自分の屈折に気付かされる物語として・長谷敏司『ストライクフォール 2』

 

 個人的に、スポーツを描いた作品はあまり読まない気がする。それはスポーツが『勝ち負け』がはっきりとした、言い換えれば『弱肉強食』を本質とした世界だからだ。プロスポーツならなおさら。そして自分は『負け』側であり、『喰われる』立場だと思っているからだ。

 自分は昔から運動嫌いで、体育の成績も悪く、団体競技ではチームの足を引っ張る様な人間だ。スポーツ観戦の趣味もなく、スポーツ全般に良い思い出がない。だから敬遠する。勝ち負けがはっきりとした世界。実力だけが物を言う世界。勝つ事の喜びを味わう為に努力し、己の腕で輝かしい成果をもぎ取る。そういう『勝者だけが輝く世界』は、自分とは縁遠いものだと思っている。そうした人間が、オタクの嗜みとして当然の様に好きなものである『宇宙』『ロボット』と組み合わされた、紛れもない『スポーツ』ものである本作を読む時、そこには手放しで「好き」とか「面白い」とか言えない微妙な感情が渦巻く事になる。

 以前書いた1巻の感想を読み返すと、その辺りの機微が自分の中で処理しきれていなくて、どこか「ねじれた」文章になっている。オリンピックの舞台で活躍するスポーツ選手達の姿は見る者の心を打つ。でも、自分が感情移入してしまうのは、どうしても『競争に敗れた側』なのだ。プロになれなかったかつての野球少年の様に、夢半ばにしてそれを諦めざるを得なかった人の側なのだ。

 自分の夢が叶わなかったのは、努力が足りなかったから。
 自分が羨む場所に自分以外の誰かが立っているのは、その人が自分よりも努力を住み重ねて、自分の力でその居場所を掴み取ったから。
 自分が今いる場所に不満があるのだとしても、それは全て自分の責任で、他の誰かを責められる事ではない。それは自業自得で、身から出た錆で、「1+1=2である」という事と同じ位動かし難く、自明な事なのだ。

 スポーツものを読むと、そういう当たり前の事が全部胸に刺さって来る様な気がする。

 そういう時、自分は完璧じゃないから、他人を妬んだり自分を蔑んだりしてしまう。正しく努力した者が勝者になり、結果として敗者が生まれるというだけのシンプルな話なのに、それを潔く受け止めるという事が出来ない。つい『敗者の弁』を述べたくなってしまう。言い訳がましい事をつらつらと書いてしまいたくなる。

 自分が好きなBUMP OF CHICKENの曲に『才悩人応援歌』という歌があって、その歌詞には『得意な事があった事 今じゃもう忘れてるのは それを自分より 得意な誰かが居たから』というものがある。

 「才能が無かったんだよ」っていうのは、努力が足りなかった人間が口にする一番ダメな負け台詞なのだけれど、それは言う側の当人が一番分かっていて、それを口にする度に一番傷付くのは自分なんだと思う。だから『才悩』なんであって、勝者になれなかったからといって止める訳には行かない、途中で降りる訳には行かない人生を続けて行かなけりゃならない悩みがいつもつきまとう。その途中で、本作の様な物語との出会いがあって、自分はまた複雑な思いを抱くのだ。

 自分はもう、努力して勝利を掴む主人公に感情移入して、それを素直に自分の力に変えられる様な年齢を過ぎてしまっているのかもしれない。自分の年齢は、本来ならもうとうに何らかの結果を掴んでいなければならないものだから。だからもっと若い、本来ライトノベルがメインの読者層として考えている若者世代が本作を読んだ時に抱くであろう素直な感想とは異なる部分で引っかかりを感じるのだろうと思う。それは『嫌い』でもなければ『辛い』でもない、言葉にする事が難しい感情だ。自分は紛れもなく本作が好きなのだけれど、好きとか面白いとか、それだけでは済まされない感情が裏側に張り付いている。

 努力する事。勝利を掴む事。主人公が真っ直ぐだからこそ、その物語を受け止める自分の側の曲がりくねった様が浮き彫りになるのだろうか。読み終えて、そんな事を思った。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

人が思いを伝えるという事・藻野多摩夫『オリンポスの郵便ポスト』

 

