身体を喪失した現代人へ 押井守・最上和子『身体のリアル』

 

 『戦争のリアル』『武道のリアル』に続くリアル三部作の最後は押井守氏の実姉である舞踏家の最上和子氏との対談。テーマは人間の身体性。

 人間の身体というものを語る上で難しいのは、それを言語化するという事自体が難しいという事なのではないかと思う。前作の『武道のリアル』でもその傾向はあったのだけれど、武道にしても、舞踏にしても、それを自らやってみた事がある人は分かるけれど、その外側にいる人に、言葉でもって自分の見ている世界を、その感覚を伝えるという事は難しい。ただ、「やってみれば分かるし、やらなければ一生分からないよ」と言うだけでは、自分の体験している世界は自分が死ぬ時に誰にも伝わらないまま消え失せてしまう。その意味で、言語化し難いものを敢えて言葉にして伝えて行く事の意味はある。

 自分は大学時代にゼミで彫刻を習った事があるのだけれど、当然美大でも芸大でもないから、芸術に対する基礎知識や技術を全く持っていなかった。鑑賞するのは好きだけれど、手を動かした事はないという人間に彫刻を教えるにあたって、長年彫刻をやっている先生方が苦労するのも、この『言語化する』という部分だったと思う。

 最終的には模刻(絵画の模写の様に手本となる彫刻をもとに彫刻を作る事)を完成させる事が目的なのなのだけれど、生徒が選ぶモチーフもばらばらだし、相手は素人だ。それが1年以内に国宝や重文になっている様な彫刻作品の模刻を完成させようとする訳だから、ちょっと一筋縄では行かない。

 最初は、手本を見てその通り作るという事がそもそも出来ない。手本を見る時に対象の本質的な部分が見えていない事と、それを再現する時に当然技術的に躓く事が原因なのだけれど、不思議なもので、同じモチーフに1年喰らい付くと、ど素人でも卒業制作として人様にお見せ出来るレベルのものが作れる様になる。先生の教え方がいい、というのもあるけれど。

 最初は見えなかったものが見える様になる。分からなかったものが「何となくこういう事かな」と掴める様になる。そういう個人レベルの進歩も面白かったけれど、それ以上に面白かったのは「先生の話している事が理解できる様になる」という事だった。最初は彫刻についての教えを受けても「何それ宇宙語?」というレベルで分からない。生徒同士でも自分や相手が何に躓き、何が理解できたのか言葉で表現できない。それが数ヶ月同じ部屋でああでもないこうでもないとやっていると、不思議とその中に共通の言葉が生まれて来る。

 「ここのグアッ感がね」とか、やたら擬音が多かった記憶があるのだが、頭が悪い感じで申し訳ないのだけれど、そういう言語化する事が難しい理解や気付きを、何とか言葉にする事が出来る様になる。そして言葉にする事で、自分の中にしか存在しなかったものの見方や気付きが他者と共有できるものとして整理されて行く。

 で、この長い前置きがどう「身体」と繋がるのかというと、このゼミでも「人間の身体性」という事がひとつのテーマになっていたからだ。

 自分達がやった様に仏像でもいいのだけれど、人体を模した彫刻を作ろうとする時、その彫刻が生命感を持つものになるか、ただ形が整っているだけの置物になってしまうかという分かれ道は、そこに身体性があるか、模刻であれば手本となる作品が持っている身体性を自分が読み取って再現できるかという部分に関わってくる。ただここで問題になるのが、「現代人が往々にして自身の身体性を喪失している」という事だ。

 自分達の生活を振り返ってみると、頭の部分、知識の部分ではどんどん機能の拡張が進んでいる。スマホやネット環境が行き渡り、地球の裏側で今何が起こっているか自分達は知る事が出来る様になったし、自分の言葉を世界中に向けて発信する事だって出来る様になった。ただ自分達は自分の身体、肉体をどこかおざなりに扱って、「頭でっかち」の状態になっている様な気もする。日々の暮らしの中で自分の身体を意識する瞬間がどれだけあるだろうと考えると、腹が減ったとか、トイレに行きたいとか、眠りたいとか、時々生理現象を訴えて来た時に何となく相手にしている程度で、自分は自分の体と向き合っていない様に思うのだ。

 自分の身体を意識していない人間が、例えば彫刻作品の中にある身体性を意識しようとすると、ここでまずどうしていいか分からない。そこで先生が教えるのは、「彫刻と同じポーズをとってみる」事だ。彫刻と同じポーズをとると、どこに重心があって、どこに力が溜まっていて、どこに力が流れているのかが何となく分かる。自分の体を物差しに使って、対象を理解するという事が出来る様になる。逆に言うと、自分の身体を意識していないと、対象の持つ身体性を読み取る事が出来ない。

 自分達はなぜ身体性を喪失してしまうのだろう。そこには様々な理由がある様に思う。よく言われる「バーチャルリアリティー的なものの普及によって現実と虚構の区別が付かなくなる」とか「子供は外で体を使って遊べ。昔の様な生活様式に戻れ」式の言説は余りにも安易だと思うのだが、自分は『日常』という奴には様々なものを押し流して行く力があるのだろうと思う。現代社会で日々を暮らし生きる事には結構エネルギーが必要で、それに忙殺されてしまうと他の事に気を配っている余裕がない。そしてそこには自分の身体も含まれる、という様な。

 舞踏家として日々身体と向き合っている最上氏と、『攻殻機動隊』『イノセンス』等の作品で人間の身体性をテーマにした押井氏の対談は、こうした身体論を考える上で面白い。単純に押井映画のファンとして押井守作品の副読本として読む事も出来るけれど、舞踏という自分が知らない世界の事を垣間見る事が出来る本としても本作は面白いものになっていると思う。

 

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怪獣映画の美味しい所、全部乗せ・大樹連司『GODZILLA 怪獣黙示録』

 

 「滅びるのは、人か、ゴジラか。」という事で何かと話題の虚淵玄脚本によるアニメ映画版ゴジラ『GODZILLA 怪獣惑星』の前日譚……と言ってしまえば一言で済むかというと、そうは問屋がおろさない特濃怪獣小説が本作『GODZILLA 怪獣黙示録』だ。

 映画では、怪獣の出現と、その頂点に君臨するゴジラによって絶滅寸前に追いやられた人類が、地球を脱出して他の惑星への移住を計画するも失敗。地球帰還派が主流となり、故郷の奪還をかけてゴジラとの決戦に挑むという物語が展開する。

 本作はその前日譚として、怪獣の出現とゴジラの登場によって人類がいかにして万物の霊長の地位から転落するに至ったかという事が語られる。

 巨大災害を超える世界規模の危機に対し、個々の人物の証言から全体像に迫るという描き方は、映画化もされたマックス・ブルックス氏の『WORLD WAR Z』でも用いられたオーラル・ヒストリーという手法だ。世界各地に出現した怪獣と、各国の対応。その中で翻弄される個人の体験。その集積の上に生々しい怪獣との闘争が現出する。ゾンビものでそれをやった『WORLD WAR Z』も面白かったけれど、怪獣映画でもその手法が有効である事を本作は証明した。

 ただ、本作が面白いのはオーラル・ヒストリーという手法を選んだ事よりも、むしろ作品の中に過剰なまでに詰め込まれた怪獣映画ネタ、特撮映画ネタの数々だ。それはゴジラシリーズだけに留まらない。個人的には第一章のカマキラスの時点でそこまで拾って来るのかと思うと同時に、小説という媒体ならではの強みを再確認した。

 小説は映画と違い、尺や予算の制約を受けない。作者の力量次第では無数の怪獣を登場させた上で世界観を損なう事無く物語をまとめ上げる事が可能だ。映画の予告編を観た後で本作を手に取った自分も、まさか目次にヘドラやビオランテ、ジラの名前があるとは思わなかった。そして作中での登場のさせ方にも唸らされた。ていうかここまで来るとずるい。好きしかない。

 かつて福井晴敏氏が『機動戦士ガンダムUC』で宇宙世紀の一番面白い所、美味しい所を全てかっさらった上で全部乗せした様なガンダムをやってくれた時にもずるいと思ったけれど、怪獣映画ネタをこれでもかと詰め込んだ上で同じ事をやってくれた大樹連司氏にも同じ様なずるさを感じるのは自分だけだろうか。もちろんここで言う「ずるい」とは「すいません大好きですそういうの」という意味だ。

 怪獣映画が大好きで、本作を未読の人がいると思うので「これが出ます」というのは目次で分かる部分以外は避けたいのだけれど、本音を言えば言いたくて仕方がない。だって○○とか○○とか平然と出て来ますからね。『機動戦士ガンダムUC』で言えばマリーダさんの過去が明らかになった時に唸るしかなかったというか「やってくれたな福井晴敏」としか言えなかった事を思い出すレベル。それが怪獣映画、特撮映画をベースにして全編に渡って散りばめられた時の破壊力たるや。よくアニメ映画版の前史として通ったなこれ、としか言えない。

 というわけで怪獣映画が好きな方は脳汁が出るレベルで楽しめると思うのでぜひ。きっと同じ気持ちを共有できると思うので。

  

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それでも信じて選挙に行くしかない僕等は・浅井ラボ『されど罪人は竜と踊る 20 三千万の美しき残骸』

 

 えー、個人的にちょっと色々あってご無沙汰でした。具体的に言うと体調不良で6月末頃に会社を辞めたのですが、3ヶ月程療養しながら就職活動をしたところ、無事転職先が見つかりまして、10月からまた勤め人に戻った次第です。今度は無理しない範囲で頑張りたい所存。

 さて、個人的にぐだぐだしていた間にも世の中というのはきちんと前に進んでいて、世界情勢やら国内の政治状況やらは待ったなし。具体的に言うと北朝鮮はミサイル撃って来るわ衆議院総選挙が目前だわ新党が出来たかと思えば既存の政党が事実上潰れるわでもうわちゃくちゃという印象。そんなご時世で感想書きのリハビリがてら取り上げる作品としては、本作が相応しい様な気がする。

 自分の話ばかりで恐縮なのだけれど、高校時代を振り返ってみると自分は勉強という奴が本当に嫌いで、教師との信頼関係も崩れていた時期があった。そんな中で好きな科目というと、国語と倫理政経のみ。国語は読書好きから。そして倫理政経はというと、大人の社会がどんな仕組みと約束事で回っているのか、そしてその思想的な源流とは何かを学べるからだった。

 勉強というのは必要に迫られて嫌々やる姿勢では身に付かないと思う。勉強を始める為のとっかかりとしては、興味を持つ為のフックが必要で、入口さえ自分の意志で入れれば途中の難解さは割と問題にならない。そして若者が政治というものを考えるきっかけとして、特に民主主義というものを考えるきっかけとして、本作は優れていると思う。

 今作の舞台であるルゲニア共和国では、これまでの独裁政権が打倒され、新政府樹立の為の投票が目前に迫っている。誰が国家元首になるのか。有力な候補者としては学者から宗教指導者まで、革命に協力した有力者の名前が連なる。誰が新政府の代表となり主導権を握るのかによって、革命後の国家がどんな国になるのかが決まろうとしている。

 勧善懲悪の物語では、悪の支配者が主人公によって倒されてめでたしめでたし、となる展開が多い。ただ実際には、悪の支配者であろうと独裁者であろうと、もっと言えば魔王の様な存在であろうと、世界を支配(或いは統治)していた存在が倒されるだけでは新しい世界は始まらなくて、その後の世界や国家を誰が主導して行くかという問題を解決しなくてはならない。「魔王を倒した勇者が魔王よりも酷い軍事独裁政権を作って、民主主義の欠片もない恐怖政治を行う物語」なんてあるのかどうか知らないが、現実には起こり得る問題だ。

 現実に、独裁者を革命で打倒してみたはいいが、革命の指導者がより酷い独裁に走ったり、力で押さえ付ける存在がいなくなった事で軍閥化した地方の有力者が群雄割拠して内戦が激化し、「こんな事なら独裁政権のままの方がマシだった」なんていう事が起こったりする様な、『失敗した民主化革命』の例は枚挙に暇がない。

 革命の目的は現政権を打倒し、新しい社会秩序を作る事だ。しかし、その新しい社会秩序が以前よりマシなものであるという保証は、実はどこにもない。民主主義が芽生えたばかりの国家で行われる投票は、単に人気投票になる事もあるし、政治家が公約を守る保証もない。では選挙そのものが無駄なのか、議会制民主主義というシステムはもう駄目なのかというと、それはない。というか、現状の日本にはそれしかない。

 「選挙に行っても無駄」という空気は日本にも漂っているけれど、国民として民意を政治に反映させる手段は、選挙に行く事しかない。公約を守らない、国民の生活を顧みない政治家を見逃さず、選挙によって交代させて行く事でしか、より良い社会は維持できないからだ。

 国民が民主主義に疲れてくると、独裁者の登場が待ち望まれる様になる。それはそうだ。国民が、政治家がちゃんとやってくれているかどうかわざわざ監視したり、チェックしたりするのは面倒だし、黙っていても物事がきちんと進んで行く様に、信頼できる(と思える)様な人物に強権を預けてしまって、「後はよろしく」と責任を丸投げしてしまった方が楽だ。ただ、その「楽な方」に流れて行くと、議会制民主主義というものは瞬く間に劣化する。

 こういう話を、それこそ高校の政治経済の授業以外で、現実の政党名を出して議論するという土壌が、なぜか日本には育っていない気がする。お上のやる事に口を挟まない文化というか、上が何をやっていようと自分達は知らないという無責任というか。ただ、これをライトノベルという土俵で、架空の国で、架空の政治家や国民を使ってシミュレーションしてみると、とっつき難かった政治の世界がエンタメ的な入口を得て分かり易くなる様な気がする。

 それこそ、今の衆院選前のドタバタを見て「大人は何をやってるんだ」と呆れ返っている様な若者や、政治に興味はあるのだけれど、何から手を付ければ良いのか分からないという様な人は、小難しいタイトルの新書を読む前に本作から入ってみるのも良い気がする。民主主義とは何かという事が、分かり易く書いてある筈だ。

 世界を、そして国家や社会を形作っているのは、竜を倒す様な強者の一存ではなくて、自分達の様な無力な一般市民に与えられている一票の集積なのだという事。その当たり前を知る事でしか、自分達は前に進めない。

 

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この世界と対峙する為に・河野裕 河端ジュン一『ウォーター&ビスケットのテーマ1 コンビニを巡る戦争』

 

 ……一応まだ、生きております。

 8月がループし続ける街で、まるでゲームの特殊能力の様な力を身に付けた登場人物達が、ゲーム内のポイントと所属チームの領土を奪い合う為に殺し合いをする。本作は大枠ではそんな話だ。

 異世界転生もの、というのがひとつのジャンルとして確立しつつある中で、本作は異世界という程特異な世界ではないが、かといって現実でもない、ゲームのルールによって支配された街の中で生存競争をする物語となっている。『コンビニを巡る戦争』とは食料等の物資が補給できる拠点の取り合いをするこのゲームを端的に表現した言葉でもある。

 自分は、異世界転生ものには何種類かのパターンがある様に思う。ひとつはいわゆる『強くてニューゲーム』式の転生ものだ。
現代の知識を持って異世界に行く事で、進んだ知識や経験、歴史認識等を使って異世界の住人を出し抜いていく話。或いは銃器が存在しない世界に銃を持ち込んだり、転生者としての優れた特殊能力を付与されたりする様な、「有利な条件で転生する」物語がそれだ。

 もうひとつは『強くてニューゲーム』式とは異なり、何らかのハンデを背負わされて一見不利な条件で異世界に投げ出されるタイプの物語で、主人公は己の知恵や仲間の協力で異世界を渡って行く事になる。

 ただ大別すると、両者とも『現実世界とは異なるルールが支配する異世界でどう生き残るか』という大枠に入れる事が出来るのではないかと思う。

 大抵の場合、ゲームに勝つ=異世界で生き延びる方法は、いち早く新しい世界のルールを把握し、その中で自分を強くする方法だ。つまりルールに精通し、順応する事だ。
 ただ、この方法にはひとつ問題がある。それは、異世界のルールを司る神の様な、或いはTRPGで言うゲームマスターの様な、「ルールそれ自体を司る存在」が現れた場合、そのゲームのプレイヤー或いは盤上の駒である主人公には勝つ術がないという事だ。

 これは何も難しい話ではなく、「(長期的には)賭け事で賭博師は胴元に勝つ事は出来ない」というのと同じだ。1回のまぐれ勝ちで勝ち逃げするならともかく、賭け事は何回も繰り返せば一定の確率に収束する訳だから、胴元が設定した払戻率以上の勝ちを得る事は出来ない。同様にルールの中でどれだけ努力しようと、ルールを作る側に勝つ事は出来ない。ゲームの中でどんなにレベルを上げて万能のキャラクターに近付こうと、そのゲームの中で出来ない行動は許されないのと同じだ。

 そんな「自分以外の誰かが作るルールで規定された世界」の中で、ルールの作成者にすら勝とうと目論むのなら、まさに本作の帯にある様に『ルールの向こう側に辿り着かねばならない』のだろう。そして本作の主人公である香屋歩もまた、その困難な道を選択する事になる。ゲームに勝つ為にルールに精通するのではなく、世界と戦う為にルールの向こう側に辿り着こうとする事を選ぶ。

 ゲームに精通する物語には手本が数多い。MMORPG的な世界観を下敷きにする事も出来るし、チート的な強さを誇る規格外のキャラクターというものも、ベースになるルールがあり、その大枠のルールに則っているからこそ「逸脱」として描き出せる部分がある。それとは異なり、ルールの向こう側に辿り着こうとする主人公を描こうとすれば、一度強固なルールを持つ世界観を構築しておいて、そのルールの盲点を突かせる様な発想の転換が必要になる。

 他のプレイヤーを直接攻撃する様な能力。身体能力を強化する能力。索敵能力。そういった「ルール内で競う為に有用な能力」ではなく、オリジナルの能力を構築する事で本作の主人公は世界のルールとゲームマスターに対峙する。そうしなければ得られないものを手にする為に。それは現実にも同じ事が言える。

 この現実世界もまた、自分以外の誰かが決めたルールによってその大半が作られている。単純に憲法や法律といった決まり事もそうだし、経済という枠組みの中で金を稼ぐ為に仕事をするのもそうだ。誰かが決めたルールや、過去の成功体験に則った仕組みを踏襲する事で自分達は生きている。そのルールに精通し、ゲームの枠組みの中でポイントを稼ごうとして日々頑張っている。それはそれで無駄じゃないし、間違ってもいない。現代社会で生き残っているルールとは、それなりの実績があり、確実性があり、有用だからこれまで生き残って来たのだ。その中で努力する事は正しい事だ。ただもしも、今の社会秩序やルールを守っていたのでは得られない程の成果を掴もうとするならば、ルールの向こう側を目指すか、自分自身がルールに手出し出来る立場になるしかない。

 政治家を目指す様な人はきっと今の世界に飽き足らないのだろうと思う。だからルールを規定する側にまわりたい。世界をより良くする為に。しかしその政治の世界にも様々なルールがあって、今度はそちらのルールに絡め取られる事になる。ルールの向こう側は簡単には見えないし、辿り着けない。ただ世界と対峙するというのはきっとそういう事で、だからこそ難しい。例えばそれは少年の頃に持っていた世の中に対する疑問や不満を抱えたまま、その気持ちを殺さずに持ち続けようとする様な事だ。大人になりきれないまま大人をやり続ける様な切実さだ。

 自分の様な、ルールの中で行われる競争に振り落とされそうになっている人間が言う事ではないが、これから世界と対峙する若い人達にこそ、本作を読んでみて欲しい。

 

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戦争を知らない国の現実 カルロ・ゼン『ヤキトリ1 一銭五厘の軌道降下』

 

 というわけで、自分の初カルロ・ゼン作品は『ヤキトリ』という事になった。(『幼女戦記』はアニメで見た程度)

 前から薄々感じていた事だが、日本は実は不思議な国で、アニメ、漫画等のサブカルチャーや架空戦記の世界でしか『戦争』を論じたり、考察したりする事が許されない空気がある様に思う。戦国時代等を描いた時代小説は別として。軍事評論家なる肩書きもある事はあるのだが、一般人が公共の場で戦争について語る事はなぜか憚られるし、それをすると軍事マニアと思われてしまうきらいがある。更には言うに事欠いて「戦争が好きなんですか」などと飛躍した決め付けをされる場合があって、迂闊な事が言えない。

 著者のカルロ・ゼン氏といえば、そんな中で「異世界転生もので主人公(の外見)が幼女」というオブラートに包んだ軍事ネタを涼しい顔をして放り込んで来る危険人物(失礼)という印象だったのだが、舞台が宇宙に切り替わっても本質的な所は変わらない様に思う。

 地球人類が異星人とのファーストコンタクトを果たした結果、相手から「人的資源以外、特に見るべき所もない辺境惑星」の烙印を押され、主権を乗っ取られ、属州民としての自治権のみを認められた状態で間接統治される状態に堕した世界という、何とも気が滅入る世界観で展開される本作。主人公のアキラは惑星降下作戦に従事する海兵隊員の安価な代用品、通称『ヤキトリ』として異星人の星間戦争に駆り出される事になる。

 何で通称が『ヤキトリ』なのかは本作を読めば明らかにされるのだが、この救い様のない世界で、なぜアキラが生まれ育った日本での暮らしを捨て、志願して戦争に行くのかという事情がいかにも日本的だなと思う。

 詳細な描写は省かれているのだが、どうもこの世界、この時代の日本は「足並みを乱す」者を「反社会的性格認定」し、該当者を「社会福祉公団の収容所へ『保護』」する様な管理社会になっているらしい。具体的には「労働共同体」への進路を拒否し、個人で勉強して大学へ出願する等の行為が反社会的性格認定の対象になるらしいのだ。アキラもまさにその理由から身柄を拘束され、収容所で「再教育」される羽目に陥った訳だが、彼が取り得る選択肢はふたつあった。ひとつは大人しく国に飼い殺される事。もうひとつは自らの権利を主張し、自ら選んだ進路として海兵隊員になって戦場へ行く事だ。

 作中でアキラは一貫して他人に足を引っ張られる事を嫌う。憎むとか呪うといったレベルで。やる気のある自分が「周囲のアホ共」の尻拭いを強制される事を憎むし、その境遇から抜け出そうとする自分を逃すまいとする共同体を呪う。見下される事を嫌うし、指図される事を不快に思う。いつも周囲の誰かに敵意を抱いている。常にイラついている。プライドが高く、譲歩しない。能力に見合った権利を主張する。

 思うに、『幼女戦記』の主人公が「転生前は日本のサラリーマンで、管理職を務めており、上昇志向が強く、自身がリストラ通告した元同僚から恨まれて駅のホームから線路に突き落とされて死ぬ(が、異世界に転生して再びのし上がる)」という設定も含めて、著者は能力主義、成果主義を志向しているのではないかと思う。逆に言うと、日本的な「何となく周囲の空気に合わせてなあなあで、足並み揃えて平等に、余計な事は口にしない」という風潮を忌み嫌っているのではないかとすら思う。

 本当のところ、どうかは分からない。作品の方向性=著者の思想ではないし、自身とは全く逆の思想に基づく物語を書く事も可能だろうから。ただ、戦争を描く上で、その徹底した合理主義というか、実力主義の思想は理に適っているとは思う。

 戦争というと合理主義の塊の様に思われがちだが、実は油断するとすぐ精神論や情緒的な考えが入り込んで来るものでもある。そして合理的判断を精神論や情緒が上回る時、戦争に敗北するのではないか。

 自分は近年気になっている事がある。戦争反対と言う時、反対する人はだれもいないのだが、では「戦争に負けない為の備え」を考察する事、議論する事がこの日本で許されているだろうか。戦争反対は情緒だ。それには誰も反対しない。ただ自国の安全保障=戦争に負けない為の備えについての議論は常に必要であるにも関わらず、現実には腫れ物に触るように避けられて来た。果たしてそれは正解だったのだろうか。

 日本は戦争を語る事が出来る場を公に用意して来なかった。それはいつも白眼視され、サブカル界隈の、一部マニアのテリトリーの中に押し込まれて来た。今まではそれで済んでいたかもしれないが、これから先どうなるかは分からない。

 本作が描く戦争はもちろん架空のものだ。ただそこに登場する日本の姿に薄ら寒いものを感じるのは、それが現実のこの国の姿と重なるものがあるからなのではないかと思う。戦争について論じる事は反社会的性格認定とまでは行かないが忌避されている。それが平和主義を掲げるこの国の現実なのだとすれば、その『現実』は自分達の外側にある世界に対して、どこまで通用する『現実』なのだろう。そんな事を思った。

  

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映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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