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神は死して何も語らなくとも・九岡望『言鯨16号』

 

 趣味で長いこと本読みをしていると、小説家の凄さを思い知る事が多々ある。例えば本作を読んだ時の様に。ただそれと同時に、小説家とか脚本家、或いはライターという職業を「何か自分でもなれるんじゃないか」と軽んじる言説に触れる事も多々あって、そのギャップはどこから生まれるんだろうと思う。

 端的に言って、その原因は「文章を書くだけなら誰でも出来る」からだ。

 日本は義務教育が行き届いているから、日本語の読み書きは皆それなりに出来てしまう。だから自分がこうして読んだ本の感想を書いているくらいの事はやろうと思えば今からだって誰にでも出来るし、多くの人がSNS等に日々書き込んでいる文章量をまとめたら、それこそ寡作な作家が1年に出版する作品の文章量を軽く超える様な人だっているかもしれない。

 でもそれは、「文章を書いた」事になったとしても、「小説を書いた」事にはならない。何故か。

 単純に「創作ではないから」とか「表現が拙いから」という事だけではない様に思う。

 例えば、ちょっとした「文章」を書いてみる。

“僕はマッチを擦って火を点けた。”

“僕はマッチ箱を取り、ぎこちない手付きで中から一本取り出して擦ってみる。擦り方が悪いのか、一度では上手く点けられずに数回繰り返してようやく火を点け、思ったよりも頼りないその火が消えぬ様に左手で風除けを作る。そうして仏壇の蝋燭に火を灯しながら、この作業を毎日淀み無く繰り返していた祖母の事を考えていた。その祖母の真新しい遺影が、揺らめく蝋燭の灯りに照らされている。”

 自分が思うに、これはどちらもただの文章であって、創作でもなければ小説でもない。前者は言わずもがなだが、後者にしたってただ文字数を増やし、それっぽく長い文章に仕立ててみただけで中身はない。これが、普通の人でも「文章ならいくらでも書けてしまう」という事で、絵を描くとか楽器を演奏するとかいう事が習得する事に一定の努力を要する「技能」とみなされる一方、小説や原稿を書く事が「何だか自分でもできそう」的な軽い扱いを受けてしまう所以なのではないかと思う。

 では本当に「文章を書く事は誰にでも出来るのだから、小説を書く事だって誰にでも出来るのか」というと、当然ながらそんな事は無いのだった。

 言葉というものを武器にして、世界を想像=創造し、登場人物達に命を吹き込み、彼等の物語を描き切る事。それを可能にするのが小説家という人々なのであって、その『言葉が意味を持って響き渡る事が世界を創造する』という過程こそが、まさに本作『言鯨16号』で描かれる物語とも重なる。

 これは何度か書いているけれど、かつて冲方丁氏が『ばいばい、アース』の中で、既存の言葉の意味をどんどん書き換えて行く事で異世界を構築していた事(例えば『飢餓同盟』に『タルトタタン』というルビが振られていたり)もそうなのだけれど、小説家が本当にやろうと思えば、ファンタジーにしろ、SFにしろ、現実から遠く離れた世界を、あたかも実在するかの様に緻密に描く事が出来るのだと思う。

 本作で言えば全てを飲み込む様に広がる砂の海を舞台に、神の様な存在でありながら今は姿を消した「言鯨(イサナ)」と、その遺骸を囲む様に作られた「鯨骨街」の姿を描く事。そして言鯨の遺骸から生じる「言骨」を採掘する炭鉱夫の様な「骨摘み」と呼ばれる人々の暮らしぶりや、その「言骨」を生成し、資源化した「詠石」がいかに人々の暮らしを支えているかという部分の描写。それらを「設定だけ緻密にする」のではなく、物語の流れの中で登場人物達の視点や想いを介しながら読者に分かりやすく開示して行く事。それら全てが繋がる所に、単なる作り事、作り話ではなく「物語」が生まれるのだろう。

 「物語る事」とは、自分に言わせれば楽器を鳴らす事と、楽器を演奏する事の違いの様に自明のものだと思う。自分は文章を書く(楽器を鳴らす)事は出来ても小説を書く(楽器を演奏する)事は出来ない。だから本作の様な小説を読むと感銘を受ける。現実には存在しない世界と、架空の登場人物が、小説の世界の中では現実に生きているという事に感じ入る。

