FC2ブログ

本当に心を失っているのは誰なのか・辺見庸『月』

 

 本作は実際に起きた『相模原障害者施設殺傷事件』に着想を得て書かれたという『小説』だ。その「あくまでも小説である」という部分と、現実の事件を想起させる部分との折り合いを付けながら読む事は難しい。

 自分は今、ある社会福祉法人が運営する障害者支援施設で事務員をしている。直接ご利用者の介護を担当する生活支援員ではないが、日々、重度の知的障害者と接している。長期に渡って入所生活を続けている人。日中一時支援や短期入所を利用される人。その保護者。そして職員。立場は様々だ。でも共通の認識として、あの相模原で起きた事件は「過去のものではない」という事があるのだと思う。

 テレビやネットが事件を報じなくなっても、現在の犯人の様子が聞こえなくなっても、言い換えれば世間の関心が薄れ、事件そのものが賞味期限の切れたネタとしてゴミ箱の中に放り込まれたに等しい現在でも、自分達の中で事件は過去のものとはなっていない。むしろ事件が引き起こした動揺は続いている。

 自分が現在の職場に入ったのは事件後だったが、この事件の事は念頭にあった。そうした現在進行系の事件に関して、それが小説になり、フィクションとして世に出るというのは複雑なものがある。この辺りの割り切れなさは、東日本大震災による原発事故と、以前に感想を書いた岩井俊二氏の小説『番犬は庭を守る』との関係にも似ている。

 本作は、施設入所者の「きーちゃん」の一人称で語られる。自分はその事でもまた、ある種の落ち着かなさを感じるのかもしれない。

 きーちゃんは目が見えず、発語ができない。表情も乏しく、上下肢に麻痺があり、歩行できず、食事や排泄といった一切に介護を必要とする。そのきーちゃんが、非常に饒舌に、豊かな語彙を用いて内心を語り、物語を描写して行く事に、自分は慄く。きーちゃんのあり方はまるで、「不自由な肉体という檻に健常者の精神が幽閉されている」かの様だ。

 仮に、今こうして文章を書いている自分の肉体を、端から鈍器で叩き壊して行ったと仮定する、まずキーボードを叩いている指を潰す。逃げようとする脚を捕らえて膝を叩き割り、大腿骨を粉砕し、肩や肘を破壊し、抵抗の術を失わせたところで頚椎を潰して体の自由を奪う。眼をくり抜き、声帯を潰して意味のある発語が出来ない用にする。そうすれば他者の言葉を聞く事と考える事以外を奪われた人間が出来上がるだろう。まるできーちゃんの様な。

 「我思う、故に我在り」という言葉を昔聞いた気がするが、何かを思ったところで、それを表出させる術がなければそれは誰にも届かない独り言だ。暗闇の中、たったひとりで漂っているのと大差ない。むしろ本当に自分以外の他人がひとりもいなければ諦めも付くが、そうではない。声が聞こえてくる。でも、自分がここで思っている事を、相手に伝える術がない。そんな絶望を想像してみる。自分なら、3日ともたないだろう。

 翻って、現実を考えてみる。
 相模原の犯人は、本作でも引用されている様に『心失者』という造語を用いて「彼等を安楽死させるべきだ」とした。心が失われた者。人格を有しない者というその定義は、果たして正しいのだろうか。

 実際、施設には意味の通じる言葉を話せない人がいる。文章が作れず、単語の羅列になってしまう人や、そもそも単語も話せない人もいる。歩行が出来ず、食事や排泄等の生活全般に介護が必要な人もいる。発作が起こると奇声を上げ続ける人もいるし、自傷や他害といった問題行動が止められない人もいる。では、彼等には心が無いと言えるのか。自分はそこに、殺人犯の短絡があると見る。

 自分は彼等の頭の中に、本作におけるきーちゃんの様な複雑な心の揺れ動きがあるとは思わない。ただ、お腹が空いたとか、心地良いとか、おむつが濡れて不快だとか、そんな乳幼児の様な情動があるのは確かだろうと思う。そして自分達は言葉が話せないからといって、自力で身の回りの事が何ひとつ出来ないからといって、赤ちゃんに心がないなどとは思わない。むしろまだ言葉は通じないと知っていても話しかける。その伝わり難い心を、読み取ろうと努力する。重度知的障害者に対する態度だって、それと同じではいけないのか。そう言ったら、綺麗事に過ぎると思われるのだろうか。

