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誰かの胸の真ん中に向けて・河野裕『君の名前の横顔』

  

 『会話はキャッチボールに似ている』みたいな事がよく言われる。
 相手の言葉を受け止める。自分の言葉を投げ返す。キャッチボールっていうのは相手がボールを取りやすい様に、ボールを投げる相手の胸の真ん中辺りを狙って投げなさいって言われた記憶もある。自分みたいに球技が、というよりスポーツ全般が苦手な人間でも、何となくそんな事は覚えている。

 会話じゃなくても、小説や詩や映画みたいなものでも、自分は何となくそれをメッセージとして受け取る様なイメージを持つ。自分に向けて投げられたボールをキャッチした様な気持ちになる事がある。それらの表現には当然作り手や送り手がいて、自分は彼らに向けて自分なりの言葉を返してみたいと思ったりもする。ここでこんな風に読んだ本の感想を書いたりするのも、その一環かもしれない。

 キャッチボールだから、相手の投げ掛けた言葉を自分が上手くキャッチできない事もある。取り損ねたボールがデッドボールみたいに体にぶつかって痛い思いをする事もある。それに自分みたいにボール=言葉の扱いに長けていない奴が投げると、それが時々見当違いの方向に飛んで行ってしまう事だってある。そんな時、逸れたボールをわざわざ拾いに行ってくれる人もいるし、目の前から黙って立ち去る人もいる。そんな時、暴投したのは自分だから、自分で自分の言葉を拾いに行って、どこがマズかったんだろうなんて反省してみたりもする。

 言葉のやり取り。作品との対話。
 そういうキャッチボールを想定していると、唐突にルールが変わっている事に気付いたりもする。

 広場でキャッチボールをやっていたつもりが、次の瞬間相手の手にはラケットがあって、ネットの向こうから自分のコートに物凄い勢いでスマッシュが打ち込まれて来たりする。ルール変更に付いて行けなくて呆然としていると、相手の側にポイントが入り、ギャラリーが沸く。あれ? これってそういうゲームだったっけ? みたいな。

 SNSは、特にそうだ。

 テニスやバドミントンや卓球に恨みがある訳じゃないし、それらのプレイヤーが意地悪な人だとか言うつもりは当然ないけれど、SNS上での言葉のやり取りはキャッチボールよりももっとスピードが早くて、自分のコートの中でボールが2回バウンドする前に相手コートに打ち返さないと失点になるとか、ルールの制約が大きい。そしてキャッチボールとは違い、できるだけ『相手が取れない様なボール』を返して得点を稼いだ方が勝ちになるみたいな前提の違いがある。とにかく、もたもたしていてはいけない。手でボールを掴んではいけないし、相手の言葉の意味を吟味したり、自分なりに咀嚼してみる様な時間的余裕もない。飛んできたボールを必死に追い掛け、相手が返せない様な場所を狙って打ち返す。ネット際とか、相手コートのラインのぎりぎり内側とか、相手がいる方向と反対側とか。それを反射的に行える事が評価される世界がある。

 世の中にある様々な時事問題や、価値観の衝突や倫理問題。そういったものが自分の方向に向けて飛んで来るボールだとして、それらに素早く反応して打ち返す事が求められる社会は、キャッチボール的なコミュニケーションとは流れている時間が違う気がする。とにかく反応を返さなくちゃ。何か言わなくちゃ。自分の立場を明らかにしなくちゃ。そんな事に慣れて来て、それが普通になってしまうと、自分がやりたかったのはそもそもキャッチボールだったんじゃないかみたいな前提がどこかで失われてしまう。

 自分が誰かから投げられたボールを受け取ったとして、それについて思った事を、そんなに早く投げ返さなくてもいいんじゃないかと思う。本当なら。

 キャッチしたボールの感触をグローブの中で確かめたり、これをどんな風に投げたら相手の胸の中心に届くんだろうとか、そんな事をじっくり考えたりしてから、ボールを投げる方向や強さを決めたっていい。何なら、すぐに投げ返す必要もない。今はまだ適切な反応ができないかもしれないなって思ったら、そのボールをずっと持っていたっていい。宿題にしたっていい。

 本作を読むと、そういうゆっくりした時間の流れの中に身を置く事を意識してみたいと思える様になる。

 本作で言えば、ジャバウォックって何なのかとか、ジャバウォックによって盗まれたものにはどんな意味があるのだろうとか、目の前にある問題を解決するにはどうしたらいいんだろうとか、自分はこれからどうしたらいいんだろうとか、相手はどんな事を考えて自分にこの言葉を投げ掛けたんだろうとか。そういう事について答えを探そうとする時、本当ならそれには時間がかかるはずなんだと思う。何が正しくて、何が間違っているんだろうなんていう繊細な問題に自分なりの答えを見出そうとするなら、それには時間が必要だ。自分の中で判断を保留して、キャッチボールで言えば手元にあるボールの感触や重さを確かめてみる様な時間が必要になるはずなんだ。

 でもSNSのタイムラインが流れて行く速さみたいなものに慣れてしまうと、自分から発する言葉もどこかテニスのラリーじみた速さになってしまって、粗雑な言葉を相手に返してしまう事がある。

 自分自身のSNS上の発言を見返すと、そんな風に『焦って打ち返した』様な雑な言葉がいくつも見付かる。きっとそれを見た相手は嫌な思いをしただろう。何でこんな事を言ってしまったのだろう、なんて思う事もある。でもそれを言ったのは、書いたのは結局自分だから、今さら消してしまうのもアンフェアだと思う。だったら失敗を消してしまうのではなくて、いつかその自分の雑な言葉を、失敗を、それによって傷付いたであろう人がいた事を踏まえた上で、もっと確かな言葉を、誰かの胸の真ん中に投げ返そうとする方がいい。

 自分は揺れ動いている。目の前にいる誰かだってそうだろう。バスの揺れ方で人生の意味が解かった様な気がする事もあれば、コンビニで買える愛の前を素通りしてみたくなる時もある。「届くはずない」とか呟きながら、その諦めが覆される事を心のどこかで期待している。

 そういう揺らぎを、いい加減さを、根拠のない期待を、それが裏切られて傷付く事を、その傷に誰かが触れる事を、自分が誰かの傷に触れる事を繰り返しながら自分は生きていて、その上でどんな言葉を相手に投げかけるべきなんだろうっていつも迷っている。だったら、今すぐに焦って正解を決めなくたっていい。正解と不正解の間に線を引いて、世界を少しずつ欠けさせて行く様な生き方を無理に選ばなくてもいい。捨てられない荷物の重みに潰されなくていいし、一度捨てたものを探しに戻ってもいい。

 じゃあ結局どうしたらいいんだっていう、その結論を急がなくていい。
 まだ言葉にできないものを無理に言葉にしなくていい。手元にあるボールをずっと持っていたっていい。キャッチボールの時間軸を生きてみようとしていいんだって、今は思う。

 だから自分はここまで考えて、現時点の自分の言葉が誰かの胸の真ん中に届く事を期待して、ボールを投げてみる事にする。自分は言葉の扱いが上手くない。投球フォームも綺麗じゃないと思うし、肩も強くない。コントロールだってきっと悪い。でも、今の言葉を素直に投げてみたいと思った。

 それが向こう岸にいる誰かに届いたらいいなって、今は思う。

 

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その音が、自分の心に響く時に・中井紀夫:著 伴名練:編『日本SFの臨界点 中井紀夫 山の上の交響楽』

 

 本作は作家、中井紀夫氏の傑作選であり、その収録作を同じく作家である伴名練氏が編者となって選定し、著者・作品の解説を巻末に記すという形をとっている。中には伴名練氏の短編集『なめらかな世界と、その敵』所収の『ひかりより速く、ゆるやかに』に直接的な影響を与えたという『暴走バス』が収録されるなど、両氏の繋がりや、日本SF史の流れを掴む事ができる濃い内容となっていて興味深い。

 作品が世代を越えて読み継がれて行く事の意味、そして意義について、中井紀夫氏は本著のあとがきで大岡信氏の『うたげと孤心』を引きながら、SFの世界もまたSFファンによる「うたげ」によって育まれた共通認識から「本歌取り」や「枕詞」を思わせる様々な作品が生まれた事を説く。そして、その集団的な創作の場としての「うたげ」がある一方で、個人が集団的な価値観から離れた孤独な立場「孤心」を持つ事の重要性を指摘し、このうたげと孤心が出会うところに、日本的な文芸創作の場があると説く。

 そう考えれば、本著もまたひとつの「うたげ」であって、その前提に立って本著を読むと、また新たな発見がある様にも思う。

 ――とまあ、ここまでが前置き。自分としては、収録作そのものをまずは楽しみたい。様々な作品が収録されている本著ではあるけれど、ここに感想を書く作品に選ぶとすればやはり表題作『山の上の交響楽』だろうと思う。

 山の上の奏楽堂で演奏され続ける、ある交響楽。『山頂交響楽』と呼ばれるそれは、全てを演奏するには数千年、まかり間違えば一万年を要するだろうと言われる長大な楽曲であり、全曲を演奏した者もいなければ楽譜の全てに目を通した者もいない。200年ほど前に第1楽章の演奏が始まってから、楽章の切れ目を除けば一度も音が途切れる事無く演奏され続けているという途方も無いものだ。

