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緑の手を持つ方々へ・柞刈湯葉『人間たちの話』

 

 短編小説を読むのが好きだ。

 長編と短編で何がどう違うのかというと人それぞれだろうと思うのだけれど、自分は何となく短編小説を読む時に『作者の頭の中』が垣間見える様な気がする事があって、それが何だかとても好きだったりする。もちろんこれは読者である自分の勝手な想像だけれど。

 本を読むのが好きだったり、自分でも小説を書いたりしてみた経験がある人は何となく想像できると思うけれど、日々の生活の中で「あ、これ何だか物語の種になりそうな気がする」という気付きというか、思い付きを得る事がある。今拾ったこの種を土に蒔いて水をやって育てたら芽が出そうだな、みたいな。でも、大抵そういう『物語の種』は土に蒔かれる事もなく、或いは蒔かれただけでその後の水やりをおろそかにされたりして、ちゃんと育たずに忘れ去られる。

 その、自分達が枯らしてしまう物語をちゃんと育てる事ができる人を、小説家という。

 中には物語を書き始めるよりも、ネタを思い付く事の方が大変だという人もいるかもしれない。でも自分は逆のパターンで(他の人とネタがかぶるという心配を除けば)やはり小説を形にする方が大変だと思うタイプだ。だから、そこをおろそかにしない小説家という人達を、自分は尊敬している。

 ここでちょっと昔話というか、ヨタ話(ヲタ話?)をする。自分の友人に機動戦士ガンダムシリーズが大好きな奴がいて、彼が中学生だか高校生だった頃に「僕が考えた最強のモビルスーツ」みたいなネタ話をしていた事がある。まあガンダムオタクなら誰でも通る黒歴史なのだが、その中で「エネルギーパックの全容量を1発で撃ち切る強力なビームライフル」というネタがあった。これって数十年後の今思えば機動戦士ガンダムUCで登場するビームマグナムなのだけれど、友人が「あのネタ先に思い付いたの俺なんだよな」って騒がなかった事から察すると、多分本人も自分で考えたネタを忘れてしまっている。

 思い付きだけで、遂に書かれなかった物語というのはこういうものだと思う。

 小説や漫画、アニメや映画等に触れた時に、自分達がつい思う「自分だったら」っていう空想。或いは日々の暮らしの中で「ここから何か物語が書き始められそうだ」と思う時の気付き。そういったものをきちんと捕まえて、形にする事がどれだけ大変か。そしてその「大変さ」みたいなものを読者に悟られない様に、読者が物語に没入できる様に整えて差し出す事ができるだけの力量。そういうものを持っている人がプロになって行くのだろうし、自分はそうした作品を読んで「凄いなぁ」とか「その手があったか!」とか「そっちから来るの!?」とかいちいち大袈裟なリアクションをしつつ、楽しいやら悔しいやら感心するやらでとても忙しい。

 そして短編集というのは、そうして形になった様々な物語を一冊の本でまとめて楽しめる所がとても良い。

 本著においても、ひとつひとつの思い付きはそんなに突拍子もないものではない。
 「極端な監視社会」とか「異星人にも食事を提供するラーメン屋があったら」とか「透明人間が実在したら」とか。誰でもその『種』を拾った事がありそうな話だ。でも、それをきちんと育て切った人はあまりいない。

 だから自分は「あの種、ちゃんと育ててあげられたら、こんな凄い花が咲いたんだ」なんて、ちょっと目を細めてしまう。もし自分でも熱心に小説を書いている人がいたら、その咲いている花の違いや、枝振りの違いなんかを見比べて楽しんだりするのかもしれない。似た種を蒔いても、そこから咲いた花や実は、それを育てた人の色になっているものだと思うから。そう思うと『誰も見た事のない、育てた事のない種を世界のどこからか見付けて来る事』を才能と言うのではなくて『気付いたらその手に握っていた種を、きちんと育てて、花を咲かせてあげられる事』や、その地道さを才能と呼ぶのかもしれない。

 前もどこかで書いた気がするけれど、西田敏行さんの『もしもピアノが弾けたなら』っていう歌は、あれはあれで不器用な男性に対する優しさの様なものが感じられて良い歌だけれど、でもそれを聴いた自分達が無邪気に「もしもピアノが弾けたらいいのにな」って願ってしまう裏で、「ピアノが弾ける人っていうのは毎日少なくない時間をその練習に捧げ続けているからピアノが弾けるんだぜ」っていうごくごく当たり前の事を忘れがちなんだなって思う。

 だから自分は本著の収録作の『宇宙ラーメン重油味』を読んで、『消化管があるやつは全員客』というパワーワードにゲラゲラ笑いながら、そして「もー、こんなのずるいってー絶対面白い奴じゃん」とか言いながら、自分が至れなかった場所で今日も地道な努力を続けている人達の事を、やっぱり好きだなって再確認したりするのだ。

 そしてできれば、そういう好きなものを好きだってはっきり言う事をこれからも続けて行きたいと思う。まあこれはこれで、結構大変ではあるのだけれど。

 

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予言ではなく、過去からの預言として・小松左京『復活の日』

 

 新型コロナウイルスのニュースが連日報道される中、書店の中には『今読まれるべき本』として本著を目立つ場所に平積みしている店舗もあって、もしかしたらそれで見掛けたよ、という人がいるかもしれない。自分が今更語るべき事もないだろう小松左京氏の名著だ。

 この作品は1964年に発表された。中年のオッサンである自分が生まれるよりも前の話だ。しかし作中で描かれる様な、正体不明のウイルスが蔓延し、社会が崩壊して行く生々しい様子は、今現在のコロナウイルス騒動を切り取ったのだと言われても信じてしまいそうな程確かな手触りを持って読者に迫って来る。

 ではこの作品は小松左京氏による『予言』だったのだろうか。自分は本作を『予言』というよりもむしろ『預言』だと受け止めたい。

 最近、東京オリンピックの開催を控えた日本では、大友克洋氏の漫画『AKIRA』が「今を予言したかの様だ」と再評価されているそうだ。後は作中で「東京オリンピック開催迄あと147日 国民の力で成功させよう」と書かれた看板の横に「中止だ中止」と描かれているぞ、とか。

 これを受けて「今の世相を言い当てている!」「予言だ!」みたいな盛り上がり方をするのは、それはそれで良いと思う。でもそれは多分偶然の一致という奴で、「作者の大友克洋氏には2020年が見えていたのか!」という『ムー』的なというか『MMR』的な推測は多分ネタとして楽しいだけな気がする。ほら、ノストラダムスの大予言もマヤ暦がどうたらっていうアレも結局外れ続けている訳で、自分達がついつい『予言』を信じたくなってしまうのは、心のどこかでちょっとそうしたオカルトの存在を期待してしまっているからなんじゃないだろうか。

 では、なぜ『復活の日』を書いた小松左京氏は予言めいた未来予想が可能だったのかと言うと、それは作品に込められたのが『普遍的なテーマ』だからという事になるのだろう。
 彼は予言をしたのではなくて、時代が移り変わっても、社会や人々の暮らしが変わって行ったとしてもなお自分達が向き合うべき普遍的なテーマについて語っていた。それを後から自分達が再発見して、これは現代に向けた作品なんだと受け止めた。意地悪な言い方をすれば「この物語は自分達のものだと思い込んだ」のだ。

 『復活の日』では、ある原因によって世界中に未知のウイルスが蔓延し、各国がそのウイルス禍に何とか抗おうとしながらも、やがて滅亡に向かって行く様が描かれている。そして、最後の人類として極地に残された人々が、その中でどう生きようとするかという事も。そしてそのウイルス禍の発生原因にも大きく関わるテーマとして『戦争』があり、『核兵器』がある。

 自分達は『国家』という大きな枠組みの中で暮らしている。それは今も変わらない。そして国家は、自国の利益を最大化する為に動いている。それは必要なら他国を害してでも追求されなければならないとされている。

 冷戦構造が崩壊する前はアメリカとソ連という超大国が世界を二分し、核抑止の考えに基づいて核開発競争という人類滅亡一歩手前のチキンレースに興じていた。文字通り『ボタン一つで世界が滅ぶ』状況にあって、その緊張感は先に挙げた様な人類滅亡の予言に対する支持の裏付けにもなった。映画『ウォー・ゲーム』ではないが、どこかで誰かが一歩間違えれば核弾頭を搭載したICBMが発射され、その報復で発射された核もまた雨の様に降り注いで世界中を焼き尽くす可能性が実際にあった。

 翻って、現在はどうだろう。かつての緊張は薄れたかもしれないが、核兵器はいまだに大量保有されているし、威力を減じる事で『使える核兵器』を開発しようとしたり、核拡散が起きて新たな核保有国が生まれたりしている。加えて過剰なナショナリズムの再燃が差別感情を煽り、このコロナウイルス禍の中にあっても特定国に対する非難や露骨な誹謗中傷の類が絶えない。イギリスはEUから離脱を図り、アメリカは国境に壁を作り、一部の日本人はコロナウイルスの蔓延について中国に謝罪を求めている。

 常にどこかに『敵』がいて、互いに牽制し合っている。利益は分かち合うものではなく独占すべきもので、常に敵よりも優位に立つ事が望まれる社会では、自分達は手を取り合う事が出来ない。ウイルス禍による人類滅亡という共通の驚異が目の前に出現しても、恐らく自分達はそうした小競り合いを止められないだろう。今現在がそうである様に。ただ、その先に未来はないというだけの話だ。

 本作で『復活の日』へと進んで行けるのは、かつての祖国を失いながらも、新たにひとつの共同体を作り上げ、団結する事が出来た人々だけだ。彼等がもしも今日の様な国粋主義的な考え方をもって団結を拒み、ウイルス禍の責任を他国に求めて責任のなすり合いをしていたら、或いは残り少ない食料や資源を奪い合う道を選択していたら、その時点で人類は滅亡しただろう。

 本作を『予言』ととらえるならば、自分達は「今日のウイルス禍を言い当てた」事ではなく、「現代社会が陥っている排外主義には未来がない」という事を指し示した事をもってすべきだし、更に言えばそれを『予言』ではなく、過去からの『預言』とするべきなのではないだろうか。神からではなく、先人達から預けられた言葉として。それをどう今に活かすのかを、自分達は問われている。

 

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声なき者の声を聞く為に・酒場御行『そして、遺骸が嘶く ―死者たちの手紙―』

 

 自分には、戦争について知りたいという欲求が、常にある。
 それがなぜなのかはよく分からないが。

 別の場所で、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏の『戦争は女の顔をしていない』を原作にした小梅けいと氏の漫画について書いたけれど、それ以外にも自分は何かというと戦争について書かれた本を読んでいる。

 フィル・クレイ氏の『一時帰還』
 ブライアン・キャストナー氏の『ロングウォーク 爆発物処理班のイラク戦争とその後』
 クリス・カイル氏の『アメリカン・スナイパー』
 ジョシュア・キー氏の『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』
 リー・カーペンター氏の『11日間』
 デイヴィッド・フィンケル氏の『帰還兵はなぜ自殺するのか』

 ざっと過去記事を振り返るだけでも、これだけの本が出て来る。フィクションもあり、ノンフィクションもある。ライトノベルを含めるともっと増えるだろう。でも共通しているのは、「実際に戦地に行った兵士はそこで何を見て、何を感じたのか」という事に関する関心が強いという事かもしれない。

 戦争について語る時に、自分の視点がどの位置にあるかという事を気にしている人はどれだけいるだろうか。自分自身は、その事がいつも気にかかる。

 国家対国家というレベルで、それぞれの国の指導者や軍部、そして国民がいかなる思惑を持って行動し、結果として情勢がどの様に推移し、どの国が勝ち、どの国が負け、戦後処理がどの様に行われたのかという点について、自分なりに調べ、学び、意見を持つという事は大事だ。でも「戦争とは結局何だったのか」という事を振り返って考える時、自分はもっと個人の目線まで降りて行ってしまう。悪く言えば、近視眼的なものの見方をしてしまう。

 つまるところ自分にとって戦争とは『戦地に送り出した家族が、友人が、恋人が帰って来ない事』であり、『帰還兵が帰国後に家族の死を知らされる事』であり、『体と心を病んだ人々が社会の中で居場所を失って行く事』なのだろうと思う。それらの『喪失』が、自分が考える戦争の姿なのかもしれない。

 そして戦死者にとっては、『自らの言葉でその思いを伝える機会を永遠に失う事』でもある。でも、それでも彼等の『遺志』は遺る。手紙や遺品に宿り、もう言葉を発する事が出来ない戦死者の代わりに、その声を聞く者が現れるのを待ち続ける。そして本作で描かれる様に、その時が訪れれば、遺骸は嘶く。沈黙を破り、声なき声を上げる。

 本作は、架空の世界を舞台に、架空の戦争と、戦後を描いている。その戦争は第二次世界大戦を思わせる内容なのだが、かつて現実に同じ様な役割を担った人々がいた様に、『兵士達の戦死を遺族に伝える』という酷な役目を背負った一兵士、キャスケットの視点で物語が紡がれている。

 キャスケット自身も優れた狙撃兵として戦った過去を持ち、自らの目で見た戦争というものを持っている。自分の生い立ちや家族の事、戦友や上官の事、彼等との出会いと別れ。それら上手く言葉に出来ない思いを抱えている。そんな彼が陸軍遺品返還部に所属し、遺族を訪ねる姿を本作は描いて行く。それは自国民からも死神の様に忌避される役割だ。もしかしたら生きて再会できるかもしれないと思っている遺族に現実を突き付ける事になるからだ。戦死者がどんな最後を迎えたのか。それを告げる役目は重い。

 またそこにあるのは当然綺麗な物語だけではない。美辞麗句では取り繕う事が出来ない人間の本性や醜悪さを煮詰めた様なエピソードも中にはある。でもそうした『自分達が抱える後ろ暗い部分』が暴かれるのが戦争なのだとすれば、戦死者の人生を悲劇として『漂白』してしまって、汚れた部分を消し去った上で標本にして、『あの戦争の悲劇を忘れない』とか、逆に『英霊達の尊い犠牲に感謝しよう』と祭り上げる行為を「戦争を語る事」として無批判に受け入れて良いのかという恐れが、自分の中にはある。

 戦争について語る時、自分達はつい為政者の様な視点で語ってしまいがちだと思う。相手の国がどれだけ許されざる敵であり、憎むべき相手であるかという事について、まるで一人ひとりが国士にでもなったかの様に語る。自分達がそうした語り方をしてしまいがちなのは、そうする事は『辛くない』からだ。痛みを伴わない。ある種他人事の様に戦争を『分析』したり、『解釈』したりする余裕がある。その余裕が自分達の口を軽くさせるし、その高揚感が自分達を饒舌にさせる。

 でもいつか実際に戦争が起こったとすれば、現実の自分達にもたらされるのは『家族や友人、恋人が戦地に行ったきり戻らない』とか『自分自身が戦地に赴き、人間性を削られ続けるか、或いは戦死する』というどこまでも個人の身に降り掛かってくる身も蓋もない現実なのではないか。その時、かつて国士の様に国家や戦争を俯瞰して、言ってみれば他人事の様に語っていた自分自身がいたとすれば、自分達はその事をどう振り返るのだろう。

 だから自分は、あくまでも兵士達の個人的な戦争体験に執着するのかもしれない。

 彼等が何を思い、どんな風に生き、或いは死んだのか。

 それらの個人的な体験を積み重ねた先に、自分達が語るべき戦争が見えるのだろうと思うし、逆にそうしなければ、正しく戦争というものに向き合う事は出来ないのではないか。今は、そう思う。
 
 

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綺麗事が現実になる、その日まで・根本聡一郎『宇宙船の落ちた町』

 

 書店に行くと、『郷土ゆかりの作家』を取り上げるコーナーがあったりする。自分は普段、あまりそうした郷土出身の著者による作品を読まないタイプなのだけれど、今回は違った。

 『宇宙船の落ちた町』というタイトル。帯には「どこを見ても刻まれている分断線に、生きづらさを感じる現代社会。」という一文がある。手に取ってみると、著者は福島県いわき市出身との事。自分は何か予感めいたものを感じて本著を購入した。
 買う予定の無かった本と『出会う』という体験が出来る。だから自分は書店に足を運ぶ。


 主人公の青砥佑太は、「宇多莉(うたり)町には何もない」と住民が揃って口にする様な田舎町で育った。だが14歳の夏、家の裏山で宇宙船の墜落を目撃した事で、彼の平凡な日常は終わりを告げる。

 宇宙船の墜落事故から10年後。宇宙船に乗っていたフーバー星人達は故郷へ帰る術もなく、次第に地球社会に溶け込んで行く。ただ、宇宙船墜落事故によって燃料=汚染物質が飛散した宇多莉には『危険区域』が設定され、住民は移住を余儀なくされていた。佑太もまた住み慣れた家を追われ、都市部で暮らし始める。高校へ進学し、大学を卒業したものの、これといった目的も無く、フリーターとして何とかその日暮らしをする佑太。その転機は突然訪れる。

 よく考えもせずに応募した、アイドルグループの握手会のスタッフとしての仕事。そのグループのトップアイドル、常盤木りさの『剥がし』役として彼女を間近に見る佑太に、他でもないりさから思いも寄らない言葉が投げ掛けられる。

 『宇多莉の方ですよね』
 『私を、宇多莉に連れてってください』

 りさの願いに動揺する佑太。帰れない故郷の事、墜落した宇宙船の事、宇宙人と地球人の間にある差別や偏見の事、そして自分自身の事。今まで目を逸らして来た事に、佑太は向き合う事になる。なぜりさは宇多莉に行きたいと願うのか。なぜ彼女は自分なんかを頼ったのか。そんな疑問を胸に抱いたままで。


 自分は福島県民だから言われなくても気付くし、そうでない人だってこのあらすじでピンと来るだろうけれど、この物語はエンタメ小説であり、ボーイミーツガールの物語であると同時に、現実に存在する様々な問題をフィクションに置き換える事で成立している。

 宇宙船の墜落事故は原発事故だ。だとすれば宇多莉町は福島第一原発が立地する大熊町や双葉町の事だろう。そして宇多莉町の住民が最初に避難するときわ市は、著者の出身地であるいわき市だ。宇宙人であるフーバー星人への差別や偏見は、原発事故から避難して来た人々への差別であり、外国人差別であり、生活保護受給者に代表される社会的弱者や少数派への差別でもある。

 自分達の社会は、様々な問題を抱えている。その問題に目を向ける事は大事だ。でも、原発事故や差別感情という『生の問題』を、そっくりそのまま、生のままで議論する事を、自分達はなぜか苦手としている。例えば戦争問題についてもそうだ。

 自分達が過去の戦争をどう受け止めて来たのかという事を考える時、夥しい数のアニメや漫画や映画、小説が思い浮かぶ。それは自分達が、過去の戦争をありのまま振り返って考え直す事を苦手として来た結果なのではないかと思う。

 虚構の物語に現実問題を投影するというワンクッションを挟む事で、ようやく自分達は戦争や差別や貧困という問題に向き合える様になるのではないだろうか。それは弱さや欠点、社会的な未熟さと呼ばれるものなのかもしれないけれど、だからこそ本作の様な物語が、まずは普通に物語として楽しまれれば良いなと自分は思う。

 例えば教科書的に『差別は良くない』と言われても響かない言葉が、物語の中で佑太やりさが感じる違和感や心の揺れ動きの中で、すっと読者である自分の心に入って来る瞬間がある。外国人差別という生々しい問題が「『宇宙人』『インベーダー』という言葉が差別用語になる一方、インベーダーゲームが取締対象とされて徹底的に回収された結果、逆に違法ダウンロードで大ブームになる」なんていう、いかにもありそうなエピソードに置き換えられる事で見えてくるものがある。そういう『物語化』が持つ力を借りた上で、現実を生きる自分達は、自分達が抱えている社会問題にようやく気付き、向き合う事が出来る様になる。

 現実に横たわる差別や偏見は根深い。戦争と同じ様に、人類史からそれらが消え失せた事はない。現実は物語の様にハッピーエンドを迎えない。そんな事は誰でも知っている。自分だって、他の読者だって、作者だって知っている。それでもなお、作者がこうした物語を紡ぎ、読者である自分がそれを読んだ上で願うのは、きっとこういう事だ。

 世界は、社会は、綺麗事で出来てはいない。だから綺麗事の方を信じるんだ。

 そう思わない事には、現実は少しもその綺麗事の方に近付いて行けない。

 本著の帯にある様に、現代社会にはそこかしこに分断線が引かれている。こんなもの誰が引いたのかと思うけれど、そんなの『自分達が引いた』に決まっている。他に誰が自分達の心に分断線を引けるだろうか。

 誰かが最初に線を引く。それを後に続く自分達が無意識に、無邪気に、悪気もなくなぞってより深い線にして行く。消えない線にして行く。それが続けば、その線はやがて谷にもなる。乗り越えられない断崖絶壁にだってなる。自分達はそんな社会が望みなんだろうか。

 世界は綺麗事で出来てはいない。だから本著を読んだとしても、すぐに分断線が消えてなくなる事はない。自分達がその線を自由に踏み越えて行き来する様な理想は、すぐには実現しない。いつかは実現するのかも分からない。自分達は相変わらずあっちこっちに線を引きまくって、その枠の中に引きこもって暮らす事を選び続けるのかもしれない。

 だから思う。本作の様な綺麗事が、綺麗な物語が、もっと世の中に溢れればいい。
 自分達が地面に引かれた線ではなく、そんな物語の方を見上げられる様になるまで。

 

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生まれてきた事が苦しいのは、自分達だけじゃない・大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』

 

 長らくこの場所を放置してしまいましたが、何とか生きております。
 別のブログを立ち上げて社会問題に言及するなんていうまあまあ「らしくない」事を始めてしまったせいでもあるんですが、昨今の社会は色々とおかしくて、つい口を挟みたくなってしまうというのもあります。後は加齢ですかね。

 加齢と言っても「歳をとって説教臭くなる」「老害化する」という悪い意味ではなく、何かこう『社会に対する責任』の様なものを感じる訳です。既に中年であり、この社会を構成する一人である自分には、「このどうしようもない社会が、どうしようもないままで放置されている事」に対する一定の責任があるという考え方がそれです。ただ、こんな考え方はそれこそ本著に登場する『最強のペシミスト』シオランからすれば、唾棄すべき考え方なのかもしれません。


“根源的なものを垣間みたければ、どんな職業にもたずさわってはいけない。一日中、横になったまま、嘆いたり呻いたりすることだ。……”
(『告白と呪詛』より)


 シオラン程ではないにしろ、自分だって横になって好きな本を一日中読み耽り、ああでもないこうでもないとあれこれ考えるだけで日々を暮らせないものかと考える訳ですが、残念な事にそれでは口に糊する事もできない訳で、シオラン本人が何とか社会と向き合いながら、自殺という救済を先延ばしにする様に今日をやり過ごし、晩年までを生き続けたのと同様に、今を生きているとも言えます。

 オタク会話で『働きたくないでござる』という言い回しがありますが、その怠惰がなぜ自分達を惹き付けるのかという事を真剣に考えると、シオランの思想に近付けるのではないでしょうか。それは、ペシミズムにおける「人生のむなしさ」という大きなテーマに繋がる考え方でもあります。

 ペシミズムとはそもそも何であるか、という説明は本著に譲るとして、この「人生のむなしさ」というのは意外に仏教的な考え方でもあります。自分は大学で仏教について学んだ訳ですが、若き日の仏陀=ゴータマ・シッダールタは非常に多感な青年であったといいます。

 彼は釈迦族の王子だった訳ですが、青年期には内にこもって思い悩む事も多かったと言われています。そんな彼を心配した父王は、「まあ外の空気でも吸って来なさいよ」と、お供を付けて彼を外出させます。これを四門出遊といいます。

 ですが彼は外出先で、老人、病人、死者(葬儀)を見ます。そして人は誰でも老い、病を患い、やがて死ぬのだという現実を目の当たりにします。それを避ける事ができる人はいません。王族であろうと、どれだけの富を誇ろうと、市井の貧しい人々と同様に人は老い、病気になり、死んで行きます。つまり、生きる事そのものは、逃れ得ぬ苦しみです。『一切皆苦』という言葉もある通り、この世で生きる事は全て自分の思い通りには行かないものです。

 この生老病死を、仏教では『四苦』といいます。『四苦八苦』という言葉がありますが、四苦八苦の四苦とは、この生老病死を指します。じゃあその四苦に対してどうするの? という問いに対する仏教的回答は、「苦しみを生み出す煩悩を捨てよう」という方向性な訳ですが、この先を説明するととても長くなるので割愛します。

 ここで言いたいのは、仏教は素晴らしい教えなので一度学ぶと良いですよという事では全く無く、「現代を生きている自分達が思い悩んでいる事の大半は、既にあらゆる人々によって考えられ、悩み抜かれて来た普遍的なテーマである」という事です。もっと簡単に言えば、『自分達はひとりじゃない』っていう事です。

 仏陀にしても、シオランにしても、生きる事が苦しみであり、いかにその苦しみから逃れるか、折り合いを付けて行くかというテーマに取り組んだ人物だと言えます。自分達だって『働きたくないでござる』と言いながら何とか日々暮らしています。そこは『地続き』なんだという事を知ると、ちょっとほっとしませんか?

 自分達が毎日うだうだと悩んでいる事は、仏陀だろうがシオランだろうが同じ様に悩んでいた問題な訳です。歴史背景の違いはあります。科学技術の発展や文化の違いなども当然あります。でも仏教やペシミズムを含む、こうした根源的な『生きる事そのものへの悩み』から自分達が自由であった事はない訳です。言ってみれば仏陀やシオランは自分達の先輩です。歴史に名を残した偉人や賢人というよりも、学校の先輩や親戚のおじさん、あるいはいとこのお兄さん程度の距離感でとらえるといいと思います。

 若き日の彼等が様々な事を思い悩んだ様に、現代を生きる思春期の若者もまた同じ悩みを経験する筈です。その時に、本著の様な思想書をどうやってメインターゲットである若者に届けるか。表題にある様に「生まれてきたことが苦しい」と感じながら日々生きている様な若者に、そうやって悩んだのはあなただけじゃないんだ。自分達だって現在進行系で悩んでいる真っ只中なんだという事実をどうやって伝えるべきか。そんな時に、本著が星海社新書から出版され、表紙を『少女終末旅行』のつくみず氏が描いているという事に、ぐっと意味が生まれて来ます。

 この本の内容を、どんな読者に届けたいか。

 著者ができる事ももちろんあるでしょうが、本の内容以外に、その本がどんなレーベルから出版され、どんな表紙で、どんな装丁でパッケージングされるのかという事には、大きな意味があります。例えば本著が分厚いハードカバーで表紙絵もなく、一冊数千円もする様な重厚な装丁の単行本として出版されていたら、それは若者に届くでしょうか? 自分は否だと思います。現に本著で取りあげられているシオランその人の著作は、電子書籍化もされていなければ文庫になっている気配もなく、一部を除いて現在では絶版になっているのか古書の出品をあたるしかない状態です。本著を読んでシオランに興味を持った若者が、じゃあ本人の著作を何か読もうと思っても、それらが入手難であるという事実がある訳です。これは、残念な事だと思います。

 思想というのは古びない価値を持っていると自分は考えています。ただ、その思想を受け止める自分達の文化や価値観、生活様式が変化している以上、読者にその思想を届ける為には、読み易い形に新訳される事も必要でしょうし、本著の様にレーベルや装丁を読者の嗜好に寄せた入門書も必要になるのではないでしょうか。そしてシオランの思想を今この時に必要としている読者の手に、彼の著作が届けられる様になる事を願っています。

 

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黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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