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正しい議論は、理解と尊重の上に成り立つ 橋下徹・木村草太『憲法問答』

 

 Twitterの方でも少し書いたけれど、自分は「互いの立場や主義主張が異なるとしても、罵倒や排撃ではなく、相手の主張を受け止めた上で自らの考えを述べる」という事は議論の基本だと思って来た。でも、今の日本のメディアや論壇といった場所には、それらが欠けていると感じる。そして保守もリベラルもその部分の酷さは大差ない。

 特にネットメディアやSNSにおいては、中道寄りの意見よりも、保守かリベラルか、どちらかの価値観に振り切った極端な言説の方が衆目を集め易く、賛否両論はあるにせよ反響が大きくなる事から、「アクセス数や動画の再生回数を稼ぐ為の内容の過激化、先鋭化」や「炎上商法じみた煽り文句や罵倒の応酬」が顕著である気がする。動画の投稿回数やチャンネル登録者数が増えて行く毎にネタが極端になって行くユーチューバーじみた状態と言えば良いだろうか。

 マスメディアが演出する対立の構図や、過激な言説ほど面白がって人が群がり大きく取り沙汰されるネットメディアの特性は、政治をエンタメ化するばかりで「相手を言い負かしてマウントを取る」という自慰的言説を生むのだけれど、それは結局国民の生活や日本の将来に何ら寄与しないものだ。なぜそれらの議論が無益なのかと言えば、「議論を経て異なる価値観や主義主張のすり合わせが行われた結果として、双方が当初主張していたものよりも、より望ましい結論が導き出される」という合意形成が起こり得ないからだ。

 主義主張の異なる者同士が互いに言いたい事を好き勝手に並べ立て、相手の主張には聞く耳を持たないという状況では、何十時間議論を重ねても得るものは無い。それを承知で不毛な議論に終始しているのが現在の政界であり論壇なのだとすれば、関係者にはもれなく本著を読む事を勧めたいと思う。

 本著は橋下徹、木村草太両氏が憲法について語り合う内容となっているが、『橋下主義(ハシズム)』という『ファシズム』を想起させる造語まで作られてしまった橋下徹氏と、憲法学者である木村草太氏の対談を経て見えて来るのは、意外な事に、先に挙げた「互いの意見を受け止め尊重する、本来のあるべき議論の姿」である。

 橋下氏も、木村氏も、憲法解釈について意見が食い違う場面はある。特に集団的自衛権を含む安保法制や9条の解釈については大きく価値観を異にする。しかしそこから相手に対する非難や排撃が起こる事はない。むしろ「ここまでは合意している。でも、この部分では食い違っている」という確認と、その食い違いがなぜ発生しているかという冷静な論考に基づく議論が本著からは読み取れる。

 自分は当初橋下氏について「高い知名度と支持率を武器にして、時に強引な改革を行う強権的政治家」という認識を持っていた。でもそれは、今にして思えばメディアが流布した『ハシズム』なる言葉の持つイメージや、時に語気を強めて持論を展開する橋下氏の姿に引き摺られていた結果の、誤った印象であったのかもしれないと思い直した。氏は「相手の言い分に聞く耳を持たない」タイプの独裁者ではない。的外れな批判を繰り返す者や、現場の実態を知ろうともせず持論に凝り固まり柔軟性を失ったインテリに対して容赦がなく、不快感を隠さないだけである。(それはそれで印象悪化の原因ではあるが)

 対する木村氏は、そんな激しさを持つ橋下氏の個性を理解し、尊重した上で、誠実に意見を戦わせる。であればこそ橋下氏も木村氏の意見に耳を傾ける。議論というものは本来こうした互いの信頼関係の上に成立するものであって、相手に対する礼儀もなく互いの持論を投げ付けるだけの不毛な言論を、マスメディアやネットメディア、SNSといった公共空間に垂れ流す様な際限のない闘争を指すものではない。

 自分と異なる意見を持つ者と話し合う事、議論の場を持つ事は社会の中で多々ある事だ。本著を読み、翻って自分は両氏の様な実りのある議論が出来ているかどうか考える。本作はそんな自己反省を促す良著であり、政界や論壇を活動の場にしている人のみならず、もっと多くの人に読まれるべきだと思う。

