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その憎悪は、正しい怒りに変わるのか?・上遠野浩平『憎悪人間は怒らない』

 

 本の感想が書けなくなった。

 読書は自分の数少ない趣味のひとつで、読んだ本の感想を書く事は、自分の中で薄れてしまう感情を書き留めておく為に必要な事だった。それに、感想を文章にして整理しようとすると、ただ頭の中で漠然と漂っている感情に輪郭線が引かれる様な感覚があって、自分がその本を読みながら何を感じ、考えようとしていたのかという事が明確になって行く。それを記録しておく事が、何となく好きだった。タイムカプセルを埋めておくという程大袈裟な事でもない。今持っている木の実を後で食べるつもりで地面に埋めておく小動物みたいなものだ。そして自分がそこに木の実を埋めた事も忘れてしまうというのもよくある話で、書くだけ書いて二度と読み返さない感想の方が多いかもしれない。

 ただ、稀に気が向いて、自分が書いた感想を後になってから読み返すと、忘れかけていたものを思い出す事ができるし、道に迷った時の為に目印を落として行く様に、自分がどこから来たのかを辿る事ができる様になる。何となく『確固たる自分』というものがあって、何年も前から自分は同じ様な価値観やものの考え方をして生きて来たのだというつもりになってしまう事があるが、大抵の場合それは錯覚というか思い込みであって、数年前の感想を読み返すと、当時の自分は今の自分からすれば、まるで他人の様なものの見方をしているという事がある。それが成熟なのか堕落なのか、賢くなったのか愚かになったのかは分からないが、とにかく『違う自分』がそこにいて、過去の自分はどうやらある時点で死んだか、今の自分と別れて違う道に進んだらしいという事を知る。

 ゲーム的に言えば、ロードできないセーブポイントの様なものだ。過去の自分の一部分を、『本の感想』という外部記憶装置に保存(セーブ)しておく。それは後になって参照する事ができるが、過去の自分に戻ってロードし直すという事は出来ない。やり直しは効かないけれど、一方的に記録しておく事だけはできる。

 何でこんな長い前置きを書いているのかというと、『憎悪』という言葉をひとつのテーマにしている本作の感想を書こうとして、実際書いてみた時に、自分の中からとても酷い、泥の様な感想があふれて来てしまって、一度全部捨てたからだ。

 愕然とした。自分は、まあ自分で言う事ではないけれど、どちらかといえば怒る事が少ない人間だと思う。怒りを表現する事が苦手だし、苦手だから嫌いだ。誰かに対して、何かに対して怒りを表明すれば、その時はすっきりするかもしれないけれど、後になってからうじうじ悩むに決まっている。

 そんな自己評価を下しておいて、いざ『憎悪』についての文章を書き始めた時に自分の中から溢れて来た言葉は、とてもそれを保存しておこうとは思えない程に、『負の感情』を煮詰めた様な、粘度の高いものだった。海に流れ出た原油の様な。

 そんな感想を書いてしまった事で「自分は『怒りを表に出したくない』だけで、実際その内側にはしっかりと憎悪を溜め込んでいる人間だったのだ」という事に今更気付いた。自分で自分自身に舌打ちをする。俯いて、自分の足元を見ながらひたすら前へと歩いて来たら、いつの間にかこんな酷い所に迷い込んでいた。というよりも、自分自身が腐り始めていた。その感情をいつでも思い出せる様にセーブしておく強さは自分には無かった。

 自分以外の誰かに対して、何かに対して『怒る』事や『憎む』事が全て間違っているとは言わない。『批判』すべきものや価値観というものは確かにあって、それらに対して必要な怒りを向けられなかったとしたら、それはそれで健全ではない。ただ何かについて、誰かについて批判の矛先を向ける時に、相手の行為や価値観、倫理観について批判する事と、相手の存在そのものを憎悪の対象にする事とは違う。違うのだが、自分はそれをしばしば同一視してしまう。

 「こんな酷い事を言う人は、行う人は、きっと憎まれて当然の人間なんだ」

 それは自分の思い込みであり自己正当化の一種で、相手や批判すべき価値観そのものの一側面を自分が切り出し、あたかもその切り出された一部分が対象の全体であるかの様に膨らませて認識している――言ってみれば全くの『誤認』なのだが、相手の過ちは事細かに指摘できても、自分自身の過ちには気付き難いのが自分の弱さであると同時に、そうして自ら作り出した憎悪に飲まれてしまって、気付けばただ目の前の誰かが憎く妬ましく、自分が社会から疎外されているかの様な寂しさを反転させて、社会の側に恨みを抱いていたりする。

 そうした負の感情は、泥の様に、澱の様に心の中に堆積して行く。

 自分の弱さや間違いを直視する事、認識する事はきっと誰にとっても辛い事で、だからこそ根拠もなしに「自分は正しい」と思い込んだり、「相手は間違っている」と決め付けたりする事で平静を装うのだが、そこで生まれる負の感情から――泥から目を逸らし続けていると、ある時それが自分自身という小さな器から溢れ出そうになっている事に気付く事になる。

 では、どうするのか。

 正しい怒りというものは何か。自分自身を貶めるのではなく、相手を憎む事でもない怒りというものが仮に存在するとして、この自分自身の中に溜めてしまった泥は、どうすればそうした『正しい怒り』へと昇華させられるのか。今の自分にその答えはないのだが、それでも何かを考え続けなければならない。ここまで歩いて来てしまった自分は、もう過去の自分が立っていた場所から現在までの道程を全て無かった事にして、やり直す事はできないのだから。

 だから自分は、このやり場のない感情を、今ここに置いておく。憎悪の泥の方ではなく。

 何かを憎んでいた記憶を刻み付けておくのではなくて、自分の迷いや弱さの方を書き残しておく。そしていつかどこかで今日を振り返る時に、この記憶が無駄ではなかったと思いたい。このまま、この場所で泥に沈みたくはない。それだけが今、確かに言える事だろう。

 (で、どっちに踏み出すか決めたのか? それが『前』だっていう保証は?)
 (まあ、そうやって『迷える』のは『生きてる』からだって事で)

 BGM “Guilty All The Same” by LINKIN PARK (feat. Rakim)

 

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振り向かずに生きて行こうとするのなら・葵遼太『処女のまま死ぬやつなんていない、みんな世の中にやられちまうからな』

 

 正直に白状するとタイトルのインパクトで買いました。カート・コバーンの言葉であるとは露知らず。というかカート・コバーンその人を知らなかった。いや、Nirvana(ニルヴァーナ)は知ってたよ、ちゃんと聴いた事がなかっただけで。(何だその言い訳は)

 仏教学部卒業のくせに何でニルヴァーナ(仏教的に言うと『涅槃』)聴いた事無いんだよっていう話になりそうではある。実際、仏教系ロックバンドを立ち上げようとする人達は一番いいバンド名をニルヴァーナに持って行かれているので皆が途方に暮れる。そして自分は読書にしろ音楽にしろ、そういう「これは基本だろ」っていう所を何となくスルーしたまま生きているので、時々友人や知人に呆れられる。

 まあそれはそれとして、読んでみた感想としては、登場人物が皆気のいいやつばかりで好印象だなと思う反面、物語全体としては『ああ、思春期が渋滞しているなぁ』とも思う。自分みたいな中年が読むものじゃない。いい意味で『過剰』だと思う。

 自分は『青春』っていう言葉が好きじゃない。

 ちょっと前からは『アオハル』なんて呼ばれ方をしたりもするけれど、自分はそれをCMのキャッチコピーとは違う意味で「アオハルかよ」って思ってしまう。だから『思春期』って言い換えるけれど、まあ青春の事だと思ってもらって構わない。自分は青春という言葉に、あまり良い思い出がないけれど。

