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上遠野浩平について語るときに僕たちの語ること SIDE 2 冠の代わりに捧げるもの

 

 前回はこんな事を書いたけれど、その続きというか蛇足。

 『無冠の帝王』という言葉がある。使い方によっては尊称でもあり、蔑称でもある様に思うけれど、ここでは主に尊称として用いる。

 作家にとって(あるいは出版社にとって)の『冠』とは文学賞なのかもしれないが、読者にとってその作者が、そして作品が特別なもの足り得るかどうかは、「多くの人に読まれる事」や「多くの人から支持を受ける事」「権威のある作家や編集者、評論家等から高評価を得る事」とは関連しない。読者と小説との関係性は、実際そうしたものだと思う。

 ただ、その事実とは別に、「自分が好きな作家や作品が、世の中から目に見える形で評価を受ける事」を喜ばない読者もまたいないのではないか。例えば、村上春樹氏がノーベル文学賞候補だと報じられると、ハルキストと呼ばれる村上氏の熱狂的なファンは受賞者の発表までやきもきしながら過ごす事になる。そして受賞を逃すと(この「逃す」という言い方も結構失礼なのではと思うけれど)「ノーベル文学賞は頂けなかったとしても、氏の作品が自分にとって最高のものである事には変わりないのだから」と自分を慰める。なぜかちょっと悔しそうに。

 作家が広く世間に認知され、ベストセラー作家の仲間入りをするには、色々な方法があるのだろうと思う。逆説的だが、とにかく売れれば名は知られる訳で「いきなり100万部を超えるベストセラーを出す」というのもアリだ。博打だが。しかし、やはり作品が売れる為、言い換えれば固定ファンだけではなく広く一般の人にも作品を手にとってもらう為には、その足がかりとして何らかの文学賞を受賞するというのが典型例になってしまう様にも思う。

 国内なら「とりあえず芥川賞と直木賞と本屋大賞くらいは気にして手に取る」という人は結構いる気がする。書店でもこれらの受賞作は一等地に平積みされるから誰でも目にする。そして、それまで作家がどれだけの作品を書いていたとしても「受賞で初めてその存在を知った」という人は一定数いる。

 例えば『永遠の0』で作家デビューした百田尚樹氏は、『海賊とよばれた男』で本屋大賞を受賞したが、この時は普段職場で本の話などしない上司が「今読むべき一冊だ」と絶賛していた。自分は良くも悪くも「ベストセラーになるとはこういう事だ」と思う。既存のファンの枠を超えて作品が売れて行き、初めての読者を得て行く事。普段本の話などしない人が感想を口にし始める事。

 他にも例えば冲方丁氏は、自分にとっては『ばいばい、アース』の人であり、『マルドゥック・スクランブル』の人だ。そしてそもそも最初に買ったのは『カオスレギオン』だった様な気もする。その頃の作風と時代小説である『天地明察』とはそんなに大きくかけ離れていない気もするのだが、やはり世間では『天地明察』『光圀伝』『はなとゆめ』『麒麟児』といった作品群の方が認知されているだろう。

 前置きが長くなったが、こうした「作品ジャンルと固定ファンの垣根を超えて作家が広く認知されて行く為のランドマークになる作品」を得る事が、作家にとっての『冠』の有無なのだと考えれば、『無冠の帝王』として人気を博している作家を、ファンの中だけではなく、もっと広く認知してもらいたいという「ファンの欲」が働き始めるのもまた必然ではないか。作家本人がそれを望むかどうかとは全く別の話で。

 『伊藤計劃以後』という言葉があった。この流れで書くと「伊藤計劃氏は星雲賞や日本SF大賞やフィリップ・K・ディック特別賞を受賞しているではないか」とお叱りを受けそうではあるが、「若くして亡くなった彼に、特別な『冠』を授けたい」「もっと多くの人々に、彼の作品に触れてもらう為の旗を振りたい」と思った時に、「氏の作品がどれほど他の作家に影響を及ぼしたか」という評価軸が生まれたのだと思う。そしてユリイカの特集を読むと、ライトノベル業界における上遠野浩平氏の立ち位置が、若干それに近付いているのではないかと思う。