 自分は施設にいるご利用者と日々会話する。その中で、時折はっとする様な事を話す人がいる。驚いて「今どういう意味で言ったの?」と聞き返すと、言った本人も意味なんて考えていなくて「何となく」とか「言ってみただけ」とか「テレビで言ってた」とか、まあ適当な返事が帰ってきたりして互いに苦笑する。だから、彼等が自分で言葉にする全てを理解しているとは思わない。逆に自分が言う事に返事をしてくれたとしても、その意味が通じていないかもしれない。かろうじて会話が成立している様に見えて、全くのすれ違いである可能性は常にあるし、むしろその方が多いかもしれない。でも一方で思う事がある。そんなのは、相手が誰であれ同じ事だ。

 自分だって自分の内心を全部理解している訳ではない。さっき言った時には確かに心からそう思っていた事が、数時間後には「言ってみただけ」になっている事なんてざらにある。健常者のつもりで生きていて、いつの間にか心を無くしている事もある。数年前の自分の様に。

 今、自分が恐ろしいのは、「目には見えないが確かにそこにある悪意」だ。
 具体的には相模原の事件の後で、ネット上に湧いた「犯人は良くやった」という書き込みの向こう側にいる人間の事だ。社会保障費の負担が重くのしかかっている事も分かる。助けて欲しいのは自分だって同じだという気持ちは理解できる。ただ、そこで人が殺された事を、自分達の負担が軽くなったと喜んで「もっとやれ」「誰か後に続け」と願った人間がいる事を自分は忘れない。そういう「心無い」人間がこの社会に一定数存在している事を忘れない。

 誰が障害者なのか。誰が心失者なのか。

 きっと厳密に言えば自分だってどこか障害者で、時に心失者にもなり得るのではないか。今の自分は、そう思っている。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

戦い続けた彼へ・萩原慎一郎『歌集 滑走路』

 

 “群衆の一部となっていることを拒否するように本を読みたり”   「群衆」

 小説が読めなくなってしまった。

 こういう事は時々ある。長い文章を読む為の集中力が維持できない。いつもなら意識しなくても、心が作品世界の中にするりと入り込んで行くのに、今の自分は潜水していて息が続かなくなった時の様に、途中で現実に浮かび上がってきてしまう。一章が読み切れない。途中で現実に捕まって、引き上げられる様に本を閉じてしまう。

 端的に言って、弱っているのかもしれない。もう本読みとして駄目になってしまったとまでは思いたくないけれど。

 本の感想を書く事は、自ら物語を書く事に挫折した自分に残った、ただひとつと言っても良い取り柄の様なものだと思う。本を読んでいる間は、日常生活ではむしろ殺している感受性を思い出す事ができる。だから自分は本を読んできたのかもしれないとすら思う。

 この社会の中で、自分は群衆であり、労働者であり、納税者であり、時に生産性や社会に対する貢献度を問われたりもする顔を持たない存在だと思う。そうした日々を生きる時に、感受性は邪魔になる。小さい事でくよくよしたり、心を痛めたりしてしまう様な弱さ。言い換えれば「心の中の柔らかい部分」を晒して生きていたのでは「生き苦しさ」に潰されてしまう。

 だから普段は何でもない様な顔をして生きていなければならない。心はなるべく平坦に。感動も喜びも悲しみも怒りもとりあえずどこか奥の方に押し込んで、蓋をしておこう。できる事なら鍵もかけておこう。他の誰かではなくて、自分に見付からない様に。

 そうして日々をやり過ごす。生きるのではなく、やり過ごす。それを一日続けられたら、一週間、一ヶ月、一年と積み上げて行く。どこかを目指している訳じゃないし、何者かになろうとしていた頃はとうに過ぎてしまった。それでも続いて行く日々をどうにかしなければならない。

 叶うなら自分は螺子になりたい。そうすれば機械的に生きる事に疑いを持たずに済む。

 でも自分はまだどんなに願っても機械にはなれないので、何かの拍子に感受性を思い出しては、それを物語によって慰めるという事をしてしまう。ずっと忘れていた方が楽だと知っていながら。

 “いつか手が触れると信じつつ いつも眼が捉えたる光源のあり”  「光源」                            

 “説明のできぬ感情抱きながら本を読みたり解読のため”       「風景画」

 歌人として生きるという事は、自分がこうして感想を書くよりも遥かに感受性を研ぎ澄ます事を求められるものだと思う。それを社会に削られながら続けて行く様な強さを、自分は持つ事が出来なかった。昨年、32歳という若さでこの世を去った萩原氏と自分との間に違いがあったとすれば、彼は辛くとも真摯に世の中や自分の感受性と向き合って生きる事を選び、自分はそこから逃げ出したという事なのではないかと思う。

 自ら命を絶った彼が弱かったのではない。
 戦う事を選べなかった弱さが、結果として今の自分を生かしているだけだ。

 この悲しみを何としよう。やり場のない憤りを、何としよう。
 歌を詠む事も出来ない自分にやれる事があるとすれば、ここでこうして今の気持ちを書き留めておく事くらいだ。
 それでは足りない事を知っていたとしても。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

まだ見ぬ未来への加速・八島游舷『Final Anchors』

 

 自分がSFを好きな理由は、多分「物語が、そして人間の想像力が軽やかに現実を超えて行く瞬間が見られる」からなのではないかと思う。

 本作はAI制御による自動運転技術が発達した近未来を描いている。それは作家ではない自分が想像する近視眼的な未来予想図とは比べ物にならない様な、遥か先を見据えた未来像だ。ただそれは『未来』ではあるけれど、荒唐無稽な『空想』ではない。あくまでも今自分が立っているこの現実世界と「地続き」になっている。何年後か、何十年後かはわからないけれど、自分達が歩みを進めて行った先に、本作で描かれている様な未来が確かに存在するのだろうと思わせる様な現実味がある。それが本作の面白さなのではないかと思う。

 この「地続き感」を説明するにはどうしたら良いだろう。

 例えば自動車を自動運転させる技術と聞いて、自分が思い描くのは精々「自動運転車が事故を起こしたら、その責任は誰に帰するのか」というレベル止まりだ。

 自分は運送会社で運行管理者をしていた事がある。地方の、中小企業レベルの運送会社だったけれど、各地の営業所を合わせれば毎日60台以上のトレーラーや大型車が運行する。そうすると、どんなに無事故を目指していても毎月何かしらの事故が起こるものだ。せめてひと月くらいは無事故の月があっても良いだろうと思うのだけれど、「バック中の安全確認が不十分で他車や器物に接触した」という比較的軽微な事故から「雪道でスリップした挙句に歩道を乗り越えて民家の壁を突き破った」なんていう大事故まで、本当に毎月何かしら事故が発生していた。死亡事故が無かった事だけが救いだったけれど、一歩間違えば或いはそうなっていたかもしれない事故は数知れない。事故の度に自分は保険会社と連絡を取り、先方に謝罪し、場合によっては過失割合を協議した。そして実感したのは「事故処理というのは責任を処理する事だ」というものだ。

 事故が起きた時にハンドルを握っていたドライバー個人の責任。それが仕事であれば、雇用主である会社が安全教育を疎かにしていなかったかどうか、運行管理者が過労運転をさせていなかったかどうかという責任もある。そして相手車も走行中であったという事なら、発生した事故についての過失割合が問われる。事故状況は分析、整理され、実際の事故と類似した過去の裁判例を基準にして話し合いが行われる。誰に、どれだけ事故の責任があるのかを明確化して行く事。それが事故処理だと自分は思う。

 自動運転技術の普及は、その「責任の所在」というものについて一石を投じるだろうと思う。ドライバーが完全に自動運転に頼って走行する様になった時、事故の責任は自動運転技術を開発したエンジニアに帰するのか、自動運転に必要な各種センサーを含めた車体を製造した自動車メーカーに帰するのか。自動運転車と一般車の事故ならどうか。自動運転車同士の事故の場合はどうなるか。
 そうした自分の想像が近視眼的だというのは、本作で描かれる世界はそれを遥かに超えた先を描いて行くからだ。

 名前を持ち、人格を有したAIが自動運転を制御する。それでも避けられない事故が発生する場合、人間では知覚すら出来ない様な、衝突までの僅かな時間――0.5秒――の中で、AI同士の通信が行われる。それは人間にとっての欠席裁判だ。今まさに衝突しようとしている2台の車両に乗っている人間の「どちらを生かすべきか」を決める為の。

 走行中の車両を制動距離ゼロで停止させる為に路面に打ち込まれる強制停止アンカー。片方がそれを使用すれば衝突は回避されるが、エアバッグでも吸収しきれない衝撃に晒されるドライバーはほぼ確実に死亡し、車載AIもその衝撃で自壊する仕様になっている。故に通称「ファイナル・アンカー」と呼ばれる最終手段を、どちらの車両が使うべきか。それを決める為に、AI達は仮想法廷で対峙する。自分自身と、ドライバーを生かす為に。

 自分の目に見えている未来が「事故責任の所在」という直近の変化までしか捉えられていないものであるのに対し、本作が描く未来は「人間よりも遥かに優れた能力を有するAIが、人間には知覚すら出来ない時間の中で『人間の価値』に言及し、それを比較検証し、誰が生き残るべきかを決めて行く」というレベルにまで高度化した世界だ。しかもそれは完全な空想の世界として宙に浮いている訳ではなくて、今自分達が立っているこの現実から進んで行った先に「地続きの未来」として確かに存在しているだろうと思わせるものだ。その事が、自分には恐ろしくもあり、興味深くもある。

 作家の目に見えている未来は、自分の様な凡夫が想像する未来よりも遥か先にある。そして自分は、作品を読む事で作家が見据える未来像に追い付く事が出来る。その加速を感じる時の快感は、日常生活では得難いものだ。だから自分はこれまでも、これからも、こうした物語を求めて行くのだろうと思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

きっと仕事が自分達を形作っている・柞刈湯葉『未来職安』

 

 感想書きもちょっと間が空いてしまってリハビリが必要な感じ。本を読む時間を他の事に回していたせいもあるのだけれど、昨年の秋頃に転職した為に新しい業務内容や職場環境に慣れないといけないという事もある。まあそれも気付けばもうすぐ1年が経つ訳だけれど。

 さて、仕事といえば結構前から、いわゆる『お仕事小説』というものが注目される様になって、働く読者達の共感を集めていたのだけれど、本作は題名の通り『職安小説』であり、それも「未来の職安」をテーマにしている所が面白いと思う。どの位「未来」なのかと言うと、それはもう今自分達が(というよりもメディアがかな?)戦々恐々としている「AIに仕事を奪われる」未来が現実になって、仕事が無くなるどころか「国民の99%は働かない<消費者>としてベーシックインカムをもらいながら生き、残り1%が<生産者>として働く世界」という所まで行き着いてしまった未来が描かれる。そんな時代の「職安」って何なの? 成立するの? という疑問に作者がどう答えて行くかという点が本作の面白さなのではないかと思う。

 とはいえ、本作に登場する「職安」は自分達が良く知っている職安の「受付をして検索機の順番待ちをする」「検索機から求人票を出力したら窓口に出してまた順番待ちをして応募可能かどうか確認を取ってもらう」「沢山の求職者で混み合っていて、自分だけが求職者ではないのだなという安堵と、早くここから抜け出さないと、という焦燥感が入り混じった感覚に襲われる」といったいわゆる「職安独特の雰囲気」とはかけ離れている。仕事に就く<生産者>が人口の1%しかいない世界なのだから当然といえば当然なのかもしれないが、本作に登場する職安は個人探偵事務所の様だ。そこに仕事を求めてやって来る求職者達もまた、厄介な依頼を探偵事務所に持ち込む依頼人に似ている。

 普通、<生産者>が1%しかいない世界というと「物凄い才能を持った、能力とやる気に溢れた人間が、決して機械には代替出来ない類の研究開発や先進的な分野を切り開く為に生産者をやっていて、残りの<消費者>はそれにぶら下がっているだけ」という様な世界を思い浮かべがちだと思う。実際それは間違っていない部分もある。ただ、それだけじゃない未来のお仕事というものもきっとあって、言ってみれば本作は「人間が労働力として必要とされなくなった世界で、何が人間の仕事として残るだろう」=「機械に代替されない人間らしさとは何だろう」という事を考えてみる物語でもある様に思う。そして当然の事ながら、人間というのはいい加減で無駄が多く非合理的な生き物なのであって、そんな人間らしさから生じる仕事というものもまたどこか滑稽で皮肉が効いていて笑えるものが多い。例えば「自動運転車が交通事故を起こした際に頭を下げて辞職する為の仕事」とか。

 そんな馬鹿な、と思うか、ああ、それって確かに人間らしいよね、と思うか。自分は後者だったけれど、そうした人間らしさと仕事の関係というものをもう一度考え直す作品としても本作は機能すると思う。

 少し真面目な話をすると、近年、ブラック企業や非正規労働の常態化によって心や体を壊される労働者が多いと思う。自分も仕事がもとで体調を崩した結果転職をした訳だけれど、労働者がそうして「壊れてしまう」のは、「非人間的な労働環境に自分を適応させる為に無理を強いられる」からだと自分は思っている。もちろん他にも「職場の人間関係」という人間性から発する問題もある事はあるのだけれど、これとて職場環境が非人間的である余裕の無さから生じている軋轢だと考えられない事もない。長時間労働、サービス残業といった労働者を人間扱いしない制度が労働法を無視した職場内の不文律として横行する事、そして労働者が自らの生活を守る為に、有り体に言えば収入を失わない為にそれらの理不尽を飲み込んで、自分の方を歪な形態の仕事に合わせようと無理をする事にそもそもの問題はある。

 自分は思う。企業や雇用者が求める労働力に人間性を認めていないのだから、そうした「人間性を失わなければ適応できない仕事」はどんどん機械化、自動化されて奪われて行けば良い。最初から人間性を持たないものに任せれば良い。人間が、人間だからこそやるべき仕事、できる仕事というものがこの世にはまだある筈で、その事に注力する為のリソースを奪っているのはこの手の非人間的な仕事なのではないか。

 そして、もうひとつ。『仕事』とか『職場』というのは単純に収入を得る為の手段であり場である一方で、労働者である個人が社会との接点を持つ場でもあるという事。それを『自分の居場所』とまで思ってしまうのは危険なのかもしれないけれど、先に述べたマイナス面と同じ位に、きっとこちらも大事な事なのだろうと思う。自分がいる事が、自分の仕事が、誰かの助けになったと思える時にちょっと気持ちが温かくなったりする事は確かにある。それが「やりがい搾取」の様な形で悪用されてしまうのは大問題ではあるのだろうけれど、その素直な達成感とか、小さな自己実現を否定してしまうのも辛い事だ。

 昔、大学の恩師が自分に語ってくれた様に、人間は良くも悪くも一生の内の大部分を仕事に費やす事になる。だからどんな仕事に就くかというのは、どうやって糊口を凌ぐかという切実さと同じ位には「仕事とは自分自身を規定するものなんだ」という位に大きな問題として捉えるべきなのだろう。自分が望む仕事に就ける様な幸運に恵まれるのは一握りの人間だけなのだとしても、どこか頭の片隅に「仕事が自分を形作っている」という事を覚えておく事。それが意外と大事な事なのかもしれない。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

この世界のどこにもいない君へ・三秋縋『君の話』

 

 読み終えて、本を机の傍らに置いてから天井を見上げてみる。次に目を閉じて、ゆっくりと、今結末を迎えた物語を反芻する。全力疾走した後の短距離走者がゴールの後に息を整える様に、或いはダイバーが水から上がる時の様に、自分は少しずつ『現実』に帰って来る。自分の体が置かれている現実との同期を取り戻す。
 そして目を開けて、いたる所に本が置かれた部屋を見回して思うのだ。

 「この部屋は、<義憶>ばかりだ」

 本作について、自分は客観的な、そして冷静な感想を書く事は出来ないだろうと思う。その理由について、同じく三秋縋氏の『恋する寄生虫』の感想で書いた事を引用するならばこうだ。

