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その肩の重荷を僕らが分け合えたなら・新海誠『小説 天気の子』

 

 以下、本作以外に映画『天気の子』アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』伊藤計劃『虐殺器官』のネタバレを含みます。

 特に映画『天気の子』を未見の方で何の因果かこちらに来てしまった方は今すぐブラウザバックなり何なりして、速攻で映画館に行きましょう。そのまま戻って来なくても大丈夫です。とにかく、映画を、観て下さい。後は個人的にですが、映画を観てから小説を読む事をお勧めします。警告というかお願いはここまでです。

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テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

その想いは証明出来ないのだとしても・斜線堂有紀『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』

 

 この世界には通称『金塊病』と呼ばれる不治の病がある。
 金塊病を発症すると筋繊維が次第に硬化し、骨に侵食されて行く。この侵食する骨は患者の死後、金そのものと言って差し支えない物質に変質する。人間を金塊に変えてしまう病、金塊病。それは難病であると同時に、人の価値を試すという意味で過酷な病だった。

 金塊病を患う女子大生、都村弥子は、金塊病患者専門のサナトリウムで暮らしている。過疎地の地域振興策の一環として誘致されたその施設で、彼女は中学3年生の少年、江都日向――エト――と出会う。そして彼女は、死後三億で売れる『自分』の相続を突如彼に持ち掛ける。条件は、チェッカーで自分と勝負をして勝つ事――。

 金塊病は、人間の価値を試す病でもある。3億円という金額は、その人間が生きている時の価値を凌駕してしまうかもしれない。それに大金があれば大抵の問題には片が付く。過去を精算する事も、未来を買う事も、自分を縛り付けるものから逃げる事も出来る。夢を買い戻す事だって出来るだろう。

 なぜ弥子は自分を相続させる相手としてエトを選んだのか。そして弥子と触れ合う中で彼女に惹かれて行くエトは、自分の好意が金目当てのものではないという事を、どうしたら証明出来るのか。そもそもその証明は、誰に対してのものなのだろう。彼女に対して? 自分を取り巻く世間に対して? それとも自分自身に対してだろうか。

 ふと思い出した事がある。
 小説や漫画やゲーム、あるいは映画といったサブカルチャーの領域で、不治の病に侵されたヒロインが主人公と恋仲になるという物語は数多い。そんな中で、かつて「それは主人公にとって都合の良いヒロインを配置する事で行われる自慰だ」という批判があった。

 不治の病に侵され、未来に選択肢の無い女性が、ふとしたきっかけで知り合った主人公に好意を寄せ、彼はそれに応える。儚げなヒロインはやがて病に倒れてしまうかもしれない。でも残された主人公は、彼女との思い出を胸に、これからの人生を生きて行く。そんなありふれた物語。それを男の自慰だと切って捨てたのは、主人公が物語の中で救済される為にヒロイン達が都合の良い死を背負わされる事への批判だったのだろうと思う。主人公を頼り、思いを寄せてくれる儚い存在としてのヒロインという偶像。それを美化して行われる男性の疑似恋愛が、おぞましいものとして批判された訳だ。

 それに反論する事は難しかった。自分達が様々な作品に触れて涙したり、ヒロインに好意を寄せたりした事は、感動ポルノ的な消費行動だったのか。彼女達に寄せた思いは、儚さという属性に対しての憐憫だったのか。

 そうではないと証明してみせる事は難しかった。本当に。

 自分は確かに、男にとって都合の良い女性像を欲したかもしれない。無条件に自分を必要としてくれるか弱い存在としての女性を。そういうやましさが自分の中に無いとは言えないのではないかと真剣に考える程に、自分の中の打算や自己憐憫や反転した自己愛の様なものが湧き出して来て感情がグシャグシャにされる。それは身に覚えのない罪で訴えられ、潔白を証明しろと迫られた罪人のそれに似ている。自分は潔白だと叫び出したい様な気持ちがあっても、そんな自分が無自覚に罪を犯したのではないかという疑念が拭い去れない。自分で自分を信じられない。そんな様な。

