この世界と対峙する為に・河野裕 河端ジュン一『ウォーター&ビスケットのテーマ1 コンビニを巡る戦争』

 

 ……一応まだ、生きております。

 8月がループし続ける街で、まるでゲームの特殊能力の様な力を身に付けた登場人物達が、ゲーム内のポイントと所属チームの領土を奪い合う為に殺し合いをする。本作は大枠ではそんな話だ。

 異世界転生もの、というのがひとつのジャンルとして確立しつつある中で、本作は異世界という程特異な世界ではないが、かといって現実でもない、ゲームのルールによって支配された街の中で生存競争をする物語となっている。『コンビニを巡る戦争』とは食料等の物資が補給できる拠点の取り合いをするこのゲームを端的に表現した言葉でもある。

 自分は、異世界転生ものには何種類かのパターンがある様に思う。ひとつはいわゆる『強くてニューゲーム』式の転生ものだ。
現代の知識を持って異世界に行く事で、進んだ知識や経験、歴史認識等を使って異世界の住人を出し抜いていく話。或いは銃器が存在しない世界に銃を持ち込んだり、転生者としての優れた特殊能力を付与されたりする様な、「有利な条件で転生する」物語がそれだ。

 もうひとつは『強くてニューゲーム』式とは異なり、何らかのハンデを背負わされて一見不利な条件で異世界に投げ出されるタイプの物語で、主人公は己の知恵や仲間の協力で異世界を渡って行く事になる。

 ただ大別すると、両者とも『現実世界とは異なるルールが支配する異世界でどう生き残るか』という大枠に入れる事が出来るのではないかと思う。

 大抵の場合、ゲームに勝つ=異世界で生き延びる方法は、いち早く新しい世界のルールを把握し、その中で自分を強くする方法だ。つまりルールに精通し、順応する事だ。
 ただ、この方法にはひとつ問題がある。それは、異世界のルールを司る神の様な、或いはTRPGで言うゲームマスターの様な、「ルールそれ自体を司る存在」が現れた場合、そのゲームのプレイヤー或いは盤上の駒である主人公には勝つ術がないという事だ。

 これは何も難しい話ではなく、「(長期的には)賭け事で賭博師は胴元に勝つ事は出来ない」というのと同じだ。1回のまぐれ勝ちで勝ち逃げするならともかく、賭け事は何回も繰り返せば一定の確率に収束する訳だから、胴元が設定した払戻率以上の勝ちを得る事は出来ない。同様にルールの中でどれだけ努力しようと、ルールを作る側に勝つ事は出来ない。ゲームの中でどんなにレベルを上げて万能のキャラクターに近付こうと、そのゲームの中で出来ない行動は許されないのと同じだ。

 そんな「自分以外の誰かが作るルールで規定された世界」の中で、ルールの作成者にすら勝とうと目論むのなら、まさに本作の帯にある様に『ルールの向こう側に辿り着かねばならない』のだろう。そして本作の主人公である香屋歩もまた、その困難な道を選択する事になる。ゲームに勝つ為にルールに精通するのではなく、世界と戦う為にルールの向こう側に辿り着こうとする事を選ぶ。

 ゲームに精通する物語には手本が数多い。MMORPG的な世界観を下敷きにする事も出来るし、チート的な強さを誇る規格外のキャラクターというものも、ベースになるルールがあり、その大枠のルールに則っているからこそ「逸脱」として描き出せる部分がある。それとは異なり、ルールの向こう側に辿り着こうとする主人公を描こうとすれば、一度強固なルールを持つ世界観を構築しておいて、そのルールの盲点を突かせる様な発想の転換が必要になる。

 他のプレイヤーを直接攻撃する様な能力。身体能力を強化する能力。索敵能力。そういった「ルール内で競う為に有用な能力」ではなく、オリジナルの能力を構築する事で本作の主人公は世界のルールとゲームマスターに対峙する。そうしなければ得られないものを手にする為に。それは現実にも同じ事が言える。

