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夢を無くした世界で、拳を固く握り締めながら チャック・パラニューク:著 池田真紀子:訳『ファイト・クラブ』

 

 自分は職場の会議室で、両手にボクシンググローブを着けて立っている。目の前にはパンチングミットを着けた上司が、トレーナーよろしくゆらゆらと両手を動かしながら、自分の動きを待っている。

 「さあ打って来い。ワンツーだ」

 自分はぎくしゃくした動きで左のジャブと右のストレートを繰り出す。それでも殴っているのがパンチングミットだから、それなりに良い打撃音が響く。自分の拳が届く前に、上司が構えるミットが迎えに来ているからかもしれない。

 机も椅子も片付けられた会議室の白い床はリング上に見えない事もない。そこでひたすらワンツーを打ち続ける。上司は余裕綽々でそれを捌く。時々わざとミットをずらしてパンチを避ける。勢い余ってよろける自分を、上司は嗤う。

 自分はこの上司が心底嫌いだった。

 自分が本当に殴りたかったのは上司の腹だった。顔面だった。いつだっていい加減にしろよと思っていた。本当に殴りかかったとしても、上司はきっと難なく躱しただろう。「ボクシング経験者に素人のパンチなんて当たらない」と口癖の様に言っていた。もうひとつの口癖は「ボクシングはいい。相手を全力で殴っても、怪我をさせても罪にならないから」だった。

 自分はこの上司が心底嫌いだった。

 思考も嗜好もマッチョで、声がでかく、粗暴でパワハラ気質で、自分が絶対に正しいと信じて疑わない自信たっぷりのこの男が嫌いだった。社員を大声で叱責する時に、本当は手を出したくてうずうずしているのがまるわかりな所が嫌いだった。元プロボクサーである事を誇りにして、若い頃の武勇伝を語って悦に入るこの男が大嫌いだった。

 そんな人間と、会議室というリングの上で向き合っているのは、自分が社員で、彼が実質的な経営者だったからだ。自分にとって彼の「思い付き」や「誘い」は「業務命令」だった。彼にとっては部下とのスキンシップやコミュニケーションといった単なる遊びだったかもしれないが。

 でも、『ファイト・クラブ』を読み終えた今なら、本当の理由はそんなものじゃなかったんだという事が分かる。

 自分が上司とリング上にいるのは、ここが『敗者のファイト・クラブ』だからだ。
 自分の力で「何者か」になる事に失敗した者達の吹き溜まりだったからだ。


 本来の『ファイト・クラブ』では、男達が互いに戦い、殴り合う中で、自分を縛り付ける日常や価値観、常識といった軛から解放されて行く。たったひとつの世界に、常識に閉じ込められていた自分を、新たな世界に叩き込む事。その開放の先に見えるものを掴みに行く為に、閉塞した今の世界を自分ごと叩き壊す事。その為に必要なのがむき出しの暴力だとしても彼等はもう立ち止まらない。

 なぜそこまでする必要があるのか。それは、自分達を取り巻く現在の社会が、それだけ強固に個人を縛っているからだ。

 現在、個人の価値は様々なもので計られる。そして資本主義社会では、物の価値も人の価値も金銭で表される。どんな仕事をして、いくら稼ぎ、どんな物を買うか。生活は豊かか貧しいか。貯蓄は? 昇給は? 賞与は? 比較、比較、また比較だ。過去の自分との比較、同僚との比較、他人との比較、平均値との比較。勝ち組と負け組。上流と下流。富裕層と貧困層。自分はどこにいて、上には誰がいて、下には誰がいるか。それによって個人の価値が判断される。人に値札が付けられる。

 そんな中で、いつまでも夢を追い掛けていたいなんていう奴は、バカ呼ばわりされる。

 元プロボクサーの上司は、創業者一族の一人だった。いつかは自分も重役にならなければならない事は本人が一番よく分かっている。喧嘩をしたり、バイクを乗り回したり、リングの上で他人を殴ったりする事は彼なりのモラトリアムだった。その中で、ボクシングでプロになれた事は、いずれ与えられる社会的地位とは違って、自分で掴んだ成果だった。勲章だった。だから引退してからも元プロボクサーだった事が自慢だった。

 本人は否定するだろう。仕事でだって自分は成果を上げているし、重役である事を無理強いされている訳じゃない。いずれ自分はこの会社だって自分が望む方向性に作り替えてみせる。自分色に染めてみせるんだ。そう言うだろう。でも自分は思うんだ。貴方が拳を振るっていた過去は、いずれ自分が社会の価値観に縛られる事を受け入れる為に必要だったんだろうと。『一度は気が済むまでやったんだ』という実績を得て、それを糧にして、自分勝手に振舞う事が許されていた時代を埋葬して、不自由な社会で生きて行く覚悟を決める為に必要な事だったんだろうと。

 そしてそれは、自分だって同じ事だ。

 大学を卒業してから、おとなしく地元に帰って就職先を探すのが嫌で、夢を追い掛ける様な事を言ってフリーターを続けていた。学問の世界に未練があったし、大学との繋がりが断たれてしまうのも嫌だった。そして同じバイト先で知り合った奴は、劇団員だったりバンドマンだったり、自分と同じ様に社会に溶け込めない理由を『夢』と言い換えて生きている様な連中ばかりで、皆、社会に押し着せられる役割以外の「何者か」になる為にもがいていた。

 でも、今思えば現実と戦っていた訳じゃない。
 いつか現実に捕まるのが怖かった。

 自分が無価値である事を、自分の選択が間違いだった事を思い知らされるのが恐ろしかった。だから問題の解決を先延ばしにしていたかった。夢に縋って、でもそれを叶えるだけの力は無かったから、途中で折れた。もっと真っ当な仕事をして、金を稼がなければ生きて行けないんだ。そろそろ大人にならなきゃいけないんだ。これは仕方がない事なんだと自分に言い聞かせた。

 結果、自分は地元に帰って死んだ様に働く事になった。自分と似た境遇の上司に拾われて。

 自分はこの上司が心底嫌いだった。

 かつて自分と似た挫折を味わったであろう、ある意味で自分と似た者同士の上司の姿が、鏡に映った自分の姿を無理矢理見せられている様で大嫌いだった。

 自分はタイラー・ダーデンじゃない。

 アナーキストの様に、今ある秩序を暴力で破壊して自分の意志を押し通す様な強さやしたたかさを持ち合わせてはいない。他人からの非難を恐れない様な意志の強さもなければ、自分には失うものなんてない、という様な開き直り方も出来ない。

 だから流れ着いた。『敗者のファイト・クラブ』に。

 ここにあるのは秩序を打ち破り、殻を割って外に出る為の暴力じゃない。
 モラトリアムな時代にだけ許されていたわがままを懐かしんで、そっと指先でなぞる様な懐古主義と、傷の舐め合いや慰め合いの様な弱々しいやり取りがあるだけだ。音だけは勇ましくパンチングミットを鳴らすワンツーは、実際のところ何者にもなれずに社会に取り込まれた人間の溜息だ。それ以外の意味なんてない。何も変えられやしない。

 だから、今振り返ると思うんだ。

 あの時、自分は上司の腹にボディーブローを叩き込むべきだった。
 上司の顔面を全力で殴り付けるべきだった。

 それが出来るか出来ないか。当たるか躱されるかは問題じゃない。
 自分はタイラー・ダーデンじゃないかもしれないが、だからといって会社の奴隷でもなければあんたの玩具でもないと言ってやる機会を逃すべきじゃなかった。もちろんそんな事をしたらキレた上司にボコボコにされただろう。でもあの時反抗できなかったせいで、その後数年をかけて自分は摩耗して行った。毎月の給与を滞りなく受け取る権利を上司様から授けて頂く代わりに、本当に欲しかったものを、本当に大切だったものを見失った。