 

テーマ : **本の紹介**
ジャンル : 本・雑誌

無法者は綺麗事で着飾らない・江波光則『デスペラード ブルース』

 

 江波光則氏は、割と正直に小説を書いている様な気がして好きだ。

 一家惨殺事件に巻き込まれた殺人拳の使い手とか、権力者が子飼いにしている殺し屋とか、ヤクザとか、ノックアウト強盗とか、物騒な世界を描いている。自分の様におとなしく生きている人間には縁遠い、デスペラード達の世界。でも主人公をはじめとする登場人物達がどこか憎めないのは、彼等が語る価値観=作者の価値観に嘘がない様な気がするからかもしれない。

 小説家の力量を持ってすれば、大抵のものは「それらしく」書けてしまうと思う。
 例えば登場人物が平気で法を犯す様な悪人であったとして、作者が同じ様な人間でなければ真に迫る描写が出来ないというなら、物語の中からリアルな悪人が消えるか、現実に作者もまた悪人であるかの二択になってしまう訳だが、当然そんな事はない。

 悪人には悪人の価値観があり、その価値観に従って生きている。登場人物の行動に現実味を持たせるという事は、彼等が語る言葉や行動に現実味を持たせるという事であり、その発言や行動の元になっている「彼等の価値観」が、読者に対して説得力を持っている事が必要なのだろうと思う。その説得力を持たせる為の方法は多分ふたつに分かれる。

 ひとつは「作者自身はその価値観を信じていないが、想像力と技量で説得力を持たせる方法」であり、もうひとつは「作者もまたその価値観を(部分的に)信じているが故に、自然と説得力が生まれるという方法」だと思うのだ。そして本作は後者である様に思う。だから自分は冒頭で「江波光則氏は、割と正直に小説を書いている様な気がする」と書いた訳だけれど、当然これは、江波氏が悪人だという意味ではない。氏が見ているのは、もっと人間の本質的な部分である気がする。

 この話の前提として、というか小説作法として、自分が信じていないものを、あたかも信じているかの様に描くテクニックというのは、実際あるのだろうと思う。

 前もどこかで書いた様な気がするけれど、カード会社のキャッチコピーで「お金で買えない価値がある」というものがあって、でもその後には「買えるものは、○○カードで」と続く。こういう時、自分は意地悪な読み方をしてしまう人間なので「プライスレスな体験や時間や感動といったものはあるのだろうけれど、それを得る為にカード会社が後押しをしてくれるのは結局消費=お金を遣う事なんだよね」と思ってしまう。だからこのキャッチコピーを考えた人は、「お金で買えない価値」というものを、本当はどの位信じていたのだろう、と思う。視聴者に対してはテクニックで信じさせていたとしても。

 翻って、本作の冒頭のカラーページに書かれている様に“金は凄いな、と思わざるを得ない。金を払うと人生で結構困難な「好みのタイプの女による濃厚プレイ」が得られてしまうのは普通に凄い話ではないか。”と言われると、極めて即物的かつ品がない様に思われるだろうけれど、悲しいかな男としては頷かされてしまう。少なくとも、「お金で買えない価値」よりは信じられるし、リアルな手触りを感じられる。まあ自分の場合、実は風俗とか苦手なので自分のお金で行った事はない訳だけれど、確かにそうだろうな、お金は凄いな、と思う。

 話は逸れるけれど、自分が宮崎駿氏の『天空の城ラピュタ』で一番印象に残っているシーンは、他のどんな感動的な場面でもなく「パズーがムスカからもらった金貨を投げ捨てようとして、でも結局は捨てられない」場面だ。人間にとって、お金とはそういうものなんだと思う。「お金なんてたいしたことはない」と容易く言う人と、不本意な金だと思っていても捨てられない人と、どちらを信じるかと言えば自分は後者を信じる。