 最後に。小説家が新しい世界を創造する時、それは多分神の視点なのだろうと思う。でもそれ以上に、自分達は(そう信じるなら)神によって作られた被造物だ。創り主はどんなつもりで自分達をこの様に不完全な代物として創ったのかなんて説明してくれない。それでも、生は続く。そのままならなさ、やるせなさ、でもその先に見える希望みたいなものが本作にはある。誰も何も保証してくれなくても、今を生きている自分達は、自分達の意思によってこれから先を生きていかなければならない。それを悲壮感あふれる物語としてではなく、希望が見える物語として描いてみせる事。そこに本作の真髄がある様な気がする。
 
 

テーマ : 本の紹介
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世界の滅びが、孤独の終わりになるのなら 大槻涼樹・虚淵玄『沙耶の唄』

 

 唐突だが、自分は『終末の過ごし方』と『沙耶の唄』というPCゲームをこよなく愛する人間なので、本作については誰に頼まれた訳でもなく語らねばならないのだった。というか、かつてその2作品をプレイした時も、自分は誰に頼まれた訳でもなく発表の場を持っている訳でもないのに長文の感想を書きなぐり、友人に送り付け、このゲームが、テキストが、物語が、いかに自分に刺さったかという事を分からせようと必死だった。当時は『刺さる』という表現はまだ無かったけれど。

 「『沙耶の唄』は誰が何と言おうがハッピーエンドである」というのが当時の自分の持論であり、その事を訴える文章は「分かって欲しい」という願望よりもむしろ「分かれ」という命令形に近いものだったと思う。

 ……単に、気持ち悪い奴である。迷惑な奴とも言う。

 かつて書いた文章はもう手元に残っていないが、そんな自分が今本作を読んで思う事は、「若かりし頃の自分は確かに気持ち悪い奴であったが、あながち間違った事も言ってはいなかった」という事であり、個人と社会、或いは世界というものの関係に執着していた自分が、多分今も同じ「わだかまり」を抱いたまま生きているという事の再発見でもあった。

 あまり主語を大きくすると嘲笑されそうだが、自分も含めたいわゆる『ロストジェネレーション』と呼ばれる世代は、社会、ひいては世界の中に「自分の居場所がない」と感じる事が多い世代だった様に思う。

 大人の言う事をよく聞いて、真面目に勉強をして学歴を積んで、良い会社に入って安定した生活を手に入れる事。そんな今となっては誰も信じない様な人生設計は、自分が中学生の頃まではまだ有効だった。それが、いつの間にか偏差値教育の否定が始まり、バブルが弾けて大人達は自信を無くし、子ども達に対して「正解」を示す事が出来なくなった。

 とにかく「型にはまってはみ出さない事」「一度たりとも間違わない事」を幼少期に叩き込まれた自分達は、やがて中途半端に個性を要求され、次いで不況の中で社会に放り出され、各々「自己責任で」自分の居場所を掴む事を求められたのだった。これまで散々言外に「自分達の言う事を聞け。自分達が敷いたレールの上を走れ」という態度を取って来た大人達は、この時には梯子を外しておいて何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。大人達もまた、道を見失っていたから。

 社会は、世界は狭量だった。

 自分は、自分自身の至らなさを全て世代や社会のせいにしてしまいたい訳ではない。ただ、自分は失敗したのだろうと思う。世の中の価値観や仕組みが変わっていく中で、自分自身のあり方を変えて順応する事にも失敗したし、社会のあり方に異を唱えて変革を促す事にも失敗した。もっと言えば、気に食わない社会を壊す事にも失敗したのだろう。だから自分は、「終わる世界」の物語に異常に執着するのかもしれない。

 居場所の無さや「生き苦しさ」は、常に感じていた。

 だから、この物語の中で『沙耶』という「決してこの世界に在る事を許されないだろう存在」が、同じ様に疎外された存在である郁紀と出会って、恋をして、愛を知って、その結果としてこの世界が壊れるのなら、壊れればいいじゃないか、というのが自分の結論になったのだろう。

 世界が壊れるのなら壊れれば良い。人類が滅ぶのなら滅べば良い。その滅ぶ側に当然自分が入っているとしても構わない。その滅びの代わりに、『スッタニパータ』で語られる『犀の角』の様にただ独り歩んで来た沙耶の孤独が終わり、彼女が見付けた恋が花を咲かせて、実を結ぶのであれば、それはハッピーエンドと言って差し支えないものなんだよって、きっと当時の自分は言いたかったのだろうし、その思いは今も変わらないのだろうと思う。

 ここから先は余談というか蛇足だ。

 自分が「今ある世界が、現実が壊れて行く」物語に執着するのは、きっと中途半端にこの世界に期待しているせいだ。だから理想が実現しない事に怒ったり、恨んだりしている。束縛されていると言い換えてもいい。もっと若い世代は、自由だ。その想像力は、異世界を次々と創造して行く。この世界に縛られないで、自分がいるべき場所、望む世界、そしてそこに立つ自分の姿を如何様にも変えて行ける。その軽やかさを自分は羨む一方で、どこか乗り切れないでいるのだろう。それは要するに自分が「古いタイプの人間になった」という事なのかもしれない。

 

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無名の英雄達が歩んだその先に・真藤順丈『宝島』

 

 本作は第160回直木賞、第9回 山田風太郎賞を受賞した小説であり、世間の注目度も高い作品だと思う。そしてTwitterでも書いたけれど、各賞を受賞した事よりも、「沖縄の戦後史」を描いた作品として、物語そのものの評価以外の所で注目され、その事で本作を政治的に称賛したり、逆に批判したりする人達が大勢出てくるだろうと思う。

 だから最初に書いておく。自分はこの作品が好きだ。
 政治的に、思想信条的にどうこうという話ではなく、数々の困難に見舞われながらも、それぞれに「生きる」という事から逃げなかった登場人物達を、誇らしく思うからだ。

 あらすじを語る事は他に譲ろう。その代わり、自分がなぜ本作を読もうと思ったのか、という話を書きたい。

 自分は「文学賞の受賞作だから」「ベストセラーだから」という理由で本を買う事はあまりない。それよりは「自分に『刺さる』作品かどうか」という所に関心があって、誰でも知っている様な作品が刺さる事もあれば、マイナーな作品が刺さる事もある。あとは、自分が関心を持っているテーマが描かれているかどうか、という部分だ。

 本作が直木賞を受賞して、その内容が「沖縄の戦後史」(この言い方は「沖縄には本土の様な『戦後』など存在しなかった」という向きからすれば噴飯ものかもしれないが、自分の様な東北の片田舎で産まれた人間が外から沖縄の歴史を見て書いている言葉と思ってご容赦頂きたい)を描くものだったからだ。

 自分の地元である福島県は、ご存知の通り原発事故の只中にある。

 原発事故が起きた後、それまで普通に稼働していた原子力発電所を「いつか事故を起こすかもしれない厄介な施設」とみなす人々が増えた。そしてそれを沖縄の米軍基地と重ね合わせる人々が登場して、「国策推進による負担やリスクを地方が引き受けるという構図は、沖縄の米軍基地も各地の原発も同じだ」と主張し始めた。ただ、原発推進反対運動と、基地反対運動が連携できる種類のものなのか自分には分からなかった。

 そして自分は沖縄が抱える基地問題について、何とも言えない居心地の悪さを感じ始めた。

 原発事故について言えば、地元は大変苦しんでいる。ただそれと同じ文脈で語られる基地問題については、自分もむしろ沖縄に長年負担を強いて来た『加害者側』の人間なのであって、その沖縄の苦悩を知りもしない。沖縄の苦悩を「想像する事」と、「確かに『知っている』と言える事」の間には超え難い壁があって、自分はそれを破れないだろうと思う。それが自分にとって都合の悪い原発事故が起きたからといって、急に基地問題の理解者かの様に振る舞うのは違うのではないかと思い直した。福島と沖縄を比較して、そう思う。

 福島に原発が誘致される時、そこには「地元の雇用確保」「原発受け入れによってもたらされる交付金」等の利点があった筈だ。受け入れる方はその利点とリスクを秤にかけた筈だし、東京電力にしろ、国策で原発推進を行った政府にしろ、何も「金の力で福島に原発リスクを押し付けてやる」などと思っていた訳ではなく、都市部と地方の経済格差を埋め、地域振興の一助となるべく「良かれと思って」行った筈だと思う。福島の問題は、最初は「善意」から出発したのだろう。結果が悪い方に転がったのは残念だけれど、その結果をもって最初から福島が踏み躙られていた、軽んじられていたと考えるのは穿ち過ぎだと思う。

