人の再生の物語として・黒澤いづみ『人間に向いてない』

  

 書店で本を選んでいる時、不意に買う予定のなかった本に吸い寄せられる事がある。本作もそんな本だった。

 顔が溶け出した様な母親が、これもまた体が溶け出している子どもを抱きかかえている様に見える表紙。『人間に向いてない』という飾らない題名。帯にある「ある日、息子が虫になりました。」という書き出しで始まる文章。これは何だろう、と惹きつけられる何かがあった。

 本作では『異形性変異症候群』という病によって、人が一夜にして異形の存在に変質してしまう様になった世界が描かれる。カフカの『変身』を、虫になってしまった青年の視点ではなく、彼の家族の側から描いてみせる様な物語だ。

 『異形性変異症候群』は人を異形の存在、有り体に言えば化物の様な姿に変えてしまう。ある者は人の顔を持った犬の様になり、またある者は人間の目玉を持った魚の様になる。葉の代わりに人の指を茂らせた植物の様になってしまう者もいるし、芋虫の様な姿になってしまう者もいる。

 体の構造が人間とはかけ離れてしまっているからなのか、変異者の多くは言葉を発する事が出来ない。変わってしまった彼等の中に、姿形が変わる前と同じ心があるのかどうかは推し量れない。何よりその外見の気味の悪さから、当初はそれが家族の変わり果てた姿とは気付かれずに殺害されてしまうケースが相次ぐ事になった。やがて政府は、この病によって変異してしまった人間を法的には死亡したものとして扱い、全ての人権を停止する事を決める。だから変異者を殺しても罪にはならないし、扶養する義務もない。

 社会がパニックに陥る寸前で持ち直したのは、この病が若年層、特にニートや引きこもりといった背景を持つ者の間にだけ発症するものだという事がわかってきたからだった。多くの人にとってこの病は「自分とは関係がない」と切り捨てられる類のものであり、中には結果として社会的弱者を『間引く』事になったこの病の発生を「因果応報であり、天の配剤だ」と喜ぶ者さえいた。

 では、変異者本人にとって、そしてその家族にとって、この病とはいかなるものなのだろうか。本作は引きこもりの息子が芋虫の様な姿に変異してしまった、ひとつの家族の姿を追う事で、それを丹念に描いて行く。

 身内から変異者を出したと知られる事は、自分達が「失敗した家族」である事を衆目に晒されるのと同じなのかもしれない。問題のある家族を抱えていたという事。そして変異するまで救う術を持たなかったという事。そして物言わぬ変異者は、その事を責めている様にも思える。だから多くの家庭では、変異者を保健所に引き渡す。または育てきれなくなったペットの様に野山に捨てる。変異者に人権はないから。彼等はもう死んだものとして扱われるのだから。厄介者の存在を捨てて、人生を、家族をもう一度やり直すチャンス。そう捉える者がいたとして、誰がそれを責められるだろうか。

 でも一方で、そんな割り切り方が出来ない者もいる。化物の様な姿になってしまっても、息子を、娘を捨てる事は出来ないし、保健所に引き渡して『処分』してもらう事も出来ない。まして自ら手を下すなど。ならば、どうしたら良いのだろう。

 変異者の家族は、彼等が変異してしまった事で、あらためて我が子の、そして家族の問題に向き合う事を迫られたのだと言える。引きこもりの我が子がいつか立ち直るのを期待して、干渉を避け、ただ食事を部屋に運ぶ様な暮らしを続ける事はもう出来ない。彼等が本当は何を考え、どんな悩みを持ち、何に苦しんでいたのか。どうしてその悩みを我が事として共有する事が出来なかったのか。自分は失敗したのか。失敗したのだとしたら何が悪かったのか。そして、今からやり直す事は出来るのか。失われた信頼関係を、もう一度築き上げる事は可能なのか。

 本作はそうした事を考える為の寓話なのだろうと思う。そして、「強者による弱者切り捨て」ではなく、「弱者による弱者切り捨て」が起こり始めているこの国の行末に警鐘を鳴らすものでもあるのだろう。

