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この世界のどこにもいない君へ・三秋縋『君の話』

 

 読み終えて、本を机の傍らに置いてから天井を見上げてみる。次に目を閉じて、ゆっくりと、今結末を迎えた物語を反芻する。全力疾走した後の短距離走者がゴールの後に息を整える様に、或いはダイバーが水から上がる時の様に、自分は少しずつ『現実』に帰って来る。自分の体が置かれている現実との同期を取り戻す。
 そして目を開けて、いたる所に本が置かれた部屋を見回して思うのだ。

 「この部屋は、<義憶>ばかりだ」

 本作について、自分は客観的な、そして冷静な感想を書く事は出来ないだろうと思う。その理由について、同じく三秋縋氏の『恋する寄生虫』の感想で書いた事を引用するならばこうだ。

 “BUMP OF CHICKENの『才悩人応援歌』という曲があって、その中に『自分のために歌われた唄など無い』という歌詞がある。それはきっと「だからこそ自分自身が、自分の為の歌を歌うべきなんだ」という意味に繋がっているのだろうと思うけれど、自分はこうも思うのだ。たとえその唄が、自分の為に歌われたものではないのだとしても、それを自分の為の唄だと思い込んだって良いのではないかと。そしてそれは、小説でも同じなのではないかと思う。”

 本作『君の話』についても自分は同じ様な受け止め方をしてしまう。この物語が、あくまでも自分の為に存在する物語であるかの様に勘違いしてしまうし、その勘違いに気付いていながら訂正しようとも思わない。そうして自分は数多くの小説や漫画、映画やゲームといった『物語』を、<自分の為の物語>として受容して来た。

 物語の登場人物に感情移入する事も、ゲームを操作しながら主人公に自分を投影して行く事も、映画を見て涙を流す事も、全ては極論すれば自分にとってかけがえのない<義憶>を得ようとする行為だったのではないかという気さえする。

 義憶。自分の中の欠損を埋める為に、偽りの記憶を書き込むという事が現実に出来る様になった世界。そして不都合な記憶を消去する事が出来る様になった世界。そこでは心の傷に対して、体に負った傷を治療するのと同じ様に手当てを施す事が出来る。心の傷は忘却によって丁寧にその傷跡を消され、孤独な者の心には大切な人との思い出が書き込まれる。実在しない<義者>との温かい思い出が、現実を生きる上での支えになってくれる。

 それらは嘘で、偽りで、だからこそ優しい。

 恋愛ドラマのキャッチコピーで、よく『真実の愛』という言葉を目にする。でもそういうものに触れて来なかった自分にとっては、真実なんて贅沢で手の届かないものの様に感じてしまう。恋愛以外だって同じ事だ。他者からの承認とか、自己実現とか、もっと青臭く言えば夢とか。それらは綺麗で、手を伸ばしたくなるけれど、掴み取る事が出来ない。いや、出来なかった。そのまま自分はここまで来てしまった。

 だから自分は物語に飢えているのだ。その事を本作に改めて指摘された気がする。

 常日頃意識しないでいようと目を逸らしている事。見て見ぬふりをしようと決め込んでいる事を改めて指摘される、その怖さと痛み。自分の中の脆くて弱い部分に鋭利な何かを突き刺される様な。だから自分は本作を読み始めてすぐに、これは怖い話だと思った。そして読み終えて、その予感は正しかったのだと思う。この物語は怖くて、痛い。でも心に痛みがあるのは、胸が苦しいと感じるのは、心に突き刺された何かが冷たいものではなく、むしろ温かいものだったからだ。優しさすら感じる程の。

 自分を理解してくれる誰か。自分が支えになりたいと思える他者。そうした『誰か』との出会いを自分達は心のどこかで待っている。それは山崎まさよし氏やスピッツの歌の中にいる『君』の様にとらえどころがない、具体的な名前のない『君』の様にも思える。