 最近また『ライトノベル定義論』的な流れをTwitter上で見かけて、自分もいくつかツイートをしたのだけれど、その時は書かなかった事で、自分が「ライトノベルとその他の作品」を分けて考えている事がひとつあったなと思う。本作を読んでいてその事に思い至ったのだけれど、それは「特にライトノベルの公募新人賞を受賞した作品を読む時は、その時点での作品の完成度の高さよりも、作家の将来性を期待している」という事だ。

 本作は、第23回電撃小説大賞で選考委員奨励賞を受賞した作品だ。
 舞台は火星。人類が地球から火星への本格的な入植を開始してから200年後の世界。しかし、火星の惑星改造(テラフォーミング)という壮大な計画は、80年前の大災害と、それが引き金となって発生した半世紀に及ぶ内乱で頓挫してしまっている。通信施設の破壊により母星である地球との連絡手段を失ったのみならず、交通網の寸断、電子メールや電話といった通信手段の喪失によって、長距離の情報伝達を昔ながらの手紙に頼るしかないまでに技術レベルが後退した世界。地球からの連絡もなく、新たな入植者がやって来る事もなく、徐々に大気が失われ、死の星に戻りつつある火星から脱出する術もない。そんな静かに滅びへと向かう星の上で生きる人々の姿を本作は描く。

 火星で長距離郵便配達員(ポストマン)として働く少女、エリスは、ある事情から都市伝説として言い伝えられている『オリンポスの郵便ポスト』を目指す事になる。「オリンポス山の天辺にある『オリンポスの郵便ポスト』に投函された手紙は、神様がどこへでも、誰にでも届けてくれる。仮にそれが天国でも」というおとぎ話。そのオリンポスの郵便ポストまで「自分を届けて欲しい」と告げる『郵便物』は、機械の身体を持つサイボーグ。『レイバー』と呼ばれる、一見古風なロボットの様な外見をした依頼人、ジョン・クロ・メールはエリスにこう告げるのだ。

 「私は自分の死に場所を探しているのです」

 ポストマンの少女、エリスと、郵便物であるクロの道行き。存在すら疑わしいオリンポスの郵便ポストを目指す旅は、どんな結末を迎えるのか。

 通読して、綺麗に整った物語というよりも、手触りがまだ少しゴツゴツとした、磨かれる前の原石の様な粗さがある物語である印象を受けた。読んでいて疑問を感じる設定や、物語の展開の中で引っかかりを覚える箇所もある。作者が語りたいテーマも目一杯詰め込まれている。だから全体の印象は、まだ粗い。物語として形を整えるならば、きっとまだ削らなければならない箇所が多いのかもしれない。

 しかし自分は、本作はこれで良いのだと思う。ライトノベルの公募新人賞に応募される作品、そして受賞した作品として読む時、この『粗さ』が今後どう磨かれて行くのかという期待感があるからだ。

 ライトノベル作家としてデビューし、その後一般文芸の世界に越境して行った作家は多い。これを「ライトノベル作家としてデビューして実力を付けて、より高いステージに上って行ったのだ」などとしたり顔で言うと、まるでライトノベルが一般文芸よりも稚拙なものであるかの様な誤った印象を与えかねないのだが、それでも敢えて書くならば、ライトノベルの公募新人賞が作家としての登竜門の役割を果たしている側面も確かにある。そこからライトノベル作家として同じ戦場に留まって書き続ける作家もいれば、一般文芸の世界に軸足を移して行く作家もいる訳だが、その出発点となる作品、言ってみれば「始めの一歩」の作品として見た時、作者が本作に込めたテーマは正しいと思う。

 言ってみれば本作は、『人が思いを伝える事』を主題にしているのだろうと思う。

 今を生きている自分達が、他者へと気持ちを伝える為のコミュニケーションもそうだし、もっと時間軸の幅を広げて考えるならば、今を生きる自分達が先達からどんな思いを引き継ぎ、後世に何を遺そうとするのか、どんな生き様を選ぶのかという事もそうだ。また人の生き様を描くという事は、人がどう生きるべきなのかという価値観を問い直す事でもある。そして、それらは全て『人が思いを伝える事』を軸として語る事が出来るテーマだと思う。

 『人が思いを伝える事』というテーマを語る時、自分達はその思いを伝えようとする側、発信者に目を向けがちだと思う。手紙を書く側、小説を書く作者、SNSでつぶやきを発する側、世の中に対して声を大きくする指導者や為政者。彼等に目を向ける事は間違っていない。ただ、思いというのは発信されただけでは当然伝わらないものであって、そこには受け手がそれらの思いをどう受け止めるのかという事が表裏一体の主題としてある。そして、その中で人の思いが時にすれ違ってしまうという悲しさも。

 また、思いの発信者であり受け手でもある自分はその中でどの様に振舞うのか、生きるのかという主題も切り離せないものとして同じ場所にある。

 一作のライトノベルに詰め込むには大きすぎるきらいがあるテーマ。でもそれに取り組もうとする作者の気概が、自分は好きだ。もちろん「作家が作品を通して読者に何を伝えようとするのか」という事も、『人が思いを伝える事』というテーマの中に含まれる訳で、それは作家が作品を発表して行く中で最後まで模索して行く事になるだろう課題でもあるのだから。

 作品が出版されるという事は、作者が『人が思いを伝える事』から逃げなかったという事だ。だから受け手である自分もまた、なるべく雑な語り方にならない様にしたいと思う。そして自分が作者の次の作品に触れる機会があれば、読者としては嬉しい。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

想像力を刺激する言葉の技巧・オキシタケヒコ『おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱』

 

 人間の想像力、特に作家の想像力というのは凄いものがあるな、という『恐れ』を読者に抱かせるに十分な作品。ちなみに自分は『筺底のエルピス』シリーズを未読だった事もあり、本作が初オキシタケヒコ作品となった訳だけれど、相変わらず本読みとしては基本が抜けているというか偏食と言うか。まあそれはさておき、小説という作品形態が持っている底力を見せられた様な気がした。

 最近は漫画化、映画化、アニメ化等、小説を原作とする作品も相次いで発表されるけれど、どれも原作の魅力をいかに損なわずに別媒体に落とし込むか、そして別媒体の作品として発表する事で新たな魅力を開拓できるかという点に苦心している気がする。本読みの末席を汚す雑食系本読みとしては、それはそれで別の角度から作品を楽しめる部分もある訳だが、実際『この表現は小説ならでは』という『技』というか、技巧を見せられるのはもっと楽しかったりする訳だ。そして本作にはそうした技が凝らされている。その上で精緻に、そして幾重にも張り巡らされた伏線が次第に明らかにされて行く様は、本読みをやっていて良かったと思える楽しみを与えてくれるだろう。

 では具体的に、その小説ならではの技とは何かというと、ここで詳細を語ってしまう事は野暮なのでなるべく避けたいのだが、一般論として薄めて語るならば「日本語で書かれた書籍」という形式が可能にする技であり、日本語という言語が持つ特殊性を活かした記述の技という事になる。

 日本語で文章を書く場合、全てひらがなで書く場合と、漢字を織り交ぜる場合、更に漢字の読みにルビを振る場合など、実に様々な書き方をする事が出来る。他にも韻を踏むとか、同音異義語を駆使するとか、様々なテクニックがある。自分は海外文学を原書で読む程外国語に通じていないので比較は出来ないのだが、この書き文字の多様性を使った技は日本語独特なのではなかろうかと思う。

 仮にルビを駆使したとすれば、ライトノベルによく見られる様に、既存の言葉に全く異なる読みを被せて造語を作る事も容易い。やり過ぎると難読になるというかくどくなるというか、全体的に読み難い文章にはなるけれど。冲方丁氏が『ばいばい、アース』でやっていた『飢餓同盟(タルトタタン)』とか、やりようによっては既存の言語にあらゆる意味を上書きして行く事が出来るし、ひとつの言葉が持つ意味を多重構造化する事も出来る。

 また本作で効果的に使われているのは、意図的に句読点を廃したひらがな書きの文章だ。例えば章題には『うまれおちたるかうけうのひとつめざめたること』なるものがあるが、物語を読み進めるまでは、その内容が分かる様で分からない。読み解ける様で読み解けない。それがある程度読み進めて行く中で答えが開示されると、腑に落ちる様になっている。これは本作の登場人物のひとりであるツナが話す言葉にも使われていて、「せきついどうぶつあもんししどうぶつじょうこうちょうこうふくろうもくふくろうか」等と唐突に言われても、その言葉を聞いた主人公の逸見瑞樹――またの名をミミズク――ではないが、まるで呪文か何かにしか聞こえない(読めない)。ただこれにも、注意深く読むと答えは用意されているし、後々意味が明らかにされる事もある。

 言葉の選び方、音、言い回し。それらが読者に与える情報を制限し、誘導し、やがて解に導く。その技は小説という、言葉と文字を駆使する媒体でなければ再現する事が難しい。であるが故に、それが読後の満足感というか、楽しさに繋がっている気がする。

 古い屋敷の座敷牢に住まう少女、ツナ。その少女と出会い、以来怖い話を聞かせる為に屋敷を訪れる事になるミミズク。二人の物語は、繋がる縁によって、そして作者の巧妙な語りによって広がりを見せて行く。座敷牢の暗がりの中での密会の様だった世界の有り様が、どんどん広がって行き、それまで点と点だったものが線で結ばれ、見えなかった世界が見える様になる。伝わらなかった言葉の意味が開示され、読者の視点が高みへと引き上げられる。良い意味で翻弄される。そうした先に開示される本作の世界観は、怪談のそれではない。もっと広い、人間社会の上部構造へシフトして行く。この広がりの持たせ方は、凄く面白い。単純に楽しいし、興味深くもある。読者によっては何か教訓めいたものをその中に見る事も可能だろう。自分達の刹那的な享楽の裏側にあるものが何なのか。その果てにある世界が、どれだけ荒涼としているのか。そんな風に。

 小説を読むという事。文章を目で追い、そこから読み取れるものを自分の頭のなかで想像して膨らませるという事。人間が持っているそうした『想像力』というものが本作のひとつの鍵になっている様に、読者は様々な想像を巡らせる事で本作の本質に迫って行く事が出来る。その体験は読書ならではのもので、これだから本読みはやめられないのだと自分は思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

まだ機械にはなりたくない僕等は・水野昴『偽る神のスナイパー 3』

 

 思えば1巻の感想で『個人的にはザイシャが「人間として」幸福になる事を願ってやまない』と書いたのが2016年の4月だった。その後2巻を挟んで、今回この3巻をもって完結する事になった物語が、果たして自分が望んだ様なハッピーエンドを迎えられたのかどうか。それは各々が本作を手に取って自分で確かめて頂くのが良いだろうと思う。ただ、それだと本作の感想として片手落ちなので、無粋を承知で半分以上答えを言ってしまうならば、個人的には良い結末だったと思う。

 あくまでも自分の場合だけれど、特にライトノベルについては『シリーズが完結するまで評価を固める事が出来ない』というもどかしさがある。単巻で完結する作品と違って、ライトノベルの場合は何冊かシリーズ作品として刊行を続けて行く中で、ひとつの大きな物語が形成される事が半ば前提としてあるので、物語の着地点を見定めるまでは自分の中での評価も固め難いのだ。1巻を読んだ時点で引き込まれる物語もあれば、シリーズが続いて行く事で次第に魅力が高まって行く作品もある。そういう意味では、ライトノベルは連載を続けて行く事が前提の漫画にも似ている。巻数を重ねる事で作品は変化して行く。それは進化であり、深化でもある。また作品のテーマも次第にスケールが大きくなって行く気がする。それを物語の結末に向けて拡散させる事無く収斂させて行かなければならない創作活動というものは、やはり難しい。まあ難しいからこそやり甲斐があるのだろうし、読者としても作品が良い結末を迎えられる事は読んでいて幸福な事だと思う。

 話を本作に戻す。本作もまた1巻の頃は、心に傷を負った少年少女が互いの過去を乗り越えて新たな一歩を踏み出せるのかどうかという物語だった。それがこの最終巻では、人間が生きて行く上での幸福とは何か、そして人のあるべき生き方とは何かという所までテーマを広げている。それは登場人物の成長であると同時に、作者の中で作品自体が育って行った結果であるのだろう。大きく広げた物語は畳む事が難しくなるのが常だが、本作ではその着地点をぶれさせない為に、先に書いた少年少女の物語、その二人の絆の物語を軸にしている。様々な困難が待ち受ける中で、主人公である吹芽とザイシャは何を求め、どう生きて行こうとするのか。

 人間のあるべき生き方を探るにあたって、何が人を人たらしめているのかという問いを避けて通る事は出来ない。それは本作でも同じだ。ある意味でゾンビの様に人ではなくなってしまった存在=レヴナントが闊歩する世界で、人とレヴナントを分かつものとは何か。ザイシャや吹芽がそうである様に、兵器として、或いはその使い手として、普通の人間の枠から半歩踏み出してしまった者とレヴナントを分かつものは何なのか。それを明らかにする為には、やはり『心』という捉え所のないものに迫らなければならない。それには多大な労力が必要になる。何せ自分でも自分自身の心なんて掴み切れないのだ。その移ろい易い心を捕まえて、何が大事なのかを洗い出し、物語として定着させなければならない。本来架空である登場人物達の心が、作り物めいた、テンプレートを書き写した様なものになってしまわない様に肉付けをして行かなければならない。そしてその事を通してでしか、本作が扱うテーマの結末に至る事は出来ない。

 それが成功しているかどうか。それはこの物語の結末を読んだ読者が判断する事だ。

 しかし、人間とはつくづくままならないものだと思う。
 心は脆い。そして移ろい易い。仮にそんな柔らかい部分を最初から持たなければ傷付く事など無いだろうに、後生大事に抱えていないと生きて行けないものだから、誰も彼も大なり小なり傷だらけだ。仮に自分がロボットだったらと仮定してみる。どんな仕事を振られても文句も言わず、ただ命令を実行するだけのロボットだったら楽だろうと思う。もっとも、もしも本当にそんな有様だったら楽だの苦だのと感じる部分も無い訳だから、どんなに苦しかろうが何程の事もないのだろう。

 感受性や心とは、酷い言い方をすれば人間が持っている脆弱性だ。だからいつか、それらが不要だとされる世界が来るのかもしれない。或いは、それらを切り捨てなければ生きられない様な過酷な時代が来ないとも限らない。誰にも未来の事は分からないのだから。それでもその脆弱性を、心を切り捨ててしまった人間を人間と呼んで良いのかという疑問符は消えないのだろう。何となればその弱い部分、脆い部分に宿っているものをこそ、自分達は『人間性』と呼んでいるのだろうから。それを失った時、或いは捨てた時、その無くしたものの方こそ大事なものだったと自分達は気付くのだろうか。気付く事が、出来るのだろうか。

 現実は厳しい。その中で生きようとする時、心は煩わしい。その弱さ、脆さは人を苛む。それでもなお生きていこうとする動機、困難に立ち向かおうとする気概は、実はその脆い心の内側にしか存在しないのではないか。それは矛盾している様で、こう言っては何だが少し可笑しい。弱い筈の心から、自分達は次の一歩を踏み出す為の力を汲み出している。そして、それを失って自動機械の様になる事を、自分達はまだ望んではいないのだろう。本作で吹芽とザイシャが選んだ様に、悲しみもないが喜びもない世界より、多くの悲しみの中から喜びを拾い集めようとする生のあり方を、人は『生きる』と呼ぶのだろうから。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

塀の中の自由、塀の外の不自由 アン・ウォームズリー:著 向井和美:訳『プリズン・ブック・クラブ-コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』

 

 この本はタイトルの通り、刑務所の中で受刑者達を集めて開かれる読書会について記したノンフィクションだ。受刑者に配慮して人名やプロフィール等は一部脚色されているが、創作された登場人物は一人もいない。
 著者は実際にこの刑務所読書会の為の選書に関わり、自らも刑務所に足を運び、銀行強盗から麻薬の違法売買、果ては殺人といった罪で服役している受刑者達と本を通じて交流した。その経験をまとめたのが本著である。

 実は、自分が勤めている会社でも今年から読書会が毎月行われる事になった。その事もあって本著を手にした訳だが、実は自分は、自分達の読書会が刑務所の中のそれよりも自由がないものである事を思い知らされて既に辟易している。

 自分達の会社で催される読書会とは、ある月刊の経済誌の中から決められた箇所を読んで感想を書き、社員同士少人数のグループを組んで互いに発表するというものだ。そしてその経済誌の中身といえば、経営論であったり、著名人へのインタビューであったり、成功を収めた経営者達の対談であったりする。主催者は社長だし、読書会の進行役はその月刊誌を出版している出版社の社員だ。この時点で、この読書会の問題点がいくつかある。それは『感想の「正解」が既に決められている事』と『否定的な感想を述べる自由が無い事』、そして『人事評価を握っている社長が主催している事』だ。

 経済誌を読んで感想を書いて来る事が決まっている時点で、社長が自分達に求めている感想とは「~の部分を読んで感銘を受け、これまでには無い気付きを得る事が出来ました。これを今後の仕事の中でも活かして行こうと思います」というものでしかない事は明白だ。自分は本の感想を書き慣れているし、相手がどんな感想を期待しているかも容易に察しがつくし、その期待される感想=正解に沿った文章を書けと求められればいくらでも応じる事が出来る。ただ、それに何か意味があるのか。正直苦痛でしかない。