 そして本作はその思春期が渋滞している。

 高校を舞台に、恋人との死別や、新しい仲間との出会いや、バンドの結成や友情や恋といった要素がまあこれでもかと詰め込まれていて、ちょっとやり過ぎなんじゃないかとすら思う。一昔前に『ケータイ小説』が流行った時には『主人公の人生が余りにも波乱万丈過ぎる』と思ったけれど、そこまで行かないにしてもちょっと情報量が多い。他にも処女だの童貞だのといった言葉が直球でやり取りされていて若いなぁとか、くだらない所で引っかかりを感じたりもする訳だけれど、やっぱり自分も含めた多くの一般人の場合、実際の人生はもっと淡々としている訳で、その事を知っている中年の自分としては、作品に入り込むのに少しの抵抗を感じる。

 現実の人生はそこまで『物語』の様な起伏を持たない。家族や友人や、もしかすると恋人といったかけがえのない人々との死別は、物語的なお膳立てもなく唐突にやって来る。そして別れの後の痛みや心の傷も、いつまでも余韻に浸る事を許さない様に少しずつ風化して行く。決して消えはしなくても。

 夢が破れても、社会や世界に絶望しても、どんなに悲しい別れの後にも、そこで何かドラマチックな音楽が鳴り響いて『終わり』が始まる事はない。自分ひとりの悲しみの為に、世界はエンドロールを流してはくれない。「世界が終わらないという事だけが終わらない」と昔誰かが言った気がするけれど、それは本当にその通りで、だからこそ途方に暮れる。

 自分の様に思春期を通り過ぎて、中年になって、伝えられなかった想いや叶わなかった願いがひとつひとつ積み重なって行く様な日々を過ごしていると、そこから振り返った時に見える本作の世界は、『自分が通り過ぎて来た場所』になっている。だから主人公の晃が『今この瞬間の事』として感じている強い感情の動きに、読者である自分を寄り添わせるには抵抗がある。自分はもう知っている。自分自身が『ここで物語の幕を下ろして欲しい』と思うタイミングでは、絶対に終わりはやって来ない事を。日常はもっと残酷にだらだらと続いて行くものだし、そうかと思えば唐突に断ち切られたりもする。

 この物語が現実なら、晃や仲間達の人生はこの後も続いて行く。残酷に、「ここで終わりなら綺麗だったのに」っていうタイミングを外したまま。彼等は大人になって、もしかするとその友情や愛情は途切れてしまうかもしれない。それがどんなに綺麗で尊いものだったとしても、永遠に続くものなんて無くて、いつか彼等は疎遠になり、それぞれ違う人生を歩み始めるのかもしれない。大人になって、『あの頃は良かったね』っていう、若者が一番嫌う言葉を何気なく呟いてしまった自分に気付いて、胸を痛める様な日が来るのかもしれない。『あの頃』に戻れない自分を悔やんで涙を流す日が来るのかもしれない。

 自分はきっとそうなるんだろうなと思う。自分自身がそうだったから。それが現実だと思っているから。

 でも、本作はこれでいい。このままでいい。思春期が渋滞している様な、まるで『人生の輝きは今この時にしかない』とでも言わんばかりの、切実で濃密で独り善がりなまま、綺麗に幕を閉じる物語でいい。むしろこれを読んだ現役の高校生がいたら、自分がこれまで書いて来た様な言葉を全部蹴飛ばして行ってもらいたい。おっさんが何か言ってるけど知らねぇよって。カート・コバーンも知らないくせにいっぱしの口を利くなって。そして心の中で高らかに鳴り響いている音楽と共に自分の『物語=現実』を生きて行けばいい。どこまでも信じ続けて行けばいい。思春期には諦観なんか似合わないから。

 振り向かない事と諦めない事が若さなんだって歌があった様に。
 それを歌ったのはカート・コバーンでもロバート・プラントでもないけれど。

 

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全ての、夢を追う人へ・逸木裕『電気じかけのクジラは歌う』

 

 ある作品について語る時に、他の作品を引き合いに出すのは不誠実かなと思うので、普段は意識して避けているのですが、本作は先日感想を書いた野崎まど氏の『タイタン』とどうしても重なるテーマがあるので、両者を対比させながら書きたいと思います。

 『タイタン』は2205年の未来、人間がAIに全ての仕事と創作の大部分を任せてしまった世界が舞台でした。本作は現実がそこに至るまでの過程で必ず起こるだろう『AIに居場所を奪われて行く人間』の葛藤を描いています。


 AIがユーザーの好みに合わせて作曲をするアプリ『Jing(ジング)』が普及し、作曲家は次第に職を追われる様になった。そして作曲家の代わりに、Jingに人間の嗜好を学習させる為の『検査員』と呼ばれる職種が生まれる。
 元作曲家であり、現在は検査員として働く岡部の元に、かつては同じユニットで共に演奏していた現役作曲家の名塚が自殺したという知らせが入る。Jingの普及で作曲を諦める者が増え続ける中で、天才的な作曲家として高い評価を受けていた名塚。彼はなぜ自殺しなければならなかったのか。その真相を追う中で、岡部はもう一度作曲に向き合う事になる。


 本作はミステリー小説で、物語の本筋としては天才作曲家の自殺の真相を突き止める事が目的なのですが、作中で扱われている『音楽とは何か』『創作とは何か』というテーマが非常に重く、熱を持って描かれていて、作曲に限らず創作全般に携わる人々や、演奏家等の自分の技術を磨き上げて行く道に進んでいる人達に対しては鋭く突き刺さって来る作品になっています。

 例えば創作をしていて『自分の能力の限界』を思い知らされる事はあると思うのですが、現在はまだ人間対人間だと思います。上を見れば自分よりももっと凄い作品を発表している人がいて、彼等と比べて自分はなぜこんなにできないのかと実力の差を思い知らされる。悔しさがあり、嫉妬がある。時に相手を憎む事すらある。でもそれがAIに置き換わった時に起こる事は、創作というものにもっと大きな影響を与える様な気がします。

 まず自分が怖いなと思ったのは『AIが人間の創作の場を奪って行く未来』というのは、意外と早く来てしまうのかなという事です。

 本作は2019年8月に刊行されたそうなのですが、思い返せばそれから美空ひばりAIが新曲を歌ったり、手塚治虫AIが新作漫画を発表したりという事がありました。今はまだ技術発展の途上だとしても、AIが人間の創作の場を奪って行く未来というのは絵空事ではないかもしれない。AIが人間から学んだり、人間をライバルにして切磋琢磨したりしている間はいいかもしれないけれど、やがてAIが人間を凌駕する時、人間が創作する意味というのは壊れてしまうかもしれない。

 一番恐ろしいのは、AIが人間を凌駕する事もそうですが、突き詰めれば『創作物に作者が不要になる』事なんじゃないかと思います。

 特定の分野に限れば、AIの方が人間より高度な処理能力を持ったり、より良い結果を出力できたりする未来はすぐ訪れるだろうと思います。怖いのはそこではなくて、本作の様にユーザーがJingに自分の好みを学習させて、自分の為だけの音楽を出力して満足する様になるとすれば、まず他者が不要になります。

 誰もが自分で、自分の為に(AIを使って)作曲できるというのは、最大限好意的に見れば『皆が作曲家になる』事なのですが、悲観的に見れば「自分にとって心地よい音楽が聴けるなら、そこに作者や演奏家といった他者の思いは必要じゃない。むしろ邪魔だ」という事でもある。ずっと自分で自分の欲求を満たし続ける事が可能になって、他者の存在が雑音の様になるかもしれない。

 創作っていうのは詰まるところ『自己表現』だと自分は思います。

 中には自分というものを脇に置いて、読者や聴衆、市場が求める作品を職人的に作り続ける作者もいるのだろうと思いますが、それでも創作活動は自己表現であって、他者からの反応や評価が帰って来るから続けられるのだろうと思います。それがAI技術の発達によって、自分の想いを形にして世に出す事、自己表現や自己実現というものが市場から求められなくなった時に、それでも何かを表現したいと思える人がどれだけ残っているか。誰からも求められていないかもしれない『自分の作品』を発表しよう、作り続けようと思える人がいるのか。それを考えると怖いですね。

 「ずっと心地良い音楽を聴いていたい。でもそこに、あなたは必要ない」

 そういう未来が本当に来るのかもしれない。

 もっと言えば、作中でも描かれる様に、今後『自分の創作物を学習させたAIが、自分自身よりももっと優れた作品を出力できる様になる』とすると、ここにいる自分は『AIに素材を食わせる為に存在している人』になるのかもしれない。そこで「それでもこの作品は自分のものだ。AIは自分の創作の道具に過ぎないんだ」と思えるだろうか。そう思える人達だけが『作者』として残って行くのだろうかと考えると、複雑な気持ちになります。

 また、次に考えたのは『仕事』の事でした。

 『タイタン』では既に人間の仕事や創作の大部分をAIが肩代わりした後の世界が描かれていて、そこに至るまでに起こるであろう人間との軋轢は過去のものになっています。でも、本作では正に人間とAIというのはそのせめぎ合いの渦中にあります。

 『タイタン』のテーマは『仕事』でした。そして現代において、仕事とは『自分と夢とを繋ぐもの』でもあります。AIの成果物を消費するだけで生きて行ける社会はまだ遠く、自分達は仕事をして対価を得なければならない。そこで誰もが『夢か仕事か』という二者択一を迫られるのだと思います。それが嫌なら『夢を仕事にする』しかない。

 酷な言い方をすれば、大抵の場合『夢』っていうのはそれだけじゃ食えないんですよね。自分が若い頃もフリーターをしながら役者を目指す人や、バンドマンをしている人がいたけれど、食べて行く為のバイトと夢の間で板挟みになってしまっていた訳です。本当は一日中演技や音楽に浸っていたい。自分を高める為に全ての時間を費やしたい。でもそれは金にならないから、バイトもしなければならない。もしくは、夢に近い場所で働く事を選ぶしかない。写真家を目指す人が、フォトスタジオで働く様に。映画監督を目指す人が、撮影所で働く様に。

 でも、AIが人の生活を保証するよりも、創作そのものや、夢の周りにある仕事を人間から奪う方が先になってしまったら、きっと多くの人が『夢≒仕事』から引き剥がされて行くだろうなと思います。既に起きている部分もあるかもしれませんが。漫画なら、デジタル作画の普及はアシスタントの数を減らしているかもしれない。夢を叶える人の周りで、夢に手を伸ばそうとしている人達の居場所は、もう切り崩されているかもしれない。そうなると、生活を成り立たせる為に選ぶ仕事は、夢からどんどん遠ざかって行く事になる。夢を諦めなければならない人が増えて行く事になる。夢が人間から引き剥がされて行く事になる。

 そういうもろもろの『怖さ』が読者である自分に伝わるのは、本作がそれだけ『創作』というものを真摯に、熱を持って描いているからだと思います。面白いですよ。そして怖いし、痛い。優しい物語も好きですが、痛みを伴う物語も好きです。それだけ真剣だという事だから。

 

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仕事をする事=生きるという事の意味・野崎まど『タイタン』

 

 『タイタン』と呼ばれるAIと、そこに接続された作業機械群が、人間が行っていた全ての労働を肩代わりしてくれる様になった世界。人々は『仕事』というものを既に知らず、タイタンがもたらしてくれる成果物を消費する事で生きている。
 国家という枠組みは消え、全ての人間がタイタンの庇護下で安寧な生活を送る様になった社会には、『働く事の意味』を知っている人間はほぼいない。
 そんな中で、世界に12基しか存在しないタイタンAIの内、1基が謎の機能不全を起こす。その機能不全の原因を突き止めるべく考え出された対策とは、タイタンの一部を『人格化』して取り出し、『彼』をカウンセリングする事だった。あくまで『趣味』として心理学を学んでいた内匠成果は、半ば強制的に『仕事』としてタイタンAI、個体名コイオスと向き合う事になる。

 遠い昔に『仕事』から開放された人間と、人間の代わりに働き続ける為に生み出されたAIは、生まれて初めて長い旅に出る。『働く事の意味』を見付ける為に。


 読み終えて思うのは、『働く事の意味』を見失っているのは、タイタンAIでもなければ、物語の舞台である2205年の人類でもなく、現代を生きている自分達なんだろうなという事です。それを再確認する為には、一度自分達の視点を可能な限り遠くに移動させる必要があります。物事の本質的な意味を問う時、近視眼的なものの見方は邪魔になるからです。

 造形に例えます。粘土で立体物を作る時には対象を様々な角度から見て、全体の造形におかしな所がないか確認しながら制作を進めるのですが、一度おおよそのバランスが取れた後に、例えば人間の像であれば目鼻や装飾等の細部を作り込んで行く中で、ふと違和感に気付く事があります。
 細部が出来上がり、完成に近付いた筈なのに、目鼻も何もない粘土の塊だった時に比べて、明らかに良くない。なぜだろうと思って、一度離れて眺めてみると、細部に拘って作業をしている内に全体のバランスが狂ってしまっている。それに気付いて仕方なく細部の造形を全部叩いて潰し、バランスを取ってあげると、像が生き返る。

 物事の本質的な意味を問う事も、この造形に近い所があるのだろうと思います。

「働く事の意味は何ですか?」と問われる時に、すぐ思い付くものはいくつかあります。「働かないとお金が稼げないし、お金が稼げないと生活ができないじゃないですか」というのは『近視眼的な理由=細部』です。確かに細部も重要ではありますが、それは少なくとも『作者が考える本質』からするとまだ『遠い』んですね。だから本質に至る為に、作者はその細部を潰します。

「では、人間が働かなくてもAIとロボットが全てを肩代わりしてくれる世界を設定しました。その上でもう一度問います。働く事の意味は何ですか?」

 さて、今度はどう答えるでしょうか。

 出典は忘れましたが「あなたが相手を好きな理由」を聞いて、その次にその相手を目の前で傷付けて行き、(例えば指を折る、目鼻を潰す等)「これでも好きですか?」と問い続ける怖い話があったと思うのですが、物事の本質を知りたいと思う時、人はそれに近い事をします。大きな木の枝葉を切り落とす様に、細部を削いで行く。そして最後にどんな幹=本質が残るだろう、という感じで。

 本作の世界観で言えば、人間にはもう『仕事』はありません。全てをAIが肩代わりしてくれるし、むしろ「AIの方が人間よりも上手くやる。公平性が保たれる」という世界です。人間はただ余計な手出しをせずに、タイタンの仕事の成果を消費するだけでいい。もっと言えば、娯楽や芸術、創作だってAIが担う様になっていて、人間はその周辺で趣味的な事をしているに過ぎないという世界です。そんな未来がもし来たら、それは自分達にとって『働く事の意味』というよりも、それを突き抜けて『自分自身の存在意義』を問う問題になって来ます。

 『あなたが生きている意味って何ですか?』

 そう問われた時、自分の中に答えがあるかどうか。これはそういう話なんだろうと思います。そして自分も含めて多くの人が、時にそれを見失って躓き、『生き苦しさ』の様なものを感じているのだろうと思います。そこに答えが与えられるのかどうか。どんなものを答えとして、自分の中に持っておきたいのか。その本質を突き詰めて行く為に、作者と自分達は一度2205年の彼方まで離れて、現在を振り返る必要がありました。そしてそこから、どんな自分自身が見えるだろうか、生きている意味、生きて行く意味が見付けられるだろうかという問いが生まれました。

 その問いに対して、作者が用意した答えはシンプルです。

 まるで神話の様な壮大なスケールの物語と世界観を用意して、長い旅路の果てに辿り着いた答えにしては、バランスを欠いているのではないかと思える程の、ささやかな、ある意味では当たり前な、でも真摯な回答が読者の前に差し出されます。

 自分はそれを、好きだと思います。

 その答えを受け取った時に、さて、どうしようかと考えた自分がいました。自分の仕事。自分がここに生きている理由。その意味。そうしたものを考えて出した結果は、実はこれまでの生き方と大きく変わりませんでした。

 誰かに働きかける事。誰かが働きかけられる存在として、ここにいる事。

 それは例えば本を読む事だったり、その感想を書く事だったりします。それは誰かの目に留まる事もあるし、ただ流れ去っていく事もあります。正直、自分に大した影響力などないのだろうと思います。その事は少し悔しく、残念でもあるのですが。

 それでもいつかどこかで、誰かを動かすかもしれない。

 もちろん、そうならない可能性の方が高いのですが。でも例えば小説を読んだ時に、「自分に届いたよ」というこだまを返す事には、きっと意味があるんだろうと思います。少なくとも、これまでよりも少しポジティブな気分になれました。

 きっと社会全体にとっては、あってもなくてもいい事。なくなっても誰も困らない事。いくらでも代替可能な事。それら全てに頷いた上で、それでも自分は続ける事にしました。

 これまでそうであった様に。これからもそうである様に。
 仕事をする事。今ここにある事。生きるという事を。

 

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命令だからじゃなく、祈りを胸に・浜松春日『ラストオーダー 1 ひとりぼっちの百年戦争』

 

 考えてみたらライトノベルを読むのは久し振りかもしれない。読み終えてから、著者が元自衛官で、異世界自衛隊ものの小説を書いていらした方という事を知りました。


 ヒューマロイドと呼ばれる、人間に限りなく近い外見を持つロボット(アンドロイド)が人間に代わる労働力として急速に普及し始めた世界。軍事も例外ではなく、ヒューマロイド兵士が生まれていた。物語の主人公である女性型ヒューマロイド「DHI-Type77 エゲリアNo-13」通称『リア』もまた、そんなヒューマロイド兵士のひとりだ。

 そして間もなく、何らかの世界情勢の変化によって大規模な戦争が勃発する。国家対国家の戦争だったのか、或いは『半生物兵器』と呼ばれる、昆虫や野生動物を模した形状をした増殖する自立戦闘機械群の暴走がきっかけだったのかは判然としないが、ともかく人類は地上を追われ、地下で細々と暮らす様になった。開戦からおよそ100年の間に人間が持っていた技術の多くは失われ、文字を読める者も少なくなり、過去の戦争は神話じみた物語として口伝される様になった。その中では『主人を裏切った機械達が戦争を引き起こした』とされているが、既にそれが正しいのかどうかも分からない。

 ただ、そんな世界で『リア』は戦い続けていた。敵から都市を防衛せよとの最後の上官命令、ラストオーダーを守り続けて。戦闘停止命令も、救援部隊の到着もないまま『ひとりぼっちの百年戦争』は続く。その戦いが終わる日は来るのか。


 個人的に、個々の作品について語る時に他作品やアニメ、ゲームの名前を出すのはあまり好きではないですが、あえて書くなら『Detroit: Become Human』の様な『人間とアンドロイドの間に摩擦が生じ始めた社会』から始まり、戦争による文明社会の崩壊を経て『Horizon Zero Dawn』で描かれた、人間を殺戮する機械群が跳梁する世界に至るという流れを、この日本を舞台にして再構築した様な物語です。

 自分はポストアポカリプスものが好きなのと、「機械の女の子」みたいなネタにとことん弱いのもあって本作を読んでみた訳ですが、本作を楽しめるかどうかの基準としてはそのどちらも本質ではなくて、『人間の命令を愚直に守り続けるロボット』という存在に、いじらしさや健気さを感じられるかどうか、という部分が一番大きいのだろうと思います。

 ちょうど今、自分は『Fallout76』というオンラインゲームをやっているのですが、このFalloutシリーズもまた、核戦争で世界が滅んだ後に、地下核シェルターに逃げ延びて生きながらえた人々が、ふたたび地上に出てそれぞれのコミュニティを作って行く物語です。核兵器で焼き払われたかつての世界は、汚染物質で変異したと思しきモンスターやかつての人間の成れの果ての様なクリーチャーがはびこる危険地帯になっている訳ですが、そこかしこにかつての繁栄の跡があり、そうした遺物を収集したりする楽しみもあります。

 誰かが書いた日記や手紙の断片。生活雑貨の類。そして、世界が滅んだ後も人間の命令を守り続けるロボット達。そういうものを目にするのが、自分は好きです。

 こんな想像をしてみて下さい。かつて遊園地だった場所で、今日も訪れる筈のない来園者の為に働き続けるロボット達。そして閉園時間に流れるアナウンス。

 「本日のご来園、ありがとうございました。皆様お気を付けてお帰り下さい。またのご来園を心よりお待ちしています――」

 彼等は、いつまで人間の為に働き続けるのでしょうか。
 人間以上の判断能力を持ったアンドロイドなら、自分がしている事が無駄だと気付いて何か別の生き方(あえて『生き方』と書きます)を模索するでしょう。何なら人間に取って代わって地上を支配してしまってもいい。でも一方で『人間の命令を守り続けるロボット』は、本作の『リア』の様に、人間からのラストオーダーを遂行し続ける事を選ぶ訳です。そこに疑いを挟む事をしない。自分の判断を優先させる事もない。

 そこで、彼等ロボットの『愚直さ』(あえてこう書きます)を愛せるかどうか。それが本作を楽しめるかどうかに割と大きく関わって来ます。愚直さを『愚かさ』だと蔑んでしまう人には向かない。そしてもうひとつ大事な事があるとすれば、『ロボットの愚直さ』を現実に体現していると言えるのは、実は軍人なんですよね。日本で言えば自衛官という事になります。

 冒頭で書いた通り、著者は元自衛官です。命令というものが持つある種の『重み』を理解した上でこの物語を書いています。だから、『ロボットが人間の命令に従うのはロボットだからだ』という文脈には決してしたくないだろうなと思うのです。本作を読んでいても、それは感じられる部分です。

 『ロボットが人間の命令に従うのはロボットだからだ』
 『軍人が上官の、ひいては国家の命令に従うのは軍人だからだ』

 このふたつは同列です。たとえその命令が、自分の身の安全を保証しない類のものであったとしても、彼等は命令に従うでしょう。でもそれは『なぜか』という所を「ロボットだから」「軍人だから」と短絡させない描き方を作者は模索していますし、そこに作者の『祈り』がある様に自分には思えます。

 ロボットに『人間を慕う』『人間を愛する』という機能は本来実装されていません。人間が相手にそれを感じるとしたら、まず間違いなく錯覚の類です。でも、人間の命令を愚直に守る彼等の姿を描く時に、その『動機』として、ロボットと人間の間に相互の愛情があって欲しいし、それがお互いにとっての支えであり、喜びであって欲しいと願うのは、「軍人だから命令に従わなければならないのだ」という態度や規律だけでは命を懸けられない事を知っているであろう作者の『祈り』なのだろうなと自分には思えます。

 その祈りは、果たして届くか。
 届いて欲しいな、と自分は思います。自分達読者に対しても。そして今この時、困難な社会情勢の中で、命懸けで働いている医療従事者に代表される全ての人々に。
 命令だから、使命だから、仕事だからという上辺ではなく、何がその命令を守らせる本当の動機なのか。自分達はなぜ困難に立ち向かう事が出来るのかという事。その本質を、この物語を通して描き切って見せて欲しいなと思います。

 

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黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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