貧困と嘘とどうしようもない悲しさ

 ちょっと思う所があって、久方ぶりに雑記してみる。

 今日、たまたま夜道を歩いていて――まあ平たく言うと『Ingress』をしていたのだけれど、見ず知らずの男性から急に声をかけられた。相手は自分より10歳以上は年上だろうか。40代後半か、50代半ばという印象だった。小柄で、痩せていた。その人は俯き加減で、本当に申し訳なさそうに、こう切り出した。

 「電車賃が無くて家に帰れなくなってしまいました。電車賃を恵んで頂けないでしょうか?」

 ぼそぼそと喋っていたのでよく聞き取れなかったのだけれど、概ねこんな内容だった。自分は咄嗟に「いくらあったら足りますか?」と聞き返していた。何かを考えて発した言葉ではなかった。男性は絞り出す様に「200円あれば足ります。10円玉は持っているので」と答えた。その人の告げた目的地は最寄り駅から2駅の場所にあり、確かにあと200円あれば片道の切符を買える計算だった。

 自分は財布から小銭を出して男性に渡した。その人は自分に礼を言い、何度か頭を下げてから、駅に向かって歩いて行った。
 男性の姿が見えなくなってから、自分はふと思った。もしかしたら、電車賃が無いというのは嘘だったのかもしれないなと。肝心な事に気付くのはいつも手遅れになってから。それが自分の悪い癖だ。

 自分が歩いていたのは地元の商店街だ。商店街と言っても田舎の、寂れた商店街。夜7時を過ぎれば大抵の店は閉まる。最近は飲み屋やスナックばかりが増え、昔に比べれば遅くまで営業している店も増えたが、先程の男性は酒の匂いを漂わせてはいなかった。飲み代を払ったら電車賃が無くなってしまった、と言うにはいささか不自然だと思う。

 もしかすると男性はホームレスなのかもしれない。もちろん、何か事情があって、本当に電車賃が無かっただけなのかもしれない。でも、家族に車で迎えに来てもらうでもなく、歩いて駅方面に向かう後ろ姿は、これから家路に就く様には見えなかった。

 今日は比較的暖かい一日だったとはいえ、夜は冷える。

 駅に向かう道の途中には、コンビニがある。そこで何か暖かい飲み物や、食べ物を手に入れる為に、男性は自分にお金を無心したのではないか。そんな考えが頭をよぎった。それを確かめる術はないけれど、自分には何となくその推測が正しい様に思えた。そして思った。「いくらあったら足りますか?」なんて、思いがけず酷な事を聞いてしまったかもしれないと。

 恐らくは50代の男性が、10歳以上も年下の、見ず知らずの男に声を掛け、金を無心する。その時どんな気持ちになるか。当然プライドは傷付くだろう。そしていくらあったら足りるのか、と問われて、本当はもっと高い金額を告げたい所を、相手を慮って、或いは拒絶される事を恐れて、二駅分の運賃200円だと答えた。自分は、性格は穏やかだと思うが、外見はそこそこ背が高く、小柄な男性からすれば威圧感があるだろう。そんな相手に声を掛けて金を無心しなければならない辛さ。惨めさ。そして恥ずかしさと身に染みる寒さ。そんな事を思ったら、自分の中にもえも言われぬ寂しさがこみ上げてきた。

 別に自分は断っても良かった。何で自分が他人の電車賃の面倒を見なければならないのか。そんな事をしてやる義理はない。そう考える事も出来た。しかし寒い夜道で背中を丸め、下げたくもない頭を下げて、自分の様な年下の小僧から金を手に入れなければならない男性の悲哀を思ったのかもしれないが、無意識に金を渡していた。もっと言えば、いくらあったら足りるのかなどと聞いた事を後悔した。その人は文無しなのだ。金は貰えるだけ欲しいに決っている。本当は何も聞かずに1000円札なり押し付けて、「これで足りますか?」と言ってやるべきだったのに、自分は身銭を切る事を惜しんで、思慮を欠いた言葉を投げ付け、更に男性を追い込んだのではないか。

 もしも本当に男性が文無しだったとして、200円でどうやって暖を取れるだろう。もし彼が腹を空かせていたとしたら、どれだけその空腹を満たせるだろう。後になってからそんな後悔が浮かんできた。そもそも自分が逆の立場だったらどうだろう。そんな「今更考えてもどうしようもない事」に縛られた様だった。

 最近、『貧困』という言葉を耳にする機会が増えた。かく言う自分も裕福な方ではない。もっと言えば他人を助けている場合ではない。恥も外聞もなく言えば助けて欲しいのはこちらも同じだ。ただ自分は好きな本を憚る事無く買える程度には収入があり、夜道で通りすがりの他人相手に小銭をねだるまでには落ちずに済んでいるというだけだ。

 そこまで考えて、最後に残ったのは悲しさだった。

 年配の男性が、通りすがりに小銭を無心して暮らさねばならない悲しさ。そこから這い上がる道筋が見えない悲しさ。自分もまた落ちて行く可能性がある悲しさ。飲み屋と運転代行の車とタクシーばかりが通りを行き交う、このうらぶれた商店街の悲しさ。地元の地方自治体、そして日本という国の先行き不透明感がもたらす将来不安が拭い去れない事の悲しさ。
 そんなあらゆる悲しさが不意に自分の心に覆い被さって来たかの様だった。

 そして自分は足取りも重く家に帰り、この文章を打っている。この形容し難い悲しさを、忘れない内に書き残しておこうとして。

 何で人はそれぞれが望む様な幸福に至れないのだろう。確かに欲深さ故に満たされない、という事はあるのかもしれない。それでも最低限の暮らしが保証されるのなら、大の男が小銭をせびる為に見ず知らずの若造に頭を下げ、遠慮がちに顔色を窺う様な真似をしなくても良い筈だ。その悲しさは拭い去る事ができる筈だ。

 でも、自分達はそれをしない。或いは出来ないのかもしれない。どちらかは分からない。少なくとも自分には。判断できない。でも現に今日の様な出来事はあって、きっとこの場所以外でも似た様なやり取りが繰り返されているのだろう事は想像が付く。

 この国に横たわる貧困。その一端に触れた時、人は、自分は、どうするべきなのだろう。その答えを、自分はまだ持っていない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

繰り返される、犬達の物語・押井守『GARM WARS 白銀の審問艦』

 

 またしても、犬の話である。

 押井守氏と『ガルム戦記』との因縁をここで再び語る事はしない。本作を語る上で必要な言葉は、先に書いた通り『犬の話』であるという事だけだと思う。

 本作がどんな作品であるかを語る際に、「『攻殻機動隊』『イノセンス』『アヴァロン』『スカイ・クロラ』そして『紅い眼鏡』に始まる『ケルベロス・サーガ』を全て鍋の中に放り込み、そのエッセンスを抽出した作品」と言えなくもないが、それは言い換えれば「いつもの押井守作品である」という事であり、押井守ファンも認めるであろう「面白いと感じる人には面白いが、そう感じない人には何の事やらさっぱり分からない」という、難儀な作品だという事だ。

 映画にせよ小説にせよ、押井作品を高く評価する人には「凡俗には分からないだろうが、自分には押井作品の良さがわかるのだ」的な「違いが分かるアピール」をする方がいる訳だが、至って凡俗な自分から言わせてもらえばそれは単に趣味嗜好が合うか合わないかの話であり、もっと言わせてもらえば、それは「繰り返される『犬の話』に共感できるか否か」という事である。例えば、主人を喪った犬の姿を、自分の姿と重ね合わせる事が出来るか否か。そこが評価の分かれ目だと自分は思っている。

 本作の登場人物達もまた、その全てが主人を喪った犬として描かれている。彼等を生み出した創造主は世界から去り、残されたガルム八部族は部族間戦争によって覇権を争っていた。しかしその雌雄が決する前に『セル』と呼ばれる正体不明の脅威が飛来する様になり、以降ガルム達はセルとの終わりなき戦争に突入する事になる。生殖能力を持たないガルム達は、その記憶と経験をクローン体に引き継がせる事によって世代を重ねて行くが、繰り返される死と復活、死を恐れない兵士達、そして終わらない戦争は『アヴァロン』や『スカイ・クロラ』のそれを彷彿とさせる。ガルム達もまた「自分達は何の為に、何と戦っているのか」という答えの出ない問いを繰り返す。繰り返される記憶転写の中で彼等の歴史は失われ、創造主を喪ったガルム達は自らの存在意義を見失いつつある。

 一神教的な世界観に立って現実を見るならば、創造主を喪って彷徨うガルム達の姿は、そのまま自分達の姿に当てはまる。創造主を喪った人間=主人を喪った犬という見立てで本作を読む時、その犬の姿に自らを重ね合わせる事が出来るならば、毎回押井作品に漂っているある種の寂寥感が腑に落ちるのではないだろうか。

 主人を喪った野良犬が、雨に濡れながらその主人の姿を探し求めている。本作を読む間、繰り返し目に浮かぶのはそんな情景だ。そして自分もまた、彼と同じ雨の下に佇んでいるのかもしれない。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

震災2年後の福島から

 今日で東日本大震災から2年が経過した。

 テレビでは特別番組で被災地の今を報道しているけれど、自分も福島在住の人間として、自分の立ち位置から見える被災地の現状を記録しておこうと思う。人間の記憶という奴は実に当てにならないものだから。

 さて、福島在住とは言っても、自分は内陸部に住んでいるので、実際の震災被害としてはそんなに大きなものは無かった。津波被害を受ける環境でなかった事はやはり大きい。家が半壊したり、墓石が倒れたりといった被害はあったものの、その補修も何とか済んでいる。震災前と変わらず自宅で生活し、普通に仕事をする暮らしができている事は幸福な事なのかもしれない。そんな中、福島県民の不安はやはり長引く原発事故の処理にある。

 原発事故について、福島県以外でどの様な報道がされているのかは知らないけれど、県内のニュース番組では天気予報のコーナーで『県内各地の放射線量』というものが毎日報じられている。モニタリングポストの実測値等を元にしているのだとは思うけれど、自分に限って言えば、あまり熱心に見ているわけではない。それはなぜか。

 そんなものを見てもどうにもならないからだ。

 原発事故が発生した当初は、やはり自分達が住んでいる場所でどの程度の放射線量が測定されているのか気になった時期がある。ここで生活をしていて大丈夫なのか。健康被害は無いのか。あるとすればそれはどの程度のものなのか。とにかく情報が不足していたし、また専門家の見解も錯綜していた。政府の発表、東電の発表、マスコミの報道、専門家のコメント。その中のどれを信じるべきかがわからない。しかしその一方で自分達には生活というものがある。働いて稼がなければ生きて行けない。国が定めた避難区域の外で暮らす福島県民には『自主避難』という道もあったが、それには今の生活基盤を全て失う覚悟が必要だった。今の仕事や住宅を手放し、地域のコミュニティーから離脱して、放射線被曝の危険が無い新たな土地で生活を再建する。国や地方自治体から何らかの補助はあるにせよ、当然その全ては自己責任だ。
 特に高齢者にとって、住み慣れた土地を離れて暮らすということは大きなストレスだろう。実際、自分の両親も福島を離れることは考えなかったし、自分もまたこうして福島で暮らしている。それを『郷土愛』というきれいな言葉で糊塗する事は可能だろう。実際、自分も地元に対する愛着はあるし、何とか復興して欲しいとも思っている。その気持ちに偽りは無い。しかし、自分が今も福島で暮らしている理由の半分が郷土愛なのだとすれば、残りの半分はきっと『生活の為』という身も蓋も無いものなのだろうなと思う。半ば自嘲気味に。だってどうしようもないし、どうにもならないだろう。自分はここで暮らして来たし、これからも暮らして行くのだから。

 こうしている間にも、原発では体を張って作業している方々がいるのだろう。しかし、その方々の尽力がある一方で、行き場を無くした汚染水や放射性廃棄物は増え続けている。処分の方法も、中間貯蔵施設の場所も決まらないまま。福島第一原発の廃炉までは3、40年かかると言うけれど、今30代の自分だって40年後にはもう人生の終盤だ。それまでの間に、溶け落ちた核燃料を全て回収し、原発を廃炉にするなんていう事が本当に出来るのだろうか。何せ今現在、炉内の核燃料を取り出す為の方法はない。人間は近寄れないし、炉内の核燃料自体も溶け落ちて原型を留めていないから、今はそれを回収する為のロボットを開発する、なんていう所から始まっているとも聞く。一体この先何年かかる話なのか。自分が生きている間に、本当に何とかなるのかすら定かではないし、水素爆発で半ば吹き飛んだ原子炉建屋にしても、それを待たずに経年劣化して行くだろう。そうなればまたどこから放射性物質が漏れ出すかわかったものではない。本当に先が見えない話だが、それでも日々は続く。嫌になるけれど。

 人間は忘れる生き物で、原発事故の事もいずれ記憶から消えて行くのだろう。地元に住んでいる人間は別としても。だからここに記録しておきたいのは、この問題はまだ何も解決していないという事だ。その一方、各地で原発の再稼働を求める声は大きくなりつつある。これでいいのか。本当にこれでいいのだろうか。自分のこの問いに対する答えはまだ聞こえて来ない。

テーマ : 東日本大震災
ジャンル : 日記

『特撮博物館』行って来ました

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 遅ればせながら、東京都現代美術館で開催されている企画展『特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技』に行って来た。館長は『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明氏……というよりもこの場合は『DAICONFILM版 帰ってきたウルトラマン』の庵野秀明氏と紹介するべきだろうか。前から行きたかったのだけれどなかなか時間が取れず、「早く行かないともうそろそろ終わってしまう!」という危機感から日帰り強行軍。でも、その価値は十分にあったかと。
 自分は開館とほぼ同時に入場したのだけれど、それでも館内は大盛況といった混み具合で、この企画展の人気の高さがうかがえた。

 さて、「自分と特撮」というテーマで話をするとなると結構長い話になるので割愛するけれど、自分の「映画好き」の範疇には当然特撮映画や特撮TVシリーズも含まれている訳で、記憶に残っている作品も数多い。世代的に『ウルトラマン』や『ゴジラ』辺りはリアルタイムではないから、再放送やレンタルビデオで観ていたのだと思うけれど、それでも小さい頃に観た作品の記憶は結構強烈に刻み込まれている気がする。

 それらの作品に登場したミニチュアやプロップの数々が展示されているのだからこれはもうテンションが上がる上がる。個人的なテンション上がりポイントとしては、特撮美術倉庫を再現した陳列コーナーの棚に無造作に置かれていた『スーパーXII』と、陳列ケースの中で異様な存在感を放っていた『オキシジェン・デストロイヤー』の実物。見た瞬間思わず「うわぁ」とか言っていた。

 しかし、特撮に特化した企画展という事で、一体どれだけ人が来るのだろうかと思っていたのだけれど、結構女性の方も多かったのが意外。会場では音声ガイダンスの貸し出しが行われていて、二人一組で一つの音声ガイダンスを借りると個別に借りるよりも割安になるのだけれど、中には女性二人で音声ガイダンスを聴いている方もいたりして、特撮ファンの幅広さを実感させられた。老若男女問わず、来場者が楽しめるという意味では本当に良かったと思う。館内で上映されていた『巨神兵東京に現わる』もとても良かったし、これも館内で上映されているメイキングを観て、皆感心しきりだった。 

 場内は撮影禁止なのだけれど、一箇所だけ撮影が許可されるコーナーがあり、ここは本当に大盛況。特撮セットの中を歩ける様になっていて、撮影もOKという事で、一眼レフからコンデジ、スマートフォンや携帯、果ては携帯ゲーム機のカメラ機能と、ありとあらゆる撮影機材を使って来場者が写真を撮りまくるという事態に。そりゃ皆撮りたいよねーという事で、自分もちょこっと撮ってきた。

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 これがミニチュアなんだから凄い。

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 台座にさりげなく東宝マーク。

 他にも色々撮ってみたのだけれど、何せ凄い人混みで必ず誰かの顔が映り込んでしまっているのでうかつに貼れないのです。残念。

 という訳で、特撮博物館でした。「もしも特撮に興味があって、まだ行っていない人がいたら今すぐ行くんだ!」という位おすすめ。楽しかったです。

 『特撮博物館公式HP』

テーマ : 特撮
ジャンル : サブカル

震災後一年。『絆』という言葉の限界

 3.11後一年を迎えて、今日はTV各局が特別番組を組んで一日中震災報道を行なっている。新聞記事にしても同様だ。地震・津波被害の生々しい写真や映像。被災地にうず高く積まれた瓦礫の山。被災地からの中継。そして連呼される『絆』という言葉。でも自分はこう思ってしまう。

 『絆』って何ですか。何なんですか。

 福島に住んでいる自分にとって、東日本大震災と福島第一原発の事故とは切り離せない問題だ。放射性廃棄物の中間貯蔵施設を福島県の双葉郡内に置くという国の方針が示されたが、この『中間貯蔵施設』という言葉を信じている人間なんて、多分誰一人としていないのではないかと思う。
 国は言う。中間貯蔵施設はあくまで暫定的な貯蔵施設なのであって、最終処分は県外で行うのだと。でも自分は思う。

 『県外』ってどこだよ。

 放射性廃棄物の受け入れにはリスクがある。もちろん受け入れに見合う『飴』は何らかの形で国から提示されるのだろう。交付金とか、地域振興策とか。でもそれで受け入れに手を挙げる自治体があるとは思えないし、もしあったとしてもそこに県内から出た放射性廃棄物の山を持ち込んでしまっていいのか、という思いがある。
 また、今回の原発事故で出た放射性廃棄物以外にも、原子力発電所を稼働させ続ける限り、廃棄しなければならない使用済み核燃料は出続ける。そして使用済み核燃料もまた最終処分場や最終貯蔵施設は無い。受け入れ先も無ければ、候補地も定まっていない。そんなものをこれまで平然と運用してきたのか、という思いはあるけれど、既にやってしまっている事を今から無かった事にする事もできない。これは今から何とかして行くしかない問題だと言える。

 ただ、その時に思うのは『人間の善意の限界』についてだ『絆の限界』と言い換えてもいい。例えば危険だとわかっている中間貯蔵施設や最終貯蔵施設にしても、どこかには作らなければならない。でもそれが自分の住む場所の近くにあるのは誰だって嫌だ。人の善意や思いやりといった『絆』に頼っていても物事は解決できない。放射性廃棄物や瓦礫の山をどこかが受け入れなければならない事は誰でもわかっている。でもその『誰か』になるのは皆嫌なのだ。間違いなく。今福島に住んでいる自分だって嫌なのだから。
 ならばどうするのか、国はこれまでどうして来たのかと言えば、結局は見返りを積み上げて、首を縦に振る所が現れるのを待つしかない。
 結局金なのかと言われればその通りだったのだろう。原発が立地している自治体が所謂『原発マネー』に依存している構図からしてもそうだ。逆に言えば、十分な雇用と税収があれば受け入れなくて良かったものを、地域振興の名の下に飲み込んできたのがそれぞれの地方だったのだと言える。
 また、自分は思う。

 『絆』って何ですか。何なんですか。

 この一年、擦り切れる程聞いた『絆』という言葉が、今日も嫌という程繰り返されている。そして実際、その言葉はもう擦り切れて意味を成していないのではないかとも思う。
 もちろん、被災地に向けられた善意を拒否する訳ではない。感謝していない訳でもない。様々な人々が自分に出来る範囲で被災地に想いを寄せてくれている。手を差し伸べてくれている。それは本当にありがたい事だ。感謝の言葉では足りない位に。でも、『絆』という言葉や人間の善意だけでは越えて行けない問題の中で生きていると、連呼される『絆』という言葉が薄っぺらく聞こえ始める事も確かだ。でも、それを責める事も出来ない。自分だってそうだから。自己中心的なのは自分だって同じだから。

 世の中は綺麗事で動いてはいない。どれだけ『絆』と叫んでみても、自分達は結局利己的で自己中心的な生き物なのだろう。その事を認めて、飲み込んで、その上で何が出来るか。その先にしかこの問題の出口はない。そう思う。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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