 上遠野浩平氏は「ずっとライトノベルを書いている」作家だ。

 『殺竜事件』『ソウルドロップの幽体研究』でノベルスに行ったり、他にもハードカバーを出したりしているが、基本的に全ての作品は世界観を共有している。自分は、どの作品も好きだ。だが、冲方丁氏における『天地明察』の様な作品は、ここにはない。上遠野浩平氏の作品は、自分も含めた彼のファンがずっと追いかけているものだが、これまで作者の名前を知らなかった様な人々に向けて開かれた作品ではない。自分が前回「統和機構や世界の敵やMPLSやブギーポップの存在といったバックグラウンドが何もない白紙の世界で始まる上遠野浩平氏の新作が読んでみたい」とあえて書いたのは、つまりそういう事だ。

 誤解を恐れずに書けば、ファンにとっては世間が作者に下す評価などどうでもいい。いっそ全く売上が伸びない様なマニアックな作品でも、自分がそれを読む事が出来さえすればいい。ただ作家が作家として食えなくなれば次回作が望めなくなるから、売れないよりは売れてくれた方がいいというだけの話だ。本読みは本質的には残酷かつ自己中心的な生き物だと思う。

 でも、それでも自分が敬愛する作家に何らかの『冠』が贈られてしかるべきだと思う時、「作家自身の功績に対する評価」が始まる。「この作家は後進の作家達に多大なる影響を与えました」という様な。『伊藤計劃以後』の様な。

 でも、自分は基本に立ち返ってこう思う。
 自分は作家の『冠』や、その功績を見てファンでいるのだろうか。答えはきっと否だ。

 自分は、常に自分に刺さる作品を書いてくれるからその作家を追い続けているのであって、「あの作家にもこの作家にも上遠野浩平氏の影響が見て取れる。素晴らしい」という軸で評価されているからファンでいるのではない。

 自分が伊藤計劃氏の事を好きなのは『虐殺器官』が刺さったからだし、上遠野浩平氏が好きなのは『ブギーポップは笑わない』以降の作品が刺さり続けているからだし、冲方丁氏が好きなのは『カオスレギオン』の頃から『天地明察』に至るまで、一貫して登場人物達にこれでもかと試練を与え、彼等がそれを乗り越えていく姿を描く様が好きだからだ。そして基本的に本読みは欲深いので「早く新作を読ませろ」と常に思っている。その欲望には底がない。

 だから、そんな欲深さだけで作者を追いかけている自分が、作家に何かを贈る事が出来るとするなら、それは『冠』ではなく、誰に読まれる事もない様な場所で感想を書き続ける事である様な気もする。というか、それしかないから、こうしているのだろうけれど。

 

上遠野浩平について語るときに僕たちの語ること SIDE 1 セカイは世界と繋がっている

 

 ユリイカの上遠野浩平特集があって、何か書きたいなと思っていたのだけれど時間が取れなくて今になってしまった。

 上遠野浩平という人は、自分にとっては特別な意味を持つ作家だ。だから氏の作品をずっと追いかけているのだけれど、自分の様な「業界全体の中での上遠野浩平の位置付けや評価」というものを全く気にしない「とにかく新作が読める事が全て」という読者とは別に、「氏の功績がいかなるものか」「氏の作品が優れている点とは何か」という事を定義付けたいという流れも一部にはあって、それが定期的に上遠野浩平特集が組まれる理由なのかなとも思う。

 ライトノベル作家としては既にベテランである上遠野氏が、現在のライトノベル、ライト文芸といったものの中で多くの読者を獲得している『異世界転生』『なろう系』と呼ばれるものの潮流をどう見ているのだろう(そして自身はこれからどの様な作品を書いていこうとしているのだろう)という事を気にしている読者は多いのかもしれない。ただそこで、「自分が異世界転生の流行りに乗れないので、自分の好きな上遠野作品を引き合いに出して出版社の姿勢を批判する」という事に何らかの意味があるのかと考えると、「別にそれをしたところで異世界転生ものが減る訳でもなければ上遠野作品の様な小説が出版される割合が増える訳でもない」という、別にどちらの作品が好きな読者も得をしない未来が待っている様にも思う。

 そもそも自分が好きな上遠野作品と『なろう系』作品とは、そこまでかけ離れたものなのだろうかと考える時、両者の作中における『世界』に対する距離のとり方が色々と見えてきて面白い。

