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新潮45問題(2)・本当に議論されるべき「生産性」とは何か

 個人的な事なのであまり公にするものではないと思うが、昨年に転職した事で障がい者福祉の分野と繋がりを持つ事になった。普段政治問題や時事問題を取り上げているブログでもないのに、なぜ自分が前回の記事を書いたのかと言えば、その理由の半分以上は「重度知的障がい者とその家族の様な、自分達から声を上げる事が出来ない人々」の主張が、ただ声が大きいだけの論客の雑語りにかき消されていく様が許し難いからだ。

 常日頃言葉遣いが荒くならない様に気を配っているつもりだが、この問題について自分は珍しく怒っている。激怒と言っていい。

 2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件は世間を震撼させた。しかしその後の検証報道が十分行われたとは言い難いと自分は思っている。事件当時自分はまだ前職にいて、障がい者福祉のしの字も知らなかった自分は、今になって当時の異常さを振り返っている。

 思えば犯行に及んだ植松聖個人の異常性ばかりが報じられた事件だった。ただ自分が恐ろしいと感じたのは、一部の人間がネットの匿名性を利用して彼の犯行を「よくやった」と称賛していた事だ。

 高齢化社会になり、働き手である現役世代が減少して税負担が増える一方、社会福祉にかかる支出が増加している事は由々しき問題ではある。そうした流れの中で「これ以上の負担は背負えない」という本音が、様々な場所から噴出している気がする。
 生活保護費の不正受給等、批判されるべきものもある。ただその他にも、例えば「死刑廃止論者は死刑囚を生かしておく為の公費を全額自己負担してから言え」とか「植松は自分達に出来ない事をやってくれたのだ」という様な、「公費支出を減らす=自分達の負担を減らす為には切り捨てるべきはどんどん切り捨てろ」という暴論を支持する層が一定数存在する事もまた浮き彫りになった。正に前段で杉田水脈氏が雑に扱った「生産性の有無による差別」という問題が、障害者福祉の分野では2016年からずっと危惧されていた訳だ。

 生産性のない者=子どもを産まない者・自身が収める税よりも福祉として受け取る金額の方が大きい者は、社会のお荷物であるとでも言うかの様な風潮は、少なくとも障がい者福祉の世界では「植松聖個人の異常性に見えていたものは、本当は広く大衆の中に存在する差別意識なのではないか」という危惧を持って受け止められていた。次に排斥されるのは自分達なのではないか。第二、第三の植松が現れるのではないか。そんな恐れで張り詰めていた所に、無造作に「生産性」という言葉を投げ入れてきた事。それこそが杉田水脈氏が受け止めるべき批判の本質であり、自省を求めたい点である。

 そして杉田氏が発したメディア批判の流れを引き継いで氏を擁護する為に現れた小川榮太郎氏は、本来杉田氏にとって「メディア批判のついで」だったLGBT問題に直接火をつけに来た点で更に悪質だと言えるが、こちらは引用や書き起こしをするのも気が滅入るので要約する。「LGBTとは伝統保守主義者からすればふざけた概念」という主張がそれであり、わざわざ公に取り上げる程の問題ではなく、言ってみれば「ずっと表に出ずに引っ込んでいろ」と言いたい訳だ。氏の言葉を借りるなら「人間ならパンツは穿いておけよ」という事になる。恥部は表に出すな。隠しておけ。そう言っているとも取れる。

 小川氏がそんな主張を展開できるのは、自身が多数派であるという揺るぎない自身の現れだと思う。性的指向においても、言論空間であっても、自分は多数派であるという安心感が氏の言葉を選ばない雑な文章から伝わって来る。自分が多数を占めている側に立っていると思えばこそ、また自分の主義主張の正しさを信じて疑わないからこそ、「伝統保守主義者」などという事を言ってのける訳だ。

 自称多数派、自称伝統保守主義者がそうした雑語りを大声でする一方で、少数派の声はかき消されて行く。社会福祉に支えられて生きている人々が大きな声を上げられないのは、仮に現行の社会制度に何らかの問題があるのだとしても、自分達がそれに支えられて生きている事を知っているからだ。謙虚にじっと耐えている誰かの姿を、伝統保守主義者様は少しでも想像してみた事があるのか。仮にこの国に未だ解決されない人権問題が横たわっているのだとしたら、それを解決できなかった、或いは放置してきた責任の一端はこれまで日本の伝統を守り続けて来た(と自称する)伝統保守主義者の側にあるのではないか。

 例えば、重度知的障がい者の方は選挙に行く事が出来ない。

 何を当然の事を言っているんだと思われるかもしれないが、選挙に行けないという事は、例えば自分達に直接関係がある障がい者福祉の分野に理解のある候補者を推す事が出来ないという事だ。権利は持っていても、それを行使する能力がないからという理由で、選挙制度上彼等に与えられている一票は無効になってしまっている。選挙で票を投じる事が出来ないという事は、彼等が議会制民主主義の中から閉め出されている事に等しい訳だが、ずっとそれは仕方のない事だとされ続けているし、だからこそ彼等の様な少数派は、多数派の中にも少数派の意見に耳を傾けてくれる人がいる筈だという「善意」を信じて生きて行くしかない訳だ。その善意に期待する事すら出来なくなったとしたら、彼等はどうすればいい? ある日突然植松の様な人間がまた現れて、それに対して匿名で「よくやった」なんていうコメントが集まったとしたら、それに対する怒りや悲しみや恐れには誰が寄り添ってくれるというのか。

 ここまで書いて来て、人間怒りを通り越すと逆に悲しくなり、それすら通り越すと今度は感情の起伏が無くなって来るのだなという事に気付いたりもする訳だが、最後に言う事があるとすれば、保守だとかリベラルだとか、右翼だとか左翼だとか、そういう自分の立場を明確に定めて相手と対立して行くだけの言論に存在価値はあるのかという事だ。対立する相手の意見は全否定して聞く耳を持たず、自分の意見だけを押し通そうとする。そうやって相手を批判する為に、本来無関係の人々が抱えている人権問題まで巻き込んで傷付けておきながら、それを指摘されると今度は言葉狩りだと居直る。そこに何らかの「生産性」があるのかよ、という事だ。生産性を議論するならこちらの方が先なんじゃないのか。


 声の大きな論客の皆様。あなたの発言に「生産性」はありますか?


 自分はここから、ずっと見ているつもりです。だから何だ、と言われるでしょうが。

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ジャンル : 政治・経済

新潮45問題(1)・杉田水脈氏から小川榮太郎氏まで「リベラル系メディア批判の度が過ぎる」

 ここは政治について語るブログではないのだけれど、最低限この問題については言っておかなければなるまいと思うので書く事にする。

 言論の自由、表現の自由といったものは確かに誰にでも認められなければならない権利だが、それがただ誰かを罵倒する為のものであったり、差別的であったり、相手を不快にさせたり、もっと言えば精神的に傷付けるだけのものであったりした場合、その言説はカウンターとしての批判を甘んじて受け入れるべきだろう。何の事かと言えば、杉田水脈氏の論考に端を発した『新潮45』の問題である。

 杉田水脈氏の『「LGBT」支援の度が過ぎる』と題された論考が世に出ると、たちまち批判に晒される事になった。

 “例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです”

 この「子どもを作る事」と「生産性」を結び付けた事、そして生産性のない人間に税金を使うべきではないという姿勢があたかも弱者切り捨てや優生思想を思わせるという事が批判の要因ではあるのだが、これら批判に対してのカウンターが新潮45・2018年10月号の特集記事である『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』である。この特集に寄せられた論考の中で、主に小川榮太郎氏の『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』と題されたものが余りにも差別的かつ偏見にまみれているというので再炎上した訳だが、一読してさもありなんという感じがした。言葉の選び方が雑であり、読む者に不快感を抱かせる悪文の典型だったからだ。

 杉田論文に対する批判をかわす為の主張として「『生産性』という言葉だけをクローズアップして叩くのは『言葉狩り』である」というものがあるのだが、この「言葉狩り」という言い方が自分は嫌いだ。揚げ足取りをするな、全体を見ろ、という事なのだろうが、失言を批判された際に「言葉狩り」と言って居直る事が許されたら、世の中は他人を傷付ける言葉で溢れかえってしまう。言葉狩りを主張する前に自分が発した言葉が相手にどう受け止められたのかを自省するべきであろう。

 そして、「言葉尻をとらえて批判するな」という事なので、文脈を整理してこの問題について書いておこうと思う。その軸は「リベラル系メディアと保守派の深刻な対立」である。ここでのリベラル系メディアというのは保守派から見た場合という事にしておこう。


 <杉田水脈氏と朝日新聞の因縁>

 そもそも『「LGBT」支援の度が過ぎる』は『日本を不幸にする「朝日新聞」』という特集に寄せられたものだ。この通り、最初はメディア批判がメインの論考だったのであり、LGBT問題はメディア叩き=朝日新聞叩きの材料に過ぎなかった。なぜ杉田氏が朝日新聞を目の敵にしなければならないかというと、それは『従軍慰安婦問題』に端を発する。

 日韓の間で問題化している従軍慰安婦問題だが、そのきっかけとなった吉田清治氏の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』や、氏の発言内容を繰り返し報じたのが主に朝日新聞であった。ただ、結論から言うとこの「吉田証言」は正確性を欠いた内容であり、創作も含まれるなど、事実の裏付けが取れない虚偽の内容であった。しかし朝日新聞は記事の訂正や取消、謝罪を行わず、結果として朝日新聞による慰安婦報道の取消が行われたのは2014年であった。

 『記事を訂正、おわびしご説明します 朝日新聞社 慰安婦報道、第三者委報告書』

 ただその頃には時既に遅く、従軍慰安婦問題は国際問題化されてしまっており、昨今報じられる各国に飛び火する少女像の設置問題等でも分かる様に、日本の国際的な信用、評価は毀損されてしまっていた。ここに、保守派とリベラル系メディアの根深い対立がある。

 従軍慰安婦報道だけではなく、政治家の靖國神社参拝問題等でもリベラル系メディアは批判的な報道姿勢によって外交問題化させてきたではないか、というのが保守派の主張であり、「火の無い所に煙は立たない」と言うが、言ってみれば「火の無い所に煙を立たせようと放火して回っている」のが朝日新聞に代表されるリベラル系メディアではないのかという批判が繰り返されてきた。その朝日新聞批判の急先鋒であったのが杉田氏である。

 杉田氏から言わせれば、LGBTの権利を守らなければならないというメディアのキャンペーンは、裏を返せば「日本はまだLGBTに代表される少数派の人権を守ろうという意識が低い国ですよ」と諸外国に喧伝されているに等しく、「リベラル系メディアがまたありもしない人権問題に火をつけて日本の国際的信用を失墜させようとしている。阻止しなければ」という事になる。だから以下の様な発言が出る。

 “しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。”

 これは、明確に「火消し」の意図を持った発言である。従軍慰安婦問題の様に大きな炎になる前に、自分が火消しをしなければならないという使命感が言わせている訳だが、問題は、「では本当に日本に人権問題は無いのか。差別は無いのか」という事だ。


 <「ありもしない差別」扱いされた当事者達の反論>

 杉田氏は「従軍慰安婦の強制連行など存在しなかった」「日本人が慰安婦を性奴隷として扱ったなどという事実はない」という論調そのままに「LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか」と言い放った訳だが、ここで問題なのは、実際に虚偽証言が発端であった従軍慰安婦問題と、事実そこに存在している様々な人権問題とを同列に扱った事である。

 日々差別意識を向けられていると感じているLGBTの人々はもちろん、自分同様、子どもを持たない生き方をしている人や、例えば相模原障害者施設殺傷事件の犠牲になった、社会福祉に頼って生活している重度の障がい者等にとって、「生産性」という言葉が無造作に投げ込まれ、「生産性の有無を尺度に公費を使うべきか判断するという姿勢を他ならぬ与党議員が見せた事」は、恐らく杉田氏本人が全く想定していなかった大きな批判を引き出す事になった。

 今そこにある問題や差別の渦中にいる人々にとって「そんな問題などない」と言われる事の絶望感は筆舌に尽くし難いが、杉田氏が迂闊だったのはよく調べもせずに「リベラル系メディアが言っている事なんて虚偽に決まっている。リベラル系メディアは日本の国際的評価を落とす為に活動している売国奴の集まりだ」とでも言う様な、言ってみればアメリカのトランプ大統領が自身に批判的なメディアを片っ端からフェイクだと決め付けているのと同じレベルの批判に基いてこの論考を書いた事だ。

 杉田氏が、従軍慰安婦問題で朝日新聞との間に出来た遺恨にとらわれる事なく、ひとつひとつの報道内容に対して精査する事ができていれば、今回の批判は起こらなかっただろう。そしてこの「リベラル系メディアと保守派の深刻な対立」の先に、杉田氏より更に酷い小川榮太郎氏の論考が登場する事になる。なぜなら彼はその著書『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』の内容が名誉毀損にあたるとして、朝日新聞社から損害賠償訴訟を起こされているからだ。

 『小川榮太郎氏ならびに飛鳥新社に対する訴訟提起について』

 そして杉田水脈氏と小川榮太郎氏といえば、『民主主義の敵』というそのものズバリの対談本をこの7月に刊行している様なのだが、ここまで来ると新手の炎上商法かと疑いたくもなってくる。第1章からして「左翼メディアに異議あり!」とか狙い過ぎだろう。「問題があるからメディア批判する」のなら良い。ただそれが「メディア批判の為によく調べもしていない問題に口を挟んでくる」様になったら問題の当事者にとってそれは迷惑だ。日頃野党について「批判の為の批判に終始している」と主張している保守派の論客なら、それがどれだけ害悪か分かっている筈だ。

 どんな立場で、どんな論考を発表するのもいい。その自由は誰にでも保証されるべきものだ。ただ、「声が大きい」人間が大声で何かを主張する時に、かき消されてしまう小さな声がある事をわきまえて喋って欲しい。その発言内容で傷付く人間がいるかもしれない事を、どうか頭の片隅にでもいいから入れておいて欲しい。自分の正しい主張を誰かに聞いて欲しいと思うのなら、相手を不快にさせる口汚い罵り方をそのまま紙面に書き起こした様な雑な論考を発表するのではなくて、推敲を重ねるという事を覚えて欲しい。『愛国無罪』を常日頃批判しているのだから、それは自分達にも当てはまるのだという想像力を働かせてもらいたい。これらはそんなに難しい要求なのか、というのが偽らざる自分の感想ではある。

追記:新潮45問題(2)・本当に議論されるべき「生産性」とは何か

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ライトノベルの表紙イラスト規制・ゾーニングを求める人へ

 事情があって読書から離れている間に、Twitter上で「ライトノベルにおける表紙のポルノ化」が話題になっていて、賛否両論が巻き起こってしまっていた。大本のツイートをそのまま引用すると下記の通り。




 これ、写真を見ると『境界線上のホライゾンXI<中>』の事を指して言っているのかなと思うのだけれど、イラストレーターであるさとやす氏の画風に慣れていると特異性を感じない事が、見慣れない人からすれば「自分の属する性別の体が性的に異様に誇張されて描かれ、ひたすら性的消費の道具として扱われる気持ち悪さ」「それを子供の眼前に公然と並べる抑圧はほとんど暴力」という事になり、ひいてはそれを問題視していないライトノベル読者並びに出版業界は感覚的に麻痺してしまっているのであって異常である的な論調に繋がってしまっているのかなと察する。

 最初の問題提起が「(主に)男性による女性の性的消費」という最大限に膨らませたテーマで行われた為に、ライトノベルの読者以外にも幅広い方々が論戦に加わってしまい収拾不可能のまま投げっぱなされている印象だ。これでは「(ライトノベル読者を含む)サブカル層と出版業界は女性の性的消費に無批判であるばかりかむしろ積極的にそれで商売をしている」といった様な偏見が広まってしまいそうで危うい印象を受ける。

 自分は一介の本読み(男性)として思うのだけれど、「まずあらゆる商品はマーケティングの上に成り立っている」という一般論があって、それは本件でも同じだろうと思うのだ。ライトノベルの表紙に女性キャラクターが目立つ理由は、いきなり「(主に)男性による女性の性的消費」という大テーマを持ち出さなくとも説明が付く。本件はまず「商品の売り出し方」「顧客を惹き付けやすい表紙デザインの変遷」というマーケティング論的な小さいテーマで考証すべきであって、多数を巻き込むジェンダー論的な「ポルノを消費する男性の無神経とそれを咎めない男性中心社会がけしからん」とか「それを見たくない子どもの眼前にわざわざポルノを陳列する大人達の狂気」といった様な炎上しやすいテーマから切り込んでも騒ぎが大きくなるだけで実りがない様に思われるのだ。

 そもそも、ライトノベルの表紙デザインの変遷について自分は確固たるデータを揃えている訳ではないので適当な事を言う訳にも行かないのだけれど、ライトノベルが「キャラクター小説」とも言われる様に、登場人物を魅力的に描き出す事で人気を博しているジャンルである事、そして表紙絵や挿絵が入る事によって一般文芸等よりも作品の人気にイラストが寄与する部分が大きい事は「ライトノベルの表紙にキャラクターが(男女問わず)大きく描かれる事が多い理由」のひとつである。作品の中で重要な位置を占めるキャラクターが表紙を飾る事に違和感はないだろう。

 次に考えるべきは「ライトノベルの表紙における男女比」ではないかと思うのだが、あくまで顧客として書店の陳列棚等を見た場合の印象という事で良ければ、確かに女性キャラクターが多い印象を受けるし、今回の問題提起をした元ツイートの写真を見てもその様に見える。単純に表紙絵の男女比だけを見た場合、出版業界が「男性キャラクターを表紙にするよりも、女性キャラクターを表紙にした方が売上が良い」というデータを持っているのかどうか定かではないが、結果としてはそうなっているという事だ。ただ、表紙絵の男女比に偏りが見られるという事は何も「女性キャラクターの表紙の方が売れるから」というざっくりしたマーケティングのみによるものではないと考える。ライトノベルは小説であってイラストや写真のみで構成されたポルノ雑誌ではないからだ。

 ライトノベルはキャラクター小説でもある。作中で魅力的なキャラクターが活躍し、表紙にもそのキャラクターが描かれる事は常であるのだから、表紙を女性キャラクターが占める割合が多いという事は、小説の中でもそれだけ女性キャラクターが重要な役割を占め、活躍しているのだという様に取る事も可能だ。これは個々の作品に対する内容の検証が必要な部分であり、表紙絵単独であれこれと論考できる部分ではない。
 余談ではあるが、作品の内容という事で言えば『境界線上のホライゾン』は「ブックエンドが無くても本の厚みで自立する」程分厚く文章量の多い文庫であり、レーベル内での人気も高くアニメ化も行われ、幅広いファンを獲得している作品である。当然その中には女性ファンもいる。作品の内容までがポルノ的であり女性の性的消費を助長する描写に終始しているというものではないだろう。

 ここまでを前段とした上で、ようやく『ライトノベル表紙のポルノ化は事実か。事実であればそれは是か非か。規制はどうすべきか』という本題に入る事ができる訳だが、自分は「ライトノベルを出版する出版社が意図的にポルノ的な表紙を作成して男性の性的欲求に訴えようとしている」とは考えていないし、男性読者の多くがライトノベルにポルノ要素を要求しているとも考えていない。ただ、「表紙を女性キャラクターが飾る事が多くなった結果として、他の本との差別化を図る為に女性キャラクターの描かれ方が多様化して行った可能性」はあると思っている。

 同じ様に女性キャラクターが表紙に描かれている本が2冊並んでいたら、(小説の内容以前に)初見で手に取ってもらうにはどんな表紙にするべきか。少なくとも比較対象と同じ様な構成では新味はないし、その他大勢的な埋もれ方をしてしまう。だから魅力的かつ個性的な絵を書くイラストレーターが求められるし、誰に向かって売ろうとしているのかというマーケティングも重要になってくる。この小説を、物語を読んで欲しい読者としてどんな年齢層、人物像の読者を想定しているか。その結果として表紙絵の方向性も変わって来るだろうと思う。

 問題があるとすれば、上記を全て踏まえた上で、それでも「出来上がってきたものが(主に女性から見た際に)ポルノ的であるとみなされる場合」だと思うのだけれど、例えば(外部による)表現規制、自主規制、意見として多く聞かれたゾーニング(成人向け書籍同様売場を分ける)等を個々の作品に対して求めて行くとして、素直にその要求が受け入れられるかというと否ではないかと自分は思う。それは「男性優位社会の弊害」でもなければ「出版業界のモラル欠如」でもなく「発信者がポルノのつもりで作っていない作品に対して、外部からポルノ認定をして規制やゾーニングを求める事の困難さ」なのではないかと思うのだがどうだろうか。

 実際に近年ある女性芸術家が自らの女性器を型取りして作った作品を公開したり、女性器の3Dデータを配布したりした際に「それらはわいせつ物か、芸術作品か」という事が散々議論され、大揉めに揉めた挙げ句決着しなかった事があった。作者本人も逮捕されているが、裁判では無罪を主張している。作り手にポルノの意図がないものを、(極論すればそれが性器そのものの形をしたものであっても)外部からの指摘でポルノやわいせつ物として認めさせ、何らかの規制を受け入れさせるというのは並大抵の事ではないという事だ。実際に作者が逮捕され、裁判沙汰になっても自らの主張を曲げなかった前例がある訳だから、外部からの圧力によって表現規制やゾーニングを求めて行く方向性は難しいのではないかと思う。

 次に自主規制に関して言えば、自主規制のラインは時代の変遷と共に変化するものでもあり、今回の事例で言えば「女性が見た際に不快に感じる可能性がある性的表現のレベルを決めて、ボーダーラインを超えた絵については成人指定した上でゾーニングするか絵そのものを修正させる」という方法が取れるのかどうかという問題もある。「はっきりした成人指定までは行かないけれども書店側が配慮して子どもが立ち寄る可能性がある漫画売り場等から該当のライトノベルを遠ざける」等の方法もあるのかもしれないけれど、ライトノベルというジャンルは今や盛んにコミカライズが行われている事もあり、漫画との親和性が高い。多くの書店では売り場も漫画売り場のそばが定位置であり、そこから該当作品だけを隔離するのか、ライトノベルのレーベルごと移動させよという話になるのかは議論が必要だが、いずれにせよ実現するだろうか。

 個人的にまだ実現の可能性がある方法として、「通常の表紙絵が描かれたカバーの上に、カバーと同じ大きさの帯を付けて売る」というのも考えてみたのだが、『文庫X』の様に(あれは全く違う理由で付けられた帯ではあるけれど)書店側の売り方の工夫として個々に対応するには限界があるし、表紙絵を完全に隠してしまう様な売り方は作品にとってもマイナスだと思う。理想を言えば出版社側が公式にカバーとして別の表紙絵が描かれた帯を付けた状態で出荷する事だけれど、帯用のイラストと本来の表紙用のイラストが必要になるのでコストはかかりそうだ。読者としては一冊の文庫で違った表紙絵が楽しめる事になるので上手くやれば販促になるかもしれないが、この辺りの自主規制案を安易に受け入れてしまうと「ほらやっぱりポルノの自覚があったんだよね」という話にもなりかねないから、今すぐ行えるという訳でもないだろう。男性向けグラビア誌で見かける(今もあるのかな?)袋とじの様な扱いになって「帯の下だからもっときわどい絵でもいいよね」となっては本末転倒という事もある。

 外部規制にせよ自主規制にせよ、新たな規制を設けるという事は、誰かがその規制値を超えていないかどうか個々の作品について判断しなければならないという事だ。それを自社なら、或いは業界団体なら誰がやるのか。規制値はどの様に、誰が決めるのか。今回の件で言えば胸が大きく描かれているさまが不快という事の様だが、個人の主観ではなく一般的な基準としてどの程度までなら許容されるのか。その基準を誰が認定するのか。そうした問題をひとつひとつクリアして行くのは言う程簡単ではない。

 以上を踏まえて、今消費者である自分達にできる事があるとすれば、「各々が自分が嫌う表現から逃げる術を身に着けておく」という事でしかないのではないかと思う。その上で何らかの規制を設ける事を求めるならば、まずは「ゾーニングが難しい販売形態で成人向け書籍を販売し続けるコンビニエンスストアの是非」(これは昔コンビニ勤務だった実体験から長々と語れる)といった個別具体的な問題から詰めて行くのが得策ではないかと思う。

 今回の様な小説の表紙にしろ、その他の表現にしろ、自分が受け入れられない表現というものは実は世の中に溢れていて、まずは自衛手段としてそれを避ける術を身に着けておかないといちいち傷付かなければならず大変な事になる。そもそも作り手がそうしたものを世に出さなければいいのだ、というのは正論の様に聞こえるが、結局は暴論になりがちだ。親として自分の子どもに見せたくない表現というものが目の前にあるとしても、その現状を変えて行こうと問題提起するならば、表現規制や性の消費という大きなテーマから語るのではなく、各論から入って個別具体的な解決策を模索する方が建設的なのではないかと自分は思うのだが、どうだろうか。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

日大付属高校の卒業生として『日大アメフト部 悪質タックル強要問題』

 こういう事を書くのはこのブログの趣旨ではないし、書こうか書くまいか散々悩んだのだけれど、監督やコーチに反則行為を強要された(に等しいと自分は思っているのでこう書く)選手の事を思うと、何だか悶々として夜も眠れなくなってしまい、吐き出すに近い形になってしまっても自分の考えを書き残しておくべきだろうと思った。

 自分は数ある日大付属高校のひとつをかれこれ20年以上前に卒業した人間だ。そして教員免許を取得する為に短い期間ではあるけれど教育実習生として母校に戻り、教壇に立った人間でもある。

 自分は結局日大に進学出来なかったし、(当時勉強が大嫌いだったせいで単純に成績が足りなかった)教員免許は取ったものの教員採用試験は受けなかったという、世間から見れば何だか半端な経歴の持ち主なのだけれど、それでも付属高校を母校として育った人間ではある訳で、本当は母校が連なる日本大学を悪く言いたくはない。言いたくはないが、正直ここまで腐った体質を連日報道されると何をやっているんだと思うし、将来のある若者に責任を押し付けて自己保身に走っている様に見える大学側の姿勢を見るにつけ、もう今日明日にでも関係者は教育者を名乗るのをやめて職を辞してもらいたいとすら思う。

 さて、日大付属校の全てがそうなのかは知らないが、自分が卒業した付属高校には高校の校歌はなく、(一応学校独自の歌として『学生歌』というものはある)高校でも日本大学校歌を歌う。その歌詞は次の通りだ。

 日に日に新たに 文化の華の
 さかゆく世界の 曠野の上に

 朝日と輝く 国の名負いて
 巍然と立ちたる 大学日本

 正義と自由の 旗標のもとに
 集まる学徒の 使命は重し

 いざ 讃えん 大学日本
 いざ 歌わん われらが理想

 これを歌っている高校生でも分かる事だが、日本大学は『日本』という国の名を背負っている訳で、その名に恥じぬ様に常に毅然としていなければならない。今回、誰よりもその事を認識していなければならない大学本体が自らその名に泥を塗った訳だが、なぜこの様な事が起きてしまうのか。自分は付属校を含めた巨大組織日本大学が外部からの視点に乏しく、組織内部ばかりを気にしなければならない体質である事にそもそもの問題があるのではないかと思う。

 これは巨大組織がしばしば抱える問題で、一般的な価値観や倫理観よりも、組織内部の要求をいかに達成して行くか、また組織内部でいかに自分の立ち位置を守って行くかという事に組織構成員の意識がすり替わって行ってしまう事により発生する。

 今は変わっているかもしれないが、ひとつ昔話をしよう。

 自分が付属高校に入学した時に、当時の校長がしきりに言っていたのは「5カ年計画で日大統一テストの平均点を何点上げる(具体的な点数は忘れた)」という事だった。

 今は統一テストの制度も変更され、名前も変わったらしいが、当時日大の付属高校には統一テストと呼ばれる大学への推薦枠を得る為の試験があった。高校3年間の学習成績(評定)と3年生時に各付属高校で実施される統一テストの成績で日大の各学部に推薦される制度で、一般受験とは完全に別枠で日大進学の可否が決まる。

 統一テストの学内平均点が重要視されたのは、その成績如何で大学側から貰える推薦枠が決定する為らしく、日大に何人進学させられたかがひとつの評価基準とされる付属校側にとって統一テストの成績はある種の死活問題だった。当然校長も事ある毎に統一テストの名前を出して勉学に励む様にと生徒に念押ししていた。

 だた、当時の自分が半笑いでそれを聞いていたのは、自分の入学年度が5カ年計画とやらの2年目で、自分達が卒業する時までに結果が出るものではなかったからだ。それに当然、付属校に入学したからといって、全ての学生が日大進学を希望するものではない。同級生にも法政大学に進学した者もいれば東大や芸大、音大に進学した者もいた。

 少なくともこの学校の上層部は、統一テストの結果を重視するあまり生徒個人を見ていない。当時の自分はそう思った。

 統一テストの成績を上げて、日大進学者数というある種の実績を作る事に躍起になっている学校側と、彼等から常に尻を叩き続けられる生徒との微妙な価値観の齟齬は当時から感じていた。校長を始めとする教員は付属校を含めた日大という巨大組織の内側でどう立ち回るかを常に意識している。そして生徒はとにかく日大に進学できる学力を付ける事を第一に教育される。統一テストで重要視されるかどうかが授業内容の時間配分を決定していたから、テストで取り上げられる割合が低い内容はあからさまに省略されるなどしていた。自立した高校というよりも日大進学を目標にした巨大な学習塾の様だった。

 他にも各付属校の成り立ちによる正付属、特別付属、準付属といった系統分けの様なものも妙な格付けとして機能していて、正直自分には大人達が何を本気になって競っているのか最後までピンとこなかった。

 当時から常々思っていたのだけれど、日大『付属』高校である以上、常に本体である日大を意識しなければならないのはやむを得ないのだとしても、「高校独自にやがて社会に巣立つ生徒をしっかりと育てて行くのだ」という姿勢が感じられなかったのはなぜなのだろうか。二言目には統一テストだった校長然り、授業内容然りだ。進学校と言われているとはいえ、高校から社会人として世に出て行った仲間もいた。他大に進学した仲間もいた。彼等にとってはあくまでも日大という組織内部での学力をはかるものでしかない統一テストの成績を稼ぐ方法などよりも、もっと学ぶべき大事な事があった筈だ。人生の中でその一時期にしか得られない学びの機会があった筈だった。でもそれらはどこか二の次にされていた様に思う。

 そうした中で、文字通り大学の出先機関であり付属物であるかの様な母校の振る舞いだけは、自分は最後まで好きになれなかったし馴染めなかった。もちろんそうではない先生方もいて、自分はそうした先生方の授業にしか興味がなかったのでみるみる成績に偏りが出て一部教科で赤点を連発するという、学費を出している親からすれば噴飯ものの問題児になってしまった。そのくせ大学に行ったら学問が面白くて仕方なくなり、しれっとした顔で教員免許を取りに実習生として母校に舞い戻って来るのだからなお質が悪いのだが、これはまあ余談である。

 大きく回り道をして、話は今回の不祥事に戻る。

 前段の話を踏まえて頂ければ、日本大学という巨大組織が持つある種の『異質さ』や『内向きな姿勢』が今回の問題にも大きく影響しているであろう事がご理解頂けるのではなかろうか。

 20を超える付属校を束ねる日本大学は、ある意味で『閉じた帝国』の様なものだ。今回問題を起こした内田前監督はその帝国の人事担当常務理事であり、日大のナンバー2と報じられる『権力者』だ。権力者が白といえば黒いものでも白くなるのは何も日大に限らず世間一般の悪しき慣習だが、日大の様に「世間から閉じた組織内部の価値観に基づいて、組織のトップから末端までが動く」様な場所では、トップに近い人間の行使する権力に際限がなくなる。「法を犯していようが道義に反していようが、俺がやれと言ったらやるんだよ」とでもいう様な無理な要求を拒める人間が誰もいない状況で発せられる『指示』は、その指示に従った人間の個人的な責任を問う事が酷に思える程強烈だ。

 正当な理由もなく日本代表への参加を止めさせられる。練習や試合に出られない状態に置かれ、試合出場と引き換えに反則を強要される。挙句の果てに責任を問われる段階になれば全ての責任を押し付けられて切り捨てられる。ある意味で保護者から大切な家族をお預かりして教育を行う大学の、大人のやる事がこれだという事が、最早末期だ。日大という組織が付属校も含めて世間ずれしているとか、組織内部の基準に則ってしか行動できていないとか、或いは今この時も望まない組織防衛をするしかない立場に追いやられている教職員や広報担当者が哀れだとか、そういう次元を通り越している。前途ある学生を傷害事件の加害者にしてまで勝たなければならないスポーツの試合などというものがこの世に存在するとは思えないし、仮に相手選手を故意に負傷させ、選手生命を脅かし、以降の試合に出場できない状態に追い込む事で甲子園ボウル2連覇を達成したとして、内田氏はそれに意味があると本気で考えていたのか。もし考えていたのだとすれば、「貴方は日大の中では帝王なのかもしれないが、いい大人が無邪気に、無自覚にその権力を振り翳すな」と言いたい。

 昨今、セクハラやパワハラといった、地位と権力を笠に着たハラスメントが枚挙に暇がないが、共通しているのは権力を持っている側が、自分が権力を濫用しているという事実に無自覚だという事だ。「自分は明確な指示など出していない(実行者が勝手にやった事)」「嫌なら拒めば良かったのだ」という様な事を平気で言う人間ほど質が悪く、自覚が無い。そうした自覚なき権力の濫用について、一般市民が辟易している所にトドメとばかりに今回の事件が来た訳だが、この期に及んで日大が内田氏を庇う(又は不本意ながら庇わざるを得ない)状態が続くなら、付属校の卒業生として、母校の親である巨大組織日本大学の振る舞いや価値観がいかに間違ったものであるか折に触れて語って行くつもりだし、書き残して行くつもりだ。

 国の名を背負って毅然と立つ事が日大のあるべき姿だと言うのであれば、一刻も早くその姿を取り戻して欲しいし、それが出来ないと言うならば、そんなただ肥大化しただけの組織は倒されるべきだ。自分はそう思うが、諸先輩方は如何だろうか。

 5/23 記者会見後追記

 どうやら自分の知る日大はもう死んでいた様です。
 
 この先、生き返る事もないでしょう。怒りを通り越して悲しみすら無くなって、最後に虚無が残りました。

 これが大人の姿なんですね。ご立派過ぎて涙が出ますが。

 恩師のこんな姿を見た後に、選手は人生の目標をどう見定めたら良いのでしょうか。

 心ある方、何卒彼だけは助けて下さい。

テーマ : 教育問題
ジャンル : ニュース

貧困と嘘とどうしようもない悲しさ

 ちょっと思う所があって、久方ぶりに雑記してみる。

 今日、たまたま夜道を歩いていて――まあ平たく言うと『Ingress』をしていたのだけれど、見ず知らずの男性から急に声をかけられた。相手は自分より10歳以上は年上だろうか。40代後半か、50代半ばという印象だった。小柄で、痩せていた。その人は俯き加減で、本当に申し訳なさそうに、こう切り出した。

 「電車賃が無くて家に帰れなくなってしまいました。電車賃を恵んで頂けないでしょうか?」

 ぼそぼそと喋っていたのでよく聞き取れなかったのだけれど、概ねこんな内容だった。自分は咄嗟に「いくらあったら足りますか?」と聞き返していた。何かを考えて発した言葉ではなかった。男性は絞り出す様に「200円あれば足ります。10円玉は持っているので」と答えた。その人の告げた目的地は最寄り駅から2駅の場所にあり、確かにあと200円あれば片道の切符を買える計算だった。

 自分は財布から小銭を出して男性に渡した。その人は自分に礼を言い、何度か頭を下げてから、駅に向かって歩いて行った。
 男性の姿が見えなくなってから、自分はふと思った。もしかしたら、電車賃が無いというのは嘘だったのかもしれないなと。肝心な事に気付くのはいつも手遅れになってから。それが自分の悪い癖だ。

 自分が歩いていたのは地元の商店街だ。商店街と言っても田舎の、寂れた商店街。夜7時を過ぎれば大抵の店は閉まる。最近は飲み屋やスナックばかりが増え、昔に比べれば遅くまで営業している店も増えたが、先程の男性は酒の匂いを漂わせてはいなかった。飲み代を払ったら電車賃が無くなってしまった、と言うにはいささか不自然だと思う。

 もしかすると男性はホームレスなのかもしれない。もちろん、何か事情があって、本当に電車賃が無かっただけなのかもしれない。でも、家族に車で迎えに来てもらうでもなく、歩いて駅方面に向かう後ろ姿は、これから家路に就く様には見えなかった。

 今日は比較的暖かい一日だったとはいえ、夜は冷える。

 駅に向かう道の途中には、コンビニがある。そこで何か暖かい飲み物や、食べ物を手に入れる為に、男性は自分にお金を無心したのではないか。そんな考えが頭をよぎった。それを確かめる術はないけれど、自分には何となくその推測が正しい様に思えた。そして思った。「いくらあったら足りますか?」なんて、思いがけず酷な事を聞いてしまったかもしれないと。

 恐らくは50代の男性が、10歳以上も年下の、見ず知らずの男に声を掛け、金を無心する。その時どんな気持ちになるか。当然プライドは傷付くだろう。そしていくらあったら足りるのか、と問われて、本当はもっと高い金額を告げたい所を、相手を慮って、或いは拒絶される事を恐れて、二駅分の運賃200円だと答えた。自分は、性格は穏やかだと思うが、外見はそこそこ背が高く、小柄な男性からすれば威圧感があるだろう。そんな相手に声を掛けて金を無心しなければならない辛さ。惨めさ。そして恥ずかしさと身に染みる寒さ。そんな事を思ったら、自分の中にもえも言われぬ寂しさがこみ上げてきた。

 別に自分は断っても良かった。何で自分が他人の電車賃の面倒を見なければならないのか。そんな事をしてやる義理はない。そう考える事も出来た。しかし寒い夜道で背中を丸め、下げたくもない頭を下げて、自分の様な年下の小僧から金を手に入れなければならない男性の悲哀を思ったのかもしれないが、無意識に金を渡していた。もっと言えば、いくらあったら足りるのかなどと聞いた事を後悔した。その人は文無しなのだ。金は貰えるだけ欲しいに決っている。本当は何も聞かずに1000円札なり押し付けて、「これで足りますか?」と言ってやるべきだったのに、自分は身銭を切る事を惜しんで、思慮を欠いた言葉を投げ付け、更に男性を追い込んだのではないか。

 もしも本当に男性が文無しだったとして、200円でどうやって暖を取れるだろう。もし彼が腹を空かせていたとしたら、どれだけその空腹を満たせるだろう。後になってからそんな後悔が浮かんできた。そもそも自分が逆の立場だったらどうだろう。そんな「今更考えてもどうしようもない事」に縛られた様だった。

 最近、『貧困』という言葉を耳にする機会が増えた。かく言う自分も裕福な方ではない。もっと言えば他人を助けている場合ではない。恥も外聞もなく言えば助けて欲しいのはこちらも同じだ。ただ自分は好きな本を憚る事無く買える程度には収入があり、夜道で通りすがりの他人相手に小銭をねだるまでには落ちずに済んでいるというだけだ。

 そこまで考えて、最後に残ったのは悲しさだった。

 年配の男性が、通りすがりに小銭を無心して暮らさねばならない悲しさ。そこから這い上がる道筋が見えない悲しさ。自分もまた落ちて行く可能性がある悲しさ。飲み屋と運転代行の車とタクシーばかりが通りを行き交う、このうらぶれた商店街の悲しさ。地元の地方自治体、そして日本という国の先行き不透明感がもたらす将来不安が拭い去れない事の悲しさ。
 そんなあらゆる悲しさが不意に自分の心に覆い被さって来たかの様だった。

 そして自分は足取りも重く家に帰り、この文章を打っている。この形容し難い悲しさを、忘れない内に書き残しておこうとして。

 何で人はそれぞれが望む様な幸福に至れないのだろう。確かに欲深さ故に満たされない、という事はあるのかもしれない。それでも最低限の暮らしが保証されるのなら、大の男が小銭をせびる為に見ず知らずの若造に頭を下げ、遠慮がちに顔色を窺う様な真似をしなくても良い筈だ。その悲しさは拭い去る事ができる筈だ。

 でも、自分達はそれをしない。或いは出来ないのかもしれない。どちらかは分からない。少なくとも自分には。判断できない。でも現に今日の様な出来事はあって、きっとこの場所以外でも似た様なやり取りが繰り返されているのだろう事は想像が付く。

 この国に横たわる貧困。その一端に触れた時、人は、自分は、どうするべきなのだろう。その答えを、自分はまだ持っていない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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