 話を戻す。作家としてのテクニックを駆使して、自分が全く信じていない価値観をそれらしく描く事と、自分の内面にある「悪い部分」「即物的な部分」「暴力的な部分」といった「人間の本質的な部分」を膨らませて、登場人物に投影して行く事が、結果として作品の完成度にどれだけの違いをもたらすのかは分からない。卓越したテクニックがあれば、自分が信じてもいないものを読者に信じ込ませる事だって出来るし、気付かせない自信がある、という作家もいるだろう。自分も優れた読者という訳ではないから、その違いを見抜く事は不可能かもしれない。それでも何となく、江波作品の登場人物達を見ていると、彼等の語る言葉には嘘が無い様に思うのだ。その時々の作者の思いや価値観、ものの考え方や信条といったものが垣間見える様な気がする。もちろん読者である自分が単にそう錯覚しているだけかもしれないけれど。

 デスペラードというと、「無法者」「ならず者」という意味だけれど、彼等の遠慮のない言動を自分が不快だと思わないのは、自分の中にもどこか本音では彼等に同調する部分があるからなのだろうと思う。建前や常識、社会通念上は好ましくないとされる事を彼等はしているかもしれないけれど、それは同時に自分が普段の生活の中で自らの能力の無さや臆病さを理由に抑え込んでいる行動かもしれない。自分の中にも「無法」への憧れはあるのかもしれない。縛られた窮屈さを日々感じているのかもしれない。そんな風に考えて行くと、金銭欲や権力欲、暴力で他者を屈服させたいと思う事、復讐心や殺意といった「綺麗事ではない感情」が自分の中にも確かにあって、それを飼い慣らす事で法を犯さない様にしているのだろうなという事が見えて来る。

 自分が法を守るのは常識人だからだろうか。善人だからだろうか。単に法を守り、法に守られる事を望んでいるからではないのか。臆病者だからではないのか。無法者の生き方と作者の視点は、そんな風に自分の中の偽善を指摘している様な気がする。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

本当に心を失っているのは誰なのか・辺見庸『月』

 

 本作は実際に起きた『相模原障害者施設殺傷事件』に着想を得て書かれたという『小説』だ。その「あくまでも小説である」という部分と、現実の事件を想起させる部分との折り合いを付けながら読む事は難しい。

 自分は今、ある社会福祉法人が運営する障害者支援施設で事務員をしている。直接ご利用者の介護を担当する生活支援員ではないが、日々、重度の知的障害者と接している。長期に渡って入所生活を続けている人。日中一時支援や短期入所を利用される人。その保護者。そして職員。立場は様々だ。でも共通の認識として、あの相模原で起きた事件は「過去のものではない」という事があるのだと思う。

 テレビやネットが事件を報じなくなっても、現在の犯人の様子が聞こえなくなっても、言い換えれば世間の関心が薄れ、事件そのものが賞味期限の切れたネタとしてゴミ箱の中に放り込まれたに等しい現在でも、自分達の中で事件は過去のものとはなっていない。むしろ事件が引き起こした動揺は続いている。

 自分が現在の職場に入ったのは事件後だったが、この事件の事は念頭にあった。そうした現在進行系の事件に関して、それが小説になり、フィクションとして世に出るというのは複雑なものがある。この辺りの割り切れなさは、東日本大震災による原発事故と、以前に感想を書いた岩井俊二氏の小説『番犬は庭を守る』との関係にも似ている。

 本作は、施設入所者の「きーちゃん」の一人称で語られる。自分はその事でもまた、ある種の落ち着かなさを感じるのかもしれない。

 きーちゃんは目が見えず、発語ができない。表情も乏しく、上下肢に麻痺があり、歩行できず、食事や排泄といった一切に介護を必要とする。そのきーちゃんが、非常に饒舌に、豊かな語彙を用いて内心を語り、物語を描写して行く事に、自分は慄く。きーちゃんのあり方はまるで、「不自由な肉体という檻に健常者の精神が幽閉されている」かの様だ。

 仮に、今こうして文章を書いている自分の肉体を、端から鈍器で叩き壊して行ったと仮定する、まずキーボードを叩いている指を潰す。逃げようとする脚を捕らえて膝を叩き割り、大腿骨を粉砕し、肩や肘を破壊し、抵抗の術を失わせたところで頚椎を潰して体の自由を奪う。眼をくり抜き、声帯を潰して意味のある発語が出来ない用にする。そうすれば他者の言葉を聞く事と考える事以外を奪われた人間が出来上がるだろう。まるできーちゃんの様な。

 「我思う、故に我在り」という言葉を昔聞いた気がするが、何かを思ったところで、それを表出させる術がなければそれは誰にも届かない独り言だ。暗闇の中、たったひとりで漂っているのと大差ない。むしろ本当に自分以外の他人がひとりもいなければ諦めも付くが、そうではない。声が聞こえてくる。でも、自分がここで思っている事を、相手に伝える術がない。そんな絶望を想像してみる。自分なら、3日ともたないだろう。

 翻って、現実を考えてみる。
 相模原の犯人は、本作でも引用されている様に『心失者』という造語を用いて「彼等を安楽死させるべきだ」とした。心が失われた者。人格を有しない者というその定義は、果たして正しいのだろうか。

 実際、施設には意味の通じる言葉を話せない人がいる。文章が作れず、単語の羅列になってしまう人や、そもそも単語も話せない人もいる。歩行が出来ず、食事や排泄等の生活全般に介護が必要な人もいる。発作が起こると奇声を上げ続ける人もいるし、自傷や他害といった問題行動が止められない人もいる。では、彼等には心が無いと言えるのか。自分はそこに、殺人犯の短絡があると見る。

 自分は彼等の頭の中に、本作におけるきーちゃんの様な複雑な心の揺れ動きがあるとは思わない。ただ、お腹が空いたとか、心地良いとか、おむつが濡れて不快だとか、そんな乳幼児の様な情動があるのは確かだろうと思う。そして自分達は言葉が話せないからといって、自力で身の回りの事が何ひとつ出来ないからといって、赤ちゃんに心がないなどとは思わない。むしろまだ言葉は通じないと知っていても話しかける。その伝わり難い心を、読み取ろうと努力する。重度知的障害者に対する態度だって、それと同じではいけないのか。そう言ったら、綺麗事に過ぎると思われるのだろうか。

 自分は施設にいるご利用者と日々会話する。その中で、時折はっとする様な事を話す人がいる。驚いて「今どういう意味で言ったの?」と聞き返すと、言った本人も意味なんて考えていなくて「何となく」とか「言ってみただけ」とか「テレビで言ってた」とか、まあ適当な返事が帰ってきたりして互いに苦笑する。だから、彼等が自分で言葉にする全てを理解しているとは思わない。逆に自分が言う事に返事をしてくれたとしても、その意味が通じていないかもしれない。かろうじて会話が成立している様に見えて、全くのすれ違いである可能性は常にあるし、むしろその方が多いかもしれない。でも一方で思う事がある。そんなのは、相手が誰であれ同じ事だ。

 自分だって自分の内心を全部理解している訳ではない。さっき言った時には確かに心からそう思っていた事が、数時間後には「言ってみただけ」になっている事なんてざらにある。健常者のつもりで生きていて、いつの間にか心を無くしている事もある。数年前の自分の様に。

 今、自分が恐ろしいのは、「目には見えないが確かにそこにある悪意」だ。
 具体的には相模原の事件の後で、ネット上に湧いた「犯人は良くやった」という書き込みの向こう側にいる人間の事だ。社会保障費の負担が重くのしかかっている事も分かる。助けて欲しいのは自分だって同じだという気持ちは理解できる。ただ、そこで人が殺された事を、自分達の負担が軽くなったと喜んで「もっとやれ」「誰か後に続け」と願った人間がいる事を自分は忘れない。そういう「心無い」人間がこの社会に一定数存在している事を忘れない。

 誰が障害者なのか。誰が心失者なのか。

 きっと厳密に言えば自分だってどこか障害者で、時に心失者にもなり得るのではないか。今の自分は、そう思っている。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

戦い続けた彼へ・萩原慎一郎『歌集 滑走路』

 