 自分は確か浅井ラボ氏の『されど罪人は竜と踊る』の感想でも書いた気がするのだけれど、「作品世界がファンタジーだったり、SFだったり、とにかく現実世界とかけ離れた世界観の上に成立しているものであっても、それを書いている作家が生きているのは現在の現実世界なのだから、虚構の世界と現実とはどこか必ずリンクしてくるものだし、現実問題を寓話的に語る為にファンタジーを書く事だっていくらでもできる」と思っている。そして浅井氏は割と意識的にそういう事をする作家だと思う。
 竜が徘徊し、咒式が飛び交い、都市の地下には巨大なダンジョンがある様な世界であっても、予備校ではイジメや不登校や引きこもりといった問題があるし、社会を見渡せば経済格差や貧困といったごくありふれた問題が山積している、というのは奇妙なバランス感覚なのかもしれないが、人間が生きて、社会というものの中で暮らしていれば、それはそうなるだろうなとも思う。

 小説を風船に例えてみる。

 現実が地面だと思って欲しい。作者はそこに立っている。小説は風船で、ふわふわと浮かんでいるのだけれど、そこには紐がついていて、それを作者が持っていたり、地面に繋いであったり、とにかく「地面(現実)から離れてどこかに飛んで行ってしまわない様に」なっている。紐の長さが短ければ作品は作者や読者の目線の高さに近付くし、逆に長くすれば見上げる様になる。アドバルーンの様に高い位置にある風船もあるかもしれないが、それらはどこかで地面(現実)と繋がっていて、地続きだ。昔の作品は、この『地面(現実)と繋がっている感覚』が強い。

 

 自分が好きな児童文学で福永令三氏の『クレヨン王国のパトロール隊長』という作品がある。作中では現実世界で色々な問題を抱えている少年が、クレヨン王国という異世界に迷い込む。そして様々な体験をして現実世界に帰って行く。少年の成長物語として読む事もできるし、転生ではないにしろ異世界ものとして読む事もできる。上遠野浩平氏もインタビューの中で語っていた様に、「主人公は最終的に異世界から現実に帰って来る」というタイプの物語だ。

 では『なろう系』に代表される『異世界転生』ものはどうなのだろうと考えると、必ずしも「現実との地続き感」や「最終的に現実に帰還する物語」という形式を維持しようとはしていない。

 先程の風船の例えで言うなら、今度の風船には地面(現実)に繋がる紐が無いか、あったとしても、とてつもなく長い。風船(小説)は地面との繋がりを読者に意識させない。或いは、もしかすると風船は人がつかまって飛んで行ける程の浮力があるか、飛行船や熱気球の様なものになっているのかもしれない。作者や読者はそれにつかまったり、乗ったりして地面から離れて行く事ができる。その浮遊感はきっと、それはそれで楽しいだろう。彼等がもう一度、もと居た地面に降りて来るという結末を選ぶのか、どこか離れた新天地に着陸するのか、はたまたもう戻って来ないのかは自分には分からない。自分は地面に立って風船を見上げる事を好むタイプの読者で、彼等と一緒に行こうとは思わないからだ。それは単純に個人の嗜好による違いであって、作者や作品や読者の優劣によるものではない。

 この様に、異世界ものが必ずしも現実に帰還する必要がなくなったという前提でこれらの作品を考えると、「現実離れした逃避先」としての色合いが強くなるだろうと思われるかもしれない。実際、読者を楽しませようとする上ではそうした味付けの作品が好まれるという事もあるだろう。けれど、実はもっと怖い読み方もある。それは「異世界を描く事で現実世界の問題を糾弾する」事も可能だよね、という事だ。

 例えば、原作をちゃんと読んだ事が無いので雑語り感があって恐縮するのだけれど、カルロ・ゼン氏の『幼女戦記』って怖い作品だなというのはずっと思っていた。そして同氏の『ヤキトリ』を読んでそれは確信に変わった。

  

 幼女戦記の主人公は、転生前はエリートサラリーマンで、確かアニメではリストラを通告した相手の逆恨みで駅のホームから突き落とされて轢死した結果、異世界に招かれるのだったと記憶しているのだけれど、彼を転生させた『神』的な存在である『存在X』って、つまりは『世間』だよなと自分は思う。

「無神論者を忌々しく思う神」という側面はあるのだけれど、それ以前に「能力がある個人が、世界(社会・世間)なるものに足を引っ張られる事に対する忌避」というものを強く感じる。『ヤキトリ』では更にそれが直球で来る。