 “BUMP OF CHICKENの『才悩人応援歌』という曲があって、その中に『自分のために歌われた唄など無い』という歌詞がある。それはきっと「だからこそ自分自身が、自分の為の歌を歌うべきなんだ」という意味に繋がっているのだろうと思うけれど、自分はこうも思うのだ。たとえその唄が、自分の為に歌われたものではないのだとしても、それを自分の為の唄だと思い込んだって良いのではないかと。そしてそれは、小説でも同じなのではないかと思う。”

 本作『君の話』についても自分は同じ様な受け止め方をしてしまう。この物語が、あくまでも自分の為に存在する物語であるかの様に勘違いしてしまうし、その勘違いに気付いていながら訂正しようとも思わない。そうして自分は数多くの小説や漫画、映画やゲームといった『物語』を、<自分の為の物語>として受容して来た。

 物語の登場人物に感情移入する事も、ゲームを操作しながら主人公に自分を投影して行く事も、映画を見て涙を流す事も、全ては極論すれば自分にとってかけがえのない<義憶>を得ようとする行為だったのではないかという気さえする。

 義憶。自分の中の欠損を埋める為に、偽りの記憶を書き込むという事が現実に出来る様になった世界。そして不都合な記憶を消去する事が出来る様になった世界。そこでは心の傷に対して、体に負った傷を治療するのと同じ様に手当てを施す事が出来る。心の傷は忘却によって丁寧にその傷跡を消され、孤独な者の心には大切な人との思い出が書き込まれる。実在しない<義者>との温かい思い出が、現実を生きる上での支えになってくれる。

 それらは嘘で、偽りで、だからこそ優しい。

 恋愛ドラマのキャッチコピーで、よく『真実の愛』という言葉を目にする。でもそういうものに触れて来なかった自分にとっては、真実なんて贅沢で手の届かないものの様に感じてしまう。恋愛以外だって同じ事だ。他者からの承認とか、自己実現とか、もっと青臭く言えば夢とか。それらは綺麗で、手を伸ばしたくなるけれど、掴み取る事が出来ない。いや、出来なかった。そのまま自分はここまで来てしまった。

 だから自分は物語に飢えているのだ。その事を本作に改めて指摘された気がする。

 常日頃意識しないでいようと目を逸らしている事。見て見ぬふりをしようと決め込んでいる事を改めて指摘される、その怖さと痛み。自分の中の脆くて弱い部分に鋭利な何かを突き刺される様な。だから自分は本作を読み始めてすぐに、これは怖い話だと思った。そして読み終えて、その予感は正しかったのだと思う。この物語は怖くて、痛い。でも心に痛みがあるのは、胸が苦しいと感じるのは、心に突き刺された何かが冷たいものではなく、むしろ温かいものだったからだ。優しさすら感じる程の。

 自分を理解してくれる誰か。自分が支えになりたいと思える他者。そうした『誰か』との出会いを自分達は心のどこかで待っている。それは山崎まさよし氏やスピッツの歌の中にいる『君』の様にとらえどころがない、具体的な名前のない『君』の様にも思える。

 まだ出会う事がない、もしくは過去にすれ違ってしまったかもしれない『君』の事を思い描く時の胸の痛みは、きっと義者との優しい思い出を思い起こす時に感じる暖かさと同じなのではないかと思う。その『君』は本当はどこにもいない。でも、『君』について思い描く時、そして物語の登場人物に感情移入する時、その「嘘の思い出」や「虚構の優しさ」が与えてくれる感情は、現実の誰かを思う時のそれと同じなのかもしれない。

 だから自分は、物語に執着する。

 現実が与えてくれない分を埋める為の義憶。人によっては虚しい事だと感じるかもしれない。虚構に耽溺する前に現実に目を向けるべきだと言われるかもしれない。ただ、自分はその事に反論しようとは思わない。何となれば、数々の物語が、言い換えれば義憶が、自分をこれまで生かしてくれた事を知っているからだ。

 そしてまたひとつ新しい義憶を自分は手に入れた。折に触れて読み返す事になるのかもしれない義憶だ。そしてこれからも貪欲に求め続けるだろう。それが本作の様な義憶なら幸いだと思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon