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未来に続く、祈りの為に・伴名練『なめらかな世界と、その敵』

 

 本作を読み終えた今の気持ちを、どうやって書き残したら良いか分からない。
 だから書きあぐねている気持ちの輪郭をなぞる様な迂遠な文章になってしまうかもしれないけれど、それでも書き残しておこうと思う。

 SFが好きだ。

 なぜ?と問われれば、「好きだという気持ちは確かなのに、理由を聞かれるといつも上手く答えられない類の質問」なのだけれど、本作を読み終えた今、なぜ自分はSFが好きなのだろうと改めて自問自答すると、その答えは「それは祈りだから」という事になるのではないかと思う。

 自分は大学時代に仏教美術を専攻していた。寺の跡取りでもないのに仏教を学ぼうと思ったのは、まあ色々と理由があったのだけれど、宗教について本気で学んでみて得られた知見として、「人間は常に『物語』=『生きる意味』を求めて来た事」「救いを求める気持ち=『祈り』が形を得たものが仏像をはじめとした仏教美術として継承されて来た事」の2点がある。

 例えば疫病や飢餓、或いは戦争で人が無差別に死んで行く時、彼等の死と、生き延びた者の生に理由はない。理不尽に、無作為に、ある者は死に、ある者は生きる。その中で生まれるのは、「自分達の生死には、人生には、そもそも何の意味も無いのではないか」という疑義であり無力感だ。

 仏教に限らずあらゆる宗教は、その「本当は無意味(無価値)かもしれない生」に物語を与える為に生み出されたといっても良いのではないだろうか。死後の世界や復活を描く事、来世や彼岸を描く事で自分達の生きる今と未来に「意味をあらしめる」事。かつて宗教はその様に人々の心を、あくまでも現世で救済しようとした。自分達がこの生命を生きる事には、確かに意味があるのだと。

 そして、そうした生きる意味や価値といった「目に見えない概念」を、視覚的に、感覚的に捕まえて、人々の目の前に現出させようとする行為が、仏教においては仏像であり、寺院建築であり、書画といった仏教美術の役割だった。『悟り』という概念を言葉だけでは捉え切れないから、悟った人(覚者)の像として仏像があったし、曼荼羅は精神世界の縮図だった。また中尊寺金色堂などは浄土の具象化だった。それは言い換えれば、人が救われたいという『祈り』を形にして、目で見て手で触れられる様にあらわす試みだった。

 人は昔から悩み苦しみ、そこから救われたいと願い、祈って来た。その生に、現代人と変わる所があるだろうか。

 自分達は今、自宅にいながらにして世界中の情報にアクセスし、地球の裏側で何が起きているかまでリアルタイムで知る事が出来る。遠く離れた人と会話する事も出来る。SNSを通じて不特定多数の人々と繋がりを持つ事も出来る。それは過去の人間からすればまるで神の御業か魔法の類だ。でも自分達はそこまでの社会を築いた今になってもまだ、過去と同じ様に「生きる意味」や「救い」を求めている。

 ならば現代にも、かつて宗教がその役割を果たした様に『物語』が必要な筈だ。

 それがSFなのではないかと自分は思う。

 現代だからこそ生じている問題を掬い上げて、そこから生まれている苦しみや『生き苦しさ』に目を向け、物語という形に昇華する事。現在から未来へ、或いは過去へと自由に意識を飛ばし、「あり得るかもしれないもうひとつの世界」を描いてみせる事によって、「今自分達が生きているこの世界」と対比させる事。そこから得られる「新しい視座」「新たな視点」が、日常を生きる事に汲々としている自分の様な人間には見出だせない、新しい気付きを与えてくれる。だから自分は感動するのだと思う。

 誤解を恐れずに言えば、その物語で描かれる世界がユートピアか、ディストピアかといった違いは些事であって、作者が今この世界に向ける眼差しがどんなものであり、その先にある未来にどんな景色を見ているか、どんな祈りを抱いているかを自分は読んでいるのかもしれない。

 本作で言えば、収録作には様々な『分断』が描かれている。

 表題作『なめらかな世界と、その敵』では、異なる世界を生きる二人の姿が。
 『シンギュラリティ・ソヴィエト』では、東西冷戦という現実の歴史における思想的な分断と対立から飛躍して、人工知能と人間、更にはそれを超えて行くものとの関係が。
 『ひかりより速く、ゆるやかに』では、異なる時間の流れに分断された人々の人生が。

 そしてまた、『人間の心や関係性』の問題も描かれる。

 『ゼロ年代の臨界点』では好意や敬意と表裏一体の愛憎が。
 『美亜羽へ贈る拳銃』『ホーリーアイアンメイデン』では、他者からの干渉や自らの意思によって人格が書き換えられる中で、何が本当の自分と呼べるものなのかという事が。

 そして、全体を読む事で、作者がこの現実の世界に対してどんな景色を見ているのか、どんな未来像を見ているのか=祈りを抱いているのかを、読者は感じ取る事が出来る。

 世界の『分断』については、『繋がり』を取り戻して行く物語を。
 『人間の心や関係性』の問題では、不器用でも、すれ違いがあろうとも、目の前の他者に手を伸ばそうとする事、分かり合おうとする事を。そしてそれが容易には叶えられない悲哀を。

 そうした未来を希求する事。その祈りをもって現実の潮流に抗おうとする事。言葉では言い表しきれないものを、同じ言葉である小説によって捕まえようとする事。(例えばそれは、複雑な世界観を『なめらかな世界』というたった一言で言い表してしまう様な技巧で実現されている)それらを積み重ねて行った先に、まだ多くの人が辿り着いていない場所に、皆を連れて行く事。そしてそこから見える先の景色に触れさせる事。

 それらを成し遂げる存在だから、自分はSFが好きだし、小説家を敬愛するし、自分も読者としてその後に付いて行きたいと思うのだ。少しでも先の景色をこの目で見る為に。少しでも明るい未来に触れる為に。

 そして現実の側を、望むべき未来に引き寄せる為に。

 それがこの世界に対する、今の自分の祈りだから。

 

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世界の終わりを待ちわびながら・詠坂雄二『人ノ町』

 

 ずっと心のどこかで、『世界が滅びないかな』と期待している。

 自分は人間が嫌いだ。その中には自分も含まれる。この世界には人間が多過ぎる。

 友人に廃墟好きがいて、実際に現地に行く程ではないのだけれど、自分も何となくたまに動画や写真を見たりする。かつては人で溢れていた街や施設が、今は無人になって少しずつ朽ちて行く光景を見るとなぜかほっとする。

 自分はウィル・スミスが主演していた映画『アイ・アム・レジェンド』の前半が好きで、他に誰も生存者がいない(ウイルス感染者は闇の中にうじゃうじゃいるけれど)街で彼が佇んでいるのを見ると、「別に生存者なんて見付からなくても良いのにな」と思う。それでは話が進まないから仕方無いのだけれど。

 伊藤計劃氏の『虐殺器官』で出て来る『「プライベート・ライアン」の冒頭15分』みたいなものだと思う。別にウィル・スミスが演じるネビルが頑張って生存者を発見して、彼等を救うみたいな後半のストーリーを自分は求めていない。ただ滅んだ世界があって、その中に佇んでいる男がいて、もう戻らない崩壊前の世界の痕跡をそっと指先でなぞっている様な映像が見たいだけだ。

 自分には「ポストアポカリプスの世界なのだけれど、なぜか自分は生きていて、その世界を歩き回れる」という都合の良い夢があって、多分それは絶対に叶わないし、自分なんかが世界の破滅を生き延びられる訳がないのだけれど、だから自分は割と本気で不老不死になりたいと思っている。それはなぜかと言うと、「自分達が今この中途半端な世界でもがいている事に、果たして意味はあったのか」という答え合わせがしたいからだ。

 普通に生きているだけでは、それは絶対に出来ない。だって答えを見る前に死んでしまうから。

 もっと言えば、何らかの理由で今の社会が完全に壊れてしまって、文明が後退して全てが御破算になった世界で「かつて人類はあれだけ頑張って宇宙にまで手を伸ばしていたのに、今はもうその技術も絶えてしまって再現できない」位になった辺りで、ようやく自分は人間の事を好きになれるかもしれないと思う。屈折しているけれど。

 本作もまた、そうしたポストアポカリプスの物語なのだという事が次第に明かされるタイプの世界観を持っているのだけれど、その世界を旅する旅人の視点は妙に乾いている。その事にも理由はあって、読者は物語を読み進める内に旅人の正体や、その旅の目的を知る事になる。

 個人的にはこの旅人を羨ましく思う一方で、自分だったら様々な町を巡り、様々な人と会うのではなく、むしろ誰もいない場所を延々と巡り歩きたいと思う。かつて人が生きていた場所。朽ちた建築物が林立する中を、あてもなく歩き続ける様な。そこに置き去りにされた本や写真や、誰かの生活の名残に指を這わせる様な。

 そういう形でなら、自分も人間が好きでいられるかもしれないと思うのだ。

 

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貧者が支える貧困搾取型社会 ジェームズ・ブラッドワース:著 濱野大道:訳『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した ~潜入・最低賃金労働の現場~』

 

 ちょっと試験的に感想の書き方を変えてみますが、気まぐれなので元に戻すでしょう。きっと。


<職業選択の自由が贅沢品になった社会で>

 何よりこんなタイトルの本を自分がAmazonのKindleで読んでいるという事が、既に何かの笑えない冗談だと思う。ちなみに原題は『Hired: Six Months Undercover in Low-Wage Britain』との事。『Hired』は『雇われ人』という様な意味らしい。

 著者はAmazonの物流倉庫や訪問介護の現場、またスマホアプリを利用したタクシーの配車サービスで急成長したウーバーのドライバー等、様々な業種に飛び込み、自らの体験と現場で働く人々の声を聞き取ってルポにまとめている。ただそれは邦題から連想される様な「大企業による労働者からの不当な搾取について断固抗議する」といった喧嘩腰のものではなく、もっと文学的表現に寄った形での問題提起だ。

 さて、自分が大学を卒業したのはもう20年近く前になる。その時、恩師は「仕事というのは自分の一生の中で多くの時間を費やすものになるのだから、自分が納得して働く事ができる仕事を選ぶべきだ」と述べた。同感だ。『選べるのなら、誰でもそうする』という意味で。当然恩師にしてもそんな事は分かりきっていて、「本当にそうできたら良いのにね」というニュアンスだったと記憶している。そしてそんな流れは現在に至るも何ら変わっていない。

 実際に自分が本当に望む仕事に就いている労働者なんて、この日本にどの位いるのだろうか。
 『職業選択の自由』は、庶民にとって既に贅沢品になってしまった。

 自国民の貧困層ですらその有様で、更にもっと低賃金で働く外国人労働者を受け入れ、これに頼る様になってしまったらどうなるのか。その答えの一端が、本著にはある。


<貧困搾取型の企業を貧者が支える>

 自分はAmazonのKindleで本著を読んでいる。そして邦題にある通り、本著はAmazonの物流倉庫で商品の梱包・出荷業務にあたるピッカーがどれ程非人間的な労働環境で働いているかを克明に描き出している。さて、ここから自分が取るべき行動はどんなものだろう。

 常識的に考えて、企業に抗議するのなら「今後Amazonは使わない」というのも手だ。でも決して豊かとは言えない消費者である自分には、それが本当に可能だろうか。

 顧客利便性の一環として、Amazonは本ならば送料無料で、仮に文庫本一冊だろうが自宅に配送してくれる。おまけに商品によってはポイントも付与される。ただその安いサービスを提供する為に、どこかにある物流倉庫では休憩時間も満足に取れない様な労働条件で倉庫作業員(ピッカー)が働いている(可能性がある)し、本著の様にイギリスの場合なら、その「割に合わない仕事」はルーマニア人に割り振られている。

 これに似た構造は他にもあって、例えばユニクロと法廷闘争まで繰り広げる事になった横田増生氏の『ユニクロ帝国の光と影』『ユニクロ潜入一年』でも明らかな通り、ユニクロとその運営会社であるファーストリテイリングは労働者の処遇について度々批判されて来た。しかし今、自分が着ている服はもれなくユニクロで購入したものだ。

 認めなければならない。自分は労働者としても消費者としても、既に下流に落ちている。

 子供の頃、親が買ってくれたジーンズ(あの頃はそんな小洒落た言い方ではなくジーパンだったけれど)は高級ではないがブランド品だった。その他シャツでも何でも、ワンポイントにブランドのロゴが入った服を買ってもらっていたと思う。他にも父親は普通のサラリーマンだったが、これまでに何台か自動車を買い替えていたし、大人になればそれが普通なのだろうと思っていた。今はどうだろう。

 今自分は3本買っても1万円以下に収まる様なユニクロのチノパンを履き、同じくユニクロで買ったポロシャツや下着や靴下を身に着けている。1本で1万円していたリーバイスのジーンズを最後に履いたのはいつだったかもう記憶にない。ユニクロなら同じ値段で全身をカバー出来る。そして最初に買った平成18年式の軽自動車を今でも大事に乗っている。そういう生き方を選んで来たとも言えるし、消去法で残った現実的な選択肢がこれだったとも言える。

 本当は趣味の読書くらいは贅沢に時間を使い、書店に行き、書架の間を行きつ戻りつしてお目当ての本を選び、紙の本を手に取る様な暮らしがあっても良い。ただ最近、実際に自分が取る方法はAmazonに発注する事で交通費や送料や時間を節約し、何なら紙よりも電子書籍の方が安いからという理由で、データで落として済ませる事だったりする。

 つまり、貧しい人間が安いサービスに依存すると、多額の利益を上げている勝ち組企業が更に利益を独占する。そして貧しい人間は貧しいが故に囲い込まれ、そこから逃げる事が出来ない。

 かくして貧困搾取型の企業を貧者が支える構造が生まれる。

 自分以外の誰かが犠牲になっている事には薄々気付きつつも、そこから目を逸らしつつ暮らす。そういう生き方が標準化されてしまうと、後戻りする事は難しい。この問題について考える時、自分はいつもリーバイスのジーンズを思い出すのだ。

 1本1万円のジーンズを履いていた頃、自分が何を考えていたのかがもう思い出せない。
 そこには今よりも希望があったのだろうか。


<真綿で首を絞められる様な変化>

 時代の変化だと言われてしまえばそれまでなのだろうか。本著にも炭鉱が閉鎖されて活気を失った街にAmazonの物流倉庫が進出して来る様が描かれている。

 こう言っては何だが、貧しい地域に大企業が進出して土地や労働力を買い叩いたりする事はどの国でも常だ。足元を見られるという奴で、企業誘致というものは多かれ少なかれそんな物だったりもする。ただ搾取対象が労働者に変わり、その労働者の内実が移民にすり替わって行く時、そこには外国人差別や移民排斥の様な解決不可能な問題が新たに発生する事にもなる。

 そして何より厄介なのは、自分達がそうした変化をここまで飲み込んで来てしまったという事だ。日本で言えば『外国人技能実習制度』などは穴だらけの悪法だと誰もが気付いているのに止められない。あまつさえその上に新たな法整備を施してまで外国人労働者を確保しようとしている始末だ。それは有り体に言えば過去の日本が築いて来た国際的信用を切り売りして現金化しているに等しいのだが、止めようという流れにはならない。

 水が高い所から低い所へ流れて行く様に、この国は自分達ごと下流へと流れている
 ゆっくりと、真綿で首を絞められる様に。
 

<これからの社会にいつか来るだろう、限界>

 この流れはどこまで続くのか。恐らく、貧困層の労働者が耐えられなくなるまで続く。
 『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るもの』とは言うが、物理的に耐えられなくなる限界は自ずと生じるからだ。

 かつて日本企業は低賃金で働く労働者を求めて中国に進出し、中国の人件費が高騰すると今度はタイやベトナム、東南アジアの国々に軸足を移して来た。より安く、より勤勉に働く労働者を求めて行った訳だが、やがて限界は来る。これから先、東南アジア諸国が経済発展したら、今度はどこに労働者を求めて行くのか。それとも日本人が外国に出稼ぎに行く方が先か、また外資系企業の下請けとして、安い労働力として使われる様になるのが先か。

 確かなのは、サブプライムローン問題の時の様に、人間は限界まで突き進んで破綻を迎えない限り、今自分がどれだけ歪な制度に依拠して暮らしているか我が身を省みる事が出来ない場合があるという事だ。

 今の貧困搾取型に傾いた社会制度がどの様な形で崩壊するのか自分には見通せないが、その終わりは意外と早く訪れるかもしれない。いや、もう訪れるべきなのだろうと思う。

 

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その肩の重荷を僕らが分け合えたなら・新海誠『小説 天気の子』

 

 以下、本作以外に映画『天気の子』アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』伊藤計劃『虐殺器官』のネタバレを含みます。

 特に映画『天気の子』を未見の方で何の因果かこちらに来てしまった方は今すぐブラウザバックなり何なりして、速攻で映画館に行きましょう。そのまま戻って来なくても大丈夫です。とにかく、映画を、観て下さい。後は個人的にですが、映画を観てから小説を読む事をお勧めします。警告というかお願いはここまでです。

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その想いは証明出来ないのだとしても・斜線堂有紀『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』

 

 この世界には通称『金塊病』と呼ばれる不治の病がある。
 金塊病を発症すると筋繊維が次第に硬化し、骨に侵食されて行く。この侵食する骨は患者の死後、金そのものと言って差し支えない物質に変質する。人間を金塊に変えてしまう病、金塊病。それは難病であると同時に、人の価値を試すという意味で過酷な病だった。

 金塊病を患う女子大生、都村弥子は、金塊病患者専門のサナトリウムで暮らしている。過疎地の地域振興策の一環として誘致されたその施設で、彼女は中学3年生の少年、江都日向――エト――と出会う。そして彼女は、死後三億で売れる『自分』の相続を突如彼に持ち掛ける。条件は、チェッカーで自分と勝負をして勝つ事――。

 金塊病は、人間の価値を試す病でもある。3億円という金額は、その人間が生きている時の価値を凌駕してしまうかもしれない。それに大金があれば大抵の問題には片が付く。過去を精算する事も、未来を買う事も、自分を縛り付けるものから逃げる事も出来る。夢を買い戻す事だって出来るだろう。

 なぜ弥子は自分を相続させる相手としてエトを選んだのか。そして弥子と触れ合う中で彼女に惹かれて行くエトは、自分の好意が金目当てのものではないという事を、どうしたら証明出来るのか。そもそもその証明は、誰に対してのものなのだろう。彼女に対して? 自分を取り巻く世間に対して? それとも自分自身に対してだろうか。

 ふと思い出した事がある。
 小説や漫画やゲーム、あるいは映画といったサブカルチャーの領域で、不治の病に侵されたヒロインが主人公と恋仲になるという物語は数多い。そんな中で、かつて「それは主人公にとって都合の良いヒロインを配置する事で行われる自慰だ」という批判があった。

 不治の病に侵され、未来に選択肢の無い女性が、ふとしたきっかけで知り合った主人公に好意を寄せ、彼はそれに応える。儚げなヒロインはやがて病に倒れてしまうかもしれない。でも残された主人公は、彼女との思い出を胸に、これからの人生を生きて行く。そんなありふれた物語。それを男の自慰だと切って捨てたのは、主人公が物語の中で救済される為にヒロイン達が都合の良い死を背負わされる事への批判だったのだろうと思う。主人公を頼り、思いを寄せてくれる儚い存在としてのヒロインという偶像。それを美化して行われる男性の疑似恋愛が、おぞましいものとして批判された訳だ。

 それに反論する事は難しかった。自分達が様々な作品に触れて涙したり、ヒロインに好意を寄せたりした事は、感動ポルノ的な消費行動だったのか。彼女達に寄せた思いは、儚さという属性に対しての憐憫だったのか。

 そうではないと証明してみせる事は難しかった。本当に。

 自分は確かに、男にとって都合の良い女性像を欲したかもしれない。無条件に自分を必要としてくれるか弱い存在としての女性を。そういうやましさが自分の中に無いとは言えないのではないかと真剣に考える程に、自分の中の打算や自己憐憫や反転した自己愛の様なものが湧き出して来て感情がグシャグシャにされる。それは身に覚えのない罪で訴えられ、潔白を証明しろと迫られた罪人のそれに似ている。自分は潔白だと叫び出したい様な気持ちがあっても、そんな自分が無自覚に罪を犯したのではないかという疑念が拭い去れない。自分で自分を信じられない。そんな様な。

 自分の中の愛や恋、相手に対する好意は潔白だと証明するには、どうすれば良いのだろう。そもそもその証明は、誰に対して必要なのか。

 自分は今、その証明はお互いが求めている様な気がしている。

 誰かを好きになる事。愛する事は、自分の中の核になる様な部分に相手を招き入れたり、触れさせたり、その身を預けたりする事だと思う。だから自分達は、命綱につかまる時の様に、それが自分という存在の重みに耐えられるのかどうか試そうとするのではないだろうか。社会的地位や、財産や、容姿といった属性や表層ではなくて、自分の心というコアなものを相手に認めて欲しいという思いは、それがとても重い願いであるが故に、時として相手を試す様な事をさせるのではないだろうか。そして第三者も、自分がパートナーに求めるのと同じ様に、そんな純粋さを求める。その想いがどこまでも潔白である事を要求する。

 自分はどうすれば良かったのだろう。そしてこれからは、どうすれば良いのか。その答えは容易には導き出せない。でも諦めてはならない様にも思う。恋や愛といった容易に証明できない感情を抱えたまま生きる事を。その答えを分かち合える誰かを探す事を。

 そして本作の結末は、自分が思いもしない様なもので、それもまた好きだ。ぜひ本作を読んで確かめて欲しいと思う。
 自分もまた最後に遺すものが、誰かにとっての重荷や枷ではなくて、その誰かの背中を押すものであって欲しいと願うから。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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