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全てが茶色に染まる前に・フランク パヴロフ:著 藤本一勇:訳『茶色の朝』

  

 ある日、『俺』と友人のシャルリーはビストロでコーヒーを味わいながら、シャルリーがペットの犬を安楽死させなければならなかった事について話をする。
 「何の病気だったんだ?」と問う『俺』に、シャルリーは「病気のせいじゃない。茶色の犬じゃなかった、ただそれだけさ」と答える。『俺』はさすがに驚くが、そんな『俺』にしても、既にペットの猫を同じ様に安楽死させなければならなかった事が語られる。理由はもちろん「茶色の猫じゃなかった」からだ。

 ペットだけではない。やがて全てが茶色に染まって行く。そこでようやく『俺』は気付き、後悔する。なぜ自分は最初に「茶色以外の猫は殺さなければならない」と言われた時に、嫌だと言わなかったのだろう。抵抗しなかったのだろう。でもその後悔は、全てが茶色に染まってしまった今となってはもう遅いのだ。

 そして迎える『茶色の朝』に、『俺』は何を思うのだろうか。激しくドアをノックする音が部屋の中に響いている。シャルリーが訪ねて来た訳じゃない。彼は昨日、「前は、茶じゃなく黒の犬を飼っていた」事を咎められて自警団に連れ去られたからだ。彼が今どこにいるのか『俺』は知らない。そしてこれから先、自分がどうなるのかも分からない。社会が、この国がどうなってしまったのかという事も。


 本作、『茶色の朝』はヴィンセント・ギャロ氏による挿絵を入れても30ページ、高橋哲哉氏による解説であるメッセージの部分を入れても50ページに収まる掌編だ。今、大人が読むべき寓話だろうと思うけれど、難しい言葉で書かれた物語ではないから、小中学生でも読む事が出来ると思う。むしろ若い世代が、この社会や世界の有り様に疑問を抱いた時に手にとってもらいたい作品だと思うし、図書館や学校の図書室に置かれていて欲しいと思う。

 本作を読んで、読者がまず疑問に思う事は、「なぜ『茶色』なの?」「全てが『茶色』に染まって行くというのは、どういう事なの?」という所だろう。それにはもちろん理由があるのだけれど、その部分は高橋哲哉氏のメッセージの部分に詳しく書かれているのでぜひ手に取って読んでもらいたい。この作品が書かれる事になった背景も含めて、分かりやすくまとめられている。

 難しい話ではない。ただ、おかしいと感じる事があった時に「自分は、この問題はおかしいと思うんだ。間違っているんじゃないかと思うんだ」という声を上げられなかったとしたら、社会はどうなって行くのだろうという話だ。そしてこの物語の優れている点は、『寓話である』という事なのだと思う。

 社会問題について語ろうとする時に、特定の組織や個人、或いは法律や政党の実名を挙げて論じる事もできる。ただ、自分が批判しようとしているものを支持している人も社会には数多くいて、そうした人々は名指しで批判されれば当然聞く耳を持ってはくれない。心を開いてはくれない。

 誰かを攻撃したり、非難する訳ではなく、「一緒に考えてみないか?」という問い掛けをしたいと思う時、この物語が寓話として書かれている事は意味がある。読者は自分が今疑問に思っている事や、或いは自分が正しいと信じている価値観を『茶色』の部分に当てはめて考える事が出来る。そこで浮かび上がってくるのは、ひとつの価値観が社会全体を広く覆ってしまおうとする時に、「異議を唱えずに従ってしまった方が楽なんじゃないか」「簡単だし、面倒もないし、多数派の仲間でいた方が安心なんじゃないか」という誘惑があるという事だ。そしてその誘惑は、常に意識していないと抵抗する事が難しいという事でもある。

 何もこれは難しい政治や社会問題の話ではなく、自分達の日々の生活だって同じ事が言える。寓話というのはそうした応用ができるものだ。例えばブラック企業の問題が近年大きく報じられているけれど、最初は「勤務時間外に申し訳ないけれどちょっと頼みたいんだ」みたいに5分10分で終わる様な仕事を頼まれていたのが、それを許していたらやがて30分、1時間かかる仕事を投げて寄越される様になり、お礼を言われる事もなくなり、頼まれる事もなく当たり前に自分の所に仕事が回される様になり、サービス残業が常態化し、勤務時間外に朝礼や会議や研修や課題が設定され、有給休暇の取得は不可能になり、病気で会社を休もうとしただけで舌打ちをされる様な企業風土が形成されて行く事もある。

 会社というのは閉鎖空間だから、企業風土がおかしくなっている事に内部の人間が気付かない場合もあるし、人事や給与の裁量権を持っている会社に労働者が逆らえなかったり、自分を会社の価値観に合わせてしまった方が楽なんじゃないか、評価されるんじゃないかと勘違いしてしまったりもする。そしてこの『会社』の部分は『国家』でも『政府』でも『学校』でも『社会規範』でも何でもいい。何にでも『茶色の朝』は起こり得るのだから。

 なにか問題が目の前にあって、それを「おかしい」という自分の気持ちに蓋をしてしまったらどうなるか。声を上げなかったらどうなるか。それを考えてみるきっかけとして本作はある。自分の思いを口にしてきちんと議論をしてみようよ、という呼び掛けだ。当然、権力者や多数派に少数派が挑もうとするのは勇気がいる事だ。でも、自分が「小さな声」だと思っている価値観は、実は同じ様に思っている人は大勢いるのに今まで誰も声を上げる事ができなかっただけかもしれない。また、本当に少数派だったとしても、多数派の方が間違った考えを持っているのかもしれない。

 「長いものには巻かれろ」という言葉があって、自分達はその誘惑に弱いのだと思う。事なかれ主義で、力の大きなものに従ってしまった方が安心なんだという価値観だ。自分ごときが何を言っても仕方ないという自己評価の低さがそれに拍車をかける。でも、その先にあるのは『茶色の朝』なんだろうなという事に、そろそろ気付かなければならない。皆が。そして自分自身が。

 

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その歩みを止めないのなら・三田誠『ロード・エルメロイII世の事件簿10 case.冠位決議(下)』

 

 FGOですが、うちのグレイはレベル100です。ちなみに諸葛孔明(エルメロイⅡ世)とイスカンダルは引けてません。更には司馬懿(ライネス)も引けてませんしアストライア(ルヴィア)も引けてません。(謎の挨拶)
 まあほぼほぼ無課金だとこんなもんでしょう。グレイが配布で本当に良かった。

 作者の三田誠氏に関して言えば「自分で小説を書いているのにFGOでは孔明が引けない」という呪いを長い間受け続けていた事もあり、全国のファンから孔明ピックアップガチャが来る度に「三田先生お願いだからもう孔明を引いて!」という祈りやら「呼符で来ました」という無慈悲な報告やら、幅広くコメントが集まるお祭りと化していたりもした。(その後三田先生は無事に孔明を引く事ができました。良かった)

 さてFGOの話は程々にするとして、三田誠氏の『ロード・エルメロイII世の事件簿』シリーズも今回で完結となった。好きなシリーズが完結する時はいつも思うのだけれど、「物語はここで一旦幕引きになるけれど、登場人物達はこれから先も作品世界の中で生き続けるのだろうな」という余韻があって、少し寂しくもあり、また物語の完結をお祝いしたくもあり、という複雑な心境だ。特にエルメロイⅡ世=ウェイバーの目指すものは、まだ遥か彼方にあって、彼はその歩みを止める事が出来ないのだから。

 別の所でも書いたけれど、人が生きて行くには『夢』とか『目標』が必要なのだろうと思う。良く言えば『生きがい』とも言い換えられるかもしれない。でもそれが叶わない事に気付く時、それらは『呪い』や『重荷』に変質して行く。

 「夢を持て」とは誰もが言う。けれど「夢の諦め方」を教えてくれる人はいない。

 それは残酷な様で、でも当たり前の事だ。他人から「お前の夢は願うだけ無駄で、もう諦めた方がいい」なんて事を言われて、誰が納得できるというのか。夢を叶える為には自分の実力が及ばないのだと知る時、人は自分自身で自分の中の気持ちに向き合わなければならない。

 まだ夢を追い続けるのか。それとも自分の心の中に夢を埋葬するのか。

 少年の頃の夢を追い続けて、結果が出せないまま歳を重ねて行く人がいる。生活を犠牲にしながら、夢の為に努力し続けて、でも結果には結び付かない。そういう人を目にすると、外野は「もういい加減諦めたらどうなんだ」と口にする。また口にしないまでも、そういう態度で相手を蔑み、憐れむ。それはなぜなのかと言えば、つまるところ彼等もかつて自分の夢と向き合い、そして夢を殺す事で自分を生かす決断をしたからだ。自分の心の中に、夢を埋葬したからだ。

 自分もそうだ。昔持っていた夢を殺して埋めて、自分自身に見切りを付けた。この夢は、自分程度の人間が抱いていいものじゃなかった。叶えられる様なものじゃなかった。そう自分自身に言い聞かせて、殺した夢を弔って、別れを告げて、現実世界を生きて行こうとした。糊口を凌ぐ為には仕事をして金を稼がなきゃならない。そうやって生きて行く自分が、かつて夢見た自分の姿からどんなに遠く離れて行ったとしても、そうしなければならないんだと心に決めて。だから自分はきっと羨ましいのだろうと思う。憎いのだろうと思う。まだ「夢の途中」を生きていられる人の事が。

 でも、考えてみて欲しい。遥か彼方の夢を追い続けて、それを諦める事を自分に許さないという生き方は、現実に向き合う為と称して夢を殺した人間の生き方と同じ位、いや、それ以上に過酷なのではないだろうか。

 自分が夢を追い切れなかったのは、弱さのせいだ。自分の実力の無さ、至らなさのせいだ。でも、その事を知った上で、なお夢を諦める事を自分自身に許さない生き方を選ぶ者がいるのなら、彼はもう立ち止まる事も、言い訳をする事も許されない。どんなに辛く長い道程でも、最後に目標に辿り着く事ができるかどうか何の保証もないとしても、諦めを捨てるのなら夢に殉ずるしかないのだ。

 『理想を抱いて溺死しろ』

 かつて別の物語で、そう語った者がいた。
 ある理想の為に歩み続け、過酷な現実に心を削られ続けた男だった。少年が心に抱く理想や夢がどんなに正しく思えても、綺麗に輝いて見えても、それを目指して歩み続ける道程が、そして辿り着く先が地獄そのものである事を知っているが故の言葉だった。そして、夢を捨てる事を許さない生き方を自分に課しているという点で、彼と、かつての少年と、エルメロイⅡ世=ウェイバーは似ている。ただ、エルメロイⅡ世にとっての救いは、彼を支えてくれようとする人々がいる事だ。彼が孤独に突き落とされてはいないという事だ。

 だからこそ、辛くとも歩いて行ける。夢に向けて。再会すべき王のもとへ。
 もっとも、彼は素直にその事を認められないかもしれないが。

 『師』というのは、生徒や弟子よりも多くの知識や技を修めているから敬われるのだろうか。実力があり、敵うものがいないから崇められるのだろうか。だとしたら、教え子が師を超えて行く時、その存在に価値はなくなるのか。それは正解の半分である様に思う。残りの半分は、師の生き方が、その姿勢が、教え子達にとって目指すべき目標たり得るかという事なのではないだろうか。だとすれば、現代魔術科というエルメロイⅡ世の教室が、師を慕う者達で溢れ、支えられているという事実は、彼が抱く夢と、その生き様が間違ってはいないという事の証左になるのだろうと思う。辛くとも。苦しくとも。

 これからも彼は歩いて行くのだろう。彼が夢に届く様にと願うのは、自分がかつて夢を殺したからというだけの事なのだろうか。そうではないだろうと今は思う。
 濁った目で見上げたとしても、それが自分自身の夢ではなくても、綺麗な夢はやはり綺麗なままで、誰かがそれを叶える瞬間を自分は見たいのだ。きっと。

 

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自分はどこから来て、どこへ行くのか・上遠野浩平『ブギーポップ・オールマイティ ディジーがリジーを想うとき』

 

 思い出は人を呪縛するのか。それとも思い出があるから人は生きて行けるのか。いったいどちらだろうという事を最近よく考える。突き詰めて考えれば、本作もまたそういう話だ。

 思い出が人を縛るのか。それとも思い出を支えにするからこそ人は生きて行けるのか。

 自分には大学時代の恩師がいて、いまでも年に1、2回は会う事がある。昨日がちょうどその日で、学生時代の事とか、お互いの近況とか、時事問題についてどう思うかなんていう事を話し合った。

 学生の頃の自分というのは今よりもっと『物事の本質』というものにこだわりを持っていたと思う。自分は仏教美術を専攻したのだけれど、美大や芸大といった「一定の専門知識や技能を習得した『下地』が整った学生が集まる学部」とは異なり、「大学で学ぶ内に美術に興味を持った学生が集まるゼミ」では、良い意味で『素人の寄せ集め』であるが故に、素朴な、あるいは本質的な疑問というものに取り組もうとする学生が多かった様に思う。先生方もそれを馬鹿にする事なく一緒に深く考えようとしてくれた事は、当時とても嬉しかった。

 例えば目の前に一体の仏像があったとして、それを見た時になぜ自分達は感銘を受けるのだろう。言い換えればなぜ「美しい」とか「凄い」とか「かっこいい」とか思うのだろう。それは名のある仏師(ぶっし・仏像を作る人)の作だからとか、国宝や重文に指定され、高い評価を得ているからとか、古い時代から受け継がれていて貴重だからとか、自分ではとても同じ様に作れそうもないからとか、そういう事ではない。それは表層であって、本質ではない。本質的に人に感銘を与える要素は、その像の中に存在している。それを見る自分達は、物言わぬ、そして生きてはいない像の中に生命感や存在感を感じ取る。そこに存在する仏像と、それを見る自分の心は、その時ある種の感応というか、共鳴をしている。そして、その結果として自分達はそれを「美しい」と感じる。これは他の美術や芸術でも同じなのではなかろうか。

 そうした学問に取り組んだせいか、自分は一時、『物事の本質』というものに酷くこだわる人間だった。それは思い出であると同時に、ひとつの道標だった。自分がかつてどこにいて、どんな事を考え、何を感じていたかという事を見失わない為の。

 そして自分は社会に出て、学生時代に育んだ価値観の多くが、実社会を生きる上で助けになる事もあれば、重荷になる事もあるという、多くの人達が通り抜けて来たであろう道筋を辿る事になった。本質論を考える事は興味深く、楽しい事だ。でも現実問題に対処しなければならない時、そこには「本音と建前」や「正しいとされている慣習」や「社会の中で是認されている価値観」というものが厳然と存在した。それらを無視する事は出来なかった。平たく言えば、本質論や理想論だけで世の中は回っていなかった。

 そういう意味で、自分にとって過去は、思い出は、時に自分の背中を押し、時に縛り付けるという、相反する役割を持つものになった。でも他の多くの人にとってもそれは同じなのだろうとも思う。

 思い出や過去は時に優しい。でもそれらは時に人を縛り、傷付ける。
 そして過去は、消す事が出来ない。無かった事にしたり、無視し続けたりする事もできない。リセットボタンを押す事も、今までの人生をまるごと捨てて白紙の状態からもう一度やり直す事も出来ない。
 最近そんな話を書いたけれど、それはそれとして、過去は消せないから、自分達は自らの過去と向き合って生きるしかない。

 思い出が人を縛るのか。それとも思い出を支えにするからこそ人は生きて行けるのか。

 本作にはその両面が描かれる。大事な思い出を忘れまいとして道を踏み外して行く存在もいれば、忘れていた記憶を思い出す事で自分の進むべき方向を見付ける者もいる。それは1枚の硬貨の表と裏の様に分かち難いのかもしれない。ただ確かなのは、これからの自分が進む先は今の自分にしか決められないという事であり、今日の選択を悔いる日が来たとしても、その苦悩は自分の中に抱えて行かなければならないという事だ。

 自分はどこから来て、どこへ行くのか。

 過去を振り返って確かめる事も、これから先の道を選ぶ事も、自分自身にしか出来ない事で、だからこそ心細く、自分達は時に不安になる。誰かに助言して欲しい。道を指し示して欲しい。もっと言えば、どうすればいいか命令して欲しい。でもそれに乗ってはならないのだろうと思う。他の誰かがどんなに確からしい事、もっともらしい事を囁いたとしても、仮にそれで成功したとしても、誰かに選択をまるごと委ねてしまった時、過去を振り返って「あれは自分自身の選択だった」とは思えないだろうから。

 そして「間違いかもしれない」という心細さを常に感じながらも、自分達は今日も何かを選択して行く。何かをする事を。また、何かをしない事を。何かを拾う事を。何かを捨て去る事を。過去を振り返る事を。前を向く事を。その積み重ねが生きるという事なのだと思うから。

 (で、お前の「人生で一番美しい時」はいつだったのかね)
 (これから来るんでしょ、ってのは強がりだけど、今はそれを答えにしとくよ)

 BGM “Memory” from Musical Cats by Elaine Paige

 

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ジャンル : 小説・文学

『ブギーポップは笑わない』の二次創作小説を書きました




 ・・・という訳で、平成から令和になったからという訳ではないですが、自分をこれまで生かしてくれた上遠野浩平氏と、『ブギーポップは笑わない』という作品への感謝を込めて(というかそれは後付けで実際は他の人のSSを目にした勢いで)二次創作小説を書きました。

 このまま黒歴史として闇に葬るのは忍びなかったので、二次創作作品を上げて良い投稿先(?)としてpixivにアップしました。
 多分小説を書くのはこれが最後です。今は感想書きが自分の領分なので。
 メンタルが豆腐なので批判されると多分崩れ落ちますが、何卒許して下さい。

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

誰もが、誰かの家族であるという事 リアノン・ネイヴィン:著 越前敏弥:訳『おやすみの歌が消えて』

 

 学校で起きた銃乱射事件で、6歳のザックは10歳の兄、アンディを喪う。誰が、何の為に学校を襲ったのか、ザックには分からない。兄の死も実感を伴わない中で、両親はアンディを喪った悲しみを受け止めきれずにいる。銃撃犯はその場で警察に射殺されたが、やがてその身元が長年学校に勤め、生徒から保護者まで皆に慕われる警備員、チャーリーの息子であった事が明らかにされる。

 なぜチャーリーの息子が乱射事件を起こさねばならなかったのか。誰もが困惑する中、やがてザックの母親は「チャーリーとその妻が自らの息子を適切に監督していなかった事が事件の原因だ」として、マスコミにも働きかけて彼等の責任を追求しようとする。一方でザックの父親は妻を宥めようとするが、その中でこれまで耐えて来た夫婦間の価値観の相違や夫の不義までもが表面化し、次第に家族はバラバラになって行く。

 ザックは二度と戻らない兄アンディとの思い出を振り返りながら、事件によって傷付き、諍いが絶えなくなった両親を思う。またチャーリーが加害者の父として責められる姿に「親友」として心を痛める。そして自分の中にある喪失感や怒り、悲しみとどう向き合って行けば良いのか、幼いながらも懸命に模索し始める。どうしたらまた家族が元の姿を取り戻せるのか。寝る前に母とともに歌った『おやすみの歌』が消えた家で、少年は過酷な現実との戦いを始める。

 今年3月、ニュージーランドのクライストチャーチにあるモスク2箇所で発生した銃撃事件では、最終的に50人が死亡、50人が負傷したとされる。逮捕拘束された銃撃犯は移民排斥を訴える白人至上主義者と報じられた。

 こうしたテロ以外にも、アメリカで起きたコロンバイン高校銃乱射事件やバージニア工科大学銃乱射事件の様に、学内でいじめの標的にされていた生徒や疎外感を抱えた生徒が銃や爆発物を持って自らが通う学校を襲撃するといった、個人的な動機に端を発する乱射事件も度々発生している。

 自分はクライストチャーチの乱射事件で犯人自ら撮影した動画を見た。

 恐らくアクションカメラの類で撮影されたのであろうその動画では、まるでFPSの様な視点で撃たれた人々が折り重なって倒れて行く姿が映し出されていて、現実味というものが感じられなかった。まるで映画の撮影か、ゲーム画面の様だった。
 犯人は逃げる人々に銃撃を加え、興奮した様子で何度もモスクの部屋を出入りし、倒れている人の中に死んだふりをした生き残りがいないかどうか確認する為なのだろうが、時折思い出した様に床に倒れた人々を撃った。

 それは紛れもない現実でありながら、先に述べた様に現実味が感じられない映像だった。さらに言えばマスメディアの報道についても、「移民排斥を主張する白人至上主義者がモスクを襲撃した」という情報では、具体的に何が起きたのか実感する事が出来なかった。

 そんな中、Twitter上で被害者達の人となりを発信して下さった方がおり、自分はそこでようやく「誰かの家族が、父や母や子や孫、祖父母といった名前も顔もある市井の人々が撃たれたのだ」という事を実感する事が出来た。

 戦争での戦死者数や災害での死傷者数は、名前も顔も持たない脱色されたデータじみていて、それ単体では実際に起こった悲劇を実感する事は難しい。逆に犯人側から言えば、撃ち殺そうとする相手を人間として見なければ、どんな残酷な事でも出来る。殺そうとする相手を射撃の的としてしか認識しなければ抵抗なく引き金を引く事が出来る訳だ。

 殺そうとする相手を人間だと思わない事。それが誰かの家族であり、帰りを待つ人がいて、一人ひとりがかけがえのない存在なのだという事を「認識の外側に追いやる」事。それが殺害を成功させる為の最初のステップだ。「移民」や「異教徒」「外国人」というカテゴリに人を押し込んで、個人の背景を無視する事もその手段のひとつだろう。個人としての相手に向き合わない事。記号化し、抽象化し、危害を加えても良い、殺しても良い対象として認識する事。その先に一連の事件がある。

 ただ、本作を読めば分かる事だが、被害者にはそれぞれ家族がいて、そこで断たれるべきではなかった人生があった。その事を6歳の少年の目を通して、また彼の家族の姿を通して描いてみせる事。そこに本作の意義がある。

 また本作は被害者側の苦悩だけではく、加害者家族の痛みにも一定の理解を示そうとする。ある日突然自分の家族が取り返しの付かない罪を犯してしまったとしたら。そうした加害者側に寄り添う姿勢を見せる事は、バッシング等のリスクを伴う事だ。それでも作者があえて銃撃犯の家族を主人公の少年と近い場所に置いた理由を考えると、それはより困難な『許し』や『再生』というテーマに繋げたかったからなのだろうなと思う。

 仮に家族を殺されて、その加害者本人や加害者家族を許せるかというのは難しい問題だ。自分だったら許せない気もする。それでも『許し』をテーマにするべきだと作者が考えたのは、憎しみを乗り越えた場所にしか人間の『再生』はないという信念に基づいているからかもしれない。では、自分達は加害者を糾弾するのではなく、何に立ち向かうべきなのか。本作はその答えを導き出す一助になるだろう。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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