 存在Xが転生者に求めるものや、『ヤキトリ』の主人公が上昇志向を持った結果、強制収容所送りにされる展開等を見ていると、「能力もやる気もある人間が、無能で無気力な大衆の尻拭いをさせられる」「自分の能力に対して不当な地位に押し込められている」「優秀な人間が正当な評価を得られていない」事に対するイラつきを強く感じる。現実に、経済的格差が広がり貧困層が増える中で、貧困層はもちろん辛いが、自らの優秀さを自認する様な人々もまた余計なお荷物に足を引っ張られる感覚を持っていて生き辛いという事なのだろうとは思う。そして両作はそんな現実を糾弾する。

 自分が『幼女戦記』怖いと思うのは、そうした主張をする主人公の物語がアニメ化されてヒットし、多数のファンを獲得しているという事だったりもするのだが、これは個人的な事情なので脇に置く。(自分は必ずしも優秀な人材とは言い難いので)ただ、リストラ勧告をきっかけに殺された男が異世界で幼女として第二の人生を生き直す権利を得る一方で、自分の能力の無さを責められ、自己責任論の中で職を失い、人生に絶望し、逆恨みから殺人に及んだ男は、きっとその後どこにも逃げられずに現実の世界で逮捕されて獄中生活を送る事になるんだよなと思うと作品の方向性が分かる気もする。個人的には彼が獄中死した結果、存在Xに拾われてターニャの対抗馬として駆り出される「現実世界から復讐者が追って来る」展開とかベタだけどアリかなとも思ったのだけれど、神に力を授けられた時点で彼自身が復讐の正当性を失ってしまうだろうからやらないのかなとも思う。それとも既に原作だとそういう展開があったのだろうか。

 話が逸れたが、この様に「異世界転生ものだから」「転生者の帰還が望まれていないから」という事が、薄味だとか現実からの逃避だとかご都合主義だとか言われ過ぎると、ジャンルとしての異世界転生ものが持っている可能性を過小評価する事になってしまわないだろうかと思う。かつては『セカイ系』という言葉があったけれど、『世界』も『セカイ』もどこかでリンクしている。それこそ作者本人が異世界に転生でもしてしまわない限りは。自分達読者はそれを眺めて、心に『刺さる』物語をそれぞれが選び取って行けば良いのだし、むしろここまで異世界転生がトレンドだと言うのなら、自分は上遠野浩平氏が書く異世界転生ものを読んでみたいとすら思う。具体的には、上遠野氏の作品全てが共有している「世界観」から「転生」して、統和機構や世界の敵やMPLSやブギーポップの存在といったバックグラウンドが何もない白紙の世界で始まる上遠野浩平氏の新作が読んでみたい。氏が今の時代に、どんな物語を、世界を用意するのか。結構面白くなりそうな気もするのだけれど、どうだろう。

 

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首から下げた値札は首吊り縄の様で・御影瑛路『利他的なマリー』

 

 今この時代だから、本作の様なライトノベルが刊行されるのかなと思う。

 数年前に有名YouTuberのヒカル氏らが「VA」と呼ばれる模擬株式を発行し、個人から資金を調達できるサービスである「VALU」を利用して、自身のVA価格をつり上げた後、発行済みの全VAを売り出して不当に利益を得たのではないかと騒がれる問題が起きた事を覚えている人がいるかもしれない。

 個人が株を発行するという事は、時価総額が企業価値ではなく個人の価値を反映するという事で、平たく言えば「個人に値が付く」という事だ。
 株式会社の様に、「この人はどの程度将来性があるか」「現在の社会的地位や価値がどの程度のものか」なんていう事が金額で示される訳で、そこにはある種の明快さと残酷さが同居している。

 本作はひとつの都市を舞台に、そこに住む人々全てが模擬株式を発行し、市場価値が付けられている世界を描いている。ありそうな世界観だが、都市に重ねられた拡張現実(AR)世界では、互いが保有する自分の模擬株式≒時価総額を奪い合う戦いが日夜繰り広げられていて・・・・・・と、一捻りしたバトル物というライトノベルらしい仕掛けが組み込まれてもいる。

 本作をどう読むか。自分は将来性に溢れた若者ではないから、自然と意地悪な読み方をする。

 「貴方の時価総額は100万円です」と言われる人と、「貴方の時価総額は9千万円です」と言われる人が隣に並んでいて、互いの時価総額が容易に確認できる社会を作ろうという発想はどこから来るのか。その当然の疑問について、本作は「出自や経済状況等に関わらず、全ての市民が自身の努力次第で自らの価値を高め、将来を切り開く資金を調達する事が容易になる事が平等な社会を実現する」というコンセプトを提示する。なるほど実力主義、成果主義が叫ばれる昨今、それはある種の『平等』ではあるのかもしれない。「誰にでも挑戦する権利は与えよう。成功できるかどうかは自己責任だけれど」という世界だ。

 ただ当然の事ながら、この制度は『人間の価値』を時価総額の下に画一化し、「一定の時価総額を有する市民と、価値を失って沈んで行く敗北者」の二極化を生じる。
 難しい話ではない。現実でだって、自分達は日々自分以外の誰かと価値を比べられながら生きている。

 例えば年収。自分は仕事で給与計算をして明細を発行する時いつも「ああ、上司にとっての1時間は時給に換算すると自分の3倍以上の価値があるのか」と思う。

 例えばSNS等での発言力。フォロワーを多く抱える著名人の一言は瞬く間に世界中を駆け巡るけれど、自分の様な人間の言葉は多くの場合壁に吸い込まれて消えて行く。自己実現の度合いを測る為の『いいね』の数比べは不毛だと知りつつ、実際皆が気にしている。

 『ドラゴンボール』では戦闘力を測る「スカウター」というアイテムが出て来るけれど、自分達の価値もまた常に数値化され、誰の目にも分かる様に並べられ、比較されている。まるでアンドリュー・ニコル監督の映画『TIME』の世界だ。腕に書かれたデジタル数字の余命は人間性を秒単位で切り刻む。人生の残り時間を切り売りしてその日の糧を手に入れる暮らし。そして、そんなものを意識しない、無限に等しい寿命を持つ富裕層の暮らし。将来に希望を持つ事が許されない者達の鬱屈。勝者と敗者が明確に色分けされた世界がそこにはある。

 そうした世界の『生き苦しさ』を煮詰めて際立たせ、ライトノベルという器に盛り付けると本作になる。「皆が感じている(かもしれない)『生き苦しさ』ってこういう事だよね」「なんとなく今の社会に漂っている閉塞感の正体ってこういうものだよね」という問題提起。でもそこに今すぐ現状を打開する為の処方箋は無い。だから自分達はまた、自身が置かれた現実に向き合い、自分自身の力で社会との折り合いを付けて行くしか無い。そういう絶望、或いは希望を本作から読み取る時、自分の様な人間は溜息をつく。都合の良いハッピーエンドは現実には用意されていないから。

 

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自分達がこの国を喪う時 ヴィエト・タン・ウェン:編 山田文:訳『ザ・ディスプレイスト: 難民作家18人の自分と家族の物語』

 

 『難民』と呼ばれる人々がいる。

 難民と聞いて自分が真っ先に思い浮かべるのは、戦争や紛争によって故郷を追われた人々だ。生き延びる為に幾度も国境を越え、自分達を受け入れてくれる場所を、国を求めて歩き続ける人々だ。

 明日の事は分からない。どこに辿り着く為の道行きなのかも判然としない。今日の糧を、雨風を凌げる屋根を求めて、彼等は歩く。帰る家もなく、行くあてもない。行く先々で「よそ者」のレッテルを貼られ、どこかに根付こうとすればその度に小突き回される。「よそ者」が自分達の仕事を、富を奪いやがる。そんな風に恨まれて。国に帰れ。お前らが元々いた国に帰れよ。俺たち「この国の人間」に迷惑を掛けるんじゃねぇ。訳の分からん言葉を話すんじゃねぇ。違う神を信じるんじゃねぇ。群れるな。ここに居着こうとするな。目障りだ。出て行け。この「俺達の国」から出てけよ。

 そんな風に言われて、悔しくて、俯いて。本当は顔を上げ、相手を睨んで何か言い返してやりたくても、それすら許されない空気の中、喉元まで込み上げる叫び声を飲み込んで、振り上げる事が許されない拳を固く握ったまま、誰とも握手する事が出来ないその固く閉じられた手をポケットに押し込んで、また歩き出さなければならない。自分達は何も好き好んで国を出た訳じゃない。もう帰る場所は無いんだっていう事を、何で誰も分かってくれようとはしないんだ。そんな理不尽さと、世界の狭量さだけを道連れにして、また旅は続く。望まない旅が。

 けれどこんな自分の想像は、『難民』の一側面に過ぎない。本著を読むと、その事が分かる。

 一度難民になり国を追われた人々は、新しい場所で生活基盤を得たとしても、世代を重ね二世、三世になったとしても、やはりどこか難民としての影を引き摺ったままなのかもしれない。

 ルーツが違う。文化が違う。人種が、肌の色が、信仰のあり方が違う。話す言葉が違う。名前の聞き慣れない響き。夕餉の匂いの違い。様々な違いが、異国では「よそ者」の烙印になる。ではそれらを捨てて、行き着いた先の国に住む市民として同化して行けば良いのか。物事はそれ程単純ではないと思う。

 自分は思う。例えば日本人は、いや自分は時に「よそ者」を恐れ、避けようとしたり排除したりしようとするけれども、その恐れの源になっているのは、作られた「よそ者」のイメージなのであって、自分自身は実際に彼等と対面した事などほとんど無いのではないか。彼等の存在を無視し、目を逸らし、彼等を「そこに居ないもの」として扱いつつ、一方で思い込みに近い恐れだけを抱いているのではないだろうか。

 この国に少しずつ増えている異国から来た労働者に対する態度にしてもそれは同じ事で、この国は彼等を「労働力としては歓迎するけれども、この国で存在感を増す事は許さないし日本的な価値観に背く事も許さない」という歪な立ち位置に追いやろうとしているのではないか。外国人技能実習生だとか大層な呼び名で人集めをしておいて、実際は最低賃金で単純労働に従事させている例を知っているが、その行為がこの国の国際的な信用を失墜させているとは思わないのだろうか。

 もしも、この国が国策として海外から労働者を集める一方で、彼等を文化的には受け入れず、居場所も与えず、「よそ者」として処遇するならば、彼等は『難民』と呼ばれる人々と同じ様な孤独に突き落とされるのではないだろうか。そして最後にはこの国を憎んで去って行くのではないか。そんな気がする。

 自分が知っている外国人技能実習生の女性達は、タイからやって来て、製造業で働いていた。会社が借りたアパートで同じ実習生の仲間と共同生活し、日本人の正社員と何ら変わらないシフトで働く。それでも賃金は最低賃金だった。その環境に異を唱えるならば、彼女達は国に帰らなければならない。「嫌なら、不満があるなら辞めて出て行け」と言う人は多いだろう。技能実習生は難民じゃない。彼女達には帰れる祖国があり、好きで日本に「出稼ぎ」に来たのだからと。でも、日本人労働者が足りなくて、技能実習生を最低賃金で働かせる事で穴埋めをしているにしては、それは随分と横柄な態度ではないだろうか。

 難民を排斥する狭量さと、外国人労働者を冷遇する横柄さとは、等しく「よそ者」に対する恐れから来ているのではないかと思う事がある。彼等がこの国の中で数を増やして行く事への恐れ。日本という国が新興国に追い抜かれて行き、立場を失う事への恐れ。その一方で、彼等を頼らなければならない事への焦り。そうしたものからまた歪な愛国心や排外主義が育って行く悪循環がある。

 日本とは、そんな国だったか。そんな国になって良いのか。

 排外主義がこれまでの日本人の価値観に取って代わる日が来るのなら、それはもう自分が知る、自分が育った国とは呼べないのではないだろうか。その時が来たら、この国の中にあって、自分達は国を喪い、『難民』になるのかもしれない。

 

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神は死して何も語らなくとも・九岡望『言鯨16号』

 

 趣味で長いこと本読みをしていると、小説家の凄さを思い知る事が多々ある。例えば本作を読んだ時の様に。ただそれと同時に、小説家とか脚本家、或いはライターという職業を「何か自分でもなれるんじゃないか」と軽んじる言説に触れる事も多々あって、そのギャップはどこから生まれるんだろうと思う。

 端的に言って、その原因は「文章を書くだけなら誰でも出来る」からだ。

 日本は義務教育が行き届いているから、日本語の読み書きは皆それなりに出来てしまう。だから自分がこうして読んだ本の感想を書いているくらいの事はやろうと思えば今からだって誰にでも出来るし、多くの人がSNS等に日々書き込んでいる文章量をまとめたら、それこそ寡作な作家が1年に出版する作品の文章量を軽く超える様な人だっているかもしれない。

 でもそれは、「文章を書いた」事になったとしても、「小説を書いた」事にはならない。何故か。

 単純に「創作ではないから」とか「表現が拙いから」という事だけではない様に思う。

 例えば、ちょっとした「文章」を書いてみる。

“僕はマッチを擦って火を点けた。”

“僕はマッチ箱を取り、ぎこちない手付きで中から一本取り出して擦ってみる。擦り方が悪いのか、一度では上手く点けられずに数回繰り返してようやく火を点け、思ったよりも頼りないその火が消えぬ様に左手で風除けを作る。そうして仏壇の蝋燭に火を灯しながら、この作業を毎日淀み無く繰り返していた祖母の事を考えていた。その祖母の真新しい遺影が、揺らめく蝋燭の灯りに照らされている。”

 自分が思うに、これはどちらもただの文章であって、創作でもなければ小説でもない。前者は言わずもがなだが、後者にしたってただ文字数を増やし、それっぽく長い文章に仕立ててみただけで中身はない。これが、普通の人でも「文章ならいくらでも書けてしまう」という事で、絵を描くとか楽器を演奏するとかいう事が習得する事に一定の努力を要する「技能」とみなされる一方、小説や原稿を書く事が「何だか自分でもできそう」的な軽い扱いを受けてしまう所以なのではないかと思う。

 では本当に「文章を書く事は誰にでも出来るのだから、小説を書く事だって誰にでも出来るのか」というと、当然ながらそんな事は無いのだった。

 言葉というものを武器にして、世界を想像=創造し、登場人物達に命を吹き込み、彼等の物語を描き切る事。それを可能にするのが小説家という人々なのであって、その『言葉が意味を持って響き渡る事が世界を創造する』という過程こそが、まさに本作『言鯨16号』で描かれる物語とも重なる。

 これは何度か書いているけれど、かつて冲方丁氏が『ばいばい、アース』の中で、既存の言葉の意味をどんどん書き換えて行く事で異世界を構築していた事(例えば『飢餓同盟』に『タルトタタン』というルビが振られていたり)もそうなのだけれど、小説家が本当にやろうと思えば、ファンタジーにしろ、SFにしろ、現実から遠く離れた世界を、あたかも実在するかの様に緻密に描く事が出来るのだと思う。

 本作で言えば全てを飲み込む様に広がる砂の海を舞台に、神の様な存在でありながら今は姿を消した「言鯨(イサナ)」と、その遺骸を囲む様に作られた「鯨骨街」の姿を描く事。そして言鯨の遺骸から生じる「言骨」を採掘する炭鉱夫の様な「骨摘み」と呼ばれる人々の暮らしぶりや、その「言骨」を生成し、資源化した「詠石」がいかに人々の暮らしを支えているかという部分の描写。それらを「設定だけ緻密にする」のではなく、物語の流れの中で登場人物達の視点や想いを介しながら読者に分かりやすく開示して行く事。それら全てが繋がる所に、単なる作り事、作り話ではなく「物語」が生まれるのだろう。

 「物語る事」とは、自分に言わせれば楽器を鳴らす事と、楽器を演奏する事の違いの様に自明のものだと思う。自分は文章を書く(楽器を鳴らす)事は出来ても小説を書く(楽器を演奏する)事は出来ない。だから本作の様な小説を読むと感銘を受ける。現実には存在しない世界と、架空の登場人物が、小説の世界の中では現実に生きているという事に感じ入る。

 最後に。小説家が新しい世界を創造する時、それは多分神の視点なのだろうと思う。でもそれ以上に、自分達は(そう信じるなら)神によって作られた被造物だ。創り主はどんなつもりで自分達をこの様に不完全な代物として創ったのかなんて説明してくれない。それでも、生は続く。そのままならなさ、やるせなさ、でもその先に見える希望みたいなものが本作にはある。誰も何も保証してくれなくても、今を生きている自分達は、自分達の意思によってこれから先を生きていかなければならない。それを悲壮感あふれる物語としてではなく、希望が見える物語として描いてみせる事。そこに本作の真髄がある様な気がする。
 
 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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