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自分の庭に、花は咲かなくとも 『アステリズムに花束を』

 

 『百合とSF』っていうものが話題になる様になってから、もう結構な時間が経った。自分は「伊藤計劃氏の『ハーモニー』が百合SFの白眉だ」って言われた時にあまり『ハーモニーの中の百合成分』がピンと来なくて、だから自分にはそもそも『百合』っていうものが分からないか、合わないのかもしれないって勝手に思っている。

 読む方がそんなだから、書く方はもっと致命的で、自分は女性っていうものを瑞々しく描く事ができない。いつもそれは「もう少し」の所で自分から逃げて行く様な気がしてしまう。後は単に、女性が怖いし、人間が嫌いだからだ。

 既に何回か言っている事だけれど、例えば『銀河鉄道999』で『機械の体』っていう生き方が提示された時、自分は「むしろネジになりたい。ネジでありたい」と思ってしまう事がある。たったひとつの、何かを繋ぎ止めるという役割の為に作られた存在。そこには可能性がない。自分の役割や存在意義も全て定められていて、別な可能性なんてものはない。可能性がない代わりに、無駄もない。たくさんの道が選べる訳じゃない代わりに、迷いもない。正確に言えば迷う余地がない。もっと言えば傷付き易い心なんていう柔らかい部分もない。悩み、ブレる意思が存在していない。

 自分もそんな風に、誰かに作られたかった。

 だから自分はきっとナイフが好きなんだろうと思う。ただ何かを『切る』という役割の為にその存在の全てがある。硬度も、切っ先から流れる刃のラインも、手が触れるグリップの部分も、全ては単一の目的の為に特化されていて、迷いがない。無駄がない。

 でも自分達に備わっている『心』は、やっぱりそういう風にはできていない。
 固く冷たい鋼の様にはできていない。

 人間関係というのは複雑で、誰かを愛するとか愛されるとか、そういう話になってくると胸を掻き毟りたくなる。感情は流体だから、その流れて行く先を自分で制御する事ができない。その流れは時に他の誰かの流れと交わったり、別れたり、混じり合ったりする。だから怖い。自分というものの形が、自分以外の誰かとの交流によって変わり得るというのは、自分の様な人間からするととても怖い事だ。でも、だからと言って引きこもってみれば、今度は孤独に耐えられなかったりする。何なんだろうね。

 自分には百合が理解できないのかもしれないと思いながら本著を読み終えて、それはまあ概ね当たっていて、でも自分の中の『孤独』みたいな部分は、どんな形であれ彼女達の感情が流れて、交わり、時には離れて行くのを見ながら、それら全てを寿ぎたい様な気持ちになっている。

 誰かの心に近付く、触れるという事は、勇気がないとできないものだから。自分の心に誰かが触れる事を許すという事も。

 誰でもできれば傷付きたくないし、誰かを傷付けたいとも思っていない。でも誰かと手を繋ごうとすれば、誰かを抱き締めようとすれば、相手の柔らかい部分に触れずに、自分の弱い部分に触れさせずにそれをするっていう事は不可能だ。誰かを求める事、誰かを想う事、誰かを愛する事はそういう事で、その『覚悟』を常に求めてくる。

 自分の心の中に『特別な席』があって、気が付いたらその椅子に誰かが座っている。

 それを拒む事も、受け入れる事も、衝突して傷付ける事も、手を取り合う事も、その自分を晒し、相手に触れる覚悟の向こう側にあって、だから自分は、壁を乗り越えた先に行けなかった。自分が乗り越える事を諦めた先にある物語だから、自分にはきっと彼女達の事が分からないんだろうと思う。

 今自分がやっているのは、その越えられなかった壁に手を当てて、向こう側から伝わって来る熱を確かめている様なものだ。我ながらちょっとどうなんだろうと思う。でも単に女性同士の親愛や憧れの延長線上にあるものが百合なのではなくて、互いにぶつかり合う様な関係や、両者のすれ違いすらも内包する大きな関係性が今で言う『百合』というものなのだとすれば、そこにある熱というか情念の様なものの一端に触れる事はできたのかなと思う。

 多分、自分は羨ましいのだろうと思う。
 他者に手を伸ばす事ができた彼女達が。彼女達が持っている、自分にはない、強さが。
 自分の庭に、花は咲かなくとも。

 

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泥中から生まれて咲く花の色は・石川博品『ボクは再生数、ボクは死』

 

 『時代の空気』っていう言葉があるけれど、2020年に本作が刊行されたのは凄く意味があって、例えば20年、30年後のネットカルチャーって更に変化しているだろうっていう事は間違いないんだけれど、その20年後に本作を振り返って読んだ時に、自分達は「あの頃の僕ら」を色鮮やかに思い出したりするんだろうと思う。

 今は子どもに将来なりたい職業を聞くと『YouTuber(ユーチューバー)』って返答される世の中になっている。ちょっと前まではそんなの考えられなかった事だ。そして自分の顔を出して活動する人もいれば、顔出ししないで活動する人もいるけれど、その中から更に2Dや3Dでモデリングされたアバターを使って動画を配信する『Vtuber(ブイチューバー・バーチャルユーチューバー)』という人たちが登場してきた。

 有名なVtuberは様々な企業の案件を受けたり、公的機関ともコラボしたりしているから、世界的に名前が知られている人が何人もいる。代表的な所でキズナアイさんとか。自分はアンテナが低い方なので、彼女が登場した時の経緯をよく知らなくて、既にブームが来た後で知ったんだよね。『日本語でしか配信していないのに、英語圏で物凄いチャンネル登録者数を得ている人がいる』『動画のコメント欄は既に英語の方が多い』『動画の入りで言う「はいどうもー!」はそのまま海外で通じる』みたいな取り上げられ方をしていた記憶がうっすらとある。自分の記憶違いでなければ。

 その後、Vtuber業界はレッドオーシャンと呼ばれるまで成長し、様々なVtuberがデビューしては消えて行くという時代に突入しているのだけれど、それがきっともう少し進んだら、本作の様な世界が来るんだろう。VR技術を使って、ネット上にあるもうひとつの世界でそれぞれのアバターを使って交流したり、Vtuberの様に動画配信をしたりする事が自然になる世界が。そこでは現在のVtuberがそうである様に、男性が女性型のアバターを使って女性として活動する事もできるし、女性が男性として振る舞う事もできる。声はボイスチェンジャーを通して異性の声質にする人もいるし、地声で通す人もいる。ていうか『バ美肉おじさん(バーチャル美少女受肉おじさん)』っていう言葉自体がもう面白過ぎるのでズルいよね。

 そして本作の主人公である28歳の男性会社員、狩野忍は、VRの中で自称世界一の美少女、シノになる。何せ有名クリエイターに『新車の軽が買えるくらい』の金を払ってモデリングしてもらったワンオフの体だ。いわゆる『ガチ勢』っていう奴かもしれない。正気じゃないと思う人もいるかもしれないけれど、丁度今朝何かのテレビ番組で『整形手術を繰り返す娘と困惑する母親』みたいな特集を組んでて、確かに母親は整形をし続ける娘に対して戸惑いを感じてはいるのだけれど、同時に「確かに娘は性格が明るくなった」と言っていた。

 理想の自分を手に入れる事。

 その為に自分の体にメスを入れ、脂肪吸引やヒアルロン酸注射やフェイスリフトや豊胸手術や歯のセラミック治療を繰り返し、新車の軽1台分どころではないお金を使う人がいると考えれば、VRの体に新車の軽が買えるくらいの金を注ぎ込んだところで『実質タダ』と言えるのかもしれない。

「でもそれってバーチャルじゃん」

 そう言う人もいるだろう。でも「バーチャルな世界やゲームの中の体験は、現実じゃないから価値がない」って誰が決めた?

 本作はゲームを題材にした小説でもあるけれど、だからこそ思う。よく言われる「ゲームに時間を使うなんて無駄」「もっと有意義な事に時間とお金を使ってれば今頃はもっといい人生を歩めてた」的な言説は、本当なんだろうかって。

 自分は今中年だけれど、自分達の世代はずっと言われて来たんだよね。小学生の頃にファミコンブームが来て、やがてゲーム機が8bitから16bitになり、32bitになり64bitになって行くのをずっと体験して来てて、その間ずっと言われていた。『たけしの挑戦状』じゃないけれど、『こんなげーむにまじになっちゃってどうするの』って。もっと勉強するなり、資格を取るなり、恋人とお付き合いをするなり、何かあるだろやるべき事がってずっと言われていた。親からっていう訳じゃない。世間から。この社会から。

 まだファミコンが買ってもらえない時に、いち早く買ってもらえた友達の家に皆が集まってワイワイやりながら順番にコントローラーを回したりしてた時も、友人同士でソフトの貸し借りをしてた時も、アーケードで『メタルスラッグ』にハマってワンコインクリアできる様になるまでやり込んでた時も(ノーミスは結局無理だった)対戦格闘ゲームが弱くて対戦台でボコボコにされるから、新作が出ても対戦台から人がいなくなるまで後ろで指を咥えて待ってたりした時も、その後も、eスポーツという言葉が広く知られる様になった今に至るまでずっと言われていたし、言われ続けている気がする。かと思えば「ゲームと現実の区別が付かない奴が犯罪に走る。粗暴になる」みたいな事も言われたりして、現実はゲームやバーチャルリアリティなんて足元にも及ばない上位世界じゃなかったのかっていう矛盾を感じたりとかね。

 でも、そうじゃないんだよって思う。ゲームやネット上の世界っていうのは、もう既にというか、昔からずっと現実と地続きだったじゃないかって。

 ネット上に作ったSNSやブログのアカウント。動画配信者が持っている自分のチャンネル。創作する人が使っている作品公開の為のサービスやコミュニティ。MMORPGに代表されるもうひとつの世界。それらの場所に存在する自分のキャラクターやアバター。そこでしか繋がっていない、現実には顔も名前も知らない人間関係。それら全てを内包するのが『自分』なんだって。そこから何かが欠けて行く事は、現実に存在する自分自身が欠けて行く事なんだって。

 そういう風に、自分は本作を読んだ。

 そして思う。『人間の欲望』を醜いものとして描くんじゃなく、本作の様にありのままに、それでいて痛快に描いてみせる事は必要なんだろうなって。

 何せ主人公の動機が『VR風俗で出会った子に頻繁に会いたくて風俗通いに金がいる。どんな手を使ってでも俺は金を稼いでやる』っていう、それは現実でもやっちゃダメな奴だろっていうもので、最初は笑っちゃうんだよね。ダメだろお前それはって。でも最初に言っておくと、これ最終的に仏教の話になりますから。仏教学専攻の自分が言うんだから間違いない。

 性欲だけじゃなくて、金銭欲とか、名声欲とか、承認欲求とか、愛欲とか。そういうものがもっともっと欲しいんだ、満たされたいんだっていうのは、まあ『煩悩』って言われて、『悪いもの』っていうイメージがある。それを隠さずに表に出してしまうのは品がないし、求めて行く事には『果て』がないから。少しぐらい得られても、もっともっとって思うし、結果それが執着になって辛い思いをするから。

 でも、それらが自分の中にあるのに、見ない事にする、蓋をしてしまう事が正しい事とは必ずしも言えない。
 こんな煩悩まみれの自分は駄目だから、考えないように、見ないようにしないとって皆考えるし、特に宗教上、信仰上のタブーにされている場合はそれらを否定的に考えるのが普通になっている部分もある。でも本心として、仕事はしたくないし、だらだらしててお金だけもらえるのは最高だし、性的な欲求不満は解消したいし、超有名人になりたいとは言わないけどSNSでいいねされるのは嬉しいし、フォロワーが増えて欲しいし、誰かを愛したいし愛されたい。自分がここにいる事を認めてほしい。

 それらの煩悩を突き詰めて、肯定的に考えて、行ける所まで全力を出した事が自分にあるだろうかって思う。

 そうすると「本当は誰かに認めて欲しいのに、声を上げないでじっとうずくまってても何にもならないだろ」とか、自分の中の欲望に向き合って来なかった、自分自身に不誠実だった事に色々と気付く。やる前から諦めていた事に。だから本作でシノがなりふり構わず金を掴みに行く姿や、愛欲まみれで他はどうでもいいみたいに突き進んで行く姿が『浅ましく』ではなく『痛快に』描かれているのが、自分は凄く好きだ。そして、それだけで終わらないという所も含めて。

 最終的にシノの欲望は、煩悩の一部は昇華される。

 それがどんな形なのかというのは本作をぜひ読んで頂くとして。いや、冒頭で笑わせてもらって、グイグイ引き込まれた煩悩まみれの物語がこういう着地の仕方をするんだっていうのが感動的ですらあったよね。自分にとっては。
 『泥中の蓮』っていうのとは少し違うけれど。蓮はきっと汚れに染まらない訳じゃなく、その汚れ=泥によって育まれて咲くのだろうから。仏教って意外とロックなんですよ。自分がロックを語れんのかっていうとアレだけど。

 だから自分は泥の中で、もう少し頑張ってやって行こうと思う。皆は、どうですか?

 

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魔女狩りの国で生きるという事・カミツキレイニー『魔女と猟犬』

 

 えー、自分のハンドルネームと作中の登場人物の称号がかぶっているのは全くの偶然で他意はないです。個人的には久し振りにライトノベルらしい作品をきちんと読んだなという感じなんですが、世界観が理解しやすいので中年にも優しいですね。

 さて、詳細な感想はもう多くの方が書いているだろうと思うので、最初にざっくりしたあらすじをまとめてから『現実の安全保障』『宗教と異端』的な視点で書いて行きたいと思います。

 本作は『剣と魔法』的な世界観を踏襲しています。ここで参考作品としてどんな作品名を挙げるかによって読者の世代がばれる感じだと思いますが、最近だと『ゲーム・オブ・スローンズ』になるんでしょうね。

 主人公が属する国、キャンパスフェローは『魔術師』を擁する軍事大国、王国アメリアから経済的、軍事的圧力をかけられ、このままでは併呑される危機にあります。アメリアは竜を信仰するルーシー教を国教とし、ルーシー教徒(ルシアン)のみに魔術師となる事を許す事で、魔法という軍事技術を独占しています。<竜と魔法の国>アメリアの覇権国家としての要は魔法であり、魔術師であるという事です。

 一方、ルシアンとして洗礼を受け、修道院で修行するという過程を経ずに魔法を行使する存在もいます。それが『魔女』であり、ルーシー教は彼等を異端者として、忌むべき厄災を振りまく存在として狩り出しています。
 キャンパスフェローは国家としての存亡をかけた戦いを前にして、この魔女を自国の戦力として取り込む事で大国に抗しようとしています。通常兵力をどれだけ束ねてもアメリアには敵わない、しかし魔女を味方にする事など本当にできるのか、魔女とは交渉する事が可能な存在なのか。
 そんな中で、ある魔女を捕らえたとする隣国レーヴェとの間で身柄引き渡し交渉が行われる事となり、キャンパスフェローは領主自らが騎士団を率いてレーヴェへと赴く事となります。果たして交渉の行方は、そして魔女の正体とは。

 物語は『魔女もの』らしく魔女裁判的なシーンから始まるのですが、これはある意味で『異端審問』でもあります。そしてこれらはファンタジー的な世界観を使って作品が描かれているからそうなるのであって、アメリアが狙う所は最終的には軍事技術の独占による覇権であり『核兵器』のそれと大差ありません。

 現実では、大国は核兵器を保有する事で核抑止という均衡状態を作り、結果としてそれが戦争回避の一助となっている(と言われている)訳ですが、これまで核を保有して来なかった国が新たに核開発を行う事には制裁を含めて非常に厳しい目を向けます。新たな核保有国が増える事は、結果として現状の世界各国の軍事バランスを崩す行為であり、何より『大国の意思によって制御されない核兵器』というものが野放図な状態にされると、本当に核兵器が使用されてしまう危険性が高まると考えられるからです。

 しかし、本作でもそうですが、どの国が保有しようが核兵器(≒魔法)は同じ技術で作られる兵器であり、本来は保有する事に良いも悪いも存在しません。(自分は当然の事として核兵器は世界から廃絶されるべきだと思っていますが、それはそれとして、という話をしています)小国からすれば、大国のみが核兵器を保有する現状の中で自国の安全保障体制を構築しなければならない事は不当に課せられた制約の様でもあります。ですから、北朝鮮の様に隙あらば核開発をして、核保有国として認められる事で外交交渉を有利に進めようとする国が出ますし、世界で唯一の戦争被爆国である日本ですら、核武装の必要性を訴える人々がいます。

 そして本作の場合は更に悪く、たったひとつの国が魔法を独占している状態であり、お互いに睨みをきかせる事で『抑止』の状態を作るべき相手国が存在しません。強力な兵器を持つ大国が一方的に領土拡大に乗り出している状態であり、このままだと他国は黙って飲み込まれるか、むしろ自ら進んで恭順の意を示して属国として飼い殺されるか、それとも抵抗して蹂躙されるかという事になります。そしてキャンパスフェローは第4の道として、自分達も『魔女』を手に入れる事を目指す訳です。

 こう考えると、ライトノベルから安全保障という現実問題について考えてみる事もできるし、逆に現実の時事問題を知っておくと、それを下敷きにしてライトノベルを楽しむという事もできるので、面白いんじゃないかなと自分は思います。ただ、現実問題について論じる時にはライトノベルで得た知識だけで語るのはお勧めしませんが。

 次に『宗教と異端』という話になるんですが、この話は語ると凄く長くなる上に着地点が大変な事になるので、一般的な『権威』の話に置き換えます。『宗教と異端』の話はまた別の機会があれば、という感じです。本作が好評で2巻以降に続いてくれる事になればいつかその話もできるでしょう。

 というのも、本作に登場するルーシー教というのは、竜を信仰対象とする事と、魔術師の存在、そして魔女を敵視するという事以外に『具体的な信仰形態』というものがまだ明示されていません。
 自分はこの辺、仏教学専攻なので結構細かいんですが、宗教というのは『教化』とセットなんですね。ある『教義』を軸にして、その教えを信仰する人々を導いて行く。意地悪な言い方をすれば、その宗教が指し示す『良い生き方』『良いあり方』へと人々を導いて行く、誘導して行くという事になるんですが、この辺りのディティールを細かく作り込んでもエンタメ作品としてのライトノベルではあまり完成度の高さに繋がらない様な気もするので仕方ないかなという所です。

 さて『権威』の話に戻します。
 権威というものは、その権威に反対する思想、抵抗する勢力との闘争を常に求められる訳です。ある国にAという思想と、Bという思想、それぞれを信じるグループがあり、AとBはお互いに相容れない思想であったとします。どちらのグループにも指導的な立場の上位グループがいます。そしてその上に国の指導者がいます。
 国の指導者が仮にAグループの流れを汲んでいるとします。AとBがそれぞれ国民の半数であった場合、指導者にとっては半数が敵対勢力になり得る事を意味します。よって何らかの手段によってBグループの数を減らし、Aグループの勢力を拡大しようと試みます。同時に、これと同じ事は外交でも行われます。自国の価値観に共鳴する他国を増やして行く事は、敵対勢力を退ける上で有効だからです。

 こうして国内外での敵対勢力の排除が進んで行くと、結果としてその国のトップに立つ指導者の権威は高まって行きます。独裁国家ともなれば、その権威は神聖不可侵のレベルになります。その国家の中では、指導者から敵視される思想や、その思想をもって生きようとする人々は全て弾圧され、排除されて行きます。先の例で言えば、Aグループの人々にとっては生きやすく、Bグループの人々は苦しい。どこかで聞いた様な話ですね。

 ここではAとBに単純化しましたが、現実にはもっと様々な思想や価値観が複雑に入り乱れています。ただ共通するのは、国家や社会という集団を構成する人々の中で、少数派に属する人々は非常に苦しい生き方を強要されるという事です。究極的に言えば、ただ生きている事すら許してもらえない。本作で言えば『魔女』の様に。

 この『魔女と猟犬』という作品が、今後そうした部分にまで踏み込んで行くのかは分からないですが、個人的にはそこまで描いてみせてくれる事を期待しています。

 

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生きる為の扉を開けて・佐野徹夜『さよなら世界の終わり』

 

 唐突だけれど「この人、作家にならなかったら生きていられなかったんじゃないか」みたいな人がいて、そういう人が書いた作品を読むのが好きだ。酷い話だね。

 これは何にでもそうで、自分は歌手や役者やスポーツ選手や、その他もろもろについて「この人はきっと夢に全てを費やして来た人で、そうでなければ生きていられなかったのかもしれない」と思う事がままある。というよりも、『夢』っていうのは、そういうものであって欲しいという勝手な願いがあって、それを相手に投影してしまう。なぜって、そうでもしなければ夢を諦めて生きている自分の立つ瀬がないから。そういう卑しさを、自分は持っている。

 当たり前の話だけれど、何にせよプロとしてやって行くというのは狭き門で、高校球児が全員甲子園球場で戦える訳ではない様に、そして甲子園でプレーした選手が全員プロ野球選手になれる訳ではない様に、自分達は夢に振り落とされて行く。ふるいにかけられて行く。お前はしょせんここまでの奴だよ、と肩を叩かれて行く。

 そうして自分の中で夢との折り合いをつける。

 諦めた夢を振り返る事なく、全く違う道に進む人もいるし、自分の様に未練がましくたまに後ろを振り返る様な真似をしている奴もいる。どれが正解だとか、そんなものはきっとなくて、夢を諦める事になった人間は、皆がそれぞれに自分を納得させられるだけの理由を探して行く。

 夢が叶わなかった現実を、これからも生きて行く為に。

 本作を読んだら、そんな事を思い出した。吐きそうになった。

 本著のあとがきにある様に、作者の佐野徹夜氏にとって本作は人生で一番最初に書き上げた小説だったそうだ。それまで一度も小説を完成させた事が無かった作者が、小説家になる為に会社を辞め、自分を追い込んで、遺書のつもりで書き始めた作品。それは小説家としてのデビュー作にはならなかったけれど、他の作品で氏は商業作家になった。そして原点に立ち返ってリライトしたのが本作『さよなら世界の終わり』だ。

 内容は万人受けしないかもしれない。性的暴行を含むいじめという名の傷害罪や、繰り返される自殺未遂、親からの虐待、育児放棄、ひきこもりを強制的に連れ出す、今で言う「引き出し屋」の様な連中まで登場する。矯正を目的とした体罰、スクールカースト、その他諸々の暴力、血、復讐、殺人と自死。そういった、この世のありとあらゆる不遇を煮詰めた様な物語が展開される。世界は優しくないし、助けは来ない。

 作中では、いわゆる『この世とあの世の境界』の様な場所が描かれる。死ぬ間際に、主人公達の魂のようなものは、その境界に立つ。現実側に引き返せば生き返る。でも、何の為に?
 世界には希望がない。生き返ったからって、それが何になる?

 自分は思い出す。確か中学生時代に、上級生が演劇発表した『グッドバイ・マイ』という物語がある。細部は忘れてしまったけれど、強烈に印象に残っている。

 舞台上には、これから生まれる魂が集まる場所がある。そこにはふたつの扉があって、ひとつは現実世界に生まれる道に続いている。でも、もうひとつの扉は無の世界に繋がっていて、そちらを選んだ魂は生まれる事なく無になる。
 そこに集まった魂たちは、老人から自分が生まれた後の境遇、運命を聞かされる。
 ひとりは自殺しようとする。ひとりは交通事故に遭う。もうひとりは身体障がい者で生まれつき両手がない。更にもうひとりは、生まれてすぐにコインロッカーに捨てられる。そんな暗い運命が待っている事を彼等は知る。

 生まれるか、無になるか。

 老人は、運命は変えられるという。ただ、変わらないかもしれない。全ての努力は無駄に終わるかもしれない。彼等は悩みながら、それでも最後は生まれる事を選ぶ。現実に生まれて、運命と戦う事を選ぶ。

 夢を前にした時、自分はどちらだったんだろうと思う。
 九分九厘駄目だろうと分かっていても生まれて、生きて、運命が変わるかもしれない方の扉に手をかけたのか、それとも痛みもなく無に消えて行ける扉を選んだのか。

 後者だったような気が、今はしている。
 それでも無になる事ができないまま、今も生きている。

 『グッドバイ・マイ』が描いたのは、可能性を信じろとか、諦めなければ夢は叶うという様な類の根性論ではなく「きっと世界は無常で、それでも君達は生きて行くんだ」というメッセージだったのではないかと思う。それと同じメッセージを、自分は本作『さよなら世界の終わり』から感じ取った。世界は無常で、待っていれば誰かが助けてくれるという事もない。希望の光は遠くて、暗くて細い道がどこまでも続く。そんな世界を傷付きながら、自分達は歩いて行く。なぜ? 何の為に?

 それを探している。ずっと、ずっと探し続けている。

  

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その憎悪は、正しい怒りに変わるのか?・上遠野浩平『憎悪人間は怒らない』

 

 本の感想が書けなくなった。

 読書は自分の数少ない趣味のひとつで、読んだ本の感想を書く事は、自分の中で薄れてしまう感情を書き留めておく為に必要な事だった。それに、感想を文章にして整理しようとすると、ただ頭の中で漠然と漂っている感情に輪郭線が引かれる様な感覚があって、自分がその本を読みながら何を感じ、考えようとしていたのかという事が明確になって行く。それを記録しておく事が、何となく好きだった。タイムカプセルを埋めておくという程大袈裟な事でもない。今持っている木の実を後で食べるつもりで地面に埋めておく小動物みたいなものだ。そして自分がそこに木の実を埋めた事も忘れてしまうというのもよくある話で、書くだけ書いて二度と読み返さない感想の方が多いかもしれない。

 ただ、稀に気が向いて、自分が書いた感想を後になってから読み返すと、忘れかけていたものを思い出す事ができるし、道に迷った時の為に目印を落として行く様に、自分がどこから来たのかを辿る事ができる様になる。何となく『確固たる自分』というものがあって、何年も前から自分は同じ様な価値観やものの考え方をして生きて来たのだというつもりになってしまう事があるが、大抵の場合それは錯覚というか思い込みであって、数年前の感想を読み返すと、当時の自分は今の自分からすれば、まるで他人の様なものの見方をしているという事がある。それが成熟なのか堕落なのか、賢くなったのか愚かになったのかは分からないが、とにかく『違う自分』がそこにいて、過去の自分はどうやらある時点で死んだか、今の自分と別れて違う道に進んだらしいという事を知る。

 ゲーム的に言えば、ロードできないセーブポイントの様なものだ。過去の自分の一部分を、『本の感想』という外部記憶装置に保存(セーブ)しておく。それは後になって参照する事ができるが、過去の自分に戻ってロードし直すという事は出来ない。やり直しは効かないけれど、一方的に記録しておく事だけはできる。

 何でこんな長い前置きを書いているのかというと、『憎悪』という言葉をひとつのテーマにしている本作の感想を書こうとして、実際書いてみた時に、自分の中からとても酷い、泥の様な感想があふれて来てしまって、一度全部捨てたからだ。

 愕然とした。自分は、まあ自分で言う事ではないけれど、どちらかといえば怒る事が少ない人間だと思う。怒りを表現する事が苦手だし、苦手だから嫌いだ。誰かに対して、何かに対して怒りを表明すれば、その時はすっきりするかもしれないけれど、後になってからうじうじ悩むに決まっている。

 そんな自己評価を下しておいて、いざ『憎悪』についての文章を書き始めた時に自分の中から溢れて来た言葉は、とてもそれを保存しておこうとは思えない程に、『負の感情』を煮詰めた様な、粘度の高いものだった。海に流れ出た原油の様な。

 そんな感想を書いてしまった事で「自分は『怒りを表に出したくない』だけで、実際その内側にはしっかりと憎悪を溜め込んでいる人間だったのだ」という事に今更気付いた。自分で自分自身に舌打ちをする。俯いて、自分の足元を見ながらひたすら前へと歩いて来たら、いつの間にかこんな酷い所に迷い込んでいた。というよりも、自分自身が腐り始めていた。その感情をいつでも思い出せる様にセーブしておく強さは自分には無かった。

 自分以外の誰かに対して、何かに対して『怒る』事や『憎む』事が全て間違っているとは言わない。『批判』すべきものや価値観というものは確かにあって、それらに対して必要な怒りを向けられなかったとしたら、それはそれで健全ではない。ただ何かについて、誰かについて批判の矛先を向ける時に、相手の行為や価値観、倫理観について批判する事と、相手の存在そのものを憎悪の対象にする事とは違う。違うのだが、自分はそれをしばしば同一視してしまう。

 「こんな酷い事を言う人は、行う人は、きっと憎まれて当然の人間なんだ」

 それは自分の思い込みであり自己正当化の一種で、相手や批判すべき価値観そのものの一側面を自分が切り出し、あたかもその切り出された一部分が対象の全体であるかの様に膨らませて認識している――言ってみれば全くの『誤認』なのだが、相手の過ちは事細かに指摘できても、自分自身の過ちには気付き難いのが自分の弱さであると同時に、そうして自ら作り出した憎悪に飲まれてしまって、気付けばただ目の前の誰かが憎く妬ましく、自分が社会から疎外されているかの様な寂しさを反転させて、社会の側に恨みを抱いていたりする。

 そうした負の感情は、泥の様に、澱の様に心の中に堆積して行く。

 自分の弱さや間違いを直視する事、認識する事はきっと誰にとっても辛い事で、だからこそ根拠もなしに「自分は正しい」と思い込んだり、「相手は間違っている」と決め付けたりする事で平静を装うのだが、そこで生まれる負の感情から――泥から目を逸らし続けていると、ある時それが自分自身という小さな器から溢れ出そうになっている事に気付く事になる。

 では、どうするのか。

 正しい怒りというものは何か。自分自身を貶めるのではなく、相手を憎む事でもない怒りというものが仮に存在するとして、この自分自身の中に溜めてしまった泥は、どうすればそうした『正しい怒り』へと昇華させられるのか。今の自分にその答えはないのだが、それでも何かを考え続けなければならない。ここまで歩いて来てしまった自分は、もう過去の自分が立っていた場所から現在までの道程を全て無かった事にして、やり直す事はできないのだから。

 だから自分は、このやり場のない感情を、今ここに置いておく。憎悪の泥の方ではなく。

 何かを憎んでいた記憶を刻み付けておくのではなくて、自分の迷いや弱さの方を書き残しておく。そしていつかどこかで今日を振り返る時に、この記憶が無駄ではなかったと思いたい。このまま、この場所で泥に沈みたくはない。それだけが今、確かに言える事だろう。

 (で、どっちに踏み出すか決めたのか? それが『前』だっていう保証は?)
 (まあ、そうやって『迷える』のは『生きてる』からだって事で)

 BGM “Guilty All The Same” by LINKIN PARK (feat. Rakim)

 

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黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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