 山頂交響楽にはかわるがわるステージに上がる8つのオーケストラをはじめ、オリジナルの楽譜を楽器ごとのパート譜に書き写す写譜を担当する者や、楽器の製作者など様々な人々が関わっているけれど、もちろん彼等は山頂交響楽が演奏され始めた当時には生まれてもいないし、自分たちが関わっているこの交響楽の終わりに立ち会う事もない。
 彼等は時に意見の違いから衝突する。また写譜の遅れや、突如登場する演奏困難なパート、楽器そのものを新たに作らなければならない等の困難が次々と襲ってくる。それらと向き合いながら、今ここにいる自分はどうするのか。それに向き合う事を皆が迫られる。

 なぜ自分たちは山頂交響楽を演奏するのか。それには何の意味が、意義があるのか。そして自分自身は、それとどう向き合って生きて行くのか。

 この様に、『山の上の交響楽』はある種の寓話として読む事ができる。
 山頂交響楽とは何で、それに向き合うとはどういう事か。それを現実を生きる読者である自分たちは、どう読み解くのか。

 自分は、小説の面白さはこの『読み解きの自由さ』にある様な気がしている。

 もちろん作者には作者が意図する意味があるのだろうと思うけれど、読者にはその『作者の意図』を『正解』として、必ず正解に至らなければならないという義務はない。そこには読者側の勝手な解釈や、誤読や飛躍が常につきまとうけれど、それでいいのだと思う。

 寓話として読めるからといって、そう読まなくてもいい。作者が意図しない方向に広げて解釈してもいい。小説の自由さというのはそういう所にあって、「いかようにも読める」作品というのは、広々としていて、自由だ。周囲に視界を遮るものがない、山の頂の様に。

 少し本作を離れるけれど、昔どこかで「スピッツの楽曲に繰り返し登場する『君』とは、ある特定の異性ではなくて、彼等にとっての『理想の音楽』であり、ひいては希望や善性といった『大切なもの』『失いたくないもの』の事ではないか」という素敵な読み解きを見た事がある。誰がいつ書いたのか忘れてしまったけれど。

 スピッツといえば、「君を忘れない」で始まる『チェリー』や、「君の手を離さぬように」と歌う『ロビンソン』など、『君』という呼び掛けが印象的な楽曲が多い。それは言葉の通りに聴けばラブソングになるのだろうと思う。大切な、愛する存在としての『君』だ。でもその『君』という言葉を、ある種の『形のない希望』だと捉え直す時に、彼等の歌はラブソングでもありながら、『祈り』にも似た意味を持つ。それは彼等の曲を聴く側の解釈によって世界が広がった様で、仮にその読み解きが作詞作曲を手掛ける草野正宗氏から見て間違いだったとしても、自分はそれを素敵だと思う。

 話を『山の上の交響楽』に戻す。
 本作に登場する山頂交響楽とは何だろう、それを演奏し続ける人々とは何だろうと考える時にも、そこには様々な読み解きを許す自由さがある。それは人生の様でもあるし、創作論の様でもある。読者は自分の中にある様々な思いを、本作に投影する事ができる。ならば自分は、本作をどう読むのだろう。

 ある目的のために、皆が一丸となって困難に立ち向かうのだ、という読み方をする時、その『皆』というのはどこまでを指すのだろうという思いがある。家族や会社、自治体、政府、国家など、社会には様々な大きさの集団があるし、その集団の中にも各々の立場があるからだ。多数派がいれば、少数派もいる。各々の能力にも差があるし、個性がある。貧富の差や身分の違いや置かれた状況の差だってある。

 それらを乗り越えて、ひとつの目的に向かうのだ、という姿勢を良しとする時、その集団の範囲を誤れば、それは容易に全体主義に陥る。本作で言えば山頂交響楽を演奏し続けるという目的の為には、個人の勝手や集団の中の不協和音は許されないのだという読み方だ。それは集団が家族であれば家父長制的なものになり、会社であればブラック企業的な社員を顧みない企業風土そのものになり、国家であれば全体主義になる。大きな目的の前に価値観を統一できない事、問題解決に非協力的である事は悪になり、集団の和を乱す事になり、集団の中で価値観を共有できない事や個性を主張する事は否定されて行く。本作にはそういう読み方も、実は通るのではないかという気がするし、そうした読み方を読者が求める事はある。

 『孤心』であり続ける事は不安な事でもあるから。

 自分で自分の行動に責任を負い続ける不安。自分の選択や価値観が間違っているかもしれないという不安。そうした不安の解消法として、集団の中の自分というものに寄りかかって行く事は安心でもある。ひとつの目標、価値観を共有する集団の中にいる事、より強いもの、強固で揺るぎないものと一体であるという事がもたらす安心を得たいと思う事は誰にでもある。自分にもある。

 ただ本作について、あえてそうした読み方をしてみる時、どうにもそうした読み解きはこの優しい物語にそぐわないのではないかと思える。少なくとも、自分は。

 その違和感がどこから来るのか。山頂交響楽とは何で、それを演奏する人々や、それに関わる人々、またそれを聴く人々とはどういった集団なのかと考えてみた時、自分は国家という器ではきっとその集団を表すにはまだ『狭すぎる』のだろうと考えた。国家というものは、日常生活では確かに大きな集団ではあるけれど。

 では、どこまで引いたら自分にとってしっくり来る視点が得られるのだろうと考えた時、自分は『人類史』というレベルにまで離れてみるべきではないかと思う。

 自分たちが生まれた時、既に人間の歴史は始まっていた。そこには輝かしいものもあったけれど、繰り返される戦争の様な困難な時代もあった。その成立や過去の出来事に自分は関われないし、逆にこれから先の、遠い未来を見届ける事もできない。自分に許されているのはその途中の、ほんの僅かな時間を自分の人生として生きてみる事だけだ。それは人類史という交響楽の中では短いパート、あるいはただの一音か半音に過ぎないし、そもそも自分は演奏家ではないかもしれない。聴衆かもしれない。それも遠く離れた場所から、微かに届く音を聴いている様な。

 それは中途半端で、歯がゆくて、不安でもある。自分がここにこうしている意味などない様な気がしてくる。この交響楽を続けて行く意味はあるのかとか、自分はそこにどう関われるんだろう、何かの力になれる事はあるのかなとか、むしろいなくてもいいのかな、いない方がいいのかなとか考えてしまう。

 そしてこの世界全体、人間の社会全体には当然意見の相違があって、様々な異なる価値観をもとに対立する事もある。ちょうど本作で、奏楽堂の屋根を開けるかどうかなんていう事で意見を戦わせた人たちがいた様に。でもそうした意見の相違を乗り越えて続いて行く交響楽、続けて行く交響楽とは何かと考える時、それはひとつの国家や民族、人種の繁栄といった、言ってしまえば卑近な目標の中には収まらない気がした。

 きっとそれは、人類というものが、どんな形であれ――できれば安らかに――存在し続けて行ける事、というほどの大きな器を用意して、ようやく受け止められる交響楽なのではないだろうかと思う。その中で誰が一時代の隆盛を極めるのか、恵まれた立場を得られるのかなどというのは、たまたまその時にそうした譜面に、演奏になったというだけの話で。

 これまで自分の意思によらず続いて来た大きな舞台が、交響楽があり、たまたま自分が生きる時間がそれと重なっているという事。それを前提として本作を読む時、そこには優しい音楽が流れているのではないかという気がする。人の耳には聞こえないけれど、確かに自分たちを包んでいる八百尺の低音の様な、皆を優しく包む様な音楽が。

 そういうものを信じられるかどうか。信じてみたいかどうか。それが今、自分が見ている世界に色を付けて行く様な気がする。過ぎて行く日々の中で、ままならない事が多くても。うつむいて歩く日が多かったとしても。それでも何かのきっかけで、また顔を上げてみようと思える様な。

 自分には、そんな音が聞こえた気がする。貴方は、どうだろうか?

   

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互いの瞳に映る世界は・河野裕『昨日星を探した言い訳』

 

 電書で買ってずっと読める状態ではあったのだけれど、途中までしか読み進められずにいた。それはリーダビリティーとか、物語の完成度とか、そういう作品側の問題ではなくて、それを受け止める自分側の問題だったと思う。

 自分には『この人の作品に打ちのめされた』と感じる作家が何人かいる。その中のひとりが、河野裕氏だ。

 『サクラダリセット』の頃から、なんて透明感のある文章を書く人なんだろうと思っている。言葉というもの、それが人に与える影響を分かった上で、文章を研いで行く様な。そこから不純物を取り除いて行く様な。だから彼の描く作品は綺麗で、澄んでいて、憧れる。自分が同じ日本語を使って書いている筈のこの文章が、酷く粗雑で、不純で、的外れなものに思えてくる。

 絵画や彫刻という分野では、その作品の魅力がどこにあるのか確かめる意味でも、模写や模刻をしてみる事が有効な場面がある。小説でも、公募新人賞に作品を送る様な人は、自分が目指す作家の小説を自ら書き写したりする事があるそうだ。でも河野氏の書く言葉は、自分からすれば最初からそんな風に模倣してみようと考える事もできないレベルにあって、一体どうしたらこんな言葉の連なりを生み出す事ができるのか想像が付かない。そしてそれは、単に端正な文体というだけではなく、物語の部分にも当てはまる。

 それは優しくて、希望を感じさせる。でもどこかその裏側に現実のままならなさを含んでいて、その苦味が全体を引き締めている。作中に登場する、ハイクラウンの様に。
 ただの読者である自分は、実際の河野氏を知らないけれど、一方的な思い込みで良ければ、彼は本作の主人公である坂口孝文に似ているんじゃないかという気がする。そして清寺時生にも。現実のままならなさを知った上で、それでもどこかで澄んだ言葉が、綺麗な物語が、現実になる事を願っている様な。祈っている様な。

 『まるで少年の様な』という言葉が褒め言葉になる時もあれば侮辱になる事もあると分かっているつもりだけれど、河野氏の書く小説にはいつもどこかそんな思春期の少年が持つ潔癖さが見え隠れしている様に思う。

 本作は『差別』について、そしてその差別が普遍的に存在するこの現実世界について描いている。
 作中でそれは『緑色の目』という身体的特徴で表される。最初はその理由や、そもそもの由来について何も語られない。ただ黒い目と緑色の目の持ち主がいれば、緑色の目を持つ人物の方が不当な扱いを受けているという事が伺い知れる間接的な描写が淡々と続く。白人と黒人とか、白人と黄色人種の様に、現実に存在する人種差別をそのまま用いるのではなく、同じ日本人の中に黒い目と緑色の目という異なる身体的特徴を設定する事で、読者である自分達は現実からの先入観を引きずる事無く、この『差別』という問題についてもう一度考えてみる機会を得る。

 当然、瞳の色だけが差別の原因でもない。孤児に対する差別、家柄や財産の有無による差別、健常者と障がい者の間に存在する壁、被差別側に対する理解という形で多数派から差し伸べられる手が、時として無神経に相手を傷付けるという事。それらは現実として存在していて、だからこそ自分達はこの物語に深く共感する事ができる。

 そこにあるのは『差別は良くない』という紋切り型の啓蒙ではない。
 それはあらゆる差別が前提として存在するこの世界で、時に差別を受け、時に誰かを無自覚に傷付ける側に回ってしまう事もある自分達が、どんな風に生きて行くのだろう、どこへ向かうのだろうという『問い』だ。問いだから、正解はない。正解がない中で、何を願うのかという事だ。少なくとも、自分はそう受け止めた。

 率直に言えば、こうしてこの作品について自分の言葉で『語る』事には抵抗がある。それは冒頭で述べた様に、この物語自体が研ぎ澄まされ、不純物を廃しているからだ。そこに読者側の『読み解き』や『考え』を付け足す事は、どうしても無駄に思える。綺麗に整ったものを壊し、バランスを崩し、余計なものを付け足し、作品の価値を損なってしまう気がする。

 例えば自分は障がい者福祉に携わっているから、その自分が日々見ている世界に、本作が描く差別の問題を引き寄せて語る事もできるかもしれない。やろうと思えば。でも、本作に限って言えば、正確には河野氏の著作に限って言えば、それらは全て蛇足に思えてしまう。

 ただ、読んで欲しい。

 先入観なく。各々が、自分自身の思う通りに。

 何が正しいとか、何が間違っているとか、他の皆がどう語っているかという事を気にしながら読んで欲しい作品ではない。
 皆が正しいと思える『正解』は無くても、自分自身が『信じたい』と思えるものを見付けて、手を伸ばして欲しい。それが現実的かどうかなんていう事は問題じゃない。『願う』という事は、『祈る』という事でもある。そしてその祈りが届いて欲しいという気持ちもまた、『本物』だ。他の誰かに笑われる様なものじゃない。

 正直に言ってしまうと、ここまで書いても、こんな文章捨ててしまうべきなんじゃないかという気もする。ここにあるのは余計な言葉ばかりだ。歪で、固くざらついていて、整っていない。無駄が多く、不正確で、独り善がりだ。

 でも、書いておきたいと思う。この場所に遺しておきたいと思う。自分は大切なものを忘れてしまいがちだから。確かに今日、この作品から何かを受け取ったという事を、記録しておこうと思う。それが自分のこれからにどう関わって来るのかは分からないけれど、きっと自分はこれからもこの物語を折に触れて思い出すだろうと思うから。

 差別や人権という言葉を使って議論の為の議論を繰り返すのではなく、その言葉が誰を指していて、今自分は何の為に、誰の為にその言葉を口にするのだろうという事を、いつでも思い出せる様にしておく為に。

 

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物語は全てを救わないのだとしても・波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』

 

 感想の書き方を忘れかけてる。

 さて、あらすじにある様に、本作は茨城のどん詰まりにあるクソ田舎の底辺工業高校の女子学生が、園芸同好会を隠れ蓑にして部室棟の屋上にあるビニールハウスで大麻の栽培を始めるという、まあそんな話だ。

 吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』じゃないけれど、自分も福島県というまあまあな田舎で生まれ育ったから、本作で描かれている様な田舎特有のどうしようもなさには覚えがある。福島県も茨城同様、原発のある県と言えばそうだ。そこで10代を過ごす事がどういう事かは大体分かる。もっとも、自分が10代だったのはもう20年以上も前だけれど。

 地元愛が無い訳じゃないし、田舎育ちが恥ずかしいとか呪わしいとか常に思う訳でもないけれど、それはそれとして『自分の人生の先々まで見通せるかの様な身も蓋もなさ』が田舎にはあって、その「低い天井を見上げながら生きる」かの様な人生設計に異を唱えたいなら、何とかしてここから出て行く方法を探すしか無いという部分には、概ね同意する。

 極論、それは「プロスポーツ選手にでもならなければあとは警官になるか、さもなくば麻薬の売人にでもなるしかない」とか「まともな農家なんてやっていても子どもに良い教育を受けさせられないから、ケシを栽培している」といった、海外の麻薬にまつわるドキュメンタリー番組でもよく見る人生残酷物語なのかもしれない。自分がいる場所がどうしようもない所だと知りつつ、でもどこにも行けない。ここではないどこかなんてこの世界には無いんだ、といった類の。

 本作でも主人公達が大麻栽培を始めるまで、作品全体の半分以上の紙幅を使って彼女達の『どうしようもなさ』と『どこにも行けない閉塞感』が描かれる。いじめや人間関係のトラブル、過干渉な親、問題を抱えた家族、学校でも家庭でも感じられる居場所の無さ。そうしたものをこれでもかと詰め込んだ上で、それを打破する為に必要なのはまずカネだよな、という結論に至る。その為なら大麻の密売だってやる。

 自分はそういう彼女達の無鉄砲さが嫌いではない。もちろん、フィクションの中でなら。

 小説や漫画が道徳的であるべきかどうかという事が度々議論になるけれど、不道徳なものを不道徳だとしたままで、それでも登場人物達の生き様を肯定的に描く事ができるのも小説の良い所だと思う。寓話としてなら、別に女子高生が部室棟の屋上で大麻を栽培しようと構わない。

 自分はさっき何気なく『寓話』と書いたけれど、じゃあ本作から自分はどんな寓意を読み取ったのだろうと考えてみると、それはつまり『自分が思い描く通りの自分を生きる』という事の困難さなのだろうと思う。そして小説や漫画や映画は、必ずしもそれだけで自分自身を助けてはくれないという事だ。

 本作の登場人物達は皆、映画や漫画、或いは音楽に詳しい。それはあらすじにある通りの『クソ田舎』の中では平均以上の知識量だと思う。会話の中で自然に引用される作家やアーティスト、作品の数々。そういうものを知っている存在としての主人公達がいて、一方彼女達を取り巻く周辺の人々は文化レベルが低い存在として描かれたりもする。自分はあまりこの文化レベルという言葉が好きではないけれど、この手の描写はよくある事だ。でもそれだけじゃなくて、もっと面白い事がある。

 その彼女達が持っている知識、そのもとになった作品、或いは作家は、確かに知識を授けてはくれるけれど、それは『全く彼女達を救わない』という事だ。

 あくまでクソ田舎で暮らす10代の女子高生として、主人公達は自分を取り巻く人々よりもよく物を知っている。それは作者の知識量でもあるのだけれど、その知識を得る事によって広がった視野や、新たに得られた視点が彼女達を救う事はない。むしろ視野の広がりは、自分自身のどうしようもなさを再確認する方向に向かう。今いるこの場所は自分が望むものとはかけ離れているという事が実感される一方で、『ここから抜け出す手段』を、小説は、漫画は、映画は、音楽は、決して与えてはくれない。

 ウィリアム・ギブスンも、マーガレット・アトウッドも、大島弓子も岡崎京子もスタンリー・キューブリックもタイラー・ザ・クリエイターもヒース・レジャーもハーヴェイ・ミルクもニルヴァーナもフー・ファイターズもビリー・アイリッシュもジャン=リュック・ゴダールも、その優れた作品の力で彼女達の『どうしようもなさ』を救ってくれる訳ではないし、実際に救ってはくれなかった。だから彼女達は大麻を育てる訳だ。カネ=実弾を手に入れる為に。現実に、目の前に広がっている社会の、世界のどうしようもなさに立ち向かおうとして。

 小説として、こういう物語が出て来るのは面白いと思う。

 普通に考えたら、小説家が書く物語として作品=虚構が持つ力をもう少し信じられる様な話になる方が自然だ。ある作品の素晴らしさが、登場人物に現実を乗り越える力を与えてくれる。それは物語の形として綺麗で、整っていて――だからこそ嘘臭い。

 自分達の様な『物語を好む人間』であればある程、身に覚えがある事。理想だけで渡って行けない現実の世知辛さ。結局は幅を利かせるカネと暴力。理想は遥か遠く、現実はどうしようもなく、それでも、どれだけ失望したとしても、日々は続く。

 作者は自ら小説を書くという行為をしながら、つまり一方では物語の持つ力を信じながら、その作中では理想論に背を向けて、カネと暴力で現実を蹴飛ばそうとする若者を描いた。それ自体が、自分にとっては面白いし、興味深い。それは意図的だから。わざとやっている事だから。だからこそ作中では村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』の文庫本をくり抜いて作った偽装容器に大麻を隠して売りさばく一方で、「『コインロッカー・ベイビーズ』は読んどいたほうがいいよ。超ヒップホップだから」みたいな会話をするシーンが成立する。

 物語は無意味でも無力でもない。
 でもそれが、全てを解決してくれる事はない。


 そういう話だ。だからこそ、本作は面白いんじゃないかと、自分は思う。

 

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この広い世界にたったひとりの貴方へ・冲方丁『マルドゥック・アノニマス 6』

 

 今思えばマルドゥック・アノニマスというシリーズに関して、自分はかなり誤解していた部分があると思う。

 マルドゥック・アノニマスの開始時に、読者である自分の関心の大部分は「ウフコックとバロットは再会できるのだろうか」という点にあった。特に冒頭から死の可能性が示唆され、物語が進むにつれて過酷な状況に追い込まれて行くウフコックの姿を追う事は、彼の苦痛からの開放と救済となるであろうバロットとの再会への期待値をどんどん高めて行った。

 それが、作中で二人の再会という山場が前もって提示され、その後に時間を巻き戻して再会までの過程が描かれる事になった時、自分はこの作品が持つ読者への訴求力をもってしても、二人を再会させないままで長編を展開し続ける事は不可能だったのだろうかと、言い方は悪いが肩透かしを食ってしまった様に感じた。それが作者によって最初から計算された展開なのか、それとも急遽変更されたのか、読者である自分には分からない事なのだけれど、どちらかというと後者なのではないかという感想を勝手に持っていた。

 『マルドゥック・スクランブル』『マルドゥック・ヴェロシティ』がそれぞれ文庫版全3巻で完結する作品だった事を考えると、『マルドゥック・アノニマス』が既に6巻に及んでいる事はシリーズの長期化を感じざるを得ない。物語の長期化に伴って登場人物も多く(それとも登場人物が多い事がシリーズの長期化を招いているのか)組織名や個人名が入り乱れ、久し振りに新刊を手に取るとそれらを再度把握するのに苦労する。その『物語が収束に向かわない理由』として、自分は組織戦という物語の規模の大きさもさることながら、敵勢力のリーダーであるハンターという登場人物が背負う背景の複雑さが大きく影響しているのではないかと思った。それはハンターが物語に対して及ぼす影響力が作者の制御を離れてしまっているのではないかと思える程だった。

 自分にとって、当初のハンターは新興宗教の教祖の様に見えた。だが、事はそう単純ではなかった。

 自己と他者の感覚を共有化する事で仲間を増やし、勢力を拡大して行くハンター。その『均一化(イコライズ)』という行為は、マインドコントロールと呼ばれる様な、いわゆる『洗脳』とどう違うのか。自分の考えや価値観を他者に植え付けて行く事と『均一化』とは何が異なるのか。しかも更に『ハンター自身もまたシザースに取り込まれている』という入れ子構造があって、シザース化されたグループと、ハンターを中心とした『均一化』によって団結するグループでは何が違うのかという疑問も生まれる。それらハンターにまつわる複雑さが、この物語全体の複雑さを生んでいる。

 このハンターの特異性を考える時、作者が人間の心のあり方として、どんなものをより良いものとして認識しているか、また読者である自分達がどんな自分自身のあり方を良しとするのかという『問い』が意識されてくる。

 バロット達イースターズ・オフィスを中心とした面々を繋ぐ要素は、パートナーシップであり仲間意識であり、求める価値観や方向性の一致や、家族愛といった『あくまでも個人としての自己と他者を繋ぐ関係性の糸』だと思う。昨今陳腐化が著しい言葉を使うなら『絆』と言い換えてもいいが、自己と他者とは明確に個別の存在としてあって、その中でどんな関係性によって、信頼によって互いの手を取り合えるかという事が中心に置かれる。そこでは誰もが自分自身の意志と良心に照らして自らが進む方向性を決めて行くが、結果としてその選択と行動の結果がチーム全体をより良い方向に近付けて行く。

 一方、ハンター達『均一化』による共感を経た上で団結するグループには、その中心にハンターという特異な能力を持ったカリスマが存在する。
 それはこのシリーズの初期に感じた『洗脳』的な表層のイメージとは違い、『互いの心の一部を預け合う』様な、現実にはあり得ないレベルでの深い共感を軸にした団結だ。互いの感覚を共有する(共有させる)という能力による団結は強固だが、結果としてその能力の要となるハンターは仲間を繋ぐ扇の要の様にカリスマとしての地位を持つ。個人が持つ特異な資質によって維持される団結は、その個人を失う事による瓦解の可能性を常に孕む。

 最後にシザース達のグループは、これはもう普通の意味でのグループとか団結などという言葉を当てはめるのが難しい。
 シザースに取り込まれている人々は、自分自身がシザースであるという事を意識に上らせずに生きているのではないだろうか。それはシザース全体の意思決定に関与する事ができる数人の上層部によって管理されていて、末端の構成員は集団に対する帰属意識を持たない。でも、その上でシザースという集団は『ひとつの共有化された意識』であるかの様にコントロールされている。

 これら3つの集団がそれぞれに持つ『関係性』の中で、どれをより良いものとして描き、どれを忌避すべきものと考えるか。そして、今現在の自分達により近いものはどれか。

 マルドゥック・アノニマスの要点とは、単にバロットとウフコックが再びパートナーとして同じ場所に立てるかという小さな命題を超えた所にある。それは自分達ひとりひとりの意識、あるいは魂にとって、他者とどんな関係を結ぶ事が『より良い生』に繋がる道なのかを問うという事だ。

 ある意味ではひとりで生まれて、ひとりで死んで行く自分達が、その『味方は一人もいない(ノーバディ・ノーウェア)』という状況にある自分自身をどう見つめ、誰に手を伸ばし、また誰の手を取るのか。その事を考えるという事。それは冲方丁という作家にとっては、『ばいばい、アース』の頃から繰り返し向き合って来たテーマだと言える。

 自分達はそれぞれがひとりなのだとするなら、そのひとりである自分自身をどう扱うのか。また目の前にいる他者をどう扱うのか。そして今の社会は個人をどう扱っているのか。

 それを、『自分の言葉』で現そうとする事。それを続けて行く事の意味を問うている。

 なぜ自分の言葉かといえば、他者への共感や賛意というものは、それがより安易な方向に流れて行った時に、容易に『依存』や『同化』に堕して行くからだ。

 自分の言葉で、自分の思いを語らなくていい。表さなくていい。

 今の社会にある他者との関係性は、『絆』という言葉がそうである様に、ある意味で陳腐化している。SNSが普及する事で他者との関係を結ぶ事が容易になった反面、それによってもたらされた視野の広がりは、ある意味で個人の価値を薄めて行った。
 自分の言葉を探さなくても、社会には既に誰かが語った言葉が溢れている。その中から自分自身の価値観に近いものを選んで拡散すれば、それは自分が考え、語ったかの様に広まって行く。ネットを通じて常に誰かと『繋がって』いて、情報や価値観を『並列化』し続ける。自分の重心が自分自身からずれていて、集団の中に置かれていたりもする。ある集団の名誉や目的が、無意識に自分自身の名誉や目的であるかの様に導入されていたりする。誰がそうさせたのかという事が自分の中で問われないまま。

 それはある意味でシザース的な生き方だ。

 個人の器を離れて、より大きなものと自己が同一であるという無意識下の安堵。誰とは言わない『みんな』と自分が同一化されているという安寧。そういうものを拒絶しきれない自分達の弱さについての理解を覗かせながらも、それでもなお『個人』であれと本作は言っているのではないだろうか。

 仲間と手を繋ぐのもいい。ひとりで戦わなくてもいい。誰かを頼っていいし、慕ってもいい。ただその上で、他者を求めるのと同じか、それ以上に自分自身を深く掘り下げ自覚するという事。自分自身の魂の匂いに自覚的である事。本作はそうした、ある意味では孤独な個人としてのあり方を求めているのではないかと思う。より大きなものに自分自身を添わせ、取り込まれて行く生き方ではなく。

 それは、そうした困難な生き方を自分自身に課して行く事は難しい。
 難しいからこそ、その価値を問う物語は重く、道程は長く、結末は遠くなる。
 だからこそ、自分はその結末を見届けたいのではないか。今はそう思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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