 翻って沖縄の人々は、恐らく最初から発言権も無ければ拒否権も無かった。

 本作に倣って書けば「アメリカー」が、沖縄に基地を置き続ける事について地元に許可や理解を求めた事はないだろう。沖縄戦から占領統治を経て本土復帰を果たした現在でも、沖縄と本土、沖縄とアメリカとの間には深い溝がある。ある意味、本土の日本人はアメリカに沖縄を差し出す事で自国の安全保障を担保し、アメリカは沖縄に基地を置き続ける事で太平洋の覇権を握った。その「国家対国家」の利益の為に、あらゆる問題を肩代わりし、背負って来たのが沖縄の人々ではなかったかと思う。

 前置きが長くなったが、これらの経緯から、自分は沖縄の戦後史に目を向けるべきだと思って本作を手に取った。ただ、自分が本作を好きなのは、沖縄の戦後史に正面から向き合うというテーマ性だけが理由ではない。沖縄の過酷な時代背景の中で、恐らくは本作の登場人物達の様に必死に生きた人々が実在しただろうと思わせる作品だからだ。

 米軍基地から物資を略奪する「戦果アギヤー」達の中でも英雄視されていたオンちゃん。行方知れずになった彼の姿を探し、追い求めながら、やがてそれぞれの人生を選んで行くグスク、レイ、ヤマコ。彼等は架空の人物だけれど、当時の沖縄で彼等と同じ様に生きた人々はいただろう。刑事として、教師として、或いは裏社会の人間として。その他あらゆる沖縄の人々が、沖縄が置かれた現実の中で、より良い未来を求めてもがいていた。時に笑い、歌い踊り、怒り、憎み、赦し、涙を流し、叫んだ筈だ。

 個々の人間の努力ではどうにもならない様な、国と国、島と本土の関係の中で、それでも本当の意味で必死に戦った人々。何度も期待を裏切られ、絶望しても立ち上がって来た人々。そうした人々の歩みが歴史になって行くのだろうと思う。教科書に名前が載る様な人達の言動や決断だけが歴史なのではなく。そう思えるだけの熱量が、本作にはある。

 きっと英雄は戦果アギヤーだけではなかった。それぞれの心の中に求める英雄の形があって、それに恥じない様に生きようとする人々、その一人ひとりが本当の英雄なのに違いない。そうした無名の英雄達を見て、その生き様を知って、自分達はどう生きるのか。本作はその事を問うているのではないだろうか。

 

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正しい議論は、理解と尊重の上に成り立つ 橋下徹・木村草太『憲法問答』

 

 Twitterの方でも少し書いたけれど、自分は「互いの立場や主義主張が異なるとしても、罵倒や排撃ではなく、相手の主張を受け止めた上で自らの考えを述べる」という事は議論の基本だと思って来た。でも、今の日本のメディアや論壇といった場所には、それらが欠けていると感じる。そして保守もリベラルもその部分の酷さは大差ない。

 特にネットメディアやSNSにおいては、中道寄りの意見よりも、保守かリベラルか、どちらかの価値観に振り切った極端な言説の方が衆目を集め易く、賛否両論はあるにせよ反響が大きくなる事から、「アクセス数や動画の再生回数を稼ぐ為の内容の過激化、先鋭化」や「炎上商法じみた煽り文句や罵倒の応酬」が顕著である気がする。動画の投稿回数やチャンネル登録者数が増えて行く毎にネタが極端になって行くユーチューバーじみた状態と言えば良いだろうか。

 マスメディアが演出する対立の構図や、過激な言説ほど面白がって人が群がり大きく取り沙汰されるネットメディアの特性は、政治をエンタメ化するばかりで「相手を言い負かしてマウントを取る」という自慰的言説を生むのだけれど、それは結局国民の生活や日本の将来に何ら寄与しないものだ。なぜそれらの議論が無益なのかと言えば、「議論を経て異なる価値観や主義主張のすり合わせが行われた結果として、双方が当初主張していたものよりも、より望ましい結論が導き出される」という合意形成が起こり得ないからだ。

 主義主張の異なる者同士が互いに言いたい事を好き勝手に並べ立て、相手の主張には聞く耳を持たないという状況では、何十時間議論を重ねても得るものは無い。それを承知で不毛な議論に終始しているのが現在の政界であり論壇なのだとすれば、関係者にはもれなく本著を読む事を勧めたいと思う。

 本著は橋下徹、木村草太両氏が憲法について語り合う内容となっているが、『橋下主義(ハシズム)』という『ファシズム』を想起させる造語まで作られてしまった橋下徹氏と、憲法学者である木村草太氏の対談を経て見えて来るのは、意外な事に、先に挙げた「互いの意見を受け止め尊重する、本来のあるべき議論の姿」である。

 橋下氏も、木村氏も、憲法解釈について意見が食い違う場面はある。特に集団的自衛権を含む安保法制や9条の解釈については大きく価値観を異にする。しかしそこから相手に対する非難や排撃が起こる事はない。むしろ「ここまでは合意している。でも、この部分では食い違っている」という確認と、その食い違いがなぜ発生しているかという冷静な論考に基づく議論が本著からは読み取れる。

 自分は当初橋下氏について「高い知名度と支持率を武器にして、時に強引な改革を行う強権的政治家」という認識を持っていた。でもそれは、今にして思えばメディアが流布した『ハシズム』なる言葉の持つイメージや、時に語気を強めて持論を展開する橋下氏の姿に引き摺られていた結果の、誤った印象であったのかもしれないと思い直した。氏は「相手の言い分に聞く耳を持たない」タイプの独裁者ではない。的外れな批判を繰り返す者や、現場の実態を知ろうともせず持論に凝り固まり柔軟性を失ったインテリに対して容赦がなく、不快感を隠さないだけである。(それはそれで印象悪化の原因ではあるが)

 対する木村氏は、そんな激しさを持つ橋下氏の個性を理解し、尊重した上で、誠実に意見を戦わせる。であればこそ橋下氏も木村氏の意見に耳を傾ける。議論というものは本来こうした互いの信頼関係の上に成立するものであって、相手に対する礼儀もなく互いの持論を投げ付けるだけの不毛な言論を、マスメディアやネットメディア、SNSといった公共空間に垂れ流す様な際限のない闘争を指すものではない。

 自分と異なる意見を持つ者と話し合う事、議論の場を持つ事は社会の中で多々ある事だ。本著を読み、翻って自分は両氏の様な実りのある議論が出来ているかどうか考える。本作はそんな自己反省を促す良著であり、政界や論壇を活動の場にしている人のみならず、もっと多くの人に読まれるべきだと思う。

 

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無法者は綺麗事で着飾らない・江波光則『デスペラード ブルース』

 

 江波光則氏は、割と正直に小説を書いている様な気がして好きだ。

 一家惨殺事件に巻き込まれた殺人拳の使い手とか、権力者が子飼いにしている殺し屋とか、ヤクザとか、ノックアウト強盗とか、物騒な世界を描いている。自分の様におとなしく生きている人間には縁遠い、デスペラード達の世界。でも主人公をはじめとする登場人物達がどこか憎めないのは、彼等が語る価値観=作者の価値観に嘘がない様な気がするからかもしれない。

 小説家の力量を持ってすれば、大抵のものは「それらしく」書けてしまうと思う。
 例えば登場人物が平気で法を犯す様な悪人であったとして、作者が同じ様な人間でなければ真に迫る描写が出来ないというなら、物語の中からリアルな悪人が消えるか、現実に作者もまた悪人であるかの二択になってしまう訳だが、当然そんな事はない。

 悪人には悪人の価値観があり、その価値観に従って生きている。登場人物の行動に現実味を持たせるという事は、彼等が語る言葉や行動に現実味を持たせるという事であり、その発言や行動の元になっている「彼等の価値観」が、読者に対して説得力を持っている事が必要なのだろうと思う。その説得力を持たせる為の方法は多分ふたつに分かれる。

 ひとつは「作者自身はその価値観を信じていないが、想像力と技量で説得力を持たせる方法」であり、もうひとつは「作者もまたその価値観を(部分的に)信じているが故に、自然と説得力が生まれるという方法」だと思うのだ。そして本作は後者である様に思う。だから自分は冒頭で「江波光則氏は、割と正直に小説を書いている様な気がする」と書いた訳だけれど、当然これは、江波氏が悪人だという意味ではない。氏が見ているのは、もっと人間の本質的な部分である気がする。

 この話の前提として、というか小説作法として、自分が信じていないものを、あたかも信じているかの様に描くテクニックというのは、実際あるのだろうと思う。

 前もどこかで書いた様な気がするけれど、カード会社のキャッチコピーで「お金で買えない価値がある」というものがあって、でもその後には「買えるものは、○○カードで」と続く。こういう時、自分は意地悪な読み方をしてしまう人間なので「プライスレスな体験や時間や感動といったものはあるのだろうけれど、それを得る為にカード会社が後押しをしてくれるのは結局消費=お金を遣う事なんだよね」と思ってしまう。だからこのキャッチコピーを考えた人は、「お金で買えない価値」というものを、本当はどの位信じていたのだろう、と思う。視聴者に対してはテクニックで信じさせていたとしても。

 翻って、本作の冒頭のカラーページに書かれている様に“金は凄いな、と思わざるを得ない。金を払うと人生で結構困難な「好みのタイプの女による濃厚プレイ」が得られてしまうのは普通に凄い話ではないか。”と言われると、極めて即物的かつ品がない様に思われるだろうけれど、悲しいかな男としては頷かされてしまう。少なくとも、「お金で買えない価値」よりは信じられるし、リアルな手触りを感じられる。まあ自分の場合、実は風俗とか苦手なので自分のお金で行った事はない訳だけれど、確かにそうだろうな、お金は凄いな、と思う。

 話は逸れるけれど、自分が宮崎駿氏の『天空の城ラピュタ』で一番印象に残っているシーンは、他のどんな感動的な場面でもなく「パズーがムスカからもらった金貨を投げ捨てようとして、でも結局は捨てられない」場面だ。人間にとって、お金とはそういうものなんだと思う。「お金なんてたいしたことはない」と容易く言う人と、不本意な金だと思っていても捨てられない人と、どちらを信じるかと言えば自分は後者を信じる。

 話を戻す。作家としてのテクニックを駆使して、自分が全く信じていない価値観をそれらしく描く事と、自分の内面にある「悪い部分」「即物的な部分」「暴力的な部分」といった「人間の本質的な部分」を膨らませて、登場人物に投影して行く事が、結果として作品の完成度にどれだけの違いをもたらすのかは分からない。卓越したテクニックがあれば、自分が信じてもいないものを読者に信じ込ませる事だって出来るし、気付かせない自信がある、という作家もいるだろう。自分も優れた読者という訳ではないから、その違いを見抜く事は不可能かもしれない。それでも何となく、江波作品の登場人物達を見ていると、彼等の語る言葉には嘘が無い様に思うのだ。その時々の作者の思いや価値観、ものの考え方や信条といったものが垣間見える様な気がする。もちろん読者である自分が単にそう錯覚しているだけかもしれないけれど。

 デスペラードというと、「無法者」「ならず者」という意味だけれど、彼等の遠慮のない言動を自分が不快だと思わないのは、自分の中にもどこか本音では彼等に同調する部分があるからなのだろうと思う。建前や常識、社会通念上は好ましくないとされる事を彼等はしているかもしれないけれど、それは同時に自分が普段の生活の中で自らの能力の無さや臆病さを理由に抑え込んでいる行動かもしれない。自分の中にも「無法」への憧れはあるのかもしれない。縛られた窮屈さを日々感じているのかもしれない。そんな風に考えて行くと、金銭欲や権力欲、暴力で他者を屈服させたいと思う事、復讐心や殺意といった「綺麗事ではない感情」が自分の中にも確かにあって、それを飼い慣らす事で法を犯さない様にしているのだろうなという事が見えて来る。

 自分が法を守るのは常識人だからだろうか。善人だからだろうか。単に法を守り、法に守られる事を望んでいるからではないのか。臆病者だからではないのか。無法者の生き方と作者の視点は、そんな風に自分の中の偽善を指摘している様な気がする。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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