 一応、従業員同士で感想を発表し合う事で交流を深め、互いの存在に関心を持つ様に、また社員間の連帯を深める様に、というもうひとつの目的はある。ただそれは副次的なものであって、会社が求めている社員教育の一環としての読書会の効能としては、読書会を通じて社員が真面目に働く様になり、生産性が上がり不良率が下がり売上と利益が上がって会社が儲かる事が全てである様に思う。そしてその読書会における発表内容を、自分達の人事評価の一切を掌握している社長と出版社の社員に聞かれているという状況で、否定的な感想を述べる自由がある訳もない。ちなみにこの月刊誌の購読費用は福利厚生費として計上されているという話を聞いたが、「これが福利厚生かー日本語って難しいね」という印象だ。

 さて、翻って本著で語られる刑務所読書会だが、この読書会の良い点は『受刑者達の更生と社会復帰を促す為の教育の一環として仕組まれているもの「ではない」事』だ。この読書会を主催しているのは志を持ったボランティアであり、刑務所の所長でもなければ看守でもないし、もちろん政府でもない。その目的は彼等を更生させる為の教育というよりも、彼等の『自由』を――塀の中で大幅に制限されているであろう自由を――本に対する感想を述べるその一時であろうとも守り、ひいては彼等の尊厳を守る事にある様に思う。受刑者の尊厳、犯罪者の自由などと言うと「そんなものを守ってやる必要がどこにあるのか」という意見が出るだろう。自分も半分はそう思う。しかし、進む道を誤ってしまう人間の多くが、罪を犯す前からそれらの多くを与えられて来なかった、あるいは選択肢を奪われて来たという事実は事実としてあるのだろうとも思う。

 そんな読書会であるから、そこで語られる感想には「求められる正解」というものは存在しない。課題図書としては様々な小説があり、自伝やドキュメンタリーの様なノンフィクションもある。登場人物や著者に感情移入出来ない事もままあるだろう。その時は「自分には受け入れられなかった」と正直に述べる自由が彼等にはある。誰に遠慮する事もない。

 もちろん、ボランティアとはいえ読書会を主催し、選書する側の人間からすれば、受刑者達に楽しんでもらえるかどうか、興味深く読んでもらえるかどうか、どんな本を選べば読書会での意見交換が有意義なものになるかという計算はある程度しているし、彼等受刑者から引き出される感想に対しての『期待』はある。思惑もある。ただそれは『正解』ではない。どんな意見があってもいい。自分が選んだ本を「つまらなかった」と言われるのは選書した側からすれば期待外れの反応かもしれないし、残念な事かもしれないが、場合によってはそれでも構わない。そうした『自由』を持った気風がこの刑務所読書会の中にはある。自分の会社で行われている読書会には無いものが。

 自分はこれまで、読書という体験をあまり他人と共有して来なかった。友人と映画を観に行って、互いの感想を述べるという事は自然にしていたのに、である。ここにこうして本の感想を書く事を始めてから、気付けば結構な年数が経ったが、それはこの先の自分に宛てた備忘録の様なものであって、他者に対する感想の発表や共有という意識は薄い。自分にとって読書は本と読者との一対一の関係の中に集約されるものであって、読書会の様な形で誰かと共有する体験ではなかったのだと思う。ただ本著を読み、もしこの先自分にも機会があって、誰かと同じ本を読み、忌憚なく感想を述べ合う事が出来たら、それはもしかすると自己完結する読書とはまた違った楽しみになるのかもしれないとは思った。

 自由である事。文字にすればたったこれだけの事を守り通す為には、越えて行かなければならないいくつものハードルがある。自由を守る事の難しさを乗り越えた先に、ようやく本当の意味での交流が成されるのだろう。受刑者達が読書会という交流の場を得た事で、刑務所の中で作られた小さなグループ、例えばムスリムのグループであったりヒスパニックのグループであったり、黒人のグループであったりといった小集団の枠から離れて、異なる立場と境遇を生きている他者との交流を持てるまでに至る経緯は、他者からの強制や強迫というものが日常的に蔓延しているこの社会の窮屈さと『生き苦しさ』を浮き彫りにしている様に思う。

 塀の中の自由。塀の外の不自由。そんな言葉を思い浮かべながら、自分は与えられた課題の為に「求められる正解」をなぞる様な感想を書き始めようとする。苦痛で、実りがない感想を。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon