費を使うべきか判断するという姿勢を他ならぬ与党議員が見せた事」は、恐らく杉田氏本人が全く想定していなかった大きな批判を引き出す事になった。

 今そこにある問題や差別の渦中にいる人々にとって「そんな問題などない」と言われる事の絶望感は筆舌に尽くし難いが、杉田氏が迂闊だったのはよく調べもせずに「リベラル系メディアが言っている事なんて虚偽に決まっている。リベラル系メディアは日本の国際的評価を落とす為に活動している売国奴の集まりだ」とでも言う様な、言ってみればアメリカのトランプ大統領が自身に批判的なメディアを片っ端からフェイクだと決め付けているのと同じレベルの批判に基いてこの論考を書いた事だ。

 杉田氏が、従軍慰安婦問題で朝日新聞との間に出来た遺恨にとらわれる事なく、ひとつひとつの報道内容に対して精査する事ができていれば、今回の批判は起こらなかっただろう。そしてこの「リベラル系メディアと保守派の深刻な対立」の先に、杉田氏より更に酷い小川榮太郎氏の論考が登場する事になる。なぜなら彼はその著書『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』の内容が名誉毀損にあたるとして、朝日新聞社から損害賠償訴訟を起こされているからだ。

 『小川榮太郎氏ならびに飛鳥新社に対する訴訟提起について』

 そして杉田水脈氏と小川榮太郎氏といえば、『民主主義の敵』というそのものズバリの対談本をこの7月に刊行している様なのだが、ここまで来ると新手の炎上商法かと疑いたくもなってくる。第1章からして「左翼メディアに異議あり!」とか狙い過ぎだろう。「問題があるからメディア批判する」のなら良い。ただそれが「メディア批判の為によく調べもしていない問題に口を挟んでくる」様になったら問題の当事者にとってそれは迷惑だ。日頃野党について「批判の為の批判に終始している」と主張している保守派の論客なら、それがどれだけ害悪か分かっている筈だ。

 どんな立場で、どんな論考を発表するのもいい。その自由は誰にでも保証されるべきものだ。ただ、「声が大きい」人間が大声で何かを主張する時に、かき消されてしまう小さな声がある事をわきまえて喋って欲しい。その発言内容で傷付く人間がいるかもしれない事を、どうか頭の片隅にでもいいから入れておいて欲しい。自分の正しい主張を誰かに聞いて欲しいと思うのなら、相手を不快にさせる口汚い罵り方をそのまま紙面に書き起こした様な雑な論考を発表するのではなくて、推敲を重ねるという事を覚えて欲しい。『愛国無罪』を常日頃批判しているのだから、それは自分達にも当てはまるのだという想像力を働かせてもらいたい。これらはそんなに難しい要求なのか、というのが偽らざる自分の感想ではある。

追記:新潮45問題(2)・本当に議論されるべき「生産性」とは何か

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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