 “群衆の一部となっていることを拒否するように本を読みたり”   「群衆」

 小説が読めなくなってしまった。

 こういう事は時々ある。長い文章を読む為の集中力が維持できない。いつもなら意識しなくても、心が作品世界の中にするりと入り込んで行くのに、今の自分は潜水していて息が続かなくなった時の様に、途中で現実に浮かび上がってきてしまう。一章が読み切れない。途中で現実に捕まって、引き上げられる様に本を閉じてしまう。

 端的に言って、弱っているのかもしれない。もう本読みとして駄目になってしまったとまでは思いたくないけれど。

 本の感想を書く事は、自ら物語を書く事に挫折した自分に残った、ただひとつと言っても良い取り柄の様なものだと思う。本を読んでいる間は、日常生活ではむしろ殺している感受性を思い出す事ができる。だから自分は本を読んできたのかもしれないとすら思う。

 この社会の中で、自分は群衆であり、労働者であり、納税者であり、時に生産性や社会に対する貢献度を問われたりもする顔を持たない存在だと思う。そうした日々を生きる時に、感受性は邪魔になる。小さい事でくよくよしたり、心を痛めたりしてしまう様な弱さ。言い換えれば「心の中の柔らかい部分」を晒して生きていたのでは「生き苦しさ」に潰されてしまう。

 だから普段は何でもない様な顔をして生きていなければならない。心はなるべく平坦に。感動も喜びも悲しみも怒りもとりあえずどこか奥の方に押し込んで、蓋をしておこう。できる事なら鍵もかけておこう。他の誰かではなくて、自分に見付からない様に。

 そうして日々をやり過ごす。生きるのではなく、やり過ごす。それを一日続けられたら、一週間、一ヶ月、一年と積み上げて行く。どこかを目指している訳じゃないし、何者かになろうとしていた頃はとうに過ぎてしまった。それでも続いて行く日々をどうにかしなければならない。

 叶うなら自分は螺子になりたい。そうすれば機械的に生きる事に疑いを持たずに済む。

 でも自分はまだどんなに願っても機械にはなれないので、何かの拍子に感受性を思い出しては、それを物語によって慰めるという事をしてしまう。ずっと忘れていた方が楽だと知っていながら。

 “いつか手が触れると信じつつ いつも眼が捉えたる光源のあり”  「光源」                            

 “説明のできぬ感情抱きながら本を読みたり解読のため”       「風景画」

 歌人として生きるという事は、自分がこうして感想を書くよりも遥かに感受性を研ぎ澄ます事を求められるものだと思う。それを社会に削られながら続けて行く様な強さを、自分は持つ事が出来なかった。昨年、32歳という若さでこの世を去った萩原氏と自分との間に違いがあったとすれば、彼は辛くとも真摯に世の中や自分の感受性と向き合って生きる事を選び、自分はそこから逃げ出したという事なのではないかと思う。

 自ら命を絶った彼が弱かったのではない。
 戦う事を選べなかった弱さが、結果として今の自分を生かしているだけだ。

 この悲しみを何としよう。やり場のない憤りを、何としよう。
 歌を詠む事も出来ない自分にやれる事があるとすれば、ここでこうして今の気持ちを書き留めておく事くらいだ。
 それでは足りない事を知っていたとしても。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

まだ見ぬ未来への加速・八島游舷『Final Anchors』

 

 自分がSFを好きな理由は、多分「物語が、そして人間の想像力が軽やかに現実を超えて行く瞬間が見られる」からなのではないかと思う。

 本作はAI制御による自動運転技術が発達した近未来を描いている。それは作家ではない自分が想像する近視眼的な未来予想図とは比べ物にならない様な、遥か先を見据えた未来像だ。ただそれは『未来』ではあるけれど、荒唐無稽な『空想』ではない。あくまでも今自分が立っているこの現実世界と「地続き」になっている。何年後か、何十年後かはわからないけれど、自分達が歩みを進めて行った先に、本作で描かれている様な未来が確かに存在するのだろうと思わせる様な現実味がある。それが本作の面白さなのではないかと思う。