 まだ出会う事がない、もしくは過去にすれ違ってしまったかもしれない『君』の事を思い描く時の胸の痛みは、きっと義者との優しい思い出を思い起こす時に感じる暖かさと同じなのではないかと思う。その『君』は本当はどこにもいない。でも、『君』について思い描く時、そして物語の登場人物に感情移入する時、その「嘘の思い出」や「虚構の優しさ」が与えてくれる感情は、現実の誰かを思う時のそれと同じなのかもしれない。

 だから自分は、物語に執着する。

 現実が与えてくれない分を埋める為の義憶。人によっては虚しい事だと感じるかもしれない。虚構に耽溺する前に現実に目を向けるべきだと言われるかもしれない。ただ、自分はその事に反論しようとは思わない。何となれば、数々の物語が、言い換えれば義憶が、自分をこれまで生かしてくれた事を知っているからだ。

 そしてまたひとつ新しい義憶を自分は手に入れた。折に触れて読み返す事になるのかもしれない義憶だ。そしてこれからも貪欲に求め続けるだろう。それが本作の様な義憶なら幸いだと思う。

 

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ジャンル : 小説・文学

窮屈な現実世界からの、軽やかな解脱・八島游舷『天駆せよ法勝寺』

  

 最初に告白する。
 自分は古橋秀之氏の『ブラックロッド』が大好きで、それだけが理由ではないが、何を思ったか大学では寺の跡取りでもなければ美術を専門に学んだ事もない門外漢なのに仏教美術を専攻した人間である。そんな人間に「その中に金堂を内包した巨大な九重塔が、『佛理学(ぶつりがく)』によって駆動するロケットと化して星の海に飛び立つ」などという小説を与えるとどうなるか。

 素晴らしすぎてそれを言い表すには語彙が追い付かない。

 何せ『摩尼車(マニぐるま)』に『フライホイール』というルビが振ってある作品である。いや確かに回るけど! このルビは自分の中で『ブラックロッド』にあった『機甲祈伏隊(ガンボーズ)』辺りに匹敵する。しかも本作では摩尼車を高速回転させ、高速自動読経の結果として発生する功徳により佛の力が現出したりする。凄いぞ摩尼車。

 これらをギャグとして、一発ネタとしてやるならば、そんなに心惹かれるものは無いのだが、『ブラックロッド』にせよ『天駆せよ法勝寺』にせよ、物語そのものは非常にシリアスだ。ギャグでもなければネタでもない。そこが良い。

 スチームパンクが蒸気機関や機械式計算機が発展した架空の世界を描き出す様に、仏教が基幹となって佛理学が発展した世界を構築する。そこでは、現実世界では目に見えないし計測も出来ない『功徳』がエネルギーとして実在するし、曼荼羅は航宙図やレーダーとして機能する。そうした数々の『言葉の再構築』とでも言うべき言い換えや意味付けによって、実在する仏教用語はたちまちSF的な意味を付加され上書きされて行く。

 それは言い換えれば『世界を創る』という事だ。

 現実を解体し、言葉の意味を上書きし、それによって虚構の世界を再構築する。それは全くの白紙に自由に世界設定を書き込んで行くのとはまた違った快感があるのではないだろうか。そして読者の側からすれば、自分が見知っている筈の世界が、言葉が、異なる色に一気に塗り替えられて行くというのもまたひとつの快楽である。

 こうした『言葉の再構築』は、例えば冲方丁氏の『ばいばい、アース』等の中にも見られるが、それはルビの多用や言葉遊びという以上に、現実の解体と再構築として自分の目には映る。作者は自由に想像力を働かせつつ、仮に全ての名詞を自作した時程には作品が「現実離れ」しない。読者にしても元の言葉を見知っているが故に、その言葉の言い換えや意味の上書きに対して具体的なイメージを持ち易い。

 現実世界はある意味、『既に固まった世界』であると言える。良く言えば安定している。ただそこから一歩空想世界の側に踏み出して行こうとする時、その硬さは窮屈だ。人間の想像力や言葉は、もっと自由であっても良い。ただ空想の度が過ぎると、そこには現実味がなくなり、読者の共感を得る事が難しくなる。引力と斥力が釣り合う一点を探す様に、作者も読者も物語が安定する一点を探しているのかもしれない。現実に縛られず、それでいて作品が読者を置き去りにして空想世界の彼方に飛んで行ってしまわない様な、ある調和の取れた一点を。

 本作もまた、そうした調和を目指しているのではないか。窮屈な現実世界から飛び立つ星寺は、読者をも乗せて飛翔して行くのだろう。

 

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ジャンル : 小説・文学

人の再生の物語として・黒澤いづみ『人間に向いてない』

  

 書店で本を選んでいる時、不意に買う予定のなかった本に吸い寄せられる事がある。本作もそんな本だった。

 顔が溶け出した様な母親が、これもまた体が溶け出している子どもを抱きかかえている様に見える表紙。『人間に向いてない』という飾らない題名。帯にある「ある日、息子が虫になりました。」という書き出しで始まる文章。これは何だろう、と惹きつけられる何かがあった。

 本作では『異形性変異症候群』という病によって、人が一夜にして異形の存在に変質してしまう様になった世界が描かれる。カフカの『変身』を、虫になってしまった青年の視点ではなく、彼の家族の側から描いてみせる様な物語だ。

 『異形性変異症候群』は人を異形の存在、有り体に言えば化物の様な姿に変えてしまう。ある者は人の顔を持った犬の様になり、またある者は人間の目玉を持った魚の様になる。葉の代わりに人の指を茂らせた植物の様になってしまう者もいるし、芋虫の様な姿になってしまう者もいる。

 体の構造が人間とはかけ離れてしまっているからなのか、変異者の多くは言葉を発する事が出来ない。変わってしまった彼等の中に、姿形が変わる前と同じ心があるのかどうかは推し量れない。何よりその外見の気味の悪さから、当初はそれが家族の変わり果てた姿とは気付かれずに殺害されてしまうケースが相次ぐ事になった。やがて政府は、この病によって変異してしまった人間を法的には死亡したものとして扱い、全ての人権を停止する事を決める。だから変異者を殺しても罪にはならないし、扶養する義務もない。

 社会がパニックに陥る寸前で持ち直したのは、この病が若年層、特にニートや引きこもりといった背景を持つ者の間にだけ発症するものだという事がわかってきたからだった。多くの人にとってこの病は「自分とは関係がない」と切り捨てられる類のものであり、中には結果として社会的弱者を『間引く』事になったこの病の発生を「因果応報であり、天の配剤だ」と喜ぶ者さえいた。

 では、変異者本人にとって、そしてその家族にとって、この病とはいかなるものなのだろうか。本作は引きこもりの息子が芋虫の様な姿に変異してしまった、ひとつの家族の姿を追う事で、それを丹念に描いて行く。

 身内から変異者を出したと知られる事は、自分達が「失敗した家族」である事を衆目に晒されるのと同じなのかもしれない。問題のある家族を抱えていたという事。そして変異するまで救う術を持たなかったという事。そして物言わぬ変異者は、その事を責めている様にも思える。だから多くの家庭では、変異者を保健所に引き渡す。または育てきれなくなったペットの様に野山に捨てる。変異者に人権はないから。彼等はもう死んだものとして扱われるのだから。厄介者の存在を捨てて、人生を、家族をもう一度やり直すチャンス。そう捉える者がいたとして、誰がそれを責められるだろうか。

 でも一方で、そんな割り切り方が出来ない者もいる。化物の様な姿になってしまっても、息子を、娘を捨てる事は出来ないし、保健所に引き渡して『処分』してもらう事も出来ない。まして自ら手を下すなど。ならば、どうしたら良いのだろう。

 変異者の家族は、彼等が変異してしまった事で、あらためて我が子の、そして家族の問題に向き合う事を迫られたのだと言える。引きこもりの我が子がいつか立ち直るのを期待して、干渉を避け、ただ食事を部屋に運ぶ様な暮らしを続ける事はもう出来ない。彼等が本当は何を考え、どんな悩みを持ち、何に苦しんでいたのか。どうしてその悩みを我が事として共有する事が出来なかったのか。自分は失敗したのか。失敗したのだとしたら何が悪かったのか。そして、今からやり直す事は出来るのか。失われた信頼関係を、もう一度築き上げる事は可能なのか。

 本作はそうした事を考える為の寓話なのだろうと思う。そして、「強者による弱者切り捨て」ではなく、「弱者による弱者切り捨て」が起こり始めているこの国の行末に警鐘を鳴らすものでもあるのだろう。

 自分の様な、中流より下に位置する暮らしぶりをしている人間が、例えば生活保護に頼って暮らしている様な人を見て「自分はこんなに苦労して今の生活を維持しているのに、なぜ何もせずに食べて行ける様な人がいるの?」と思ったとする。正直、自分もたまに思う。冗談半分でではあるけれど。それは「自分も誰かに助けて欲しい」という気持ちが負の方向に裏返って、自分も働かなくて食べて行ける身分になってみたい=親に食べさせてもらえるニートや国に食べさせてもらえる生活保護受給者は、何の努力もせず、種を蒔かずに実を食べるばかりでずるい、という短絡的な思考に陥るからだ。

 「こいつらさえいなければ」
 「この世から消えてくれれば」

 自分の人生の足枷になっている奴に消えて欲しい。そうすれば自分は楽になれる筈だから。

 この考えは、結論から言うと間違っているのだけれど、理屈としては一見正しそうに見えて共感を集め易い所が非常に質が悪い。屁理屈に見えない屁理屈とでも言うのだろうか。ただそれは、自分が社会的弱者に日々どんな視線を向けているのかという事を端的に示すものでもある。これではどっちが『化物』なのか分からない。

 そしてもうひとつ、自分の様に自分自身を『人間に向いてない』と思う事がある様な人間にとって、変異者の姿と彼等が抱えている苦悩は身近なものだ。実感を伴ったものとして、自分は本作を読む事が出来る。ただ、たとえ人間に向いていないとしても、自分はこれまでもこれからも人間でいるしかないのだ。いっそドロップアウトしたい。消えてしまいたいと思っても、その願いは叶わないし、叶えてはいけない類のものだろう。ならばどうするか。再生への道を見付けるしかない様にも思える。

 再生とは何か。例えばそれは社会の再生であり家族の再生なのかもしれない。個人の自己実現や、自己肯定感を取り戻す事も一種の再生だろう。そして、それらは『人間関係の再生』というテーマに繋がっているのだろうと思う。本作の様に、人間が人間でなくなってしまう様な事態にならなければそれに気付けないのか、やり直せないのかと問われれば忸怩たるものはあるが。

 人間に向いていない自分は、ある日突然どんな変異者になるのだろうと考える。そしてその時、誰が寄り添ってくれるだろうか。薄気味悪い姿になった自分を捨てずに、手を差し伸べてくれる誰かはいるだろうか。そして自分もまた逆の立場であれば誰かに手を差し伸べる事が出来るだろうか。そうした事を思いながら目を閉じる時に、人間に向いていない自分でも、まだ人間でありたいのだなという事に気付いたりもする。目を開けた時に、毒虫に変わっている自分を見付けたくはないから。

 

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ジャンル : 小説・文学

静かな怒りを燃やし続けて マーガレット・アトウッド:著 斎藤 英治:訳『侍女の物語』

 

 最近、大人があまりにも幼稚な振る舞いをするのを見るにつけ、自分にしては珍しく怒ったり落ち込んだりと気持ちの上で忙しかった。端的に言えば、自分はこの世の中はもう少しまともだと思っていたのだけれど、その期待は裏切られたらしい。