 自分の様な、中流より下に位置する暮らしぶりをしている人間が、例えば生活保護に頼って暮らしている様な人を見て「自分はこんなに苦労して今の生活を維持しているのに、なぜ何もせずに食べて行ける様な人がいるの?」と思ったとする。正直、自分もたまに思う。冗談半分でではあるけれど。それは「自分も誰かに助けて欲しい」という気持ちが負の方向に裏返って、自分も働かなくて食べて行ける身分になってみたい=親に食べさせてもらえるニートや国に食べさせてもらえる生活保護受給者は、何の努力もせず、種を蒔かずに実を食べるばかりでずるい、という短絡的な思考に陥るからだ。

 「こいつらさえいなければ」
 「この世から消えてくれれば」

 自分の人生の足枷になっている奴に消えて欲しい。そうすれば自分は楽になれる筈だから。

 この考えは、結論から言うと間違っているのだけれど、理屈としては一見正しそうに見えて共感を集め易い所が非常に質が悪い。屁理屈に見えない屁理屈とでも言うのだろうか。ただそれは、自分が社会的弱者に日々どんな視線を向けているのかという事を端的に示すものでもある。これではどっちが『化物』なのか分からない。

 そしてもうひとつ、自分の様に自分自身を『人間に向いてない』と思う事がある様な人間にとって、変異者の姿と彼等が抱えている苦悩は身近なものだ。実感を伴ったものとして、自分は本作を読む事が出来る。ただ、たとえ人間に向いていないとしても、自分はこれまでもこれからも人間でいるしかないのだ。いっそドロップアウトしたい。消えてしまいたいと思っても、その願いは叶わないし、叶えてはいけない類のものだろう。ならばどうするか。再生への道を見付けるしかない様にも思える。

 再生とは何か。例えばそれは社会の再生であり家族の再生なのかもしれない。個人の自己実現や、自己肯定感を取り戻す事も一種の再生だろう。そして、それらは『人間関係の再生』というテーマに繋がっているのだろうと思う。本作の様に、人間が人間でなくなってしまう様な事態にならなければそれに気付けないのか、やり直せないのかと問われれば忸怩たるものはあるが。

 人間に向いていない自分は、ある日突然どんな変異者になるのだろうと考える。そしてその時、誰が寄り添ってくれるだろうか。薄気味悪い姿になった自分を捨てずに、手を差し伸べてくれる誰かはいるだろうか。そして自分もまた逆の立場であれば誰かに手を差し伸べる事が出来るだろうか。そうした事を思いながら目を閉じる時に、人間に向いていない自分でも、まだ人間でありたいのだなという事に気付いたりもする。目を開けた時に、毒虫に変わっている自分を見付けたくはないから。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

静かな怒りを燃やし続けて マーガレット・アトウッド:著 斎藤 英治:訳『侍女の物語』

 

 最近、大人があまりにも幼稚な振る舞いをするのを見るにつけ、自分にしては珍しく怒ったり落ち込んだりと気持ちの上で忙しかった。端的に言えば、自分はこの世の中はもう少しまともだと思っていたのだけれど、その期待は裏切られたらしい。

 自分には「きちんとした大人になる事が出来なかった」というコンプレックスがあって、当然それは自分の中の「こうあって欲しい大人像」というものと自分が乖離しているから生じる気持ちなのだけれど、こうも大人が(それも社会的な地位も名誉もある大人が)情けない姿を晒してしまうと、もしかしてちゃんとした大人などというものはこの世には存在していなくて、自分はただ自分勝手に抱いた理想が裏切られた事に憤っているのかもしれないとは思う。

 人間は生まれながらに善であり、時に誘惑に負けて悪に落ちるものなのか、それとも生まれながらに悪であり、放っておけばどんどん堕落してしまうので、不断の努力で理性や善性を保っているのか。今は後者である様な気がしている。

