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大切なことは言葉にならないのだとしても・岸政彦『断片的なものの社会学』

 

 社会学、というものを自分はよく知らない。
 Wikipediaによれば社会学とは『社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である』と書かれている。これも、ただこの一文を読んでみるだけだとわかる様で、わからない。

 本著は更に、社会学者である筆者が、人々の語りを聞き取る中で『分析も解釈もできない』と思える様な断片的なことを集めて書かれたものだとされる。
 分析したり、解釈したり、整理したりといった事は、物事を理解する上で、そして学問として整理されて行く上では必要な事なのだろうと思う。でも、そこからはみ出してしまうもの、こぼれ落ちてしまうものもきっとあるのだろう。

 自分が理解していない学問について書かれているであろう本を手に取って、更にその内容が学問の範疇に収まらない断片なのだと言われると、全く理解不能な事が書いてあるのではないかと思って身構えてしまうが、では何で自分がこの本を読んでみようと思ったかというと、それはたまたまSNS上で本著の紹介文を見て、とても共感できる部分があったからだ。引用すると長くなってしまうので要約するけれど、それはこんな内容だった。


 ある男性と女性が結婚する時、自分達は二人を祝福するだろうけれど、その祝福は「好きな異性と結ばれる事は幸せな事だ」という自分達の中の一方的な価値観から生じるのであって、そうして二人を祝福するという事の裏側には、「好きな異性と結ばれていない人々は、不幸せであるか、少なくとも結婚する二人程には幸せではないのだ」という意味が意図せず生まれてしまう。そうした価値観が社会の中に広く共有されている事は、単身者や、同性愛者にとってはある種の呪いになってしまわないか。


 自分はこの部分を読んで思ったのだけれど、誰かの幸せを祝う事が、その無邪気さが、悪気の無さが、それでも誰かを傷付けてしまう可能性を内包しているというのは、正直辛い。自分がしている事が悪い事なんだという自覚があれば、人はその行為を止めようとする事ができる。でも、自分が全くの善意でしている事が、それでも誰かを傷付ける事があるんだよ、と言われる時、その自分の善意に隠された、誰かを傷付けうる鋭さに気付けるかどうかと言われると、難しい。

 でも、そういうものなのだろうと思う。その事が、社会学という学問に馴染みがない自分にも、無理なく腑に落ちた。

 だから自分はこの本を読もうと思った。そして読み終えた今、社会学に対する理解が深まったかと言われると自信は無いけれど、少なくとも自分の中に存在しなかった、新たな視点というものをいくつか知る事ができたと思う。そして自分も同じ思いを抱いていた、という部分もいくつかあって、それが社会学者の中ではどの様な言葉を与えられているのか知る事ができたとも思う。

 自分の中に存在しない視点や価値観は、誰かの考えに触れてみないと理解する事が難しい。それを知る為の手段としても、本や言葉というものはあるのだろうと思う。

 そして、Twitterの方で少しだけ呟いたけれど、最近、米津玄師氏の『海の幽霊』を聴いた。その歌詞の中に『大切なことは言葉にならない』っていう「言葉」がある。
 そして同じ様にサン=テグジュペリの『星の王子さま』を読んでみると、そこには『大切なことは、目に見えない』と書いてある。 大切なことは、目に見えないし、言葉にならない。 そういうものを見付ける事は難しいし、もし見付けたとしても、自分以外の誰かと分かち合う事ができないかもしれない。だってそれは「目に見えないし、言葉で伝える事もできないなにか」なんだから。まだ名前も、形もないなにかなんだから。

 でも、そんな『大切なこと』を、自分の胸中だけじゃなく、他の誰かと分かち合いたいと願うから、歌詞や小説や、芸術作品というものは生み出されるのだし、作家や芸術家といった人々は、そうする事で、自分の胸の中にしか存在しない『大切なもの』を形にする事で『誰かと共有できるもの』にしたいと願うのだろう。

 もちろん、そうして生み出された作品を見てひとりひとりが感じる事はバラバラなのかもしれないし、すれ違いや誤解が生じるのも常なのだろうけれど、『大切なもの』を捕まえようとする人達をこそ、自分は大切に思いたい。

 だから社会学者である筆者が、その社会学の中での分析や解釈に当てはまらない『断片』を、敢えて集めて本にしたとすれば、もしかするとその中に、まだ言葉によって言い表す事ができない「大切なもの」があるのかもしれないと思える。
もっとも、それを見付けられるかどうかは自分にかかっているのだろうと思うけれど。

 

テーマ : **本の紹介**
ジャンル : 本・雑誌

他者への非難という石を投げてしまう前に フェルディナント・フォン・シーラッハ:著 酒寄進一:訳『刑罰』



 はじめに、以下の感想は東京創元社様の『ゲラ版先読みキャンペーン』で頂いたゲラ版を読んだ上で書いたものです。今回はゲラ版の先読みという貴重な体験をさせて頂いた事に、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。
 本作の発売日は6月12日です。まもなくですね。

 自分の感想はキャンペーン用に書いた文章とほぼ同じものを転載します。また、本キャンペーンに当選された他の方々の感想は、以下でその一部を読む事ができます。

 


 それでは、ここからはいつも通りの感想です。


 本作は『人と罪との距離』を諭す物語なのだろうと思う。

 誰かが罪を犯す時、周囲の人々は罪人を非難し、彼に刑罰が課される事を望む。犯した罪には相応の報いがあるべきだというのは誰もが思う事だ。ただ、その刑罰の軽重は、純粋に「彼が犯した罪の重さ」によって判断されているのだろうか。自分にはむしろ、「その罪と周囲の人間との距離」によって決められている様に思える。

 例えば交通事故がある。過去に仕事の一環で事故対応をしていた事があるが、事故を起こしたくて起こす人はいない。ただ結果として起きてしまった事故については、謝罪や賠償といった責任が伴う。死亡事故の様に、取り返しが付かない過ちになってしまう事もある。

 自分でも自動車を運転する人なら、過失による事故を強く非難する事には抵抗があるものだ。なぜなら「自分も同じ過ちを犯してしまう危険性があるから」だ。ただこれが「飲酒事故」になると話は変わってくる。飲酒運転は、過失と違ってドライバーの意思で回避出来る事で、多くの人にとっては「自分が犯す筈のない罪」だからだ。それは「安心して非難する事が出来る罪」だとも言える。自分から遠く離れた罪。こちらから石を投げ付けられる程には近いが、反論や擁護といった反撃が自分に届く事はないと分かっている罪。

 飲酒事故の様に、非難されるべき罪が責められる事は自然だから、人々に疑問を抱かせない。ただこの「自分と罪との距離」を判断基準にした量刑や他者への非難が世に蔓延る事を許すと、それは次第に『私刑』や『他者への不寛容』に向かって行く。つまるところ、自分と罪人の間に境界線を引いて、離れた場所から非難をする=石を投げるという行為は、それが正義感や道徳心や義憤によるものであったとしても、差別や無理解といった「より大きく遍在する罪」の芽を内包する事になる。

 自分が立っている側が正義で、相手にこそ非があり、罪があるのだとすれば、罪人に求める刑罰はより重く、容赦ないものになる。正義の側は、自分がしている事、断罪する事の正しさに酔う事すら出来るだろう。でも、自分はふと思うのだ。

 「罪人を石打ちにしている時の自分の顔は、他者に見せられるものだろうか」

 自分は本作に、その「自らの醜い側面」を刺された様に思う。安心して他者に石を投げていた者が、ある筈がないと思っていた反撃に射抜かれたという事だ。しかもそれは外側からではなく、自分の内側から突き出た槍に串刺しにされた様なものだった。それは言い換えれば、『恥を知った』という事であり、自分の中の醜悪さに気付いたという事だと思う。

 本作には様々な罪人が登場する。殺人や窃盗、麻薬取引など罪状は様々だ。ただ彼等が抱える動機は、自分の中にも容易に見付けられる様なものばかりだ。他者への憎しみ、孤独、妬み、偏見。そこかしこに犯罪の芽はある。自分が引いた、罪人と自分との境界線は、そこまではっきりとしたものではないし、乗り越えられない壁でもない。子どもが砂場に棒で書いた様な、頼りない、今にも消えそうな線でしかない。その事を自覚しよう。人と罪との距離は、それほど離れてはいないのだから。そう本作は諭す。

 罪の芽は自分の中にも存在する。それを自覚する事。人間の弱さに目を向け、他者の過ちに寛容であろうとする事。正義という名の不寛容に飲まれる前に、自分が握り締めた他者への非難という石を投げてしまう前に、その置き場を探してみようとする事。本作はきっとその困難さから読者を救い出し、より良い場所へと引き上げてくれると思う。

 

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ジャンル : 小説・文学

全てが茶色に染まる前に・フランク パヴロフ:著 藤本一勇:訳『茶色の朝』

  

 ある日、『俺』と友人のシャルリーはビストロでコーヒーを味わいながら、シャルリーがペットの犬を安楽死させなければならなかった事について話をする。
 「何の病気だったんだ?」と問う『俺』に、シャルリーは「病気のせいじゃない。茶色の犬じゃなかった、ただそれだけさ」と答える。『俺』はさすがに驚くが、そんな『俺』にしても、既にペットの猫を同じ様に安楽死させなければならなかった事が語られる。理由はもちろん「茶色の猫じゃなかった」からだ。

 ペットだけではない。やがて全てが茶色に染まって行く。そこでようやく『俺』は気付き、後悔する。なぜ自分は最初に「茶色以外の猫は殺さなければならない」と言われた時に、嫌だと言わなかったのだろう。抵抗しなかったのだろう。でもその後悔は、全てが茶色に染まってしまった今となってはもう遅いのだ。

 そして迎える『茶色の朝』に、『俺』は何を思うのだろうか。激しくドアをノックする音が部屋の中に響いている。シャルリーが訪ねて来た訳じゃない。彼は昨日、「前は、茶じゃなく黒の犬を飼っていた」事を咎められて自警団に連れ去られたからだ。彼が今どこにいるのか『俺』は知らない。そしてこれから先、自分がどうなるのかも分からない。社会が、この国がどうなってしまったのかという事も。


 本作、『茶色の朝』はヴィンセント・ギャロ氏による挿絵を入れても30ページ、高橋哲哉氏による解説であるメッセージの部分を入れても50ページに収まる掌編だ。今、大人が読むべき寓話だろうと思うけれど、難しい言葉で書かれた物語ではないから、小中学生でも読む事が出来ると思う。むしろ若い世代が、この社会や世界の有り様に疑問を抱いた時に手にとってもらいたい作品だと思うし、図書館や学校の図書室に置かれていて欲しいと思う。

 本作を読んで、読者がまず疑問に思う事は、「なぜ『茶色』なの?」「全てが『茶色』に染まって行くというのは、どういう事なの?」という所だろう。それにはもちろん理由があるのだけれど、その部分は高橋哲哉氏のメッセージの部分に詳しく書かれているのでぜひ手に取って読んでもらいたい。この作品が書かれる事になった背景も含めて、分かりやすくまとめられている。

 難しい話ではない。ただ、おかしいと感じる事があった時に「自分は、この問題はおかしいと思うんだ。間違っているんじゃないかと思うんだ」という声を上げられなかったとしたら、社会はどうなって行くのだろうという話だ。そしてこの物語の優れている点は、『寓話である』という事なのだと思う。

 社会問題について語ろうとする時に、特定の組織や個人、或いは法律や政党の実名を挙げて論じる事もできる。ただ、自分が批判しようとしているものを支持している人も社会には数多くいて、そうした人々は名指しで批判されれば当然聞く耳を持ってはくれない。心を開いてはくれない。

 誰かを攻撃したり、非難する訳ではなく、「一緒に考えてみないか?」という問い掛けをしたいと思う時、この物語が寓話として書かれている事は意味がある。読者は自分が今疑問に思っている事や、或いは自分が正しいと信じている価値観を『茶色』の部分に当てはめて考える事が出来る。そこで浮かび上がってくるのは、ひとつの価値観が社会全体を広く覆ってしまおうとする時に、「異議を唱えずに従ってしまった方が楽なんじゃないか」「簡単だし、面倒もないし、多数派の仲間でいた方が安心なんじゃないか」という誘惑があるという事だ。そしてその誘惑は、常に意識していないと抵抗する事が難しいという事でもある。

 何もこれは難しい政治や社会問題の話ではなく、自分達の日々の生活だって同じ事が言える。寓話というのはそうした応用ができるものだ。例えばブラック企業の問題が近年大きく報じられているけれど、最初は「勤務時間外に申し訳ないけれどちょっと頼みたいんだ」みたいに5分10分で終わる様な仕事を頼まれていたのが、それを許していたらやがて30分、1時間かかる仕事を投げて寄越される様になり、お礼を言われる事もなくなり、頼まれる事もなく当たり前に自分の所に仕事が回される様になり、サービス残業が常態化し、勤務時間外に朝礼や会議や研修や課題が設定され、有給休暇の取得は不可能になり、病気で会社を休もうとしただけで舌打ちをされる様な企業風土が形成されて行く事もある。

 会社というのは閉鎖空間だから、企業風土がおかしくなっている事に内部の人間が気付かない場合もあるし、人事や給与の裁量権を持っている会社に労働者が逆らえなかったり、自分を会社の価値観に合わせてしまった方が楽なんじゃないか、評価されるんじゃないかと勘違いしてしまったりもする。そしてこの『会社』の部分は『国家』でも『政府』でも『学校』でも『社会規範』でも何でもいい。何にでも『茶色の朝』は起こり得るのだから。

 なにか問題が目の前にあって、それを「おかしい」という自分の気持ちに蓋をしてしまったらどうなるか。声を上げなかったらどうなるか。それを考えてみるきっかけとして本作はある。自分の思いを口にしてきちんと議論をしてみようよ、という呼び掛けだ。当然、権力者や多数派に少数派が挑もうとするのは勇気がいる事だ。でも、自分が「小さな声」だと思っている価値観は、実は同じ様に思っている人は大勢いるのに今まで誰も声を上げる事ができなかっただけかもしれない。また、本当に少数派だったとしても、多数派の方が間違った考えを持っているのかもしれない。

 「長いものには巻かれろ」という言葉があって、自分達はその誘惑に弱いのだと思う。事なかれ主義で、力の大きなものに従ってしまった方が安心なんだという価値観だ。自分ごときが何を言っても仕方ないという自己評価の低さがそれに拍車をかける。でも、その先にあるのは『茶色の朝』なんだろうなという事に、そろそろ気付かなければならない。皆が。そして自分自身が。

 

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ジャンル : 小説・文学

その歩みを止めないのなら・三田誠『ロード・エルメロイII世の事件簿10 case.冠位決議(下)』

 

 FGOですが、うちのグレイはレベル100です。ちなみに諸葛孔明(エルメロイⅡ世)とイスカンダルは引けてません。更には司馬懿(ライネス)も引けてませんしアストライア(ルヴィア)も引けてません。(謎の挨拶)
 まあほぼほぼ無課金だとこんなもんでしょう。グレイが配布で本当に良かった。

 作者の三田誠氏に関して言えば「自分で小説を書いているのにFGOでは孔明が引けない」という呪いを長い間受け続けていた事もあり、全国のファンから孔明ピックアップガチャが来る度に「三田先生お願いだからもう孔明を引いて!」という祈りやら「呼符で来ました」という無慈悲な報告やら、幅広くコメントが集まるお祭りと化していたりもした。(その後三田先生は無事に孔明を引く事ができました。良かった)

 さてFGOの話は程々にするとして、三田誠氏の『ロード・エルメロイII世の事件簿』シリーズも今回で完結となった。好きなシリーズが完結する時はいつも思うのだけれど、「物語はここで一旦幕引きになるけれど、登場人物達はこれから先も作品世界の中で生き続けるのだろうな」という余韻があって、少し寂しくもあり、また物語の完結をお祝いしたくもあり、という複雑な心境だ。特にエルメロイⅡ世=ウェイバーの目指すものは、まだ遥か彼方にあって、彼はその歩みを止める事が出来ないのだから。

 別の所でも書いたけれど、人が生きて行くには『夢』とか『目標』が必要なのだろうと思う。良く言えば『生きがい』とも言い換えられるかもしれない。でもそれが叶わない事に気付く時、それらは『呪い』や『重荷』に変質して行く。

 「夢を持て」とは誰もが言う。けれど「夢の諦め方」を教えてくれる人はいない。

 それは残酷な様で、でも当たり前の事だ。他人から「お前の夢は願うだけ無駄で、もう諦めた方がいい」なんて事を言われて、誰が納得できるというのか。夢を叶える為には自分の実力が及ばないのだと知る時、人は自分自身で自分の中の気持ちに向き合わなければならない。

 まだ夢を追い続けるのか。それとも自分の心の中に夢を埋葬するのか。

 少年の頃の夢を追い続けて、結果が出せないまま歳を重ねて行く人がいる。生活を犠牲にしながら、夢の為に努力し続けて、でも結果には結び付かない。そういう人を目にすると、外野は「もういい加減諦めたらどうなんだ」と口にする。また口にしないまでも、そういう態度で相手を蔑み、憐れむ。それはなぜなのかと言えば、つまるところ彼等もかつて自分の夢と向き合い、そして夢を殺す事で自分を生かす決断をしたからだ。自分の心の中に、夢を埋葬したからだ。

 自分もそうだ。昔持っていた夢を殺して埋めて、自分自身に見切りを付けた。この夢は、自分程度の人間が抱いていいものじゃなかった。叶えられる様なものじゃなかった。そう自分自身に言い聞かせて、殺した夢を弔って、別れを告げて、現実世界を生きて行こうとした。糊口を凌ぐ為には仕事をして金を稼がなきゃならない。そうやって生きて行く自分が、かつて夢見た自分の姿からどんなに遠く離れて行ったとしても、そうしなければならないんだと心に決めて。だから自分はきっと羨ましいのだろうと思う。憎いのだろうと思う。まだ「夢の途中」を生きていられる人の事が。

 でも、考えてみて欲しい。遥か彼方の夢を追い続けて、それを諦める事を自分に許さないという生き方は、現実に向き合う為と称して夢を殺した人間の生き方と同じ位、いや、それ以上に過酷なのではないだろうか。

 自分が夢を追い切れなかったのは、弱さのせいだ。自分の実力の無さ、至らなさのせいだ。でも、その事を知った上で、なお夢を諦める事を自分自身に許さない生き方を選ぶ者がいるのなら、彼はもう立ち止まる事も、言い訳をする事も許されない。どんなに辛く長い道程でも、最後に目標に辿り着く事ができるかどうか何の保証もないとしても、諦めを捨てるのなら夢に殉ずるしかないのだ。

 『理想を抱いて溺死しろ』

 かつて別の物語で、そう語った者がいた。
 ある理想の為に歩み続け、過酷な現実に心を削られ続けた男だった。少年が心に抱く理想や夢がどんなに正しく思えても、綺麗に輝いて見えても、それを目指して歩み続ける道程が、そして辿り着く先が地獄そのものである事を知っているが故の言葉だった。そして、夢を捨てる事を許さない生き方を自分に課しているという点で、彼と、かつての少年と、エルメロイⅡ世=ウェイバーは似ている。ただ、エルメロイⅡ世にとっての救いは、彼を支えてくれようとする人々がいる事だ。彼が孤独に突き落とされてはいないという事だ。

 だからこそ、辛くとも歩いて行ける。夢に向けて。再会すべき王のもとへ。
 もっとも、彼は素直にその事を認められないかもしれないが。

 『師』というのは、生徒や弟子よりも多くの知識や技を修めているから敬われるのだろうか。実力があり、敵うものがいないから崇められるのだろうか。だとしたら、教え子が師を超えて行く時、その存在に価値はなくなるのか。それは正解の半分である様に思う。残りの半分は、師の生き方が、その姿勢が、教え子達にとって目指すべき目標たり得るかという事なのではないだろうか。だとすれば、現代魔術科というエルメロイⅡ世の教室が、師を慕う者達で溢れ、支えられているという事実は、彼が抱く夢と、その生き様が間違ってはいないという事の証左になるのだろうと思う。辛くとも。苦しくとも。

 これからも彼は歩いて行くのだろう。彼が夢に届く様にと願うのは、自分がかつて夢を殺したからというだけの事なのだろうか。そうではないだろうと今は思う。
 濁った目で見上げたとしても、それが自分自身の夢ではなくても、綺麗な夢はやはり綺麗なままで、誰かがそれを叶える瞬間を自分は見たいのだ。きっと。

 

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自分はどこから来て、どこへ行くのか・上遠野浩平『ブギーポップ・オールマイティ ディジーがリジーを想うとき』

 

 思い出は人を呪縛するのか。それとも思い出があるから人は生きて行けるのか。いったいどちらだろうという事を最近よく考える。突き詰めて考えれば、本作もまたそういう話だ。

 思い出が人を縛るのか。それとも思い出を支えにするからこそ人は生きて行けるのか。

 自分には大学時代の恩師がいて、いまでも年に1、2回は会う事がある。昨日がちょうどその日で、学生時代の事とか、お互いの近況とか、時事問題についてどう思うかなんていう事を話し合った。

 学生の頃の自分というのは今よりもっと『物事の本質』というものにこだわりを持っていたと思う。自分は仏教美術を専攻したのだけれど、美大や芸大といった「一定の専門知識や技能を習得した『下地』が整った学生が集まる学部」とは異なり、「大学で学ぶ内に美術に興味を持った学生が集まるゼミ」では、良い意味で『素人の寄せ集め』であるが故に、素朴な、あるいは本質的な疑問というものに取り組もうとする学生が多かった様に思う。先生方もそれを馬鹿にする事なく一緒に深く考えようとしてくれた事は、当時とても嬉しかった。

 例えば目の前に一体の仏像があったとして、それを見た時になぜ自分達は感銘を受けるのだろう。言い換えればなぜ「美しい」とか「凄い」とか「かっこいい」とか思うのだろう。それは名のある仏師(ぶっし・仏像を作る人)の作だからとか、国宝や重文に指定され、高い評価を得ているからとか、古い時代から受け継がれていて貴重だからとか、自分ではとても同じ様に作れそうもないからとか、そういう事ではない。それは表層であって、本質ではない。本質的に人に感銘を与える要素は、その像の中に存在している。それを見る自分達は、物言わぬ、そして生きてはいない像の中に生命感や存在感を感じ取る。そこに存在する仏像と、それを見る自分の心は、その時ある種の感応というか、共鳴をしている。そして、その結果として自分達はそれを「美しい」と感じる。これは他の美術や芸術でも同じなのではなかろうか。

 そうした学問に取り組んだせいか、自分は一時、『物事の本質』というものに酷くこだわる人間だった。それは思い出であると同時に、ひとつの道標だった。自分がかつてどこにいて、どんな事を考え、何を感じていたかという事を見失わない為の。

 そして自分は社会に出て、学生時代に育んだ価値観の多くが、実社会を生きる上で助けになる事もあれば、重荷になる事もあるという、多くの人達が通り抜けて来たであろう道筋を辿る事になった。本質論を考える事は興味深く、楽しい事だ。でも現実問題に対処しなければならない時、そこには「本音と建前」や「正しいとされている慣習」や「社会の中で是認されている価値観」というものが厳然と存在した。それらを無視する事は出来なかった。平たく言えば、本質論や理想論だけで世の中は回っていなかった。

 そういう意味で、自分にとって過去は、思い出は、時に自分の背中を押し、時に縛り付けるという、相反する役割を持つものになった。でも他の多くの人にとってもそれは同じなのだろうとも思う。

 思い出や過去は時に優しい。でもそれらは時に人を縛り、傷付ける。
 そして過去は、消す事が出来ない。無かった事にしたり、無視し続けたりする事もできない。リセットボタンを押す事も、今までの人生をまるごと捨てて白紙の状態からもう一度やり直す事も出来ない。
 最近そんな話を書いたけれど、それはそれとして、過去は消せないから、自分達は自らの過去と向き合って生きるしかない。

 思い出が人を縛るのか。それとも思い出を支えにするからこそ人は生きて行けるのか。

 本作にはその両面が描かれる。大事な思い出を忘れまいとして道を踏み外して行く存在もいれば、忘れていた記憶を思い出す事で自分の進むべき方向を見付ける者もいる。それは1枚の硬貨の表と裏の様に分かち難いのかもしれない。ただ確かなのは、これからの自分が進む先は今の自分にしか決められないという事であり、今日の選択を悔いる日が来たとしても、その苦悩は自分の中に抱えて行かなければならないという事だ。

 自分はどこから来て、どこへ行くのか。

 過去を振り返って確かめる事も、これから先の道を選ぶ事も、自分自身にしか出来ない事で、だからこそ心細く、自分達は時に不安になる。誰かに助言して欲しい。道を指し示して欲しい。もっと言えば、どうすればいいか命令して欲しい。でもそれに乗ってはならないのだろうと思う。他の誰かがどんなに確からしい事、もっともらしい事を囁いたとしても、仮にそれで成功したとしても、誰かに選択をまるごと委ねてしまった時、過去を振り返って「あれは自分自身の選択だった」とは思えないだろうから。

 そして「間違いかもしれない」という心細さを常に感じながらも、自分達は今日も何かを選択して行く。何かをする事を。また、何かをしない事を。何かを拾う事を。何かを捨て去る事を。過去を振り返る事を。前を向く事を。その積み重ねが生きるという事なのだと思うから。

 (で、お前の「人生で一番美しい時」はいつだったのかね)
 (これから来るんでしょ、ってのは強がりだけど、今はそれを答えにしとくよ)

 BGM “Memory” from Musical Cats by Elaine Paige

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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