 この「地続き感」を説明するにはどうしたら良いだろう。

 例えば自動車を自動運転させる技術と聞いて、自分が思い描くのは精々「自動運転車が事故を起こしたら、その責任は誰に帰するのか」というレベル止まりだ。

 自分は運送会社で運行管理者をしていた事がある。地方の、中小企業レベルの運送会社だったけれど、各地の営業所を合わせれば毎日60台以上のトレーラーや大型車が運行する。そうすると、どんなに無事故を目指していても毎月何かしらの事故が起こるものだ。せめてひと月くらいは無事故の月があっても良いだろうと思うのだけれど、「バック中の安全確認が不十分で他車や器物に接触した」という比較的軽微な事故から「雪道でスリップした挙句に歩道を乗り越えて民家の壁を突き破った」なんていう大事故まで、本当に毎月何かしら事故が発生していた。死亡事故が無かった事だけが救いだったけれど、一歩間違えば或いはそうなっていたかもしれない事故は数知れない。事故の度に自分は保険会社と連絡を取り、先方に謝罪し、場合によっては過失割合を協議した。そして実感したのは「事故処理というのは責任を処理する事だ」というものだ。

 事故が起きた時にハンドルを握っていたドライバー個人の責任。それが仕事であれば、雇用主である会社が安全教育を疎かにしていなかったかどうか、運行管理者が過労運転をさせていなかったかどうかという責任もある。そして相手車も走行中であったという事なら、発生した事故についての過失割合が問われる。事故状況は分析、整理され、実際の事故と類似した過去の裁判例を基準にして話し合いが行われる。誰に、どれだけ事故の責任があるのかを明確化して行く事。それが事故処理だと自分は思う。

 自動運転技術の普及は、その「責任の所在」というものについて一石を投じるだろうと思う。ドライバーが完全に自動運転に頼って走行する様になった時、事故の責任は自動運転技術を開発したエンジニアに帰するのか、自動運転に必要な各種センサーを含めた車体を製造した自動車メーカーに帰するのか。自動運転車と一般車の事故ならどうか。自動運転車同士の事故の場合はどうなるか。
 そうした自分の想像が近視眼的だというのは、本作で描かれる世界はそれを遥かに超えた先を描いて行くからだ。

 名前を持ち、人格を有したAIが自動運転を制御する。それでも避けられない事故が発生する場合、人間では知覚すら出来ない様な、衝突までの僅かな時間――0.5秒――の中で、AI同士の通信が行われる。それは人間にとっての欠席裁判だ。今まさに衝突しようとしている2台の車両に乗っている人間の「どちらを生かすべきか」を決める為の。

 走行中の車両を制動距離ゼロで停止させる為に路面に打ち込まれる強制停止アンカー。片方がそれを使用すれば衝突は回避されるが、エアバッグでも吸収しきれない衝撃に晒されるドライバーはほぼ確実に死亡し、車載AIもその衝撃で自壊する仕様になっている。故に通称「ファイナル・アンカー」と呼ばれる最終手段を、どちらの車両が使うべきか。それを決める為に、AI達は仮想法廷で対峙する。自分自身と、ドライバーを生かす為に。

 自分の目に見えている未来が「事故責任の所在」という直近の変化までしか捉えられていないものであるのに対し、本作が描く未来は「人間よりも遥かに優れた能力を有するAIが、人間には知覚すら出来ない時間の中で『人間の価値』に言及し、それを比較検証し、誰が生き残るべきかを決めて行く」というレベルにまで高度化した世界だ。しかもそれは完全な空想の世界として宙に浮いている訳ではなくて、今自分達が立っているこの現実から進んで行った先に「地続きの未来」として確かに存在しているだろうと思わせるものだ。その事が、自分には恐ろしくもあり、興味深くもある。

 作家の目に見えている未来は、自分の様な凡夫が想像する未来よりも遥か先にある。そして自分は、作品を読む事で作家が見据える未来像に追い付く事が出来る。その加速を感じる時の快感は、日常生活では得難いものだ。だから自分はこれまでも、これからも、こうした物語を求めて行くのだろうと思う。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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