 自分の中の愛や恋、相手に対する好意は潔白だと証明するには、どうすれば良いのだろう。そもそもその証明は、誰に対して必要なのか。

 自分は今、その証明はお互いが求めている様な気がしている。

 誰かを好きになる事。愛する事は、自分の中の核になる様な部分に相手を招き入れたり、触れさせたり、その身を預けたりする事だと思う。だから自分達は、命綱につかまる時の様に、それが自分という存在の重みに耐えられるのかどうか試そうとするのではないだろうか。社会的地位や、財産や、容姿といった属性や表層ではなくて、自分の心というコアなものを相手に認めて欲しいという思いは、それがとても重い願いであるが故に、時として相手を試す様な事をさせるのではないだろうか。そして第三者も、自分がパートナーに求めるのと同じ様に、そんな純粋さを求める。その想いがどこまでも潔白である事を要求する。

 自分はどうすれば良かったのだろう。そしてこれからは、どうすれば良いのか。その答えは容易には導き出せない。でも諦めてはならない様にも思う。恋や愛といった容易に証明できない感情を抱えたまま生きる事を。その答えを分かち合える誰かを探す事を。

 そして本作の結末は、自分が思いもしない様なもので、それもまた好きだ。ぜひ本作を読んで確かめて欲しいと思う。
 自分もまた最後に遺すものが、誰かにとっての重荷や枷ではなくて、その誰かの背中を押すものであって欲しいと願うから。

 

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例えば銀河帝国という虚構から現実社会を考える エーリッヒ・フロム:著 日高六郎:訳『自由からの逃走』

 

 自分は社会心理学や哲学というものに対する興味はあるのだけれど、全く詳しくなくて、本著の著者であるエーリッヒ・フロム氏の事もつい最近になって知った様な有様だ。ただ、そんな人間が読んでいる筈なのに、本著は現代の日本について言及しているのではないかと思う程に理解がし易い内容になっていて、その事に驚く。

 エーリッヒ・フロム氏が生きた1900年から1980年の間には、当然世界大戦があった訳だけれど、その当時フロム氏が見ていた社会と、今自分が生きている社会は相当変化している筈なのに、本著に描かれている様な「社会の中で個人であるという『孤独』に耐えかねた人間が、権威主義的な国家体制に対する帰属意識に縋る事による安定を求め、自らの意思で自由からの逃走を図る」という社会構造は、現在に至るも変わらないどころかより顕著になっている気さえする。

 難しく書こうと思うといくらでも難しく書けてしまいそうではあるけれど、あえて簡単な例を出して陳腐化させる事で分かりやすくしてみる。

 現代では、「個人の価値」というものが、あからさまに数値化される場面が多々ある。誰にでも分かる例えとしてSNS等のフォロワー数や、動画投稿サイトのチャンネル登録者数は分かりやすい指標だ。一部のインフルエンサーと呼ばれる様な人が呟く一言と、自分の様な人間が呟く一言は、仮に一言一句同じ言葉であったとしても社会に対する影響力が桁違いだ。フォロワー数の多さは「社会に対する発言力の大きさ」のみならず「発言の信用性」を担保するかの様に思われている。だから、インフルエンサーの一言は「正しいから支持され、広まる」のではなく「彼が言っているから正しいのだろう」という広まり方をする。

 ドラゴンボールで、スカウターを使うと戦闘力が測れるのと同じ感覚で、自分達はSNSを眺めているのかもしれない。だからフォロワー数が多いアカウントは強いし、みんな沢山の「いいね」が欲しいし、リアルマネーでフォロワーを売買する様な商売が成立する訳だ。

 「誰もが情報の発信源になれる。発言者として世界に意見を発する事ができる」のがネットが普及した現代社会なのだとして、それはある種『平等』であるのだが、実際には「誰もが情報を発信する社会で価値を認められる発信者になる」為には、世界中の個人と競争しなくてはならないという地獄が発生するとも言える。

 その競争の中で、一部の勝者が脚光を浴びる反面、大多数の個人は「自分が社会にとっていかに取るに足らない、無価値な存在であるか」を思い知らされる事になる。自分の言葉に誰も耳を傾けない。自己実現や仲間探しの手段であるSNSが、自己肯定感を斬首する断頭台に近いものになるのはそんな時だ、と言ったら言い過ぎだろうか。

 SNSの問題だけを取り上げたけれど、他にも少し前なら企業面接で次々不採用を言い渡されたり、非正規雇用から雇い止めされたりと、個人の価値観やプライドが粉々にされる様な仕組みが現代日本には溢れている。そんな風に、孤独で無価値だと思わされ、自己肯定感が低い人間は、自分も含めて『個人として社会に対峙する事』が辛くなってくる。個人である事は、他の束縛を受けない自由を手にしているとも言えるが、逆に言えば誰にも守られない状態であるとも言える。そうした中で、『自分より強く大きなもの』(国家でも政府でも特定政党でも好きなものを代入して欲しい)に帰属意識を持つ事で、安定を得ようとする事は、その結果として自分が帰属集団の価値観に縛られ、自由を失う事を意味するのだとしても甘い誘惑として映るのではないだろうか。

 フロム氏が指摘するのもそうした、「自ら望んで自由から逃走する(自由を放棄する)人々」の事だし、それ程に人は弱いという事だ。

 また逆に、社会的地位が高く、裕福で、大きな発言力を持った人間が個人として自由であるかというとそんな事もなくて、そうした人々は逆に自分が失敗して現在の地位を追われる事を極端に恐れている。でもこの社会には「こうすれば大丈夫」「絶対に失敗しないやり方」「人生の正解」などという便利なものは存在しない。だからこうした人々は、自分より弱い立場の人間には前述した様な「正解」を自らの意見として吹き込みつつ支持者を集める一方、自分もまた権威主義的な「より大きな価値観」に従属する事を求める。その上での失敗は、自己責任の度合いを薄めてくれるからだ。

 ここで話は逸れるけれど、権威主義やファシズムといったものに対する人々の姿勢として、最近考えている事があって、それは『銀河帝国』の事だったりする。

 一体何の話だと思われるかもしれないけれど、『スター・ウォーズ』の銀河帝国と、『銀河英雄伝説』の銀河帝国って、同じ銀河帝国という呼び名ではあるけれど、描かれ方には相当な違いがあって、国民性が出ていると思うし、後者の方が恐ろしいと思う。自分はどちらの作品もそんなに詳しくないのでこうして適当な事を書くと叱られそうではあるけれど。

 スター・ウォーズにおける銀河帝国は言ってみれば恐怖政治であって、帝国の威光に逆らう者は惑星ごと木っ端微塵にするレベルの圧政をしている。描かれ方も悪の権化的だ。だってシスの暗黒卿とかフォースの暗黒面とか言うし、「逆らう者は滅ぼす」以外に、具体的な『統治』の姿勢が見えて来ない。皇帝からして血色悪いし悪人面だし。

 これは、アメリカ人の価値観として『自由と平等』というのは国是であると同時に国民の中に広く根付いたものだからなのではないかと思う。最近はその価値観に若干の揺らぎが見えるとはいえ、皇帝のような独裁者が肯定的に描かれる事は少ないだろう。

 対して、銀河英雄伝説における銀河帝国は、特にラインハルトが即位してからは安定した治世を行っている様に見える。前王朝の悪習を一掃し、改革を断行する。そして民主共和制を採りながら、政治の腐敗が進み、統制国家になって行った自由惑星同盟と比較しても、その統治のあり方は優れたものとして描かれる。そこが帝政自体を許されざるものとして描いたスター・ウォーズとは異なる点だ。

 この2つの銀河帝国を比較して、後者の方が「より自分達が依存しやすい帰属先」である気がする。国民はラインハルトという優れた人物を信頼し、皇帝の威光に縋り、自分が個人として自由である事よりも、帝国の構成員として豊かさを享受する事を選ぶだろう。ただ問題なのは、その依存が長期的には国民をより暗愚に、無責任にして行くだろうという事と、皇帝の治世が「皇帝個人の資質」という何ら次代の保証がないものに委ねられている事だ。暗君が即位した時点で帝国の凋落が始まる。だからこそ、時に衆愚政治に陥る危険性を認識しながらであっても、自分達は自らの責任から逃避してはならないし、独裁政治への誘惑を断ち切らなければならないとされる訳だ。

 話を本著に戻すが、本著でフロムが明らかにした『自由からの逃走』という構図は、当時の世界情勢から切り離して現代に適用する事も出来るし、物語の中にある架空の歴史に当てはめる事も出来る。それはこの本に記されている事が特定の時代背景に依拠する論説ではなく、時代が変遷しても変わらない、人間の本質的な欲求を的確に射抜いているからこそなせる業なのだろうと思う。

 民主政治は独裁政治ほど強引な改革や方向転換が出来ない。改革のスピードは遅いし、議会と民意が乖離している様に思える時もある。それでも自分達が一度獲得した自由から逃走し、権威主義の中に後退して行く事を止めなければならないとするなら、今必要なのは本著が明らかにした視座に自分達が立ち返る事なのかもしれない。

 

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大切なことは言葉にならないのだとしても・岸政彦『断片的なものの社会学』

 

 社会学、というものを自分はよく知らない。
 Wikipediaによれば社会学とは『社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である』と書かれている。これも、ただこの一文を読んでみるだけだとわかる様で、わからない。

 本著は更に、社会学者である筆者が、人々の語りを聞き取る中で『分析も解釈もできない』と思える様な断片的なことを集めて書かれたものだとされる。
 分析したり、解釈したり、整理したりといった事は、物事を理解する上で、そして学問として整理されて行く上では必要な事なのだろうと思う。でも、そこからはみ出してしまうもの、こぼれ落ちてしまうものもきっとあるのだろう。

 自分が理解していない学問について書かれているであろう本を手に取って、更にその内容が学問の範疇に収まらない断片なのだと言われると、全く理解不能な事が書いてあるのではないかと思って身構えてしまうが、では何で自分がこの本を読んでみようと思ったかというと、それはたまたまSNS上で本著の紹介文を見て、とても共感できる部分があったからだ。引用すると長くなってしまうので要約するけれど、それはこんな内容だった。


 ある男性と女性が結婚する時、自分達は二人を祝福するだろうけれど、その祝福は「好きな異性と結ばれる事は幸せな事だ」という自分達の中の一方的な価値観から生じるのであって、そうして二人を祝福するという事の裏側には、「好きな異性と結ばれていない人々は、不幸せであるか、少なくとも結婚する二人程には幸せではないのだ」という意味が意図せず生まれてしまう。そうした価値観が社会の中に広く共有されている事は、単身者や、同性愛者にとってはある種の呪いになってしまわないか。


 自分はこの部分を読んで思ったのだけれど、誰かの幸せを祝う事が、その無邪気さが、悪気の無さが、それでも誰かを傷付けてしまう可能性を内包しているというのは、正直辛い。自分がしている事が悪い事なんだという自覚があれば、人はその行為を止めようとする事ができる。でも、自分が全くの善意でしている事が、それでも誰かを傷付ける事があるんだよ、と言われる時、その自分の善意に隠された、誰かを傷付けうる鋭さに気付けるかどうかと言われると、難しい。

 でも、そういうものなのだろうと思う。その事が、社会学という学問に馴染みがない自分にも、無理なく腑に落ちた。

 だから自分はこの本を読もうと思った。そして読み終えた今、社会学に対する理解が深まったかと言われると自信は無いけれど、少なくとも自分の中に存在しなかった、新たな視点というものをいくつか知る事ができたと思う。そして自分も同じ思いを抱いていた、という部分もいくつかあって、それが社会学者の中ではどの様な言葉を与えられているのか知る事ができたとも思う。

 自分の中に存在しない視点や価値観は、誰かの考えに触れてみないと理解する事が難しい。それを知る為の手段としても、本や言葉というものはあるのだろうと思う。

 そして、Twitterの方で少しだけ呟いたけれど、最近、米津玄師氏の『海の幽霊』を聴いた。その歌詞の中に『大切なことは言葉にならない』っていう「言葉」がある。
 そして同じ様にサン=テグジュペリの『星の王子さま』を読んでみると、そこには『大切なことは、目に見えない』と書いてある。 大切なことは、目に見えないし、言葉にならない。 そういうものを見付ける事は難しいし、もし見付けたとしても、自分以外の誰かと分かち合う事ができないかもしれない。だってそれは「目に見えないし、言葉で伝える事もできないなにか」なんだから。まだ名前も、形もないなにかなんだから。

 でも、そんな『大切なこと』を、自分の胸中だけじゃなく、他の誰かと分かち合いたいと願うから、歌詞や小説や、芸術作品というものは生み出されるのだし、作家や芸術家といった人々は、そうする事で、自分の胸の中にしか存在しない『大切なもの』を形にする事で『誰かと共有できるもの』にしたいと願うのだろう。

 もちろん、そうして生み出された作品を見てひとりひとりが感じる事はバラバラなのかもしれないし、すれ違いや誤解が生じるのも常なのだろうけれど、『大切なもの』を捕まえようとする人達をこそ、自分は大切に思いたい。

 だから社会学者である筆者が、その社会学の中での分析や解釈に当てはまらない『断片』を、敢えて集めて本にしたとすれば、もしかするとその中に、まだ言葉によって言い表す事ができない「大切なもの」があるのかもしれないと思える。
もっとも、それを見付けられるかどうかは自分にかかっているのだろうと思うけれど。

 

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他者への非難という石を投げてしまう前に フェルディナント・フォン・シーラッハ:著 酒寄進一:訳『刑罰』



 はじめに、以下の感想は東京創元社様の『ゲラ版先読みキャンペーン』で頂いたゲラ版を読んだ上で書いたものです。今回はゲラ版の先読みという貴重な体験をさせて頂いた事に、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。
 本作の発売日は6月12日です。まもなくですね。

 自分の感想はキャンペーン用に書いた文章とほぼ同じものを転載します。また、本キャンペーンに当選された他の方々の感想は、以下でその一部を読む事ができます。

 


 それでは、ここからはいつも通りの感想です。


 本作は『人と罪との距離』を諭す物語なのだろうと思う。

 誰かが罪を犯す時、周囲の人々は罪人を非難し、彼に刑罰が課される事を望む。犯した罪には相応の報いがあるべきだというのは誰もが思う事だ。ただ、その刑罰の軽重は、純粋に「彼が犯した罪の重さ」によって判断されているのだろうか。自分にはむしろ、「その罪と周囲の人間との距離」によって決められている様に思える。

 例えば交通事故がある。過去に仕事の一環で事故対応をしていた事があるが、事故を起こしたくて起こす人はいない。ただ結果として起きてしまった事故については、謝罪や賠償といった責任が伴う。死亡事故の様に、取り返しが付かない過ちになってしまう事もある。

 自分でも自動車を運転する人なら、過失による事故を強く非難する事には抵抗があるものだ。なぜなら「自分も同じ過ちを犯してしまう危険性があるから」だ。ただこれが「飲酒事故」になると話は変わってくる。飲酒運転は、過失と違ってドライバーの意思で回避出来る事で、多くの人にとっては「自分が犯す筈のない罪」だからだ。それは「安心して非難する事が出来る罪」だとも言える。自分から遠く離れた罪。こちらから石を投げ付けられる程には近いが、反論や擁護といった反撃が自分に届く事はないと分かっている罪。

 飲酒事故の様に、非難されるべき罪が責められる事は自然だから、人々に疑問を抱かせない。ただこの「自分と罪との距離」を判断基準にした量刑や他者への非難が世に蔓延る事を許すと、それは次第に『私刑』や『他者への不寛容』に向かって行く。つまるところ、自分と罪人の間に境界線を引いて、離れた場所から非難をする=石を投げるという行為は、それが正義感や道徳心や義憤によるものであったとしても、差別や無理解といった「より大きく遍在する罪」の芽を内包する事になる。

 自分が立っている側が正義で、相手にこそ非があり、罪があるのだとすれば、罪人に求める刑罰はより重く、容赦ないものになる。正義の側は、自分がしている事、断罪する事の正しさに酔う事すら出来るだろう。でも、自分はふと思うのだ。

 「罪人を石打ちにしている時の自分の顔は、他者に見せられるものだろうか」

 自分は本作に、その「自らの醜い側面」を刺された様に思う。安心して他者に石を投げていた者が、ある筈がないと思っていた反撃に射抜かれたという事だ。しかもそれは外側からではなく、自分の内側から突き出た槍に串刺しにされた様なものだった。それは言い換えれば、『恥を知った』という事であり、自分の中の醜悪さに気付いたという事だと思う。

 本作には様々な罪人が登場する。殺人や窃盗、麻薬取引など罪状は様々だ。ただ彼等が抱える動機は、自分の中にも容易に見付けられる様なものばかりだ。他者への憎しみ、孤独、妬み、偏見。そこかしこに犯罪の芽はある。自分が引いた、罪人と自分との境界線は、そこまではっきりとしたものではないし、乗り越えられない壁でもない。子どもが砂場に棒で書いた様な、頼りない、今にも消えそうな線でしかない。その事を自覚しよう。人と罪との距離は、それほど離れてはいないのだから。そう本作は諭す。

 罪の芽は自分の中にも存在する。それを自覚する事。人間の弱さに目を向け、他者の過ちに寛容であろうとする事。正義という名の不寛容に飲まれる前に、自分が握り締めた他者への非難という石を投げてしまう前に、その置き場を探してみようとする事。本作はきっとその困難さから読者を救い出し、より良い場所へと引き上げてくれると思う。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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