 自分には「きちんとした大人になる事が出来なかった」というコンプレックスがあって、当然それは自分の中の「こうあって欲しい大人像」というものと自分が乖離しているから生じる気持ちなのだけれど、こうも大人が(それも社会的な地位も名誉もある大人が)情けない姿を晒してしまうと、もしかしてちゃんとした大人などというものはこの世には存在していなくて、自分はただ自分勝手に抱いた理想が裏切られた事に憤っているのかもしれないとは思う。

 人間は生まれながらに善であり、時に誘惑に負けて悪に落ちるものなのか、それとも生まれながらに悪であり、放っておけばどんどん堕落してしまうので、不断の努力で理性や善性を保っているのか。今は後者である様な気がしている。

 人間の本質が『悪』だとして、(まあこの悪というのもどんなものを指して悪というのかが難しいのだけれど)例えば身近な所で日常的に行われているセクハラやパワハラといった権力の濫用もその悪の一例だろうし、様々な差別意識やモラルハラスメントの類もそれに当たるのだろうけれど、それらが日常の中にはびこっているというのは、何もそれを行う側が意図的に相手を痛めつけてやろう、傷付けてやろうと「意識して行っている」からではなく、むしろ自然に、何の悪気もなく、「無邪気に」行っているからだろうなと思う。むしろ「良かれと思ってやっている」という気もする。そうする事が世の中の為であり、国益であり、正しい事であり、つまりは『善』であるという思考の結果が、あらゆる『悪』に繋がって行くというのは、何だか人間というものの業の深さを見せ付けられる様で息苦しい。

 自分の行いは本当に正しいのか。

 それを自ら疑ってかかるというのは苦しい事だし、愉快な事ではない。でも、自分に対するそうした『疑いの目』を捨ててしまった時、人間が本来持っているべき倫理観といったものは容易に損なわれてしまうのだろう。本作『侍女の物語』の様に。

 本作では様々な要因から「健康な子どもを出産出来る女性が限られる社会」という架空の未来史を設定し、その中で主に女性がどんな生き方を強いられて行くか、そして男性がそれにどう関与して行くのかが描かれる。

 まず、女性の権利が徐々に削ぎ落とされて行く。例えば全ての女性はある日突然に雇用主から解雇通告される。そして自分名義の口座は凍結され、配偶者がこれを管理する様になる。次には健康な子どもを身籠る事が出来る女性が選別され、それまで一緒に暮らしていた夫や子どもと引き離されて、子を儲ける事が出来ない特権階級の家庭に『侍女』として配属される様になる。侍女の役目は、高官達の妻の代わりに子を産む事だ。そして子を産む能力が無いとみなされた女性や、従順ではない者、また反体制派と繋がりがあると目された者は過酷な強制労働が行われるという『コロニー』に送られて行くか、或いは絞首刑にされる。

 主人公はとある高官の侍女として彼と性交をする事を求められる。その行為には愛情も快楽も存在しない。義務的に、事務的に、高官の妻に監視される中で行われる「それ」は、女性が自由にパートナーを選んで行っていたそれとは当然違うし、かといって犯罪行為として行われる強姦でもない。侍女達は仕事として、日々の生きる糧を得る為に、自分の社会的地位を守る為に、男性の、或いは国家というシステムの所有物として扱われる事を自ら選ばなければならない。当然他の選択肢など存在しない訳だが、その「選択の余地がない選択」を女性に強いて行く過程が妙に生々しい。

 本作はディストピア小説とされる。そして大抵のディストピアがそうである様に、社会をその様に構築している側は、つまり男は全くの正気で、むしろ良かれと思ってそれを行っている。女性の社会的自立を妨げる事も、それこそ『産む機械』発言ではないけれど、女性の役割は「子を孕む事」であると定める事も、当然の事として行われて行く訳だ。他にも女性の衣服に制限をかける事はむしろ女性を守る為だとされるし、男性にしても誰が子を持つ権利を有するかを国家が統制する事は当然の事だとされる。社会的地位が低い男性や反体制思想の男性は、子を持つ権利を間接的に奪われる訳だが、それは結果的には断種と同じ事だ。断種は言うまでもなく「人道に対する罪」であるが、国家それ自体が断種行為を是とするならば、それを裁く者はいなくなる。

 『正気』によって下されて行った判断の数々が、結果として巨大な『狂気』の構造を形作って行くこの過程は、男女の性差や価値観の違いといった小さい原因から生じているのではなくて、人間というものがそもそも『邪悪』だからなのではないかと思わせる。邪悪という言葉が悪意に満ちているというのであれば『無邪気』と言い換えてもいい。人は自分が思う程には正しくもないし正気でもない。その事に自覚的でないと、自分達は容易に選択を誤るし、誰かを傷付ける。それも致命的に。

 セクハラやパワハラといった言葉がニュースで流れる度に、自分達は何だかそれに慣れてしまって、何が起きても驚かなくなり、憤らなくなってしまっている様に思う。それは「あり得る事」であり、「仕方のない事」に成り下がってしまっている。じゃあ自分がこの間日大に対して思いをぶち撒けた様に、ただ単なる怒りを勢いに任せて書き殴れば良いのかというと、そうでもない。それはただ単に個人のストレス発散以上の意味を持たないし、自分もその事を反省しなければならない。

 きっと社会に必要なのは「静かに怒り続ける事」なのだろう。

 世の中に蔓延っている不正や差別といったものに向き合い、正しく怒り、それを本作の様な形に昇華して広く世に問うて行くという事。怒りを爆発させるのではなく、その静かな怒りの炎によって言葉を鍛造し、鋭く研ぎ上げ、世に斬り込む事。そうした冷静さが、静かな怒りがある事が、きっとこの世界を、社会を、昨日よりはマシなものに作り変えて行く。

 自分が今感じている怒りは、憤りは、理不尽さは、本当に仕方がない事だろうか。その怒りは、消してしまうべきか。そして怒りを燃やし続けるならば、それによって自分はどんな言葉を発して行くべきなのか。本作は広く人々にその事を問うている様に思う。

 

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ジャンル : 小説・文学

そこにあるのは、ディストピアか・小川哲『ユートロニカのこちら側』

 

 例えばネットショップで買い物をする時に、過去の購入履歴や閲覧履歴から、「あなたにはこちらの商品もおすすめです」等の提示を受ける事がある。小説で言えばいつも作品を購入しているお気に入りの作家の新刊や、ふと思い立って有名作を買ってみた作家の過去作品、またそれらから導き出された全く別の作家の作品など、色々なものがおすすめ作品のリストに上がってくるわけだ。

 使ってみればなかなかに便利な機能だ。ただ、便利だからとつい無批判に受け入れてしまうが、一歩退いてみればこれは自分の趣味嗜好がデータとしてどこかに蓄積され、利用されているという事でもあり、もっと言えば本好きの人間が提供している膨大なデータによってこの機能が高度化し、精度が上がって行くとするなら、自分の判断で新刊に手を出すよりも、ショッピングサイトのおすすめ作品を次々消化した方が有意義だ、なんていう事が近い将来に起こるかもしれない、という事でもある。

 自分は思う。人間は自由を欲するが、同時にその自由によって日々あらゆるものを選択しなければならないという事に疲れ果ててもいる。そして、選択を誤った結果失敗するのではないかという恐怖に取り憑かれてもいるだろう。

 些末な話で言えば食事のメニュー選びもそうだ。どの店に入るか。どのメニューを注文するか。自由に選べるからこそそこには悩みがあり失敗がある。その苦悩を無くすにはどうすればいいか。殺伐とした方法としては、あらゆる料理をこの世界から消し去って、俗に「ディストピア飯」などと呼ばれるものしか残さない、つまり選択肢を潰すというやり方がある。ただ、そこまで無茶な方法をとらなくても、もっと簡単に出来る方法もある。先に挙げた様な技術を駆使して人間の『選択する自由』に介入してやればいい。「あなたにはこんな食事がおすすめですよ」という程度のやんわりとした触れ方で、人の意思決定に介入してやればいいのだ。そこに医学的なデータや個人の食事に関する嗜好といったものの裏付けがあればなお良い。そして「このおすすめに従ったら良い結果が出た」という成功体験を積み重ねて行く。それはやがて強固な条件付けとして機能するようになるだろう。その先に何があるのか。それは人の『意志』の消失なのかもしれない。

 本作『ユートロニカのこちら側』では、人の視覚や聴覚、位置情報といったあらゆるデータを企業が収集し、利用する事を許す代わりに、つまりはプライバシーが大幅に制限される代わりに豊かな暮らしが送れる様になったある都市の姿が描かれる。そこでは働く必要もない。都市を運営する企業が、個人が提供する情報の対価として生活に必要な収入を与えてくれる。そして、悩む事もない。自分がどんな行動をするべきか、全てに「おすすめ」がついて回るからだ。大量のデータを収集し、統計を行い、人の行動を予想して行けば、健康の為に今食べるべき食事から犯罪の容疑者割り出しまで全て機械任せにできる。もっと言えば、「これから先犯罪を行うであろう人物」を事前に洗い出して犯行前に確保する事さえ可能だ。

 こうした世界の中で、人間はどの様に生き、どの様に変質して行くのか。
 そして、変わらないものがあるとすれば、それは何か。
 本作が問うているのは、きっとそこだと思う。

 本作は「人間は自由意志を、人間性を放棄するべきではない。ロボットの様に生きるべきではない」という様な結論ありきで描かれる作品ではない。むしろこの先起こり得る自分達の変容に対するひとつの思考実験の様だ。そして本作の描く未来の姿は、きっとそう現実とかけ離れたものではない気がする。

 自分は時に思う事がある。果たして人間には自由意志などという高尚な機能が本当に必要なのだろうか。

 例えば映画『マトリックス』の中で、キアヌ・リーブスが演じる主人公のネオはコンピューターの支配から人類を救う救世主として描かれるが、自分が感情移入するのはむしろ仮想世界に戻る為に仲間を売るサイファーの方だ。醒めない夢を見て生きる事の何が悪い? 仮想であってもそれを現実として生きるならば、それが自分にとっての現実であり、幸福な人生だ。そう願う人間の弱さを自分は否定できない。特に自分の心が弱っている時には。

 生きて行くという事は選択の連続で、自らの選択には責任が伴う。振り返れば間違いばかりだった気もするが、仮に自分がこれまで何度も躓いてきた道程に、本当はもっと『正解』と呼べる様な道筋があったとしたら。そして誰かがそれを教えてくれていたなら。自分の意志によって、選択によって『間違う権利を得る』事と、自分以外の何かに縋る事で『自由意志を失う』事のどちらが幸せだと、或いはどちらが正しい事だと、一体誰が決められるだろうか。

 今よりももっと厭世的だった頃の自分は、極論すれば機械になりたかった。汎用ではない、単一の機能に特化した機械。自由意志など無く、決められた役割を死ぬまで全うする機械だ。そこには悩みも、迷いもない。そういう超然とした存在になりたかった。今は必ずしもそうではないとはいえ、そうした志向を持っていた人間からすると、本作が描き出す世界がディストピアなのだと規定するのは早いのではないかと思う。近い将来、人は自ら望んで自由意志を捨て去るのかもしれない。そして意志もない代わりに、迷いも悩みも抱かない存在にシフトして行くのかもしれない。その未来を、ユートロニカを自分は見てみたいのだ。きっと。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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