 人間の本質が『悪』だとして、(まあこの悪というのもどんなものを指して悪というのかが難しいのだけれど)例えば身近な所で日常的に行われているセクハラやパワハラといった権力の濫用もその悪の一例だろうし、様々な差別意識やモラルハラスメントの類もそれに当たるのだろうけれど、それらが日常の中にはびこっているというのは、何もそれを行う側が意図的に相手を痛めつけてやろう、傷付けてやろうと「意識して行っている」からではなく、むしろ自然に、何の悪気もなく、「無邪気に」行っているからだろうなと思う。むしろ「良かれと思ってやっている」という気もする。そうする事が世の中の為であり、国益であり、正しい事であり、つまりは『善』であるという思考の結果が、あらゆる『悪』に繋がって行くというのは、何だか人間というものの業の深さを見せ付けられる様で息苦しい。

 自分の行いは本当に正しいのか。

 それを自ら疑ってかかるというのは苦しい事だし、愉快な事ではない。でも、自分に対するそうした『疑いの目』を捨ててしまった時、人間が本来持っているべき倫理観といったものは容易に損なわれてしまうのだろう。本作『侍女の物語』の様に。

 本作では様々な要因から「健康な子どもを出産出来る女性が限られる社会」という架空の未来史を設定し、その中で主に女性がどんな生き方を強いられて行くか、そして男性がそれにどう関与して行くのかが描かれる。

 まず、女性の権利が徐々に削ぎ落とされて行く。例えば全ての女性はある日突然に雇用主から解雇通告される。そして自分名義の口座は凍結され、配偶者がこれを管理する様になる。次には健康な子どもを身籠る事が出来る女性が選別され、それまで一緒に暮らしていた夫や子どもと引き離されて、子を儲ける事が出来ない特権階級の家庭に『侍女』として配属される様になる。侍女の役目は、高官達の妻の代わりに子を産む事だ。そして子を産む能力が無いとみなされた女性や、従順ではない者、また反体制派と繋がりがあると目された者は過酷な強制労働が行われるという『コロニー』に送られて行くか、或いは絞首刑にされる。

 主人公はとある高官の侍女として彼と性交をする事を求められる。その行為には愛情も快楽も存在しない。義務的に、事務的に、高官の妻に監視される中で行われる「それ」は、女性が自由にパートナーを選んで行っていたそれとは当然違うし、かといって犯罪行為として行われる強姦でもない。侍女達は仕事として、日々の生きる糧を得る為に、自分の社会的地位を守る為に、男性の、或いは国家というシステムの所有物として扱われる事を自ら選ばなければならない。当然他の選択肢など存在しない訳だが、その「選択の余地がない選択」を女性に強いて行く過程が妙に生々しい。

 本作はディストピア小説とされる。そして大抵のディストピアがそうである様に、社会をその様に構築している側は、つまり男は全くの正気で、むしろ良かれと思ってそれを行っている。女性の社会的自立を妨げる事も、それこそ『産む機械』発言ではないけれど、女性の役割は「子を孕む事」であると定める事も、当然の事として行われて行く訳だ。他にも女性の衣服に制限をかける事はむしろ女性を守る為だとされるし、男性にしても誰が子を持つ権利を有するかを国家が統制する事は当然の事だとされる。社会的地位が低い男性や反体制思想の男性は、子を持つ権利を間接的に奪われる訳だが、それは結果的には断種と同じ事だ。断種は言うまでもなく「人道に対する罪」であるが、国家それ自体が断種行為を是とするならば、それを裁く者はいなくなる。

 『正気』によって下されて行った判断の数々が、結果として巨大な『狂気』の構造を形作って行くこの過程は、男女の性差や価値観の違いといった小さい原因から生じているのではなくて、人間というものがそもそも『邪悪』だからなのではないかと思わせる。邪悪という言葉が悪意に満ちているというのであれば『無邪気』と言い換えてもいい。人は自分が思う程には正しくもないし正気でもない。その事に自覚的でないと、自分達は容易に選択を誤るし、誰かを傷付ける。それも致命的に。

 セクハラやパワハラといった言葉がニュースで流れる度に、自分達は何だかそれに慣れてしまって、何が起きても驚かなくなり、憤らなくなってしまっている様に思う。それは「あり得る事」であり、「仕方のない事」に成り下がってしまっている。じゃあ自分がこの間日大に対して思いをぶち撒けた様に、ただ単なる怒りを勢いに任せて書き殴れば良いのかというと、そうでもない。それはただ単に個人のストレス発散以上の意味を持たないし、自分もその事を反省しなければならない。

