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例えば銀河帝国という虚構から現実社会を考える エーリッヒ・フロム:著 日高六郎:訳『自由からの逃走』

 

 自分は社会心理学や哲学というものに対する興味はあるのだけれど、全く詳しくなくて、本著の著者であるエーリッヒ・フロム氏の事もつい最近になって知った様な有様だ。ただ、そんな人間が読んでいる筈なのに、本著は現代の日本について言及しているのではないかと思う程に理解がし易い内容になっていて、その事に驚く。

 エーリッヒ・フロム氏が生きた1900年から1980年の間には、当然世界大戦があった訳だけれど、その当時フロム氏が見ていた社会と、今自分が生きている社会は相当変化している筈なのに、本著に描かれている様な「社会の中で個人であるという『孤独』に耐えかねた人間が、権威主義的な国家体制に対する帰属意識に縋る事による安定を求め、自らの意思で自由からの逃走を図る」という社会構造は、現在に至るも変わらないどころかより顕著になっている気さえする。

 難しく書こうと思うといくらでも難しく書けてしまいそうではあるけれど、あえて簡単な例を出して陳腐化させる事で分かりやすくしてみる。

 現代では、「個人の価値」というものが、あからさまに数値化される場面が多々ある。誰にでも分かる例えとしてSNS等のフォロワー数や、動画投稿サイトのチャンネル登録者数は分かりやすい指標だ。一部のインフルエンサーと呼ばれる様な人が呟く一言と、自分の様な人間が呟く一言は、仮に一言一句同じ言葉であったとしても社会に対する影響力が桁違いだ。フォロワー数の多さは「社会に対する発言力の大きさ」のみならず「発言の信用性」を担保するかの様に思われている。だから、インフルエンサーの一言は「正しいから支持され、広まる」のではなく「彼が言っているから正しいのだろう」という広まり方をする。

 ドラゴンボールで、スカウターを使うと戦闘力が測れるのと同じ感覚で、自分達はSNSを眺めているのかもしれない。だからフォロワー数が多いアカウントは強いし、みんな沢山の「いいね」が欲しいし、リアルマネーでフォロワーを売買する様な商売が成立する訳だ。

 「誰もが情報の発信源になれる。発言者として世界に意見を発する事ができる」のがネットが普及した現代社会なのだとして、それはある種『平等』であるのだが、実際には「誰もが情報を発信する社会で価値を認められる発信者になる」為には、世界中の個人と競争しなくてはならないという地獄が発生するとも言える。

 その競争の中で、一部の勝者が脚光を浴びる反面、大多数の個人は「自分が社会にとっていかに取るに足らない、無価値な存在であるか」を思い知らされる事になる。自分の言葉に誰も耳を傾けない。自己実現や仲間探しの手段であるSNSが、自己肯定感を斬首する断頭台に近いものになるのはそんな時だ、と言ったら言い過ぎだろうか。

 SNSの問題だけを取り上げたけれど、他にも少し前なら企業面接で次々不採用を言い渡されたり、非正規雇用から雇い止めされたりと、個人の価値観やプライドが粉々にされる様な仕組みが現代日本には溢れている。そんな風に、孤独で無価値だと思わされ、自己肯定感が低い人間は、自分も含めて『個人として社会に対峙する事』が辛くなってくる。個人である事は、他の束縛を受けない自由を手にしているとも言えるが、逆に言えば誰にも守られない状態であるとも言える。そうした中で、『自分より強く大きなもの』(国家でも政府でも特定政党でも好きなものを代入して欲しい)に帰属意識を持つ事で、安定を得ようとする事は、その結果として自分が帰属集団の価値観に縛られ、自由を失う事を意味するのだとしても甘い誘惑として映るのではないだろうか。

 フロム氏が指摘するのもそうした、「自ら望んで自由から逃走する(自由を放棄する)人々」の事だし、それ程に人は弱いという事だ。

 また逆に、社会的地位が高く、裕福で、大きな発言力を持った人間が個人として自由であるかというとそんな事もなくて、そうした人々は逆に自分が失敗して現在の地位を追われる事を極端に恐れている。でもこの社会には「こうすれば大丈夫」「絶対に失敗しないやり方」「人生の正解」などという便利なものは存在しない。だからこうした人々は、自分より弱い立場の人間には前述した様な「正解」を自らの意見として吹き込みつつ支持者を集める一方、自分もまた権威主義的な「より大きな価値観」に従属する事を求める。その上での失敗は、自己責任の度合いを薄めてくれるからだ。

 ここで話は逸れるけれど、権威主義やファシズムといったものに対する人々の姿勢として、最近考えている事があって、それは『銀河帝国』の事だったりする。

 一体何の話だと思われるかもしれないけれど、『スター・ウォーズ』の銀河帝国と、『銀河英雄伝説』の銀河帝国って、同じ銀河帝国という呼び名ではあるけれど、描かれ方には相当な違いがあって、国民性が出ていると思うし、後者の方が恐ろしいと思う。自分はどちらの作品もそんなに詳しくないのでこうして適当な事を書くと叱られそうではあるけれど。

 スター・ウォーズにおける銀河帝国は言ってみれば恐怖政治であって、帝国の威光に逆らう者は惑星ごと木っ端微塵にするレベルの圧政をしている。描かれ方も悪の権化的だ。だってシスの暗黒卿とかフォースの暗黒面とか言うし、「逆らう者は滅ぼす」以外に、具体的な『統治』の姿勢が見えて来ない。皇帝からして血色悪いし悪人面だし。

 これは、アメリカ人の価値観として『自由と平等』というのは国是であると同時に国民の中に広く根付いたものだからなのではないかと思う。最近はその価値観に若干の揺らぎが見えるとはいえ、皇帝のような独裁者が肯定的に描かれる事は少ないだろう。

 対して、銀河英雄伝説における銀河帝国は、特にラインハルトが即位してからは安定した治世を行っている様に見える。前王朝の悪習を一掃し、改革を断行する。そして民主共和制を採りながら、政治の腐敗が進み、統制国家になって行った自由惑星同盟と比較しても、その統治のあり方は優れたものとして描かれる。そこが帝政自体を許されざるものとして描いたスター・ウォーズとは異なる点だ。

 この2つの銀河帝国を比較して、後者の方が「より自分達が依存しやすい帰属先」である気がする。国民はラインハルトという優れた人物を信頼し、皇帝の威光に縋り、自分が個人として自由である事よりも、帝国の構成員として豊かさを享受する事を選ぶだろう。ただ問題なのは、その依存が長期的には国民をより暗愚に、無責任にして行くだろうという事と、皇帝の治世が「皇帝個人の資質」という何ら次代の保証がないものに委ねられている事だ。暗君が即位した時点で帝国の凋落が始まる。だからこそ、時に衆愚政治に陥る危険性を認識しながらであっても、自分達は自らの責任から逃避してはならないし、独裁政治への誘惑を断ち切らなければならないとされる訳だ。

 話を本著に戻すが、本著でフロムが明らかにした『自由からの逃走』という構図は、当時の世界情勢から切り離して現代に適用する事も出来るし、物語の中にある架空の歴史に当てはめる事も出来る。それはこの本に記されている事が特定の時代背景に依拠する論説ではなく、時代が変遷しても変わらない、人間の本質的な欲求を的確に射抜いているからこそなせる業なのだろうと思う。

 民主政治は独裁政治ほど強引な改革や方向転換が出来ない。改革のスピードは遅いし、議会と民意が乖離している様に思える時もある。それでも自分達が一度獲得した自由から逃走し、権威主義の中に後退して行く事を止めなければならないとするなら、今必要なのは本著が明らかにした視座に自分達が立ち返る事なのかもしれない。

 

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ジャンル : 本・雑誌

大切なことは言葉にならないのだとしても・岸政彦『断片的なものの社会学』

 

 社会学、というものを自分はよく知らない。
 Wikipediaによれば社会学とは『社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である』と書かれている。これも、ただこの一文を読んでみるだけだとわかる様で、わからない。

 本著は更に、社会学者である筆者が、人々の語りを聞き取る中で『分析も解釈もできない』と思える様な断片的なことを集めて書かれたものだとされる。
 分析したり、解釈したり、整理したりといった事は、物事を理解する上で、そして学問として整理されて行く上では必要な事なのだろうと思う。でも、そこからはみ出してしまうもの、こぼれ落ちてしまうものもきっとあるのだろう。

 自分が理解していない学問について書かれているであろう本を手に取って、更にその内容が学問の範疇に収まらない断片なのだと言われると、全く理解不能な事が書いてあるのではないかと思って身構えてしまうが、では何で自分がこの本を読んでみようと思ったかというと、それはたまたまSNS上で本著の紹介文を見て、とても共感できる部分があったからだ。引用すると長くなってしまうので要約するけれど、それはこんな内容だった。


 ある男性と女性が結婚する時、自分達は二人を祝福するだろうけれど、その祝福は「好きな異性と結ばれる事は幸せな事だ」という自分達の中の一方的な価値観から生じるのであって、そうして二人を祝福するという事の裏側には、「好きな異性と結ばれていない人々は、不幸せであるか、少なくとも結婚する二人程には幸せではないのだ」という意味が意図せず生まれてしまう。そうした価値観が社会の中に広く共有されている事は、単身者や、同性愛者にとってはある種の呪いになってしまわないか。


 自分はこの部分を読んで思ったのだけれど、誰かの幸せを祝う事が、その無邪気さが、悪気の無さが、それでも誰かを傷付けてしまう可能性を内包しているというのは、正直辛い。自分がしている事が悪い事なんだという自覚があれば、人はその行為を止めようとする事ができる。でも、自分が全くの善意でしている事が、それでも誰かを傷付ける事があるんだよ、と言われる時、その自分の善意に隠された、誰かを傷付けうる鋭さに気付けるかどうかと言われると、難しい。

 でも、そういうものなのだろうと思う。その事が、社会学という学問に馴染みがない自分にも、無理なく腑に落ちた。

 だから自分はこの本を読もうと思った。そして読み終えた今、社会学に対する理解が深まったかと言われると自信は無いけれど、少なくとも自分の中に存在しなかった、新たな視点というものをいくつか知る事ができたと思う。そして自分も同じ思いを抱いていた、という部分もいくつかあって、それが社会学者の中ではどの様な言葉を与えられているのか知る事ができたとも思う。

 自分の中に存在しない視点や価値観は、誰かの考えに触れてみないと理解する事が難しい。それを知る為の手段としても、本や言葉というものはあるのだろうと思う。

 そして、Twitterの方で少しだけ呟いたけれど、最近、米津玄師氏の『海の幽霊』を聴いた。その歌詞の中に『大切なことは言葉にならない』っていう「言葉」がある。
 そして同じ様にサン=テグジュペリの『星の王子さま』を読んでみると、そこには『大切なことは、目に見えない』と書いてある。 大切なことは、目に見えないし、言葉にならない。 そういうものを見付ける事は難しいし、もし見付けたとしても、自分以外の誰かと分かち合う事ができないかもしれない。だってそれは「目に見えないし、言葉で伝える事もできないなにか」なんだから。まだ名前も、形もないなにかなんだから。

 でも、そんな『大切なこと』を、自分の胸中だけじゃなく、他の誰かと分かち合いたいと願うから、歌詞や小説や、芸術作品というものは生み出されるのだし、作家や芸術家といった人々は、そうする事で、自分の胸の中にしか存在しない『大切なもの』を形にする事で『誰かと共有できるもの』にしたいと願うのだろう。

 もちろん、そうして生み出された作品を見てひとりひとりが感じる事はバラバラなのかもしれないし、すれ違いや誤解が生じるのも常なのだろうけれど、『大切なもの』を捕まえようとする人達をこそ、自分は大切に思いたい。

 だから社会学者である筆者が、その社会学の中での分析や解釈に当てはまらない『断片』を、敢えて集めて本にしたとすれば、もしかするとその中に、まだ言葉によって言い表す事ができない「大切なもの」があるのかもしれないと思える。
もっとも、それを見付けられるかどうかは自分にかかっているのだろうと思うけれど。

 

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他者への非難という石を投げてしまう前に フェルディナント・フォン・シーラッハ:著 酒寄進一:訳『刑罰』



 はじめに、以下の感想は東京創元社様の『ゲラ版先読みキャンペーン』で頂いたゲラ版を読んだ上で書いたものです。今回はゲラ版の先読みという貴重な体験をさせて頂いた事に、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。
 本作の発売日は6月12日です。まもなくですね。

 自分の感想はキャンペーン用に書いた文章とほぼ同じものを転載します。また、本キャンペーンに当選された他の方々の感想は、以下でその一部を読む事ができます。

 


 それでは、ここからはいつも通りの感想です。


 本作は『人と罪との距離』を諭す物語なのだろうと思う。

 誰かが罪を犯す時、周囲の人々は罪人を非難し、彼に刑罰が課される事を望む。犯した罪には相応の報いがあるべきだというのは誰もが思う事だ。ただ、その刑罰の軽重は、純粋に「彼が犯した罪の重さ」によって判断されているのだろうか。自分にはむしろ、「その罪と周囲の人間との距離」によって決められている様に思える。

 例えば交通事故がある。過去に仕事の一環で事故対応をしていた事があるが、事故を起こしたくて起こす人はいない。ただ結果として起きてしまった事故については、謝罪や賠償といった責任が伴う。死亡事故の様に、取り返しが付かない過ちになってしまう事もある。

 自分でも自動車を運転する人なら、過失による事故を強く非難する事には抵抗があるものだ。なぜなら「自分も同じ過ちを犯してしまう危険性があるから」だ。ただこれが「飲酒事故」になると話は変わってくる。飲酒運転は、過失と違ってドライバーの意思で回避出来る事で、多くの人にとっては「自分が犯す筈のない罪」だからだ。それは「安心して非難する事が出来る罪」だとも言える。自分から遠く離れた罪。こちらから石を投げ付けられる程には近いが、反論や擁護といった反撃が自分に届く事はないと分かっている罪。

 飲酒事故の様に、非難されるべき罪が責められる事は自然だから、人々に疑問を抱かせない。ただこの「自分と罪との距離」を判断基準にした量刑や他者への非難が世に蔓延る事を許すと、それは次第に『私刑』や『他者への不寛容』に向かって行く。つまるところ、自分と罪人の間に境界線を引いて、離れた場所から非難をする=石を投げるという行為は、それが正義感や道徳心や義憤によるものであったとしても、差別や無理解といった「より大きく遍在する罪」の芽を内包する事になる。

 自分が立っている側が正義で、相手にこそ非があり、罪があるのだとすれば、罪人に求める刑罰はより重く、容赦ないものになる。正義の側は、自分がしている事、断罪する事の正しさに酔う事すら出来るだろう。でも、自分はふと思うのだ。

 「罪人を石打ちにしている時の自分の顔は、他者に見せられるものだろうか」

 自分は本作に、その「自らの醜い側面」を刺された様に思う。安心して他者に石を投げていた者が、ある筈がないと思っていた反撃に射抜かれたという事だ。しかもそれは外側からではなく、自分の内側から突き出た槍に串刺しにされた様なものだった。それは言い換えれば、『恥を知った』という事であり、自分の中の醜悪さに気付いたという事だと思う。

 本作には様々な罪人が登場する。殺人や窃盗、麻薬取引など罪状は様々だ。ただ彼等が抱える動機は、自分の中にも容易に見付けられる様なものばかりだ。他者への憎しみ、孤独、妬み、偏見。そこかしこに犯罪の芽はある。自分が引いた、罪人と自分との境界線は、そこまではっきりとしたものではないし、乗り越えられない壁でもない。子どもが砂場に棒で書いた様な、頼りない、今にも消えそうな線でしかない。その事を自覚しよう。人と罪との距離は、それほど離れてはいないのだから。そう本作は諭す。

 罪の芽は自分の中にも存在する。それを自覚する事。人間の弱さに目を向け、他者の過ちに寛容であろうとする事。正義という名の不寛容に飲まれる前に、自分が握り締めた他者への非難という石を投げてしまう前に、その置き場を探してみようとする事。本作はきっとその困難さから読者を救い出し、より良い場所へと引き上げてくれると思う。

 

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全てが茶色に染まる前に・フランク パヴロフ:著 藤本一勇:訳『茶色の朝』

  

 ある日、『俺』と友人のシャルリーはビストロでコーヒーを味わいながら、シャルリーがペットの犬を安楽死させなければならなかった事について話をする。
 「何の病気だったんだ?」と問う『俺』に、シャルリーは「病気のせいじゃない。茶色の犬じゃなかった、ただそれだけさ」と答える。『俺』はさすがに驚くが、そんな『俺』にしても、既にペットの猫を同じ様に安楽死させなければならなかった事が語られる。理由はもちろん「茶色の猫じゃなかった」からだ。

 ペットだけではない。やがて全てが茶色に染まって行く。そこでようやく『俺』は気付き、後悔する。なぜ自分は最初に「茶色以外の猫は殺さなければならない」と言われた時に、嫌だと言わなかったのだろう。抵抗しなかったのだろう。でもその後悔は、全てが茶色に染まってしまった今となってはもう遅いのだ。

 そして迎える『茶色の朝』に、『俺』は何を思うのだろうか。激しくドアをノックする音が部屋の中に響いている。シャルリーが訪ねて来た訳じゃない。彼は昨日、「前は、茶じゃなく黒の犬を飼っていた」事を咎められて自警団に連れ去られたからだ。彼が今どこにいるのか『俺』は知らない。そしてこれから先、自分がどうなるのかも分からない。社会が、この国がどうなってしまったのかという事も。


 本作、『茶色の朝』はヴィンセント・ギャロ氏による挿絵を入れても30ページ、高橋哲哉氏による解説であるメッセージの部分を入れても50ページに収まる掌編だ。今、大人が読むべき寓話だろうと思うけれど、難しい言葉で書かれた物語ではないから、小中学生でも読む事が出来ると思う。むしろ若い世代が、この社会や世界の有り様に疑問を抱いた時に手にとってもらいたい作品だと思うし、図書館や学校の図書室に置かれていて欲しいと思う。

 本作を読んで、読者がまず疑問に思う事は、「なぜ『茶色』なの?」「全てが『茶色』に染まって行くというのは、どういう事なの?」という所だろう。それにはもちろん理由があるのだけれど、その部分は高橋哲哉氏のメッセージの部分に詳しく書かれているのでぜひ手に取って読んでもらいたい。この作品が書かれる事になった背景も含めて、分かりやすくまとめられている。

 難しい話ではない。ただ、おかしいと感じる事があった時に「自分は、この問題はおかしいと思うんだ。間違っているんじゃないかと思うんだ」という声を上げられなかったとしたら、社会はどうなって行くのだろうという話だ。そしてこの物語の優れている点は、『寓話である』という事なのだと思う。

 社会問題について語ろうとする時に、特定の組織や個人、或いは法律や政党の実名を挙げて論じる事もできる。ただ、自分が批判しようとしているものを支持している人も社会には数多くいて、そうした人々は名指しで批判されれば当然聞く耳を持ってはくれない。心を開いてはくれない。

 誰かを攻撃したり、非難する訳ではなく、「一緒に考えてみないか?」という問い掛けをしたいと思う時、この物語が寓話として書かれている事は意味がある。読者は自分が今疑問に思っている事や、或いは自分が正しいと信じている価値観を『茶色』の部分に当てはめて考える事が出来る。そこで浮かび上がってくるのは、ひとつの価値観が社会全体を広く覆ってしまおうとする時に、「異議を唱えずに従ってしまった方が楽なんじゃないか」「簡単だし、面倒もないし、多数派の仲間でいた方が安心なんじゃないか」という誘惑があるという事だ。そしてその誘惑は、常に意識していないと抵抗する事が難しいという事でもある。

 何もこれは難しい政治や社会問題の話ではなく、自分達の日々の生活だって同じ事が言える。寓話というのはそうした応用ができるものだ。例えばブラック企業の問題が近年大きく報じられているけれど、最初は「勤務時間外に申し訳ないけれどちょっと頼みたいんだ」みたいに5分10分で終わる様な仕事を頼まれていたのが、それを許していたらやがて30分、1時間かかる仕事を投げて寄越される様になり、お礼を言われる事もなくなり、頼まれる事もなく当たり前に自分の所に仕事が回される様になり、サービス残業が常態化し、勤務時間外に朝礼や会議や研修や課題が設定され、有給休暇の取得は不可能になり、病気で会社を休もうとしただけで舌打ちをされる様な企業風土が形成されて行く事もある。

 会社というのは閉鎖空間だから、企業風土がおかしくなっている事に内部の人間が気付かない場合もあるし、人事や給与の裁量権を持っている会社に労働者が逆らえなかったり、自分を会社の価値観に合わせてしまった方が楽なんじゃないか、評価されるんじゃないかと勘違いしてしまったりもする。そしてこの『会社』の部分は『国家』でも『政府』でも『学校』でも『社会規範』でも何でもいい。何にでも『茶色の朝』は起こり得るのだから。

 なにか問題が目の前にあって、それを「おかしい」という自分の気持ちに蓋をしてしまったらどうなるか。声を上げなかったらどうなるか。それを考えてみるきっかけとして本作はある。自分の思いを口にしてきちんと議論をしてみようよ、という呼び掛けだ。当然、権力者や多数派に少数派が挑もうとするのは勇気がいる事だ。でも、自分が「小さな声」だと思っている価値観は、実は同じ様に思っている人は大勢いるのに今まで誰も声を上げる事ができなかっただけかもしれない。また、本当に少数派だったとしても、多数派の方が間違った考えを持っているのかもしれない。

 「長いものには巻かれろ」という言葉があって、自分達はその誘惑に弱いのだと思う。事なかれ主義で、力の大きなものに従ってしまった方が安心なんだという価値観だ。自分ごときが何を言っても仕方ないという自己評価の低さがそれに拍車をかける。でも、その先にあるのは『茶色の朝』なんだろうなという事に、そろそろ気付かなければならない。皆が。そして自分自身が。

 

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その歩みを止めないのなら・三田誠『ロード・エルメロイII世の事件簿10 case.冠位決議(下)』

 

 FGOですが、うちのグレイはレベル100です。ちなみに諸葛孔明(エルメロイⅡ世)とイスカンダルは引けてません。更には司馬懿(ライネス)も引けてませんしアストライア(ルヴィア)も引けてません。(謎の挨拶)
 まあほぼほぼ無課金だとこんなもんでしょう。グレイが配布で本当に良かった。

 作者の三田誠氏に関して言えば「自分で小説を書いているのにFGOでは孔明が引けない」という呪いを長い間受け続けていた事もあり、全国のファンから孔明ピックアップガチャが来る度に「三田先生お願いだからもう孔明を引いて!」という祈りやら「呼符で来ました」という無慈悲な報告やら、幅広くコメントが集まるお祭りと化していたりもした。(その後三田先生は無事に孔明を引く事ができました。良かった)

 さてFGOの話は程々にするとして、三田誠氏の『ロード・エルメロイII世の事件簿』シリーズも今回で完結となった。好きなシリーズが完結する時はいつも思うのだけれど、「物語はここで一旦幕引きになるけれど、登場人物達はこれから先も作品世界の中で生き続けるのだろうな」という余韻があって、少し寂しくもあり、また物語の完結をお祝いしたくもあり、という複雑な心境だ。特にエルメロイⅡ世=ウェイバーの目指すものは、まだ遥か彼方にあって、彼はその歩みを止める事が出来ないのだから。

 別の所でも書いたけれど、人が生きて行くには『夢』とか『目標』が必要なのだろうと思う。良く言えば『生きがい』とも言い換えられるかもしれない。でもそれが叶わない事に気付く時、それらは『呪い』や『重荷』に変質して行く。

 「夢を持て」とは誰もが言う。けれど「夢の諦め方」を教えてくれる人はいない。

 それは残酷な様で、でも当たり前の事だ。他人から「お前の夢は願うだけ無駄で、もう諦めた方がいい」なんて事を言われて、誰が納得できるというのか。夢を叶える為には自分の実力が及ばないのだと知る時、人は自分自身で自分の中の気持ちに向き合わなければならない。

 まだ夢を追い続けるのか。それとも自分の心の中に夢を埋葬するのか。

 少年の頃の夢を追い続けて、結果が出せないまま歳を重ねて行く人がいる。生活を犠牲にしながら、夢の為に努力し続けて、でも結果には結び付かない。そういう人を目にすると、外野は「もういい加減諦めたらどうなんだ」と口にする。また口にしないまでも、そういう態度で相手を蔑み、憐れむ。それはなぜなのかと言えば、つまるところ彼等もかつて自分の夢と向き合い、そして夢を殺す事で自分を生かす決断をしたからだ。自分の心の中に、夢を埋葬したからだ。

 自分もそうだ。昔持っていた夢を殺して埋めて、自分自身に見切りを付けた。この夢は、自分程度の人間が抱いていいものじゃなかった。叶えられる様なものじゃなかった。そう自分自身に言い聞かせて、殺した夢を弔って、別れを告げて、現実世界を生きて行こうとした。糊口を凌ぐ為には仕事をして金を稼がなきゃならない。そうやって生きて行く自分が、かつて夢見た自分の姿からどんなに遠く離れて行ったとしても、そうしなければならないんだと心に決めて。だから自分はきっと羨ましいのだろうと思う。憎いのだろうと思う。まだ「夢の途中」を生きていられる人の事が。

 でも、考えてみて欲しい。遥か彼方の夢を追い続けて、それを諦める事を自分に許さないという生き方は、現実に向き合う為と称して夢を殺した人間の生き方と同じ位、いや、それ以上に過酷なのではないだろうか。

 自分が夢を追い切れなかったのは、弱さのせいだ。自分の実力の無さ、至らなさのせいだ。でも、その事を知った上で、なお夢を諦める事を自分自身に許さない生き方を選ぶ者がいるのなら、彼はもう立ち止まる事も、言い訳をする事も許されない。どんなに辛く長い道程でも、最後に目標に辿り着く事ができるかどうか何の保証もないとしても、諦めを捨てるのなら夢に殉ずるしかないのだ。

 『理想を抱いて溺死しろ』

 かつて別の物語で、そう語った者がいた。
 ある理想の為に歩み続け、過酷な現実に心を削られ続けた男だった。少年が心に抱く理想や夢がどんなに正しく思えても、綺麗に輝いて見えても、それを目指して歩み続ける道程が、そして辿り着く先が地獄そのものである事を知っているが故の言葉だった。そして、夢を捨てる事を許さない生き方を自分に課しているという点で、彼と、かつての少年と、エルメロイⅡ世=ウェイバーは似ている。ただ、エルメロイⅡ世にとっての救いは、彼を支えてくれようとする人々がいる事だ。彼が孤独に突き落とされてはいないという事だ。

 だからこそ、辛くとも歩いて行ける。夢に向けて。再会すべき王のもとへ。
 もっとも、彼は素直にその事を認められないかもしれないが。

 『師』というのは、生徒や弟子よりも多くの知識や技を修めているから敬われるのだろうか。実力があり、敵うものがいないから崇められるのだろうか。だとしたら、教え子が師を超えて行く時、その存在に価値はなくなるのか。それは正解の半分である様に思う。残りの半分は、師の生き方が、その姿勢が、教え子達にとって目指すべき目標たり得るかという事なのではないだろうか。だとすれば、現代魔術科というエルメロイⅡ世の教室が、師を慕う者達で溢れ、支えられているという事実は、彼が抱く夢と、その生き様が間違ってはいないという事の証左になるのだろうと思う。辛くとも。苦しくとも。

 これからも彼は歩いて行くのだろう。彼が夢に届く様にと願うのは、自分がかつて夢を殺したからというだけの事なのだろうか。そうではないだろうと今は思う。
 濁った目で見上げたとしても、それが自分自身の夢ではなくても、綺麗な夢はやはり綺麗なままで、誰かがそれを叶える瞬間を自分は見たいのだ。きっと。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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