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首から下げた値札は首吊り縄の様で・御影瑛路『利他的なマリー』

 

 今この時代だから、本作の様なライトノベルが刊行されるのかなと思う。

 数年前に有名YouTuberのヒカル氏らが「VA」と呼ばれる模擬株式を発行し、個人から資金を調達できるサービスである「VALU」を利用して、自身のVA価格をつり上げた後、発行済みの全VAを売り出して不当に利益を得たのではないかと騒がれる問題が起きた事を覚えている人がいるかもしれない。

 個人が株を発行するという事は、時価総額が企業価値ではなく個人の価値を反映するという事で、平たく言えば「個人に値が付く」という事だ。
 株式会社の様に、「この人はどの程度将来性があるか」「現在の社会的地位や価値がどの程度のものか」なんていう事が金額で示される訳で、そこにはある種の明快さと残酷さが同居している。

 本作はひとつの都市を舞台に、そこに住む人々全てが模擬株式を発行し、市場価値が付けられている世界を描いている。ありそうな世界観だが、都市に重ねられた拡張現実(AR)世界では、互いが保有する自分の模擬株式≒時価総額を奪い合う戦いが日夜繰り広げられていて・・・・・・と、一捻りしたバトル物というライトノベルらしい仕掛けが組み込まれてもいる。

 本作をどう読むか。自分は将来性に溢れた若者ではないから、自然と意地悪な読み方をする。

 「貴方の時価総額は100万円です」と言われる人と、「貴方の時価総額は9千万円です」と言われる人が隣に並んでいて、互いの時価総額が容易に確認できる社会を作ろうという発想はどこから来るのか。その当然の疑問について、本作は「出自や経済状況等に関わらず、全ての市民が自身の努力次第で自らの価値を高め、将来を切り開く資金を調達する事が容易になる事が平等な社会を実現する」というコンセプトを提示する。なるほど実力主義、成果主義が叫ばれる昨今、それはある種の『平等』ではあるのかもしれない。「誰にでも挑戦する権利は与えよう。成功できるかどうかは自己責任だけれど」という世界だ。

 ただ当然の事ながら、この制度は『人間の価値』を時価総額の下に画一化し、「一定の時価総額を有する市民と、価値を失って沈んで行く敗北者」の二極化を生じる。
 難しい話ではない。現実でだって、自分達は日々自分以外の誰かと価値を比べられながら生きている。

 例えば年収。自分は仕事で給与計算をして明細を発行する時いつも「ああ、上司にとっての1時間は時給に換算すると自分の3倍以上の価値があるのか」と思う。

 例えばSNS等での発言力。フォロワーを多く抱える著名人の一言は瞬く間に世界中を駆け巡るけれど、自分の様な人間の言葉は多くの場合壁に吸い込まれて消えて行く。自己実現の度合いを測る為の『いいね』の数比べは不毛だと知りつつ、実際皆が気にしている。

 『ドラゴンボール』では戦闘力を測る「スカウター」というアイテムが出て来るけれど、自分達の価値もまた常に数値化され、誰の目にも分かる様に並べられ、比較されている。まるでアンドリュー・ニコル監督の映画『TIME』の世界だ。腕に書かれたデジタル数字の余命は人間性を秒単位で切り刻む。人生の残り時間を切り売りしてその日の糧を手に入れる暮らし。そして、そんなものを意識しない、無限に等しい寿命を持つ富裕層の暮らし。将来に希望を持つ事が許されない者達の鬱屈。勝者と敗者が明確に色分けされた世界がそこにはある。

 そうした世界の『生き苦しさ』を煮詰めて際立たせ、ライトノベルという器に盛り付けると本作になる。「皆が感じている(かもしれない)『生き苦しさ』ってこういう事だよね」「なんとなく今の社会に漂っている閉塞感の正体ってこういうものだよね」という問題提起。でもそこに今すぐ現状を打開する為の処方箋は無い。だから自分達はまた、自身が置かれた現実に向き合い、自分自身の力で社会との折り合いを付けて行くしか無い。そういう絶望、或いは希望を本作から読み取る時、自分の様な人間は溜息をつく。都合の良いハッピーエンドは現実には用意されていないから。

 

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ジャンル : 小説・文学

自分達がこの国を喪う時 ヴィエト・タン・ウェン:編 山田文:訳『ザ・ディスプレイスト: 難民作家18人の自分と家族の物語』

 

 『難民』と呼ばれる人々がいる。

 難民と聞いて自分が真っ先に思い浮かべるのは、戦争や紛争によって故郷を追われた人々だ。生き延びる為に幾度も国境を越え、自分達を受け入れてくれる場所を、国を求めて歩き続ける人々だ。

 明日の事は分からない。どこに辿り着く為の道行きなのかも判然としない。今日の糧を、雨風を凌げる屋根を求めて、彼等は歩く。帰る家もなく、行くあてもない。行く先々で「よそ者」のレッテルを貼られ、どこかに根付こうとすればその度に小突き回される。「よそ者」が自分達の仕事を、富を奪いやがる。そんな風に恨まれて。国に帰れ。お前らが元々いた国に帰れよ。俺たち「この国の人間」に迷惑を掛けるんじゃねぇ。訳の分からん言葉を話すんじゃねぇ。違う神を信じるんじゃねぇ。群れるな。ここに居着こうとするな。目障りだ。出て行け。この「俺達の国」から出てけよ。

 そんな風に言われて、悔しくて、俯いて。本当は顔を上げ、相手を睨んで何か言い返してやりたくても、それすら許されない空気の中、喉元まで込み上げる叫び声を飲み込んで、振り上げる事が許されない拳を固く握ったまま、誰とも握手する事が出来ないその固く閉じられた手をポケットに押し込んで、また歩き出さなければならない。自分達は何も好き好んで国を出た訳じゃない。もう帰る場所は無いんだっていう事を、何で誰も分かってくれようとはしないんだ。そんな理不尽さと、世界の狭量さだけを道連れにして、また旅は続く。望まない旅が。

 けれどこんな自分の想像は、『難民』の一側面に過ぎない。本著を読むと、その事が分かる。

 一度難民になり国を追われた人々は、新しい場所で生活基盤を得たとしても、世代を重ね二世、三世になったとしても、やはりどこか難民としての影を引き摺ったままなのかもしれない。

 ルーツが違う。文化が違う。人種が、肌の色が、信仰のあり方が違う。話す言葉が違う。名前の聞き慣れない響き。夕餉の匂いの違い。様々な違いが、異国では「よそ者」の烙印になる。ではそれらを捨てて、行き着いた先の国に住む市民として同化して行けば良いのか。物事はそれ程単純ではないと思う。

 自分は思う。例えば日本人は、いや自分は時に「よそ者」を恐れ、避けようとしたり排除したりしようとするけれども、その恐れの源になっているのは、作られた「よそ者」のイメージなのであって、自分自身は実際に彼等と対面した事などほとんど無いのではないか。彼等の存在を無視し、目を逸らし、彼等を「そこに居ないもの」として扱いつつ、一方で思い込みに近い恐れだけを抱いているのではないだろうか。

 この国に少しずつ増えている異国から来た労働者に対する態度にしてもそれは同じ事で、この国は彼等を「労働力としては歓迎するけれども、この国で存在感を増す事は許さないし日本的な価値観に背く事も許さない」という歪な立ち位置に追いやろうとしているのではないか。外国人技能実習生だとか大層な呼び名で人集めをしておいて、実際は最低賃金で単純労働に従事させている例を知っているが、その行為がこの国の国際的な信用を失墜させているとは思わないのだろうか。

 もしも、この国が国策として海外から労働者を集める一方で、彼等を文化的には受け入れず、居場所も与えず、「よそ者」として処遇するならば、彼等は『難民』と呼ばれる人々と同じ様な孤独に突き落とされるのではないだろうか。そして最後にはこの国を憎んで去って行くのではないか。そんな気がする。

 自分が知っている外国人技能実習生の女性達は、タイからやって来て、製造業で働いていた。会社が借りたアパートで同じ実習生の仲間と共同生活し、日本人の正社員と何ら変わらないシフトで働く。それでも賃金は最低賃金だった。その環境に異を唱えるならば、彼女達は国に帰らなければならない。「嫌なら、不満があるなら辞めて出て行け」と言う人は多いだろう。技能実習生は難民じゃない。彼女達には帰れる祖国があり、好きで日本に「出稼ぎ」に来たのだからと。でも、日本人労働者が足りなくて、技能実習生を最低賃金で働かせる事で穴埋めをしているにしては、それは随分と横柄な態度ではないだろうか。

 難民を排斥する狭量さと、外国人労働者を冷遇する横柄さとは、等しく「よそ者」に対する恐れから来ているのではないかと思う事がある。彼等がこの国の中で数を増やして行く事への恐れ。日本という国が新興国に追い抜かれて行き、立場を失う事への恐れ。その一方で、彼等を頼らなければならない事への焦り。そうしたものからまた歪な愛国心や排外主義が育って行く悪循環がある。

 日本とは、そんな国だったか。そんな国になって良いのか。

 排外主義がこれまでの日本人の価値観に取って代わる日が来るのなら、それはもう自分が知る、自分が育った国とは呼べないのではないだろうか。その時が来たら、この国の中にあって、自分達は国を喪い、『難民』になるのかもしれない。

 

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神は死して何も語らなくとも・九岡望『言鯨16号』

 

 趣味で長いこと本読みをしていると、小説家の凄さを思い知る事が多々ある。例えば本作を読んだ時の様に。ただそれと同時に、小説家とか脚本家、或いはライターという職業を「何か自分でもなれるんじゃないか」と軽んじる言説に触れる事も多々あって、そのギャップはどこから生まれるんだろうと思う。

 端的に言って、その原因は「文章を書くだけなら誰でも出来る」からだ。

 日本は義務教育が行き届いているから、日本語の読み書きは皆それなりに出来てしまう。だから自分がこうして読んだ本の感想を書いているくらいの事はやろうと思えば今からだって誰にでも出来るし、多くの人がSNS等に日々書き込んでいる文章量をまとめたら、それこそ寡作な作家が1年に出版する作品の文章量を軽く超える様な人だっているかもしれない。

 でもそれは、「文章を書いた」事になったとしても、「小説を書いた」事にはならない。何故か。

 単純に「創作ではないから」とか「表現が拙いから」という事だけではない様に思う。

 例えば、ちょっとした「文章」を書いてみる。

“僕はマッチを擦って火を点けた。”

“僕はマッチ箱を取り、ぎこちない手付きで中から一本取り出して擦ってみる。擦り方が悪いのか、一度では上手く点けられずに数回繰り返してようやく火を点け、思ったよりも頼りないその火が消えぬ様に左手で風除けを作る。そうして仏壇の蝋燭に火を灯しながら、この作業を毎日淀み無く繰り返していた祖母の事を考えていた。その祖母の真新しい遺影が、揺らめく蝋燭の灯りに照らされている。”

 自分が思うに、これはどちらもただの文章であって、創作でもなければ小説でもない。前者は言わずもがなだが、後者にしたってただ文字数を増やし、それっぽく長い文章に仕立ててみただけで中身はない。これが、普通の人でも「文章ならいくらでも書けてしまう」という事で、絵を描くとか楽器を演奏するとかいう事が習得する事に一定の努力を要する「技能」とみなされる一方、小説や原稿を書く事が「何だか自分でもできそう」的な軽い扱いを受けてしまう所以なのではないかと思う。

 では本当に「文章を書く事は誰にでも出来るのだから、小説を書く事だって誰にでも出来るのか」というと、当然ながらそんな事は無いのだった。

 言葉というものを武器にして、世界を想像=創造し、登場人物達に命を吹き込み、彼等の物語を描き切る事。それを可能にするのが小説家という人々なのであって、その『言葉が意味を持って響き渡る事が世界を創造する』という過程こそが、まさに本作『言鯨16号』で描かれる物語とも重なる。

 これは何度か書いているけれど、かつて冲方丁氏が『ばいばい、アース』の中で、既存の言葉の意味をどんどん書き換えて行く事で異世界を構築していた事(例えば『飢餓同盟』に『タルトタタン』というルビが振られていたり)もそうなのだけれど、小説家が本当にやろうと思えば、ファンタジーにしろ、SFにしろ、現実から遠く離れた世界を、あたかも実在するかの様に緻密に描く事が出来るのだと思う。

 本作で言えば全てを飲み込む様に広がる砂の海を舞台に、神の様な存在でありながら今は姿を消した「言鯨(イサナ)」と、その遺骸を囲む様に作られた「鯨骨街」の姿を描く事。そして言鯨の遺骸から生じる「言骨」を採掘する炭鉱夫の様な「骨摘み」と呼ばれる人々の暮らしぶりや、その「言骨」を生成し、資源化した「詠石」がいかに人々の暮らしを支えているかという部分の描写。それらを「設定だけ緻密にする」のではなく、物語の流れの中で登場人物達の視点や想いを介しながら読者に分かりやすく開示して行く事。それら全てが繋がる所に、単なる作り事、作り話ではなく「物語」が生まれるのだろう。

 「物語る事」とは、自分に言わせれば楽器を鳴らす事と、楽器を演奏する事の違いの様に自明のものだと思う。自分は文章を書く(楽器を鳴らす)事は出来ても小説を書く(楽器を演奏する)事は出来ない。だから本作の様な小説を読むと感銘を受ける。現実には存在しない世界と、架空の登場人物が、小説の世界の中では現実に生きているという事に感じ入る。

 最後に。小説家が新しい世界を創造する時、それは多分神の視点なのだろうと思う。でもそれ以上に、自分達は(そう信じるなら)神によって作られた被造物だ。創り主はどんなつもりで自分達をこの様に不完全な代物として創ったのかなんて説明してくれない。それでも、生は続く。そのままならなさ、やるせなさ、でもその先に見える希望みたいなものが本作にはある。誰も何も保証してくれなくても、今を生きている自分達は、自分達の意思によってこれから先を生きていかなければならない。それを悲壮感あふれる物語としてではなく、希望が見える物語として描いてみせる事。そこに本作の真髄がある様な気がする。
 
 

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世界の滅びが、孤独の終わりになるのなら 大槻涼樹・虚淵玄『沙耶の唄』

 

 唐突だが、自分は『終末の過ごし方』と『沙耶の唄』というPCゲームをこよなく愛する人間なので、本作については誰に頼まれた訳でもなく語らねばならないのだった。というか、かつてその2作品をプレイした時も、自分は誰に頼まれた訳でもなく発表の場を持っている訳でもないのに長文の感想を書きなぐり、友人に送り付け、このゲームが、テキストが、物語が、いかに自分に刺さったかという事を分からせようと必死だった。当時は『刺さる』という表現はまだ無かったけれど。

 「『沙耶の唄』は誰が何と言おうがハッピーエンドである」というのが当時の自分の持論であり、その事を訴える文章は「分かって欲しい」という願望よりもむしろ「分かれ」という命令形に近いものだったと思う。

 ……単に、気持ち悪い奴である。迷惑な奴とも言う。

 かつて書いた文章はもう手元に残っていないが、そんな自分が今本作を読んで思う事は、「若かりし頃の自分は確かに気持ち悪い奴であったが、あながち間違った事も言ってはいなかった」という事であり、個人と社会、或いは世界というものの関係に執着していた自分が、多分今も同じ「わだかまり」を抱いたまま生きているという事の再発見でもあった。

 あまり主語を大きくすると嘲笑されそうだが、自分も含めたいわゆる『ロストジェネレーション』と呼ばれる世代は、社会、ひいては世界の中に「自分の居場所がない」と感じる事が多い世代だった様に思う。

 大人の言う事をよく聞いて、真面目に勉強をして学歴を積んで、良い会社に入って安定した生活を手に入れる事。そんな今となっては誰も信じない様な人生設計は、自分が中学生の頃まではまだ有効だった。それが、いつの間にか偏差値教育の否定が始まり、バブルが弾けて大人達は自信を無くし、子ども達に対して「正解」を示す事が出来なくなった。

 とにかく「型にはまってはみ出さない事」「一度たりとも間違わない事」を幼少期に叩き込まれた自分達は、やがて中途半端に個性を要求され、次いで不況の中で社会に放り出され、各々「自己責任で」自分の居場所を掴む事を求められたのだった。これまで散々言外に「自分達の言う事を聞け。自分達が敷いたレールの上を走れ」という態度を取って来た大人達は、この時には梯子を外しておいて何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。大人達もまた、道を見失っていたから。

 社会は、世界は狭量だった。

 自分は、自分自身の至らなさを全て世代や社会のせいにしてしまいたい訳ではない。ただ、自分は失敗したのだろうと思う。世の中の価値観や仕組みが変わっていく中で、自分自身のあり方を変えて順応する事にも失敗したし、社会のあり方に異を唱えて変革を促す事にも失敗した。もっと言えば、気に食わない社会を壊す事にも失敗したのだろう。だから自分は、「終わる世界」の物語に異常に執着するのかもしれない。

 居場所の無さや「生き苦しさ」は、常に感じていた。

 だから、この物語の中で『沙耶』という「決してこの世界に在る事を許されないだろう存在」が、同じ様に疎外された存在である郁紀と出会って、恋をして、愛を知って、その結果としてこの世界が壊れるのなら、壊れればいいじゃないか、というのが自分の結論になったのだろう。

 世界が壊れるのなら壊れれば良い。人類が滅ぶのなら滅べば良い。その滅ぶ側に当然自分が入っているとしても構わない。その滅びの代わりに、『スッタニパータ』で語られる『犀の角』の様にただ独り歩んで来た沙耶の孤独が終わり、彼女が見付けた恋が花を咲かせて、実を結ぶのであれば、それはハッピーエンドと言って差し支えないものなんだよって、きっと当時の自分は言いたかったのだろうし、その思いは今も変わらないのだろうと思う。

 ここから先は余談というか蛇足だ。

 自分が「今ある世界が、現実が壊れて行く」物語に執着するのは、きっと中途半端にこの世界に期待しているせいだ。だから理想が実現しない事に怒ったり、恨んだりしている。束縛されていると言い換えてもいい。もっと若い世代は、自由だ。その想像力は、異世界を次々と創造して行く。この世界に縛られないで、自分がいるべき場所、望む世界、そしてそこに立つ自分の姿を如何様にも変えて行ける。その軽やかさを自分は羨む一方で、どこか乗り切れないでいるのだろう。それは要するに自分が「古いタイプの人間になった」という事なのかもしれない。

 

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無名の英雄達が歩んだその先に・真藤順丈『宝島』

 

 本作は第160回直木賞、第9回 山田風太郎賞を受賞した小説であり、世間の注目度も高い作品だと思う。そしてTwitterでも書いたけれど、各賞を受賞した事よりも、「沖縄の戦後史」を描いた作品として、物語そのものの評価以外の所で注目され、その事で本作を政治的に称賛したり、逆に批判したりする人達が大勢出てくるだろうと思う。

 だから最初に書いておく。自分はこの作品が好きだ。
 政治的に、思想信条的にどうこうという話ではなく、数々の困難に見舞われながらも、それぞれに「生きる」という事から逃げなかった登場人物達を、誇らしく思うからだ。

 あらすじを語る事は他に譲ろう。その代わり、自分がなぜ本作を読もうと思ったのか、という話を書きたい。

 自分は「文学賞の受賞作だから」「ベストセラーだから」という理由で本を買う事はあまりない。それよりは「自分に『刺さる』作品かどうか」という所に関心があって、誰でも知っている様な作品が刺さる事もあれば、マイナーな作品が刺さる事もある。あとは、自分が関心を持っているテーマが描かれているかどうか、という部分だ。

 本作が直木賞を受賞して、その内容が「沖縄の戦後史」(この言い方は「沖縄には本土の様な『戦後』など存在しなかった」という向きからすれば噴飯ものかもしれないが、自分の様な東北の片田舎で産まれた人間が外から沖縄の歴史を見て書いている言葉と思ってご容赦頂きたい)を描くものだったからだ。

 自分の地元である福島県は、ご存知の通り原発事故の只中にある。

 原発事故が起きた後、それまで普通に稼働していた原子力発電所を「いつか事故を起こすかもしれない厄介な施設」とみなす人々が増えた。そしてそれを沖縄の米軍基地と重ね合わせる人々が登場して、「国策推進による負担やリスクを地方が引き受けるという構図は、沖縄の米軍基地も各地の原発も同じだ」と主張し始めた。ただ、原発推進反対運動と、基地反対運動が連携できる種類のものなのか自分には分からなかった。

 そして自分は沖縄が抱える基地問題について、何とも言えない居心地の悪さを感じ始めた。

 原発事故について言えば、地元は大変苦しんでいる。ただそれと同じ文脈で語られる基地問題については、自分もむしろ沖縄に長年負担を強いて来た『加害者側』の人間なのであって、その沖縄の苦悩を知りもしない。沖縄の苦悩を「想像する事」と、「確かに『知っている』と言える事」の間には超え難い壁があって、自分はそれを破れないだろうと思う。それが自分にとって都合の悪い原発事故が起きたからといって、急に基地問題の理解者かの様に振る舞うのは違うのではないかと思い直した。福島と沖縄を比較して、そう思う。

 福島に原発が誘致される時、そこには「地元の雇用確保」「原発受け入れによってもたらされる交付金」等の利点があった筈だ。受け入れる方はその利点とリスクを秤にかけた筈だし、東京電力にしろ、国策で原発推進を行った政府にしろ、何も「金の力で福島に原発リスクを押し付けてやる」などと思っていた訳ではなく、都市部と地方の経済格差を埋め、地域振興の一助となるべく「良かれと思って」行った筈だと思う。福島の問題は、最初は「善意」から出発したのだろう。結果が悪い方に転がったのは残念だけれど、その結果をもって最初から福島が踏み躙られていた、軽んじられていたと考えるのは穿ち過ぎだと思う。

 翻って沖縄の人々は、恐らく最初から発言権も無ければ拒否権も無かった。

 本作に倣って書けば「アメリカー」が、沖縄に基地を置き続ける事について地元に許可や理解を求めた事はないだろう。沖縄戦から占領統治を経て本土復帰を果たした現在でも、沖縄と本土、沖縄とアメリカとの間には深い溝がある。ある意味、本土の日本人はアメリカに沖縄を差し出す事で自国の安全保障を担保し、アメリカは沖縄に基地を置き続ける事で太平洋の覇権を握った。その「国家対国家」の利益の為に、あらゆる問題を肩代わりし、背負って来たのが沖縄の人々ではなかったかと思う。

 前置きが長くなったが、これらの経緯から、自分は沖縄の戦後史に目を向けるべきだと思って本作を手に取った。ただ、自分が本作を好きなのは、沖縄の戦後史に正面から向き合うというテーマ性だけが理由ではない。沖縄の過酷な時代背景の中で、恐らくは本作の登場人物達の様に必死に生きた人々が実在しただろうと思わせる作品だからだ。

 米軍基地から物資を略奪する「戦果アギヤー」達の中でも英雄視されていたオンちゃん。行方知れずになった彼の姿を探し、追い求めながら、やがてそれぞれの人生を選んで行くグスク、レイ、ヤマコ。彼等は架空の人物だけれど、当時の沖縄で彼等と同じ様に生きた人々はいただろう。刑事として、教師として、或いは裏社会の人間として。その他あらゆる沖縄の人々が、沖縄が置かれた現実の中で、より良い未来を求めてもがいていた。時に笑い、歌い踊り、怒り、憎み、赦し、涙を流し、叫んだ筈だ。

 個々の人間の努力ではどうにもならない様な、国と国、島と本土の関係の中で、それでも本当の意味で必死に戦った人々。何度も期待を裏切られ、絶望しても立ち上がって来た人々。そうした人々の歩みが歴史になって行くのだろうと思う。教科書に名前が載る様な人達の言動や決断だけが歴史なのではなく。そう思えるだけの熱量が、本作にはある。

 きっと英雄は戦果アギヤーだけではなかった。それぞれの心の中に求める英雄の形があって、それに恥じない様に生きようとする人々、その一人ひとりが本当の英雄なのに違いない。そうした無名の英雄達を見て、その生き様を知って、自分達はどう生きるのか。本作はその事を問うているのではないだろうか。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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