 きっと社会に必要なのは「静かに怒り続ける事」なのだろう。

 世の中に蔓延っている不正や差別といったものに向き合い、正しく怒り、それを本作の様な形に昇華して広く世に問うて行くという事。怒りを爆発させるのではなく、その静かな怒りの炎によって言葉を鍛造し、鋭く研ぎ上げ、世に斬り込む事。そうした冷静さが、静かな怒りがある事が、きっとこの世界を、社会を、昨日よりはマシなものに作り変えて行く。

 自分が今感じている怒りは、憤りは、理不尽さは、本当に仕方がない事だろうか。その怒りは、消してしまうべきか。そして怒りを燃やし続けるならば、それによって自分はどんな言葉を発して行くべきなのか。本作は広く人々にその事を問うている様に思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

そこにあるのは、ディストピアか・小川哲『ユートロニカのこちら側』

 

 例えばネットショップで買い物をする時に、過去の購入履歴や閲覧履歴から、「あなたにはこちらの商品もおすすめです」等の提示を受ける事がある。小説で言えばいつも作品を購入しているお気に入りの作家の新刊や、ふと思い立って有名作を買ってみた作家の過去作品、またそれらから導き出された全く別の作家の作品など、色々なものがおすすめ作品のリストに上がってくるわけだ。

 使ってみればなかなかに便利な機能だ。ただ、便利だからとつい無批判に受け入れてしまうが、一歩退いてみればこれは自分の趣味嗜好がデータとしてどこかに蓄積され、利用されているという事でもあり、もっと言えば本好きの人間が提供している膨大なデータによってこの機能が高度化し、精度が上がって行くとするなら、自分の判断で新刊に手を出すよりも、ショッピングサイトのおすすめ作品を次々消化した方が有意義だ、なんていう事が近い将来に起こるかもしれない、という事でもある。

 自分は思う。人間は自由を欲するが、同時にその自由によって日々あらゆるものを選択しなければならないという事に疲れ果ててもいる。そして、選択を誤った結果失敗するのではないかという恐怖に取り憑かれてもいるだろう。

 些末な話で言えば食事のメニュー選びもそうだ。どの店に入るか。どのメニューを注文するか。自由に選べるからこそそこには悩みがあり失敗がある。その苦悩を無くすにはどうすればいいか。殺伐とした方法としては、あらゆる料理をこの世界から消し去って、俗に「ディストピア飯」などと呼ばれるものしか残さない、つまり選択肢を潰すというやり方がある。ただ、そこまで無茶な方法をとらなくても、もっと簡単に出来る方法もある。先に挙げた様な技術を駆使して人間の『選択する自由』に介入してやればいい。「あなたにはこんな食事がおすすめですよ」という程度のやんわりとした触れ方で、人の意思決定に介入してやればいいのだ。そこに医学的なデータや個人の食事に関する嗜好といったものの裏付けがあればなお良い。そして「このおすすめに従ったら良い結果が出た」という成功体験を積み重ねて行く。それはやがて強固な条件付けとして機能するようになるだろう。その先に何があるのか。それは人の『意志』の消失なのかもしれない。

 本作『ユートロニカのこちら側』では、人の視覚や聴覚、位置情報といったあらゆるデータを企業が収集し、利用する事を許す代わりに、つまりはプライバシーが大幅に制限される代わりに豊かな暮らしが送れる様になったある都市の姿が描かれる。そこでは働く必要もない。都市を運営する企業が、個人が提供する情報の対価として生活に必要な収入を与えてくれる。そして、悩む事もない。自分がどんな行動をするべきか、全てに「おすすめ」がついて回るからだ。大量のデータを収集し、統計を行い、人の行動を予想して行けば、健康の為に今食べるべき食事から犯罪の容疑者割り出しまで全て機械任せにできる。もっと言えば、「これから先犯罪を行うであろう人物」を事前に洗い出して犯行前に確保する事さえ可能だ。

 こうした世界の中で、人間はどの様に生き、どの様に変質して行くのか。
 そして、変わらないものがあるとすれば、それは何か。
 本作が問うているのは、きっとそこだと思う。

 本作は「人間は自由意志を、人間性を放棄するべきではない。ロボットの様に生きるべきではない」という様な結論ありきで描かれる作品ではない。むしろこの先起こり得る自分達の変容に対するひとつの思考実験の様だ。そして本作の描く未来の姿は、きっとそう現実とかけ離れたものではない気がする。

 自分は時に思う事がある。果たして人間には自由意志などという高尚な機能が本当に必要なのだろうか。

 例えば映画『マトリックス』の中で、キアヌ・リーブスが演じる主人公のネオはコンピューターの支配から人類を救う救世主として描かれるが、自分が感情移入するのはむしろ仮想世界に戻る為に仲間を売るサイファーの方だ。醒めない夢を見て生きる事の何が悪い? 仮想であってもそれを現実として生きるならば、それが自分にとっての現実であり、幸福な人生だ。そう願う人間の弱さを自分は否定できない。特に自分の心が弱っている時には。

 生きて行くという事は選択の連続で、自らの選択には責任が伴う。振り返れば間違いばかりだった気もするが、仮に自分がこれまで何度も躓いてきた道程に、本当はもっと『正解』と呼べる様な道筋があったとしたら。そして誰かがそれを教えてくれていたなら。自分の意志によって、選択によって『間違う権利を得る』事と、自分以外の何かに縋る事で『自由意志を失う』事のどちらが幸せだと、或いはどちらが正しい事だと、一体誰が決められるだろうか。

 今よりももっと厭世的だった頃の自分は、極論すれば機械になりたかった。汎用ではない、単一の機能に特化した機械。自由意志など無く、決められた役割を死ぬまで全うする機械だ。そこには悩みも、迷いもない。そういう超然とした存在になりたかった。今は必ずしもそうではないとはいえ、そうした志向を持っていた人間からすると、本作が描き出す世界がディストピアなのだと規定するのは早いのではないかと思う。近い将来、人は自ら望んで自由意志を捨て去るのかもしれない。そして意志もない代わりに、迷いも悩みも抱かない存在にシフトして行くのかもしれない。その未来を、ユートロニカを自分は見てみたいのだ。きっと。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

全ての権利は有料である カルロ・ゼン『ヤキトリ2 Broken Toy Soldier』

 

 戦争と平和だったら平和の方が良いに決まっているし、誰もその事に反対しない。でも、自分がこの世界のどこで、どんな立ち位置でその『平和』を享受しているのか考え直す事は多分必要で、その事を世界一怠っている国が、この日本なんじゃないのかという気はする。

 という訳で、2巻だ。作品全体について言いたい事は1巻の感想の中で書き切った感があるのだけれど、それでも敢えて書くとするならば、この2巻を読んで強く意識したのは『全ての権利は有料である』という事だ。それは作中のいたる所に現れている。

 例えば作中では登場人物達が、栄養バランスは取れているのだろうが致命的に不味い戦闘糧食である『大満足』を無理矢理飲み込みつつ「マクドナルドのハンバーガーが食べたい」とぼやく。『大満足』は無料だが、マクドナルドのハンバーガーは値が張る。「美味いものが食べたければ相応の金を払え」という事だが、本作を読み進めて行くと、これはその他のもろもろの事にも同じ様に当てはまる問題なのだという事が分かる。作者がしつこい位に繰り返し「不味い『大満足』に辟易する登場人物の様子」を描写するのは、自分達にこの現実の過酷な(そして不可避な)問題を理解させる為だ。

 『全ての権利は有料である』

 貧乏人が不味い食事を、これではまるで「餌」だと知りつつ耐え忍んで口にしなければならない様に、本作では独立を望む勢力もまた支配者に対して「金で独立という権利を買う」事を要求される。端的に言って酷い話なのだが、権利を手にしたいならば、相応の対価を支払わねばならないというのは、何も本作が際立って酷い話を作っているのではなく、現実の世界に於いても当然の事なのだった。悲しいかな。

 金が欲しければ仕事をして稼げ。他人に使われるのが嫌なら、自らリスクを取って起業するなり自営業を営むなりしろ。義務を果たさずして権利を主張するな。全ては自己責任だ。生活保護受給者の中には怠惰な人間(所謂フリーライダー)が混じっていて、種を蒔かずに実を食べている。そんな奴らを許すな。排斥しろ。そうした論調が近年強まっている。こんな意見が富裕層から出ているのなら普通のディストピア小説なのだろうが、現実が面白いのは、実際にそれを口にしている中に自分と同じ様な「日々苦労して何とか糊口を凌いでいる」中間層以下の人々が決して少なくない割合で含まれているのだろうと思われる事だ。いや、ちゃんと統計データを示せる訳ではないので、あくまでも自分の皮膚感覚だけれど。

 自分が苦しいながらも労働や納税といった責任を果たしているからこそ、そんな自分に今以上の負担を背負わせてくる社会的弱者がお荷物の様に感じられて許し難い。だからこの国では弱い者が弱い者を叩く。そして強い者は、黙ってそれを見ているだけで安定した暮らしが送れる様になっている。

 『全ての権利は有料である』

 有料というのは、単純に金を積めという話ではない。金を稼ぐ為に自分達が人生の少なくない時間を労働に費やす様に、金というのはひとつの象徴であって、自分達は例えば金を稼ぐ為に色々なものを支払っている。であるならば、その次に自分達が理解しなければならないのは、「自分がその対価を支払わずに何かの権利を享受しているのなら、それは自分の代わりに対価を支払わされている何者かがいる」という事実だ。

 今の自分達が得ている平和。基本的人権。表現の自由。思想及び良心の自由。そういったものも、タダではない。またもっと小さな事、例えばコンビニに行けばいつでも食べ物が買えるだとか、製造コストと見合っていないのではないかと思える様な低価格で高品質の製品が買えるだとかいう事も、何かのマジックでもトリックでもなく、どこか遠い外国で製造コスト(主に人件費)を買い叩いているからこそ許されている事だ。こうした世界では、自分達は被害者であると同時に加害者でもある。その関係性から自由であるという人を、自分は知らない。仮に今の自分達が対価を支払わずに権利を得ているのだとすれば、それは無料なのではなくツケを回しているだけだ。誰に? もちろん、将来それを精算する羽目になるであろう、顔も知らない「誰か」にだ。

 こういう世界の仕組みを理解する為に、本作は向いている。
 すべての権利は有料であるという事。それが理解できたら、ようやく自分の身の処し方を省みる番だ。反省点が多くて、嫌にはなるけれど。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

かつて帝王であった僕等の為に・上遠野浩平『ブギーポップ・ビューティフル パニックキュート帝王学』

 

 『美しさ』というものについて考えてみる。

 物事の美醜の判断というものは、当然個人の主観によるところが大きいのだろうと思う。単純に誰かを見て、その外見が整っているとかいないとか、好みだとかそうじゃないとか、そんな単純なレベルの話でもそうだし、例えば誰か声の大きい人が「美しい国」とか言って国家という大きな枠組みの目指すべき方向性を指し示そうとする時に、「あの人の言う『美しい国』っていうのは、結局のところどんな国のあり方なんだろう」という事がいまいち受け手である自分にはピンとこなかったりする事もそうだ。

 『美しさ』というと単純で、誰にとっても自明で、自分が美しいと感じるものは他の誰にとっても同様に美しいものである筈だ、というのは残念ながらそう思っている個人の願望であったり、幻想であったりする。どんな形であれ美しさを感じさせる要素を内包しているものは人を惹き付けるから、それに魅せられてしまっている側はある意味心酔してしまって、そのものの美しさ=価値や正しさが絶対的なものであると思いがちなのだけれど、それはやはりどこまでもそのものを美しいと感じている自分の心の中だけに響いている美しさなのであって、同じものの前に立っても別の誰かは素通りするのかもしれず、もっと酷ければその美しさを否定されてしまう事もままあるのだろう。

 自分が感じている『美しさ』は、決して他の誰かと共有することは出来ない。

 そんな事を言っても、価値ある名画や美術品ならば、それを一目見ようと大勢の人が美術館に足を運ぶのだし、多くの人が認める、誰もが共有出来る美しさというものがある筈だ、と思うかもしれない。でも、例えば同じ絵画の、同じ彫刻の前に立って、同じ様にそれを美しいと感じている人達の心の中に響いている美しさは、本当に同じ美しさなのだろうか。

 昔聞いた話で、ある画家か彫刻家か忘れてしまったのだけれど、その人が『私の世界』という言葉で同じ様な事を言っていたのを思い出す。

 自分達は同じものを見て、同じものを聴いて、同じ様な街に住み、同じ様に暮らしているけれど、でもその目に映っているのは、きっと『同じ世界』ではなくて、人それぞれが決して他者と共有出来ない『私の世界』を見て、感じて、その中で生き、その中で死ぬのだという事。こう書くとニヒリズムの様に感じるかもしれないけれど、でもそれはある意味で、やはり事実なのではないかと自分は思う。

 今はSNSが個人を繋いで行く社会で、ネットに目を向ければそこにはたくさんの「いいね」が転がっている。動画投稿サイトにはチャンネル登録数や高評価の数といった尺度があるし、何かを買うにしても商品やサービスを評価する星の数を自分達は気にする。そこにあるのは価値観の共有と並列化だ。皆が評価しているかどうか。皆が良さを認めているかどうか。そして、皆が美しいと感じているかどうか。

 そんな事を気にして生きるのは、きっと安全安心が欲しいからだ。品質が保証されたものを求めたい。失敗したくない。誰かに笑われたくない。否定されたくない。それは正しい反応だけれど、でも自分達はきっと、その安心と引き換えに『帝王』の椅子から降りてしまったのだろう。心の中の帝王の座は、それからずっと空のままで、自分達はそこに据える「自分以外の誰か」を探し続けているのかもしれない。

 もう使わなくなった学習机の引き出しを開けた時に、その奥の方から出て来る、例えばちょっと模様の入った石ころみたいなガラクタの類は、きっとその時の――帝王であった時の――自分の中では価値があるものだったのだと思う。美しいものだった。宝だった。そんなものに価値はないのだという誰かの声など耳に入らなかった頃の名残。それはかつて帝王がそこにいたという事の証の様でもある。そして帝王が忘れて行った宝は、きっと自分の心の中にもあるのだろう。あちこちに、今もまだずっと。単に自分がそれに目を向けなくなっただけで。

 かつて帝王であった自分達は、今は空になったその玉座に、様々なものを座らせてみる。でもよく見ればその椅子は自分が作った、自分の為だけの椅子だから、他の何を座らせてみてもしっくりこない。ではやはり自分がもう一度その椅子に座るしかないのかと思いつつ、それはやはり、恐ろしくて出来ないのだった。誰かの目が、批判される事が、失敗する事が怖い。恐れを知らなかった頃の自分には戻れない。これが私だ、なんて誰に対しても胸を張って見せられる様な自分なんて、もうここにはいない。

 でも、どうだろう。これはそういう、悲しいだけの話なんだろうか。
 誰もがいつかは通り過ぎる、避けられない挫折であり、傷なのだろうか。

 傷は傷として抱えたままで、空になった玉座はそのままで、気付けば自分達はそれに背を向けて歩き出してはいないだろうか。自分でも気付かない内に固く握りしめた拳をポケットの中に隠す様にして。そしてその拳の中には、どこかで拾った、自分にとっては価値のある、美しいと感じられる、でも他に何の裏付けもない宝が――あの日の石ころみたいな宝が――入っているのではないか。そうであって欲しいと、僕は思う。

 (で、他人なんてどうでもいいのか、誰かに認めて欲しいのか、結局どっちだよ)
 (そんな簡単にどっちか選べたら、こんなに悩んでないって)

 BGM “This is Me” by Keala Settle

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon