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まだ見ぬ未来への加速・八島游舷『Final Anchors』

 

 自分がSFを好きな理由は、多分「物語が、そして人間の想像力が軽やかに現実を超えて行く瞬間が見られる」からなのではないかと思う。

 本作はAI制御による自動運転技術が発達した近未来を描いている。それは作家ではない自分が想像する近視眼的な未来予想図とは比べ物にならない様な、遥か先を見据えた未来像だ。ただそれは『未来』ではあるけれど、荒唐無稽な『空想』ではない。あくまでも今自分が立っているこの現実世界と「地続き」になっている。何年後か、何十年後かはわからないけれど、自分達が歩みを進めて行った先に、本作で描かれている様な未来が確かに存在するのだろうと思わせる様な現実味がある。それが本作の面白さなのではないかと思う。

 この「地続き感」を説明するにはどうしたら良いだろう。

 例えば自動車を自動運転させる技術と聞いて、自分が思い描くのは精々「自動運転車が事故を起こしたら、その責任は誰に帰するのか」というレベル止まりだ。

 自分は運送会社で運行管理者をしていた事がある。地方の、中小企業レベルの運送会社だったけれど、各地の営業所を合わせれば毎日60台以上のトレーラーや大型車が運行する。そうすると、どんなに無事故を目指していても毎月何かしらの事故が起こるものだ。せめてひと月くらいは無事故の月があっても良いだろうと思うのだけれど、「バック中の安全確認が不十分で他車や器物に接触した」という比較的軽微な事故から「雪道でスリップした挙句に歩道を乗り越えて民家の壁を突き破った」なんていう大事故まで、本当に毎月何かしら事故が発生していた。死亡事故が無かった事だけが救いだったけれど、一歩間違えば或いはそうなっていたかもしれない事故は数知れない。事故の度に自分は保険会社と連絡を取り、先方に謝罪し、場合によっては過失割合を協議した。そして実感したのは「事故処理というのは責任を処理する事だ」というものだ。

 事故が起きた時にハンドルを握っていたドライバー個人の責任。それが仕事であれば、雇用主である会社が安全教育を疎かにしていなかったかどうか、運行管理者が過労運転をさせていなかったかどうかという責任もある。そして相手車も走行中であったという事なら、発生した事故についての過失割合が問われる。事故状況は分析、整理され、実際の事故と類似した過去の裁判例を基準にして話し合いが行われる。誰に、どれだけ事故の責任があるのかを明確化して行く事。それが事故処理だと自分は思う。

 自動運転技術の普及は、その「責任の所在」というものについて一石を投じるだろうと思う。ドライバーが完全に自動運転に頼って走行する様になった時、事故の責任は自動運転技術を開発したエンジニアに帰するのか、自動運転に必要な各種センサーを含めた車体を製造した自動車メーカーに帰するのか。自動運転車と一般車の事故ならどうか。自動運転車同士の事故の場合はどうなるか。
 そうした自分の想像が近視眼的だというのは、本作で描かれる世界はそれを遥かに超えた先を描いて行くからだ。

 名前を持ち、人格を有したAIが自動運転を制御する。それでも避けられない事故が発生する場合、人間では知覚すら出来ない様な、衝突までの僅かな時間――0.5秒――の中で、AI同士の通信が行われる。それは人間にとっての欠席裁判だ。今まさに衝突しようとしている2台の車両に乗っている人間の「どちらを生かすべきか」を決める為の。

 走行中の車両を制動距離ゼロで停止させる為に路面に打ち込まれる強制停止アンカー。片方がそれを使用すれば衝突は回避されるが、エアバッグでも吸収しきれない衝撃に晒されるドライバーはほぼ確実に死亡し、車載AIもその衝撃で自壊する仕様になっている。故に通称「ファイナル・アンカー」と呼ばれる最終手段を、どちらの車両が使うべきか。それを決める為に、AI達は仮想法廷で対峙する。自分自身と、ドライバーを生かす為に。

 自分の目に見えている未来が「事故責任の所在」という直近の変化までしか捉えられていないものであるのに対し、本作が描く未来は「人間よりも遥かに優れた能力を有するAIが、人間には知覚すら出来ない時間の中で『人間の価値』に言及し、それを比較検証し、誰が生き残るべきかを決めて行く」というレベルにまで高度化した世界だ。しかもそれは完全な空想の世界として宙に浮いている訳ではなくて、今自分達が立っているこの現実から進んで行った先に「地続きの未来」として確かに存在しているだろうと思わせるものだ。その事が、自分には恐ろしくもあり、興味深くもある。