 そしてそれは、今でも取り戻せていない。そんな気がする。
 これからそれを取り戻せるのかという事も、もう分からない。

 戦うべき時に戦えなかった後悔というのは、そういう事だ。
 夢を叶えて、自ら何者かになる事が出来た人間には嗤われるだろう。でも夢が叶わなかった後の世界で生きて行く事になる人間だっている。自分の様に。

 自分が本当に殴りたいのはあの頃の上司じゃないのかもしれない。不甲斐ない人生を生きている自分自身なのかもしれない。だからきっと夢の中で自分自身に会えたなら、自分はこう言うだろう。

 「おれを力いっぱい殴ってくれ」

 殴り返す為の拳を、固く握り締めながら。
 そして心ゆくまで殴り合おう。『ぼくらはぼくらだ』っていう言葉が、信じられる様になるまで。

 

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未来に続く、祈りの為に・伴名練『なめらかな世界と、その敵』

 

 本作を読み終えた今の気持ちを、どうやって書き残したら良いか分からない。
 だから書きあぐねている気持ちの輪郭をなぞる様な迂遠な文章になってしまうかもしれないけれど、それでも書き残しておこうと思う。

 SFが好きだ。

 なぜ?と問われれば、「好きだという気持ちは確かなのに、理由を聞かれるといつも上手く答えられない類の質問」なのだけれど、本作を読み終えた今、なぜ自分はSFが好きなのだろうと改めて自問自答すると、その答えは「それは祈りだから」という事になるのではないかと思う。

 自分は大学時代に仏教美術を専攻していた。寺の跡取りでもないのに仏教を学ぼうと思ったのは、まあ色々と理由があったのだけれど、宗教について本気で学んでみて得られた知見として、「人間は常に『物語』=『生きる意味』を求めて来た事」「救いを求める気持ち=『祈り』が形を得たものが仏像をはじめとした仏教美術として継承されて来た事」の2点がある。

 例えば疫病や飢餓、或いは戦争で人が無差別に死んで行く時、彼等の死と、生き延びた者の生に理由はない。理不尽に、無作為に、ある者は死に、ある者は生きる。その中で生まれるのは、「自分達の生死には、人生には、そもそも何の意味も無いのではないか」という疑義であり無力感だ。

 仏教に限らずあらゆる宗教は、その「本当は無意味(無価値)かもしれない生」に物語を与える為に生み出されたといっても良いのではないだろうか。死後の世界や復活を描く事、来世や彼岸を描く事で自分達の生きる今と未来に「意味をあらしめる」事。かつて宗教はその様に人々の心を、あくまでも現世で救済しようとした。自分達がこの生命を生きる事には、確かに意味があるのだと。

 そして、そうした生きる意味や価値といった「目に見えない概念」を、視覚的に、感覚的に捕まえて、人々の目の前に現出させようとする行為が、仏教においては仏像であり、寺院建築であり、書画といった仏教美術の役割だった。『悟り』という概念を言葉だけでは捉え切れないから、悟った人(覚者)の像として仏像があったし、曼荼羅は精神世界の縮図だった。また中尊寺金色堂などは浄土の具象化だった。それは言い換えれば、人が救われたいという『祈り』を形にして、目で見て手で触れられる様にあらわす試みだった。

 人は昔から悩み苦しみ、そこから救われたいと願い、祈って来た。その生に、現代人と変わる所があるだろうか。

 自分達は今、自宅にいながらにして世界中の情報にアクセスし、地球の裏側で何が起きているかまでリアルタイムで知る事が出来る。遠く離れた人と会話する事も出来る。SNSを通じて不特定多数の人々と繋がりを持つ事も出来る。それは過去の人間からすればまるで神の御業か魔法の類だ。でも自分達はそこまでの社会を築いた今になってもまだ、過去と同じ様に「生きる意味」や「救い」を求めている。

 ならば現代にも、かつて宗教がその役割を果たした様に『物語』が必要な筈だ。

 それがSFなのではないかと自分は思う。

 現代だからこそ生じている問題を掬い上げて、そこから生まれている苦しみや『生き苦しさ』に目を向け、物語という形に昇華する事。現在から未来へ、或いは過去へと自由に意識を飛ばし、「あり得るかもしれないもうひとつの世界」を描いてみせる事によって、「今自分達が生きているこの世界」と対比させる事。そこから得られる「新しい視座」「新たな視点」が、日常を生きる事に汲々としている自分の様な人間には見出だせない、新しい気付きを与えてくれる。だから自分は感動するのだと思う。

 誤解を恐れずに言えば、その物語で描かれる世界がユートピアか、ディストピアかといった違いは些事であって、作者が今この世界に向ける眼差しがどんなものであり、その先にある未来にどんな景色を見ているか、どんな祈りを抱いているかを自分は読んでいるのかもしれない。

 本作で言えば、収録作には様々な『分断』が描かれている。

 表題作『なめらかな世界と、その敵』では、異なる世界を生きる二人の姿が。
 『シンギュラリティ・ソヴィエト』では、東西冷戦という現実の歴史における思想的な分断と対立から飛躍して、人工知能と人間、更にはそれを超えて行くものとの関係が。
 『ひかりより速く、ゆるやかに』では、異なる時間の流れに分断された人々の人生が。

 そしてまた、『人間の心や関係性』の問題も描かれる。

 『ゼロ年代の臨界点』では好意や敬意と表裏一体の愛憎が。
 『美亜羽へ贈る拳銃』『ホーリーアイアンメイデン』では、他者からの干渉や自らの意思によって人格が書き換えられる中で、何が本当の自分と呼べるものなのかという事が。

 そして、全体を読む事で、作者がこの現実の世界に対してどんな景色を見ているのか、どんな未来像を見ているのか=祈りを抱いているのかを、読者は感じ取る事が出来る。

 世界の『分断』については、『繋がり』を取り戻して行く物語を。
 『人間の心や関係性』の問題では、不器用でも、すれ違いがあろうとも、目の前の他者に手を伸ばそうとする事、分かり合おうとする事を。そしてそれが容易には叶えられない悲哀を。

 そうした未来を希求する事。その祈りをもって現実の潮流に抗おうとする事。言葉では言い表しきれないものを、同じ言葉である小説によって捕まえようとする事。(例えばそれは、複雑な世界観を『なめらかな世界』というたった一言で言い表してしまう様な技巧で実現されている)それらを積み重ねて行った先に、まだ多くの人が辿り着いていない場所に、皆を連れて行く事。そしてそこから見える先の景色に触れさせる事。

 それらを成し遂げる存在だから、自分はSFが好きだし、小説家を敬愛するし、自分も読者としてその後に付いて行きたいと思うのだ。少しでも先の景色をこの目で見る為に。少しでも明るい未来に触れる為に。

 そして現実の側を、望むべき未来に引き寄せる為に。

 それがこの世界に対する、今の自分の祈りだから。

 

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世界の終わりを待ちわびながら・詠坂雄二『人ノ町』

 

 ずっと心のどこかで、『世界が滅びないかな』と期待している。

 自分は人間が嫌いだ。その中には自分も含まれる。この世界には人間が多過ぎる。

 友人に廃墟好きがいて、実際に現地に行く程ではないのだけれど、自分も何となくたまに動画や写真を見たりする。かつては人で溢れていた街や施設が、今は無人になって少しずつ朽ちて行く光景を見るとなぜかほっとする。

 自分はウィル・スミスが主演していた映画『アイ・アム・レジェンド』の前半が好きで、他に誰も生存者がいない(ウイルス感染者は闇の中にうじゃうじゃいるけれど)街で彼が佇んでいるのを見ると、「別に生存者なんて見付からなくても良いのにな」と思う。それでは話が進まないから仕方無いのだけれど。

 伊藤計劃氏の『虐殺器官』で出て来る『「プライベート・ライアン」の冒頭15分』みたいなものだと思う。別にウィル・スミスが演じるネビルが頑張って生存者を発見して、彼等を救うみたいな後半のストーリーを自分は求めていない。ただ滅んだ世界があって、その中に佇んでいる男がいて、もう戻らない崩壊前の世界の痕跡をそっと指先でなぞっている様な映像が見たいだけだ。

 自分には「ポストアポカリプスの世界なのだけれど、なぜか自分は生きていて、その世界を歩き回れる」という都合の良い夢があって、多分それは絶対に叶わないし、自分なんかが世界の破滅を生き延びられる訳がないのだけれど、だから自分は割と本気で不老不死になりたいと思っている。それはなぜかと言うと、「自分達が今この中途半端な世界でもがいている事に、果たして意味はあったのか」という答え合わせがしたいからだ。

 普通に生きているだけでは、それは絶対に出来ない。だって答えを見る前に死んでしまうから。

 もっと言えば、何らかの理由で今の社会が完全に壊れてしまって、文明が後退して全てが御破算になった世界で「かつて人類はあれだけ頑張って宇宙にまで手を伸ばしていたのに、今はもうその技術も絶えてしまって再現できない」位になった辺りで、ようやく自分は人間の事を好きになれるかもしれないと思う。屈折しているけれど。

 本作もまた、そうしたポストアポカリプスの物語なのだという事が次第に明かされるタイプの世界観を持っているのだけれど、その世界を旅する旅人の視点は妙に乾いている。その事にも理由はあって、読者は物語を読み進める内に旅人の正体や、その旅の目的を知る事になる。

 個人的にはこの旅人を羨ましく思う一方で、自分だったら様々な町を巡り、様々な人と会うのではなく、むしろ誰もいない場所を延々と巡り歩きたいと思う。かつて人が生きていた場所。朽ちた建築物が林立する中を、あてもなく歩き続ける様な。そこに置き去りにされた本や写真や、誰かの生活の名残に指を這わせる様な。

 そういう形でなら、自分も人間が好きでいられるかもしれないと思うのだ。

 

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その肩の重荷を僕らが分け合えたなら・新海誠『小説 天気の子』

 

 以下、本作以外に映画『天気の子』アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』伊藤計劃『虐殺器官』のネタバレを含みます。

 特に映画『天気の子』を未見の方で何の因果かこちらに来てしまった方は今すぐブラウザバックなり何なりして、速攻で映画館に行きましょう。そのまま戻って来なくても大丈夫です。とにかく、映画を、観て下さい。後は個人的にですが、映画を観てから小説を読む事をお勧めします。警告というかお願いはここまでです。

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その想いは証明出来ないのだとしても・斜線堂有紀『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』

 

 この世界には通称『金塊病』と呼ばれる不治の病がある。
 金塊病を発症すると筋繊維が次第に硬化し、骨に侵食されて行く。この侵食する骨は患者の死後、金そのものと言って差し支えない物質に変質する。人間を金塊に変えてしまう病、金塊病。それは難病であると同時に、人の価値を試すという意味で過酷な病だった。

 金塊病を患う女子大生、都村弥子は、金塊病患者専門のサナトリウムで暮らしている。過疎地の地域振興策の一環として誘致されたその施設で、彼女は中学3年生の少年、江都日向――エト――と出会う。そして彼女は、死後三億で売れる『自分』の相続を突如彼に持ち掛ける。条件は、チェッカーで自分と勝負をして勝つ事――。

 金塊病は、人間の価値を試す病でもある。3億円という金額は、その人間が生きている時の価値を凌駕してしまうかもしれない。それに大金があれば大抵の問題には片が付く。過去を精算する事も、未来を買う事も、自分を縛り付けるものから逃げる事も出来る。夢を買い戻す事だって出来るだろう。

 なぜ弥子は自分を相続させる相手としてエトを選んだのか。そして弥子と触れ合う中で彼女に惹かれて行くエトは、自分の好意が金目当てのものではないという事を、どうしたら証明出来るのか。そもそもその証明は、誰に対してのものなのだろう。彼女に対して? 自分を取り巻く世間に対して? それとも自分自身に対してだろうか。

 ふと思い出した事がある。
 小説や漫画やゲーム、あるいは映画といったサブカルチャーの領域で、不治の病に侵されたヒロインが主人公と恋仲になるという物語は数多い。そんな中で、かつて「それは主人公にとって都合の良いヒロインを配置する事で行われる自慰だ」という批判があった。

 不治の病に侵され、未来に選択肢の無い女性が、ふとしたきっかけで知り合った主人公に好意を寄せ、彼はそれに応える。儚げなヒロインはやがて病に倒れてしまうかもしれない。でも残された主人公は、彼女との思い出を胸に、これからの人生を生きて行く。そんなありふれた物語。それを男の自慰だと切って捨てたのは、主人公が物語の中で救済される為にヒロイン達が都合の良い死を背負わされる事への批判だったのだろうと思う。主人公を頼り、思いを寄せてくれる儚い存在としてのヒロインという偶像。それを美化して行われる男性の疑似恋愛が、おぞましいものとして批判された訳だ。

 それに反論する事は難しかった。自分達が様々な作品に触れて涙したり、ヒロインに好意を寄せたりした事は、感動ポルノ的な消費行動だったのか。彼女達に寄せた思いは、儚さという属性に対しての憐憫だったのか。

 そうではないと証明してみせる事は難しかった。本当に。

 自分は確かに、男にとって都合の良い女性像を欲したかもしれない。無条件に自分を必要としてくれるか弱い存在としての女性を。そういうやましさが自分の中に無いとは言えないのではないかと真剣に考える程に、自分の中の打算や自己憐憫や反転した自己愛の様なものが湧き出して来て感情がグシャグシャにされる。それは身に覚えのない罪で訴えられ、潔白を証明しろと迫られた罪人のそれに似ている。自分は潔白だと叫び出したい様な気持ちがあっても、そんな自分が無自覚に罪を犯したのではないかという疑念が拭い去れない。自分で自分を信じられない。そんな様な。

 自分の中の愛や恋、相手に対する好意は潔白だと証明するには、どうすれば良いのだろう。そもそもその証明は、誰に対して必要なのか。

 自分は今、その証明はお互いが求めている様な気がしている。

 誰かを好きになる事。愛する事は、自分の中の核になる様な部分に相手を招き入れたり、触れさせたり、その身を預けたりする事だと思う。だから自分達は、命綱につかまる時の様に、それが自分という存在の重みに耐えられるのかどうか試そうとするのではないだろうか。社会的地位や、財産や、容姿といった属性や表層ではなくて、自分の心というコアなものを相手に認めて欲しいという思いは、それがとても重い願いであるが故に、時として相手を試す様な事をさせるのではないだろうか。そして第三者も、自分がパートナーに求めるのと同じ様に、そんな純粋さを求める。その想いがどこまでも潔白である事を要求する。

 自分はどうすれば良かったのだろう。そしてこれからは、どうすれば良いのか。その答えは容易には導き出せない。でも諦めてはならない様にも思う。恋や愛といった容易に証明できない感情を抱えたまま生きる事を。その答えを分かち合える誰かを探す事を。

 そして本作の結末は、自分が思いもしない様なもので、それもまた好きだ。ぜひ本作を読んで確かめて欲しいと思う。
 自分もまた最後に遺すものが、誰かにとっての重荷や枷ではなくて、その誰かの背中を押すものであって欲しいと願うから。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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