自分自身にも労りを・汐街コナ『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』

  

 カミングアウト、という程大層な話でもないのだけれど、最初に自分の事を書こうと思う。

 実は自分は、去年の10月末頃から心療内科に通っている。

 きっかけは不眠だった。明日会社に出社しなければならないと思うと寝付けず、深夜1時を回っても布団の中でもぞもぞと寝返りを打つ日々が続いた。そして眠れても、大体2時間もすると目が覚めてしまう。そしてまた30分位は眠れない時間が続く。

 そうこうするうちに、日々の暮らしの中から心の動きが無くなって行き、毎日出社して仕事をして、帰宅してまた翌日を迎えるという流れを機械的に繰り返すだけになって行った。無感動、無関心が常態化し、何だかあらゆる物事がどうでも良くなった。

 自分で一番ヤバイなと感じたのは、好きな読書でもその傾向が顕著になって来た事だった。小説を読んでも、調子が悪い時はそれが文字の羅列にしか感じられず、少しも心に響いて来ない。目が滑る。
 やがて、書店に行って本を買って来ても、帰宅してレジ袋から取り出す事もなく部屋の片隅に放置する様になって、何だか本格的にまずい事になっているのではないかと思い始めた。好きな事なのにやる気が出ない。趣味を楽しむ気力も無く、自分が生きている事に意味を見出だせない。何なら「ここで終わり」でも一向に構わないし、むしろその方が楽になれる気がする。夜中に目が覚めて眠れない時、ふと首を吊って終わりにしてしまおうかという考えが頭をよぎる。

 いわゆる『ブラック企業』の様に、毎日長時間残業を強いられたという訳ではない。今取り沙汰されている『過労死ライン』の問題からすれば、自分は追い詰められていた訳では無いのだ。ただ、今振り返れば職場の人間関係や自分に対する会社側の評価といった面で心身を削られて行ったのかもしれないとは思う。

 ここまで書いた上でこう言うと変に思われるかもしれないが、心療内科への通院を始めたのは「仕事を続ける為」だった。自分が会社を辞めれば多少は会社に迷惑を掛ける事になる。同じ会社でもっと頑張っている人はいる。採用してくれた社長に申し訳ない。親も心配するだろう。世間体の問題もある。再就職出来るか不安もある。何とか薬で眠れる様にさえなれば少しは前向きになれるかもしれないし、自分がそこまで駄目になっていると思いたくない。

 結論から言えば、これらの考えは甘かったし、間違っていた。

 自分はその後適応障害を発症し、自分が思っていたよりもダメージを受けていたらしい事が分かった。うつ病という診断書も出てしまい、もう仕事が世間体が再就職の段取りがという段階ではなく、冗談抜きで「気の迷いで自殺する」可能性が出て来た。
 診断書を受け取ってしばし呆然とした。病院の駐車場で車に乗り込んだまでは良かったが、この後どうしたものかと途方に暮れた。思えば一度出社してから早退して病院に来るまで、上司とどんな会話をしたのかすら憶えていない。

 結局自分はその足で会社に戻り、診断書を提出して上司に頭を下げ、退職の意向を伝えた。それがつい先日の事だ。そして来月には退職する事が決まった。

 それから少し心が軽くなり、書店に立ち寄った時、自分は本著を手に取った。書かれている内容は凄く共感できるものだった。漫画だから読み易いという部分もあった。
 『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』というタイトルの通り、ストレスを抱えて心が弱っている人は「今の状況に耐えて会社に通い続ける」という選択をしがちだと思う。本著にある様に、それ以外の選択肢が見えなくなっているのだ。会社を休むとか、思い切って辞めるとか、そういう選択肢を自分で塗り潰して無かったことにしてしまう。

 自分の事より他人の都合を優先させてしまう人は更に要注意だ。それが無理なく出来ている間は、ある意味『優しさ』であって美徳でもあるかもしれないし、自己中心的で周囲を振り回す人よりも良い生き方に思えるかもしれない。ただ自己中心的というのも行き過ぎれば批判されるし他人に迷惑を掛けるかもしれないが、「自分を大事にする」という事はどこかで意識していないと自分で自分を追い込み、場合によっては潰してしまう。最終的に自分の心を大事にしてあげられるのは、守ってあげられるのは自分しかいない。