 作家の目に見えている未来は、自分の様な凡夫が想像する未来よりも遥か先にある。そして自分は、作品を読む事で作家が見据える未来像に追い付く事が出来る。その加速を感じる時の快感は、日常生活では得難いものだ。だから自分はこれまでも、これからも、こうした物語を求めて行くのだろうと思う。

 

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きっと仕事が自分達を形作っている・柞刈湯葉『未来職安』

 

 感想書きもちょっと間が空いてしまってリハビリが必要な感じ。本を読む時間を他の事に回していたせいもあるのだけれど、昨年の秋頃に転職した為に新しい業務内容や職場環境に慣れないといけないという事もある。まあそれも気付けばもうすぐ1年が経つ訳だけれど。

 さて、仕事といえば結構前から、いわゆる『お仕事小説』というものが注目される様になって、働く読者達の共感を集めていたのだけれど、本作は題名の通り『職安小説』であり、それも「未来の職安」をテーマにしている所が面白いと思う。どの位「未来」なのかと言うと、それはもう今自分達が(というよりもメディアがかな?)戦々恐々としている「AIに仕事を奪われる」未来が現実になって、仕事が無くなるどころか「国民の99%は働かない<消費者>としてベーシックインカムをもらいながら生き、残り1%が<生産者>として働く世界」という所まで行き着いてしまった未来が描かれる。そんな時代の「職安」って何なの? 成立するの? という疑問に作者がどう答えて行くかという点が本作の面白さなのではないかと思う。

 とはいえ、本作に登場する「職安」は自分達が良く知っている職安の「受付をして検索機の順番待ちをする」「検索機から求人票を出力したら窓口に出してまた順番待ちをして応募可能かどうか確認を取ってもらう」「沢山の求職者で混み合っていて、自分だけが求職者ではないのだなという安堵と、早くここから抜け出さないと、という焦燥感が入り混じった感覚に襲われる」といったいわゆる「職安独特の雰囲気」とはかけ離れている。仕事に就く<生産者>が人口の1%しかいない世界なのだから当然といえば当然なのかもしれないが、本作に登場する職安は個人探偵事務所の様だ。そこに仕事を求めてやって来る求職者達もまた、厄介な依頼を探偵事務所に持ち込む依頼人に似ている。

 普通、<生産者>が1%しかいない世界というと「物凄い才能を持った、能力とやる気に溢れた人間が、決して機械には代替出来ない類の研究開発や先進的な分野を切り開く為に生産者をやっていて、残りの<消費者>はそれにぶら下がっているだけ」という様な世界を思い浮かべがちだと思う。実際それは間違っていない部分もある。ただ、それだけじゃない未来のお仕事というものもきっとあって、言ってみれば本作は「人間が労働力として必要とされなくなった世界で、何が人間の仕事として残るだろう」=「機械に代替されない人間らしさとは何だろう」という事を考えてみる物語でもある様に思う。そして当然の事ながら、人間というのはいい加減で無駄が多く非合理的な生き物なのであって、そんな人間らしさから生じる仕事というものもまたどこか滑稽で皮肉が効いていて笑えるものが多い。例えば「自動運転車が交通事故を起こした際に頭を下げて辞職する為の仕事」とか。

 そんな馬鹿な、と思うか、ああ、それって確かに人間らしいよね、と思うか。自分は後者だったけれど、そうした人間らしさと仕事の関係というものをもう一度考え直す作品としても本作は機能すると思う。

 少し真面目な話をすると、近年、ブラック企業や非正規労働の常態化によって心や体を壊される労働者が多いと思う。自分も仕事がもとで体調を崩した結果転職をした訳だけれど、労働者がそうして「壊れてしまう」のは、「非人間的な労働環境に自分を適応させる為に無理を強いられる」からだと自分は思っている。もちろん他にも「職場の人間関係」という人間性から発する問題もある事はあるのだけれど、これとて職場環境が非人間的である余裕の無さから生じている軋轢だと考えられない事もない。長時間労働、サービス残業といった労働者を人間扱いしない制度が労働法を無視した職場内の不文律として横行する事、そして労働者が自らの生活を守る為に、有り体に言えば収入を失わない為にそれらの理不尽を飲み込んで、自分の方を歪な形態の仕事に合わせようと無理をする事にそもそもの問題はある。

 自分は思う。企業や雇用者が求める労働力に人間性を認めていないのだから、そうした「人間性を失わなければ適応できない仕事」はどんどん機械化、自動化されて奪われて行けば良い。最初から人間性を持たないものに任せれば良い。人間が、人間だからこそやるべき仕事、できる仕事というものがこの世にはまだある筈で、その事に注力する為のリソースを奪っているのはこの手の非人間的な仕事なのではないか。

 そして、もうひとつ。『仕事』とか『職場』というのは単純に収入を得る為の手段であり場である一方で、労働者である個人が社会との接点を持つ場でもあるという事。それを『自分の居場所』とまで思ってしまうのは危険なのかもしれないけれど、先に述べたマイナス面と同じ位に、きっとこちらも大事な事なのだろうと思う。自分がいる事が、自分の仕事が、誰かの助けになったと思える時にちょっと気持ちが温かくなったりする事は確かにある。それが「やりがい搾取」の様な形で悪用されてしまうのは大問題ではあるのだろうけれど、その素直な達成感とか、小さな自己実現を否定してしまうのも辛い事だ。

 昔、大学の恩師が自分に語ってくれた様に、人間は良くも悪くも一生の内の大部分を仕事に費やす事になる。だからどんな仕事に就くかというのは、どうやって糊口を凌ぐかという切実さと同じ位には「仕事とは自分自身を規定するものなんだ」という位に大きな問題として捉えるべきなのだろう。自分が望む仕事に就ける様な幸運に恵まれるのは一握りの人間だけなのだとしても、どこか頭の片隅に「仕事が自分を形作っている」という事を覚えておく事。それが意外と大事な事なのかもしれない。

 

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この世界のどこにもいない君へ・三秋縋『君の話』

 

 読み終えて、本を机の傍らに置いてから天井を見上げてみる。次に目を閉じて、ゆっくりと、今結末を迎えた物語を反芻する。全力疾走した後の短距離走者がゴールの後に息を整える様に、或いはダイバーが水から上がる時の様に、自分は少しずつ『現実』に帰って来る。自分の体が置かれている現実との同期を取り戻す。
 そして目を開けて、いたる所に本が置かれた部屋を見回して思うのだ。

 「この部屋は、<義憶>ばかりだ」

 本作について、自分は客観的な、そして冷静な感想を書く事は出来ないだろうと思う。その理由について、同じく三秋縋氏の『恋する寄生虫』の感想で書いた事を引用するならばこうだ。

 “BUMP OF CHICKENの『才悩人応援歌』という曲があって、その中に『自分のために歌われた唄など無い』という歌詞がある。それはきっと「だからこそ自分自身が、自分の為の歌を歌うべきなんだ」という意味に繋がっているのだろうと思うけれど、自分はこうも思うのだ。たとえその唄が、自分の為に歌われたものではないのだとしても、それを自分の為の唄だと思い込んだって良いのではないかと。そしてそれは、小説でも同じなのではないかと思う。”

 本作『君の話』についても自分は同じ様な受け止め方をしてしまう。この物語が、あくまでも自分の為に存在する物語であるかの様に勘違いしてしまうし、その勘違いに気付いていながら訂正しようとも思わない。そうして自分は数多くの小説や漫画、映画やゲームといった『物語』を、<自分の為の物語>として受容して来た。

 物語の登場人物に感情移入する事も、ゲームを操作しながら主人公に自分を投影して行く事も、映画を見て涙を流す事も、全ては極論すれば自分にとってかけがえのない<義憶>を得ようとする行為だったのではないかという気さえする。

 義憶。自分の中の欠損を埋める為に、偽りの記憶を書き込むという事が現実に出来る様になった世界。そして不都合な記憶を消去する事が出来る様になった世界。そこでは心の傷に対して、体に負った傷を治療するのと同じ様に手当てを施す事が出来る。心の傷は忘却によって丁寧にその傷跡を消され、孤独な者の心には大切な人との思い出が書き込まれる。実在しない<義者>との温かい思い出が、現実を生きる上での支えになってくれる。

 それらは嘘で、偽りで、だからこそ優しい。

 恋愛ドラマのキャッチコピーで、よく『真実の愛』という言葉を目にする。でもそういうものに触れて来なかった自分にとっては、真実なんて贅沢で手の届かないものの様に感じてしまう。恋愛以外だって同じ事だ。他者からの承認とか、自己実現とか、もっと青臭く言えば夢とか。それらは綺麗で、手を伸ばしたくなるけれど、掴み取る事が出来ない。いや、出来なかった。そのまま自分はここまで来てしまった。

 だから自分は物語に飢えているのだ。その事を本作に改めて指摘された気がする。

 常日頃意識しないでいようと目を逸らしている事。見て見ぬふりをしようと決め込んでいる事を改めて指摘される、その怖さと痛み。自分の中の脆くて弱い部分に鋭利な何かを突き刺される様な。だから自分は本作を読み始めてすぐに、これは怖い話だと思った。そして読み終えて、その予感は正しかったのだと思う。この物語は怖くて、痛い。でも心に痛みがあるのは、胸が苦しいと感じるのは、心に突き刺された何かが冷たいものではなく、むしろ温かいものだったからだ。優しさすら感じる程の。

 自分を理解してくれる誰か。自分が支えになりたいと思える他者。そうした『誰か』との出会いを自分達は心のどこかで待っている。それは山崎まさよし氏やスピッツの歌の中にいる『君』の様にとらえどころがない、具体的な名前のない『君』の様にも思える。

 まだ出会う事がない、もしくは過去にすれ違ってしまったかもしれない『君』の事を思い描く時の胸の痛みは、きっと義者との優しい思い出を思い起こす時に感じる暖かさと同じなのではないかと思う。その『君』は本当はどこにもいない。でも、『君』について思い描く時、そして物語の登場人物に感情移入する時、その「嘘の思い出」や「虚構の優しさ」が与えてくれる感情は、現実の誰かを思う時のそれと同じなのかもしれない。

 だから自分は、物語に執着する。

 現実が与えてくれない分を埋める為の義憶。人によっては虚しい事だと感じるかもしれない。虚構に耽溺する前に現実に目を向けるべきだと言われるかもしれない。ただ、自分はその事に反論しようとは思わない。何となれば、数々の物語が、言い換えれば義憶が、自分をこれまで生かしてくれた事を知っているからだ。

 そしてまたひとつ新しい義憶を自分は手に入れた。折に触れて読み返す事になるのかもしれない義憶だ。そしてこれからも貪欲に求め続けるだろう。それが本作の様な義憶なら幸いだと思う。

 

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窮屈な現実世界からの、軽やかな解脱・八島游舷『天駆せよ法勝寺』

  

 最初に告白する。
 自分は古橋秀之氏の『ブラックロッド』が大好きで、それだけが理由ではないが、何を思ったか大学では寺の跡取りでもなければ美術を専門に学んだ事もない門外漢なのに仏教美術を専攻した人間である。そんな人間に「その中に金堂を内包した巨大な九重塔が、『佛理学(ぶつりがく)』によって駆動するロケットと化して星の海に飛び立つ」などという小説を与えるとどうなるか。

 素晴らしすぎてそれを言い表すには語彙が追い付かない。

 何せ『摩尼車(マニぐるま)』に『フライホイール』というルビが振ってある作品である。いや確かに回るけど! このルビは自分の中で『ブラックロッド』にあった『機甲祈伏隊(ガンボーズ)』辺りに匹敵する。しかも本作では摩尼車を高速回転させ、高速自動読経の結果として発生する功徳により佛の力が現出したりする。凄いぞ摩尼車。

 これらをギャグとして、一発ネタとしてやるならば、そんなに心惹かれるものは無いのだが、『ブラックロッド』にせよ『天駆せよ法勝寺』にせよ、物語そのものは非常にシリアスだ。ギャグでもなければネタでもない。そこが良い。

 スチームパンクが蒸気機関や機械式計算機が発展した架空の世界を描き出す様に、仏教が基幹となって佛理学が発展した世界を構築する。そこでは、現実世界では目に見えないし計測も出来ない『功徳』がエネルギーとして実在するし、曼荼羅は航宙図やレーダーとして機能する。そうした数々の『言葉の再構築』とでも言うべき言い換えや意味付けによって、実在する仏教用語はたちまちSF的な意味を付加され上書きされて行く。

 それは言い換えれば『世界を創る』という事だ。

 現実を解体し、言葉の意味を上書きし、それによって虚構の世界を再構築する。それは全くの白紙に自由に世界設定を書き込んで行くのとはまた違った快感があるのではないだろうか。そして読者の側からすれば、自分が見知っている筈の世界が、言葉が、異なる色に一気に塗り替えられて行くというのもまたひとつの快楽である。

 こうした『言葉の再構築』は、例えば冲方丁氏の『ばいばい、アース』等の中にも見られるが、それはルビの多用や言葉遊びという以上に、現実の解体と再構築として自分の目には映る。作者は自由に想像力を働かせつつ、仮に全ての名詞を自作した時程には作品が「現実離れ」しない。読者にしても元の言葉を見知っているが故に、その言葉の言い換えや意味の上書きに対して具体的なイメージを持ち易い。

 現実世界はある意味、『既に固まった世界』であると言える。良く言えば安定している。ただそこから一歩空想世界の側に踏み出して行こうとする時、その硬さは窮屈だ。人間の想像力や言葉は、もっと自由であっても良い。ただ空想の度が過ぎると、そこには現実味がなくなり、読者の共感を得る事が難しくなる。引力と斥力が釣り合う一点を探す様に、作者も読者も物語が安定する一点を探しているのかもしれない。現実に縛られず、それでいて作品が読者を置き去りにして空想世界の彼方に飛んで行ってしまわない様な、ある調和の取れた一点を。

 本作もまた、そうした調和を目指しているのではないか。窮屈な現実世界から飛び立つ星寺は、読者をも乗せて飛翔して行くのだろう。

 

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人の再生の物語として・黒澤いづみ『人間に向いてない』

  

 書店で本を選んでいる時、不意に買う予定のなかった本に吸い寄せられる事がある。本作もそんな本だった。

 顔が溶け出した様な母親が、これもまた体が溶け出している子どもを抱きかかえている様に見える表紙。『人間に向いてない』という飾らない題名。帯にある「ある日、息子が虫になりました。」という書き出しで始まる文章。これは何だろう、と惹きつけられる何かがあった。

 本作では『異形性変異症候群』という病によって、人が一夜にして異形の存在に変質してしまう様になった世界が描かれる。カフカの『変身』を、虫になってしまった青年の視点ではなく、彼の家族の側から描いてみせる様な物語だ。

 『異形性変異症候群』は人を異形の存在、有り体に言えば化物の様な姿に変えてしまう。ある者は人の顔を持った犬の様になり、またある者は人間の目玉を持った魚の様になる。葉の代わりに人の指を茂らせた植物の様になってしまう者もいるし、芋虫の様な姿になってしまう者もいる。

 体の構造が人間とはかけ離れてしまっているからなのか、変異者の多くは言葉を発する事が出来ない。変わってしまった彼等の中に、姿形が変わる前と同じ心があるのかどうかは推し量れない。何よりその外見の気味の悪さから、当初はそれが家族の変わり果てた姿とは気付かれずに殺害されてしまうケースが相次ぐ事になった。やがて政府は、この病によって変異してしまった人間を法的には死亡したものとして扱い、全ての人権を停止する事を決める。だから変異者を殺しても罪にはならないし、扶養する義務もない。

 社会がパニックに陥る寸前で持ち直したのは、この病が若年層、特にニートや引きこもりといった背景を持つ者の間にだけ発症するものだという事がわかってきたからだった。多くの人にとってこの病は「自分とは関係がない」と切り捨てられる類のものであり、中には結果として社会的弱者を『間引く』事になったこの病の発生を「因果応報であり、天の配剤だ」と喜ぶ者さえいた。

 では、変異者本人にとって、そしてその家族にとって、この病とはいかなるものなのだろうか。本作は引きこもりの息子が芋虫の様な姿に変異してしまった、ひとつの家族の姿を追う事で、それを丹念に描いて行く。

 身内から変異者を出したと知られる事は、自分達が「失敗した家族」である事を衆目に晒されるのと同じなのかもしれない。問題のある家族を抱えていたという事。そして変異するまで救う術を持たなかったという事。そして物言わぬ変異者は、その事を責めている様にも思える。だから多くの家庭では、変異者を保健所に引き渡す。または育てきれなくなったペットの様に野山に捨てる。変異者に人権はないから。彼等はもう死んだものとして扱われるのだから。厄介者の存在を捨てて、人生を、家族をもう一度やり直すチャンス。そう捉える者がいたとして、誰がそれを責められるだろうか。

 でも一方で、そんな割り切り方が出来ない者もいる。化物の様な姿になってしまっても、息子を、娘を捨てる事は出来ないし、保健所に引き渡して『処分』してもらう事も出来ない。まして自ら手を下すなど。ならば、どうしたら良いのだろう。

 変異者の家族は、彼等が変異してしまった事で、あらためて我が子の、そして家族の問題に向き合う事を迫られたのだと言える。引きこもりの我が子がいつか立ち直るのを期待して、干渉を避け、ただ食事を部屋に運ぶ様な暮らしを続ける事はもう出来ない。彼等が本当は何を考え、どんな悩みを持ち、何に苦しんでいたのか。どうしてその悩みを我が事として共有する事が出来なかったのか。自分は失敗したのか。失敗したのだとしたら何が悪かったのか。そして、今からやり直す事は出来るのか。失われた信頼関係を、もう一度築き上げる事は可能なのか。

 本作はそうした事を考える為の寓話なのだろうと思う。そして、「強者による弱者切り捨て」ではなく、「弱者による弱者切り捨て」が起こり始めているこの国の行末に警鐘を鳴らすものでもあるのだろう。

 自分の様な、中流より下に位置する暮らしぶりをしている人間が、例えば生活保護に頼って暮らしている様な人を見て「自分はこんなに苦労して今の生活を維持しているのに、なぜ何もせずに食べて行ける様な人がいるの?」と思ったとする。正直、自分もたまに思う。冗談半分でではあるけれど。それは「自分も誰かに助けて欲しい」という気持ちが負の方向に裏返って、自分も働かなくて食べて行ける身分になってみたい=親に食べさせてもらえるニートや国に食べさせてもらえる生活保護受給者は、何の努力もせず、種を蒔かずに実を食べるばかりでずるい、という短絡的な思考に陥るからだ。

 「こいつらさえいなければ」
 「この世から消えてくれれば」

 自分の人生の足枷になっている奴に消えて欲しい。そうすれば自分は楽になれる筈だから。

 この考えは、結論から言うと間違っているのだけれど、理屈としては一見正しそうに見えて共感を集め易い所が非常に質が悪い。屁理屈に見えない屁理屈とでも言うのだろうか。ただそれは、自分が社会的弱者に日々どんな視線を向けているのかという事を端的に示すものでもある。これではどっちが『化物』なのか分からない。

 そしてもうひとつ、自分の様に自分自身を『人間に向いてない』と思う事がある様な人間にとって、変異者の姿と彼等が抱えている苦悩は身近なものだ。実感を伴ったものとして、自分は本作を読む事が出来る。ただ、たとえ人間に向いていないとしても、自分はこれまでもこれからも人間でいるしかないのだ。いっそドロップアウトしたい。消えてしまいたいと思っても、その願いは叶わないし、叶えてはいけない類のものだろう。ならばどうするか。再生への道を見付けるしかない様にも思える。

 再生とは何か。例えばそれは社会の再生であり家族の再生なのかもしれない。個人の自己実現や、自己肯定感を取り戻す事も一種の再生だろう。そして、それらは『人間関係の再生』というテーマに繋がっているのだろうと思う。本作の様に、人間が人間でなくなってしまう様な事態にならなければそれに気付けないのか、やり直せないのかと問われれば忸怩たるものはあるが。

 人間に向いていない自分は、ある日突然どんな変異者になるのだろうと考える。そしてその時、誰が寄り添ってくれるだろうか。薄気味悪い姿になった自分を捨てずに、手を差し伸べてくれる誰かはいるだろうか。そして自分もまた逆の立場であれば誰かに手を差し伸べる事が出来るだろうか。そうした事を思いながら目を閉じる時に、人間に向いていない自分でも、まだ人間でありたいのだなという事に気付いたりもする。目を開けた時に、毒虫に変わっている自分を見付けたくはないから。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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