 心のダメージを自覚するのは、自分の心でも他者の心でも難しい。心は目に見えないからだ。自分が傷付いている事にも、他者を傷付けている事にも気付き難い。

 自分が読書好きになったきっかけの作品のひとつに、福永令三氏の『クレヨン王国のパトロール隊長』という作品がある。この作品の中には、人の心を映像として映し出し、可視化する事が出来るものが登場する。映し出されたハート型の心を拡大して行くと、そこに地割れのように蔓延っている傷が見えるというものだ。そのシーンを思い出して、久し振りに電子書籍版で読み返したのだけれど、これが、弱っていて、小説を読もうとすると目が滑る様な今の自分には丁度良かった。作者が登場人物や読者に向ける眼差しは誠実で、優しい。児童文学を読むのはそれこそ何十年振りだろう。人間には、時に立ち止まって振り返るという事が必要なのかもしれない。

 今、不安はある。次の仕事を探さねばならないし、そこが今よりも良い場所である保証もない。ただ、「日々を生きる事」がいつの間にか「毎日をやり過ごす事、耐える事」に変わってしまった時、本書の様な作品から気付きを得て、立ち止まり、自分の心を見つめ直す事は必要なのだろうとも思う。自分が本作に出会ったのは退職を決めた後だったが、今迷っている人、日々を生きる事が重荷になってしまっている人に、一度立ち止まって本著を手にしてもらいたいと思う。

  

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原作の強度を穿つ作品群・ハヤカワ文庫JA『BLAME! THE ANTHOLOGY』

 

 『BLAME!』が好きなんです。
 というか弐瓶勉作品全般が好き。語る事はほぼその一点に尽きる。

 『BLAME!』はもちろん、『NOiSE』『ABARA』『BIOMEGA』を読んでいた頃は、その後の『シドニアの騎士』である種のブレイクが起きて、それがアニメ化され劇場作品になり、という流れまでは想像できなかった。そして今最新作である『人形の国』が刊行されている。もちろんこれも大好きだ。

 『シドニアの騎士』の時、正直「これまでと少し変わって随分取っ付き易い作品になったな」と感じた。ロボット物だし、ヒロインは出て来るし。自分は弐瓶作品でいわゆる「サービスカット」的なものが拝める日が来ようとは思っていなかったので、その辺もちょっと動揺した。まあ『ブラム学園!』みたいな異色作もあるにはあったけれど。

 ただここで、「インディーズバンドの頃はファンだったけれど、メジャーデビューして売れ出したらむしろ『日和った』みたいな捉え方をしてアンチに回る『あの頃は良かった』的な拗らせファンムーブ」をするのはちょっと違う気がする。ファンとして、原作者の知名度が上がり作品が売れ、また新たな作品が世に出て来る事の喜びはやはり大きい。

 模型業界でも「『艦これ』がヒットしたお陰で軍艦プラモデルの新作が発売されて嬉しい。艦これやった事無いし艦娘一人も知らないけど!」という方がいる様に、形は何であれヒット作が出るという事はそれが次に繋がり、ファンが喜ぶ展開が待っているという事でもある。だって『BLAME!』が劇場アニメ化ですよ。その上こんな小説アンソロジーも出る。作家陣も凄まじい。見よこのラインナップ。

 九岡望「はぐれ者のブルー」
 小川一水「破綻円盤 ―Disc Crash―」
 野崎まど「乱暴な安全装置 ―涙の接続者支援箱―」
 酉島伝法「堕天の塔」
 飛浩隆「射線」

 ここまで著名な作家陣が皆『BLAME!』世界を書く事って多分もう今を置いて他にないタイミングなのではなかろうかと思う。正統派から問題作まで幅広い。時に野崎まど氏はなぜBLAME!の世界にそのネタを混ぜようと思ってしまったのか。BLAME!の小説を読んで腹を抱えて笑う日が来ようとは思わなかった。ずるい。悔しいけど面白い。

 以前、柞刈湯葉氏の『横浜駅SF』を読んだ時も思ったけれど、これだけ個性的な作家が小説化して好き勝手にいじっても原作の世界観が破綻しないというのは、それだけ原作の『強度』があるという事なのではないかと思う。霧亥のキャラクターはもちろん、重力子放射線射出装置や、果てしない広がりを見せる巨大建築群。統治局、セーフガード、珪素生物、ネット端末遺伝子。それらが織り成す重厚な世界観が持つ強度。それは超構造体のそれの様に強固だ。そこに各作家が自分なりの傷を付ける、或いは穴を穿つ為には、それこそ重力子放射線射出装置の様な強烈な一撃を見舞う必要がある。そして本著では、どの作品でもそれがしっかりと成し遂げられている。

 という訳で、『BLAME!』好きとして、また本読みとしてもこれ以上お得な小説アンソロジーは無いのではないかと思うので漫画と一緒に買いましょう。次は何と冲方丁氏による長篇小説『小説BLAME! 大地の記憶』も待っているので目が離せません。弐瓶勉作品を未読の方は、今なら取り敢えず『人形の国』から入るのも手だと思うので良いタイミングだと言えます。そして今後も自分は手を変え品を変え、弐瓶勉作品を宣伝するつもりです。主に自分がファンとして得をする為に。

 追伸
 『ブレードランナー 2049』の予告編で、デッカードブラスターを構えて暗がりから出て来るデッカード=ハリソン・フォードの絵面はベタだと言われようが何と言われようが格好良い事この上ないので、重力子放射線射出装置も早い所市販して下さい。全国のBLAME!ファンの霧亥ごっこが捗ります。

    

遠く彼方に離れても、通じ合うもの・牧野圭祐『月とライカと吸血姫 2』

 

 1巻が単巻としてとても綺麗にまとまっているので、その続編である2巻はどの様に物語を膨らませて来るのだろうと思っていたのだけれど、読み終えてみればなるほど、と納得するしかない完成度の高さで舌を巻いている。

 前作と同じ様に本作もまた、史実としての宇宙開発競争をベースにレフとイリナという二人の主人公の物語を描き出す。不器用に、でも確かに互いを想い合う二人の距離は、物理的にも精神的にも引き離されて行く事になるのだが、その困難を二人がどう乗り越えていくのかという過程をやきもきしながら追って行く内に、本作はもっと大きなテーマにも迫って行く事になる。

 夢を追う事。夢を叶える事。そして、ひとつの夢を叶えた先に待っているものの重さ。

 現実に世界初の有人宇宙飛行に成功した宇宙飛行士、ユーリ・ガガーリン。彼が語ったとされる言葉や、その偉業は多くの人々が知るところだ。でも実際に、ひとりの人間として彼がどんな人物だったのかという事を、少なくとも自分はほとんど知らない。彼がどんなものを好み、仲間とどんな事を語り、そしてどんな人を愛したのか。どんな幼少期を過ごし、なぜ宇宙飛行士になる事を志したのか。宇宙の高みから地球を見下ろした時に、どんな事を思ったのか。

 国家という大きな枠組みは、個人の、或いは人類の夢を叶える為の善意だけで動く事は無い。ひとりの英雄を生み出す為に支払われたものの重さを考える時、英雄となった者がそれと釣り合うだけの重さを背負う事を求められたのだろう事は想像に難くない。
 英雄となったその人にしか分からない重圧。そこに秘められた思い。そうしたものを想像する時、本作を通してその一端に思いを馳せる事が出来る様な気がする。

 本作で『人類初の宇宙飛行士』を目指すレフ。そして、その影の様に扱われる吸血鬼、イリナ。人類初の偉業である有人宇宙飛行の成功と、英雄の誕生を欲する国家。それぞれの思いは複雑に絡み合う。そして英雄になる者は、個人の願望よりも、等身大の自分である事よりも、他の人々が望む英雄の姿を体現する偶像である事を求められるという事実。またそれを分かっていながら、個人に国家の威信を背負わせてしまう時代背景と社会構造が抱える虚しさ。

 現代の日本に住む自分達が過去を振り返るならば、当時の国家間の対立や、他民族への差別感情といった負の感情を越えて、素直に人類史に残る偉業を達成した宇宙飛行士を称える気持ちを持てるかもしれない。しかし、当時の時代の流れの中では、素直にそうできない人々もいた筈だ。競争に負けたと感じ、他国の成功に歯噛みした人もいるだろう。自国民の、自民族の誇りを汚された様に感じた人もいただろう。そして現代を生きる自分達は、まだどこかでその影を引き摺っている。

 北朝鮮は弾道ミサイルを打ち上げ、核兵器をちらつかせて交渉を要求して来る。拉致問題も解決の兆しが見えない。韓国とは従軍慰安婦問題を巡る反日感情と、それに対する反発という対立が打ち消せないままだ。中国とは尖閣諸島を巡る領有権問題等がある。「隣国と関係が良好な国家はほとんど無く、皆何かしらの摩擦を抱えているものだ」とは言うが、現実でもネット上でも公然とヘイト的な発言が行われる昨今、これでいいのか、という思いは尽きない。

 もちろん、良くはない。ただ、乗り越えなければならない壁、埋めなければならない溝が余りにも多過ぎる。溜息が出る程に、多過ぎる。

 自分は本作に希望を見る。そしてその事に、フィクションの中に希望を探してしまう現実に嘆息し、俯く。

 やがて本当の宇宙時代が来て、全ての人が宇宙から地球の姿を見る事が出来ればいいのにと思う。誰かの体験談や、人工衛星から撮影された映像ではなくて、自分の目でこの星の外側から地上を眺める機会があればいいのにと願う。ロケットでも軌道エレベーターでも何でもいい。自分達の間に横たわっている溝が些細なものに思える程の距離まで遠ざかる事が出来る手段があればいいのに。引いて見る手段があればいいのに。

 実際にその時が来たとして、自分達が変われるのかどうかは分からない。もしかすると次の時代が訪れても、自分達は相も変わらず差別感情に立脚し、他人を見下して優越感に浸ったりしているのかもしれない。対立は対立のまま残されるのかもしれず、宇宙に進出すれば進出したで、今度は宇宙と地球の対立なんていう新しい対立軸が生まれるだけなのかもしれない。

 でも、はっきりしているのは、今のままは嫌なんだという事だ。

 自分達がどこに行くにしろ、どこに流されるにしろ、その行き着く先が何の進歩もない場所であって欲しくはない。相も変わらず憎しみ合い差別し合い、いがみ合い牽制し合い殺し合い、閉塞感や『生き苦しさ』を感じていたくはない。

 そう願う事が、過ぎた願いなのかどうか。解決の糸口は無いのか。

 そういう見方で本作を読む時、ここにある希望がいつか現実になって欲しいと、自分は願わずにはいられなかった。

 

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ミサイルが放たれた今日と、宇宙に飛び立つ明日に・牧野圭祐『月とライカと吸血姫』

 

 今日、北朝鮮が弾道ミサイルの発射実験をした。ミサイルは北朝鮮の内陸部に落ちたとされ、国内では東京メトロが安全確認の為、一時運転を見合わせる事態になった。朝起きてそのニュースを見て、一応の安全が確認されている事を知った後で自分がした事は、有事に備えて生活必需品を備蓄する事でもなければ、いざという時の為に身の安全を確保する為の行動を再確認する事でもなく、本作を読み始める事だった。

 史実における米ソの宇宙開発競争。東西冷戦下で繰り広げられたそれを、ソ連側の視点から、吸血鬼と呼ばれる架空種族の存在を織り交ぜて再構築したのが本作だ。人類初の有人宇宙飛行をどちらの勢力が先に成し遂げるのか。その競争の中で、史実におけるソ連=ツィルニトラ共和国連邦側では、人間を乗せる前段階として吸血鬼を使う『ノスフェラトゥ計画』が立ち上げられる。仮に失敗しても痛手ではなく、成功したとしても『人類初』の有人宇宙飛行の栄冠は吸血鬼に与えられる事はない。

 かくして吸血鬼の少女、イリナと、そのお目付け役として彼女を監督する様に命じられた宇宙飛行士候補生の青年、レフは、それぞれの思いを胸に宇宙を目指す事になる。

 本著はボーイミーツガールの物語として、また宇宙開発を題材とした物語として王道とも言える展開で、読後感も非常に爽やかだ。だからこそ自分達の生きるこの現実に覆い被さっている諸問題が浮き彫りになる。

 本作でも語られる様に、有人宇宙飛行の為のロケット開発とは即ち、弾道ミサイルの開発と同義だ。かつての東西冷戦下で宇宙開発が進んだのは、それがミサイル開発競争でもあったからだし、人工衛星を打ち上げる技術の確立は、星の世界に探査機を飛ばすというロマンではなく、スパイ衛星を使って軍事的優位を得るという実利の為にこそ必要だった。

 人類が、その持てる技術と資金を調和と協調の為に、平和の為に使えていたら、もっと宇宙開発は進んでいたのだろうか。それとも、軍事技術の開発競争という負の側面があればこそ宇宙開発は進んだのか。現実的に見れば後者が正しい認識なのかもしれない。

 日本では、日本学術会議が「軍事目的の科学研究をしない」という態度を貫いて来た。しかし、科学研究や技術開発とはどこまでが平和目的で、どこからが軍事目的だという線引きをする事が難しいものでもある。GPSの様に軍事技術が一般化したものもあれば、逆に平和利用の為のロボット技術が偵察ロボットやドローンの様な物として軍事転用されて行く事もある。政府や軍関係から、或いは兵器開発会社から資金供与を受けていなければその研究がシロであるというものでもないだろう。グレーな領域というものはやはり存在する。

 例え話をするなら、自分はアウトドアで使う様なナイフを持っている。それは料理をしたり薪を調達したりする目的で使用している間は『道具』だ。でもナイフは、人に向けた瞬間に『凶器』になる。道具が変わった訳ではない。使う人間の側が考え方を変えただけだ。

 本作の主人公であるレフもイリナも、その他宇宙開発に携わる研究者や宇宙飛行士の候補生達も、皆その事には気付いている。自分達が宇宙を目指す為のロケットは、誰かの頭上に落とす為のミサイルでもある事。宇宙開発が平和な競争ではなく、軍事的優位を得る為の、ある意味での生存競争でもある事。顔も名前も知らない『敵』に勝つ為に、『国家』という巨大な枠組みによって突き動かされる様にして人が動く。自分達の夢も理想もその現実の枠組みから自由ではないという事を。

 現実の汚濁を知りつつも、その中で夢を叶えようとする事。差別や偏見といった根深い問題を乗り越えて、相手を思う事。その為の物語を読む側の自分達に突き付けられているのは、果たして現実の自分達に同じ事が可能かという事だ。今現実にそこにある悪意、特定の集団に対して煽られるヘイト、自国第一主義。そういったものから離れられるのかどうか。手放せるのかどうか。手にしようとする技術を正しく人々の幸福の為に用いる事が出来るのかどうか。

 その終わりなき問いを前にして、自分達の現実は続く。
 ミサイルが放たれた今日も。いつか誰かが宇宙に飛び立つ明日も。

 

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本当の欲が目に見えるのなら・河野裕『最良の嘘の最後のひと言』

 

 実在の企業で言えばGoogle的な大企業であるハルウィン社が「4月1日に年収8000万で超能力者を一人採用する」と告知する。ジョークだろうと思われていたその企画は実在し、最終選考に残った7人の自称超能力者達は一通の採用通知書を奪い合う最終試験に臨む事になる。試験期間は3月31日の18時から24時まで。採用条件は、一通しか存在しない採用通知書を手にして、試験終了1時間前に居場所が開示される採用担当の係員に手渡す事。その為に試験開始時にナンバー1の参加者が手にしている採用通知書を、他の6人の受験者達は何らかの手段で奪い取らなくてはならない。

 自称超能力者達の騙し合い。それも年収8000万という具体的な数字が示された、大いに『欲』が絡んだあらすじを読むと、何だかどろどろとした闇の中で腹黒い登場人物達が己の欲の為に他者を蹴落とそうとする嫌な物語を想像してしまうが、本作の何が『嘘』かと言って、その第一印象が既に作者の嘘に嵌っていると言える。少なくとも自分はすっかり騙されたクチだ。

 こうした小説の感想を書こうとすると、何を書いてもネタバレに繋がりそうで迂闊な事は書けないのがもどかしいのだけれど、本作は登場人物達の騙し合いや駆け引きがメインになる物語を描きながらも、作者が『サクラダリセット』で見せた様な、超能力者という存在(もちろんそれは架空の存在なのだけれど)に対する、慈しみにも似た透明感を持っている。

 超能力というものが実在し、超能力者という存在がいるのだと仮定して考えてみる。その時に「他人にはない特別な(それも多くの場合便利な)力が備わっているなんて羨ましい」という風にポジティブに考える人と、自分の様に後ろ向きな事を考えるタイプの人がいるのだろうと思う。後ろ向きな事、というのは具体的にどんな事かと言うと、それは超能力者が持っているであろう「自分が見えている世界や、自分が感じているものを他者と共有できない」というある種の断絶というか、孤独感を指す。

 自分の考えを相手に届けるタイプのテレパシーなら別なのかもしれないが、超能力とされる力は他の大多数の他者と共有する事が出来ない。だから『超』能力なのであって、技術として確立されていないから第三者が模倣する事も出来ないし、科学的に実証されている訳ではないから超能力者以外の人間には再現出来ない。現実にも透視だったり千里眼だったり、ある種の霊媒の様な能力だったりを持っていると自称する人々はいて、行方不明者の捜索等で警察に協力している、という類のテレビ番組がたまに放送されるが、彼等にしても100%の的中率で物事を言い当てる訳ではなく、全ての事件を解決できる訳でもないから、どこか胡散臭さを持って受け止められている所がある。「超能力なんていうものの存在自体を自分は信じないよ」という人も多いだろう。

 話が若干逸れたが、仮に超能力者という存在がいるとして、或いは自分が超能力者だったらと仮定して、でもいいけれど、そう仮定した時に彼等が何を思うのかと考えると、それはやはりある種の孤独感なのではないかと思う。自分が持っている力を通して見えている世界の有り様を、決して他者と共有できない事。でもそれは、よく考えてみれば自分達の様な「普通の人間」であっても日々感じている事だ。

 他者からの理解や共感が得られない事。自分の気持ちを、相手に上手く伝えられない事。誤解が生じる事。無理解から生まれる誹謗中傷の類。気持ちや価値観のすれ違い。孤独感。寂しさ。或いは『生き苦しさ』。

 そうした感情の機微をとらえて物語にしようとする時、超能力者という架空の存在を通して表現しようとするのは有効なのではないかと思う。「例え話」と言えば良いのか、仏教的に言えば「方便」というものがあるが、ある種の寓話の様に、誇張された表現を通じて真に迫る事を目指す様なやり方がある。本作はエンタメとして読む事も出来るというか、事実エンタメ小説として書かれているのだろうけれど、自分がその中から感じ取るのは、『サクラダリセット』がそうだった様に、登場人物達の感情の揺れ動きの方であり、超能力者という架空の存在を描く事で、現実の自分達の抱えているものに光をあてようとする行為の方なのだろう。

 本作の登場人物達が望むものは大企業への就職によって得られる多額の報酬なのか、それとも別の何かなのか。何が嘘で、何が真実か。自分達が抱えている『欲』は、金銭によって満たされるものなのかどうか。自分達が抱えている『欲』がもし目に見えるものだったとすれば、その欲が本当に向いている先には何があるのか。読者は、この物語から何を感じるのだろう。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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