 この現実世界もまた、自分以外の誰かが決めたルールによってその大半が作られている。単純に憲法や法律といった決まり事もそうだし、経済という枠組みの中で金を稼ぐ為に仕事をするのもそうだ。誰かが決めたルールや、過去の成功体験に則った仕組みを踏襲する事で自分達は生きている。そのルールに精通し、ゲームの枠組みの中でポイントを稼ごうとして日々頑張っている。それはそれで無駄じゃないし、間違ってもいない。現代社会で生き残っているルールとは、それなりの実績があり、確実性があり、有用だからこれまで生き残って来たのだ。その中で努力する事は正しい事だ。ただもしも、今の社会秩序やルールを守っていたのでは得られない程の成果を掴もうとするならば、ルールの向こう側を目指すか、自分自身がルールに手出し出来る立場になるしかない。

 政治家を目指す様な人はきっと今の世界に飽き足らないのだろうと思う。だからルールを規定する側にまわりたい。世界をより良くする為に。しかしその政治の世界にも様々なルールがあって、今度はそちらのルールに絡め取られる事になる。ルールの向こう側は簡単には見えないし、辿り着けない。ただ世界と対峙するというのはきっとそういう事で、だからこそ難しい。例えばそれは少年の頃に持っていた世の中に対する疑問や不満を抱えたまま、その気持ちを殺さずに持ち続けようとする様な事だ。大人になりきれないまま大人をやり続ける様な切実さだ。

 自分の様な、ルールの中で行われる競争に振り落とされそうになっている人間が言う事ではないが、これから世界と対峙する若い人達にこそ、本作を読んでみて欲しい。

 

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戦争を知らない国の現実 カルロ・ゼン『ヤキトリ1 一銭五厘の軌道降下』

 

 というわけで、自分の初カルロ・ゼン作品は『ヤキトリ』という事になった。(『幼女戦記』はアニメで見た程度)

 前から薄々感じていた事だが、日本は実は不思議な国で、アニメ、漫画等のサブカルチャーや架空戦記の世界でしか『戦争』を論じたり、考察したりする事が許されない空気がある様に思う。戦国時代等を描いた時代小説は別として。軍事評論家なる肩書きもある事はあるのだが、一般人が公共の場で戦争について語る事はなぜか憚られるし、それをすると軍事マニアと思われてしまうきらいがある。更には言うに事欠いて「戦争が好きなんですか」などと飛躍した決め付けをされる場合があって、迂闊な事が言えない。

 著者のカルロ・ゼン氏といえば、そんな中で「異世界転生もので主人公(の外見)が幼女」というオブラートに包んだ軍事ネタを涼しい顔をして放り込んで来る危険人物(失礼)という印象だったのだが、舞台が宇宙に切り替わっても本質的な所は変わらない様に思う。

 地球人類が異星人とのファーストコンタクトを果たした結果、相手から「人的資源以外、特に見るべき所もない辺境惑星」の烙印を押され、主権を乗っ取られ、属州民としての自治権のみを認められた状態で間接統治される状態に堕した世界という、何とも気が滅入る世界観で展開される本作。主人公のアキラは惑星降下作戦に従事する海兵隊員の安価な代用品、通称『ヤキトリ』として異星人の星間戦争に駆り出される事になる。

 何で通称が『ヤキトリ』なのかは本作を読めば明らかにされるのだが、この救い様のない世界で、なぜアキラが生まれ育った日本での暮らしを捨て、志願して戦争に行くのかという事情がいかにも日本的だなと思う。

 詳細な描写は省かれているのだが、どうもこの世界、この時代の日本は「足並みを乱す」者を「反社会的性格認定」し、該当者を「社会福祉公団の収容所へ『保護』」する様な管理社会になっているらしい。具体的には「労働共同体」への進路を拒否し、個人で勉強して大学へ出願する等の行為が反社会的性格認定の対象になるらしいのだ。アキラもまさにその理由から身柄を拘束され、収容所で「再教育」される羽目に陥った訳だが、彼が取り得る選択肢はふたつあった。ひとつは大人しく国に飼い殺される事。もうひとつは自らの権利を主張し、自ら選んだ進路として海兵隊員になって戦場へ行く事だ。

 作中でアキラは一貫して他人に足を引っ張られる事を嫌う。憎むとか呪うといったレベルで。やる気のある自分が「周囲のアホ共」の尻拭いを強制される事を憎むし、その境遇から抜け出そうとする自分を逃すまいとする共同体を呪う。見下される事を嫌うし、指図される事を不快に思う。いつも周囲の誰かに敵意を抱いている。常にイラついている。プライドが高く、譲歩しない。能力に見合った権利を主張する。

 思うに、『幼女戦記』の主人公が「転生前は日本のサラリーマンで、管理職を務めており、上昇志向が強く、自身がリストラ通告した元同僚から恨まれて駅のホームから線路に突き落とされて死ぬ(が、異世界に転生して再びのし上がる)」という設定も含めて、著者は能力主義、成果主義を志向しているのではないかと思う。逆に言うと、日本的な「何となく周囲の空気に合わせてなあなあで、足並み揃えて平等に、余計な事は口にしない」という風潮を忌み嫌っているのではないかとすら思う。

 本当のところ、どうかは分からない。作品の方向性=著者の思想ではないし、自身とは全く逆の思想に基づく物語を書く事も可能だろうから。ただ、戦争を描く上で、その徹底した合理主義というか、実力主義の思想は理に適っているとは思う。

 戦争というと合理主義の塊の様に思われがちだが、実は油断するとすぐ精神論や情緒的な考えが入り込んで来るものでもある。そして合理的判断を精神論や情緒が上回る時、戦争に敗北するのではないか。

 自分は近年気になっている事がある。戦争反対と言う時、反対する人はだれもいないのだが、では「戦争に負けない為の備え」を考察する事、議論する事がこの日本で許されているだろうか。戦争反対は情緒だ。それには誰も反対しない。ただ自国の安全保障=戦争に負けない為の備えについての議論は常に必要であるにも関わらず、現実には腫れ物に触るように避けられて来た。果たしてそれは正解だったのだろうか。

 日本は戦争を語る事が出来る場を公に用意して来なかった。それはいつも白眼視され、サブカル界隈の、一部マニアのテリトリーの中に押し込まれて来た。今まではそれで済んでいたかもしれないが、これから先どうなるかは分からない。

 本作が描く戦争はもちろん架空のものだ。ただそこに登場する日本の姿に薄ら寒いものを感じるのは、それが現実のこの国の姿と重なるものがあるからなのではないかと思う。戦争について論じる事は反社会的性格認定とまでは行かないが忌避されている。それが平和主義を掲げるこの国の現実なのだとすれば、その『現実』は自分達の外側にある世界に対して、どこまで通用する『現実』なのだろう。そんな事を思った。

  

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近現代史を学び直す事の意義・百田尚樹『今こそ、韓国に謝ろう』

 

 今回は長文になってしまい、申し訳ありません。政治色が強い内容になるので、お嫌いな方はスルーして下さい。

 さて、政治色が強い本なので、一言Twitterで呟いて済ませるつもりだったが、反応を戴いてしまったので言葉足らずだった部分もあるだろうかと思い、長文を書く事にした。

 題名を見れば、「今こそ日本は過去の行いを反省し、韓国に謝罪すべきである」という本に見える。ただ通読してみるとそれは少し違っていて「日本人は併合時代に良かれと思って朝鮮半島に投資を行い、インフラを整備し、学校を作って人々を教育し、差別的な身分制度を改めさせる等、様々な取り組みをした。実際それは良い結果をもたらしたと思うが、現に今、韓国国民が併合時代を批判的に受け止め、反日的な言説が支持されるという事は、当時朝鮮に住んでいた人々の意思を尊重したものではなく、大きなお世話だったと言える。その事を反省すべきである」「セウォル号沈没事故で船長が真っ先に逃げ出す等、韓国人の国民性が恥ずべきものになってしまったのは、併合時代に彼等を教育した際に、最も大事なモラルを教え込む事が出来なかったからで、この事を日本人は反省すべきである」等、裏を返せば「日本は朝鮮の人々にこれだけの事をしてあげたにも関わらず、現在の両国関係が良好でないのは(韓国が反日的なのは)不本意だ」とする中身になっている。

 本著によれば、日本人は朝鮮に対して莫大な額の投資を行ったという。何せ併合前、文盲率が90パーセントを越えていたとされる朝鮮人にハングルを普及させるべく、小学校を全土に建設してまで教育の質を改善させようとしている。大韓帝国国民がそれを望んだかどうかという問題はあるが。

 通読して、(自分の様な日本人からすれば)特に批判すべき内容はない。なぜなら、こうした言説は立場を変えてみればいくらでも出て来るものだからだ。しかし、書き方が煽っているなとは思う。

 百田尚樹氏といえば、ベストセラー小説になった『永遠の0』の著者であるから、自分が書いたものが読者にどう読まれるかなど想定の範囲内なのだろうと思う。だから仮に韓国側の立場に立ってこの本を読んだとすれば、それがどれだけ不快な文章になっているか分かる筈だ。分かっていて、やっている。おちょくっていると言っても良い。一昔前に、『褒め殺し』という皮肉を効かせた言説が注目された事もあるが、本著はそれに近い。

 そこで自分は、本著に登場する『韓国』を『日本』に置き換えた本が出たら、さぞかし日本人にとって不快なものになるだろうと『今こそ、日本に謝ろう』というものをふと考えてみた。もちろん著者は米国人だ。

 「自主憲法の制定を妨げた事を謝ろう」「平和憲法を与えた事で安全保障を米国に依存する体質を作ってしまった事を謝ろう」等々、日本の戦後民主主義に対して米国人がひたすら謝り倒す(フリをして自分の正しさを主張する)作品だ。これに対してTwitter上で、ある方から「何故、正面から受け止めて批評せず、アメリカを持ち出すのでしょう?同列に扱って申し訳ありませんが、左巻きの人が、すぐに論点をすり替えて他人を攻撃する手法と同じ感じがします。真面目に読み返して、真に心からの感想を拝読して見たいものです。」とのお叱りを受けた。自分の感想を読まれた事で不快に思われたのなら謝罪しなければならない。本当に申し訳ありませんでした。

 ただ、自分が本作を真面目に読まなかったかの様な印象を持たれてしまった事は残念だと思う。自分は本作を真面目に読んだ上で、『今こそ、韓国に謝ろう』が成り立つならば『今こそ、日本に謝ろう』も成り立つよね、という立場を変えたものの見方、考え方をしてみたに過ぎない。そこに百田氏の著作を殊更に批判する意図はない。

 ベストセラーになったシンシアリー氏の『韓国人による恥韓論』という本がある。韓国人の目線から、自国のおかしいと感じる部分、恥ずべきだと感じる部分をまとめたもので、シリーズ化されている。自分は数ある、いわゆる『嫌韓本』の中で、韓国人の手による自己反省という視点が徹底されている本作が最も評価に値するものだと思う。日本人が同じ様な『嫌韓本』を出すと、そこにはどうしても他者を嘲る視点が含まれてしまう様に思うからだ。同時に、『日本人による恥日論』を論じる日本人がいてもいいと思う。それこそ忌むべき自虐史観ではないか、とまたお叱りを受けそうではあるが、自己反省が必要な部分は多かれ少なかれどの国にもあって、おかしいと思う事をおかしいと批判する言説が内側から出て来る事は健全な事だと思うからだ。例えば「安全保障の要である自衛隊が合憲か違憲かなどという問題で揉め続け、自衛隊の憲法上の位置付けを曖昧なまま放置し、自衛隊員の活動を正当に評価して来なかった」とか。

 話を『今こそ、韓国に謝ろう』に戻す。

 繰り返しになるが、百田尚樹氏は作家であり、自分が上に書いた様な「もし逆の立場から本作を読んだとしたら」「もし韓国を日本に置き換えて考えたとしたら」などという事はもちろん想定した上で本作を書いていると思う。つまり自分の書いた文章が読者にどう読まれるかなど分かりきった上で本作を書いている訳で、だとすれば韓国人が本作を読んだなら不快に思うであろう事も承知の上で書いているという事だ。自分ごときが言うのも何だが、もう少し、他に書き方が無かったものだろうかと思う。

 本作に書かれている事は、恐らく現代に生きる日本人も韓国人も知らない事が含まれている。もちろん自分も知らなかったが、それは学校で詳しく教えないからだ。極論だが、自分は日本史や世界史の授業で高校生までに教えるべき内容の比率を変えてみるべきではないかと思っている。戦国時代などは確かに勉強すると面白いものだが、実生活に必要な知識や国際感覚などは、近現代史にこそ学ぶべき部分が多いのではないか。現状の教育現場では、教えるべき内容が多過ぎて、近現代史に辿り着く頃には息切れし、受験内容に重要でない部分は酷く薄味になってしまっているのではないかと思う。近現代史をもっと濃厚に(できれば義務教育の中で)教わる機会があれば、なぜ日韓関係はこじれているのかとか、日米同盟とは何かとか、日本国憲法の成立過程とか、改憲派と護憲派のそれぞれの主張等の問題について、学生が「自分の意見」を持つ助けになると思うからだ。もしかすると教師の個人的見解を吹き込まれる事を恐れて近現代史には触らない様にしているのかもしれないが、(そして実際、授業中に個人的見解を開陳する教師はある程度いたが)そこを避けて通る事は出来ない様に思うのだ。

 それを踏まえて考える時、貴重な資料として使えるかもしれない内容を含みながら、本作はその書き方に相手をただただ不快にさせかねない要素が含まれていて適当ではない様に思う。出来れば本作に書かれている様な事実のみを淡々と列挙して、日韓双方の学生が資料として使いながら歴史認識に関する議論が出来る様になっていれば良かったのだが、そこまでの中立性を本作は担保出来ていないし、最初からその様に中立的な立場を取ろうともしていない。

 近現代史における日本の歴史観は自虐史観であると言われる。本著はそれに対するカウンターであるから、そもそも中立的な資料であろうとはしていない。自分の様に「中道から若干左寄り」くらいの立ち位置から見れば本著は若干右寄りであり、もっと左の人からすれば相当な右寄りという事になるのだろうが、「自分の立場を固定して議論する事は不毛である」というのが自分の持論だ。自分が立つ場所が正義であり、それ以外は間違っていて、敵であるという思想で戦うなら議論の必要がない。それはただの口喧嘩であり言論プロレスだ。

 極端な話、日本がこの先良くなるのなら現政権が存続しようが政権交代が起ころうが自分は構わない。改憲派と護憲派のどちらが勝っても、結果日本が良くなるのであればいいと思っているし、その時々の政策において日本を良くしてくれるであろう方に自分は投票する。もっと言えばそれぞれの派閥に属する人々にはいい加減言論プロレスのリングから降りて、お互いの政策課題をすり合わせてより良い政治を実現できる様な体制に変わって行ってもらいたい。国会中継をプロレスの様に観戦する趣味はないのだが、たまに見ると俗に言う「しょっぱい試合」が多くて見るに堪えない。

 言論プロレスという事で言えば、本著は韓国に対して非常に挑発的である。マイクパフォーマンスが上手いレスラーの様だ。本著をヒールと見るかベビーフェイスと見るかは人それぞれだろうが、題名から謝罪しようという姿勢を覗かせておいて、蓋を開けてみれば「まあ自分達は良い事をしたと思っているんだけれど、余計なお世話でしたね」という落とし方は、垂直落下式ブレーンバスター並みの落とし方で、仮に米国から日本に同じ様な言説が向けられたら相当な反感を買うだろう。それを分かっていて韓国相手にやる辺り、百田氏はエンターテイナーだなと思う。良くも、悪くも。

  

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ひとりだけの世界を持ち寄って・遍柳一『平浦ファミリズム』

 

 本作、『平浦ファミリズム』が家族を描いた作品である事は間違いない。けれど家族というものもまた個人の集まりなのであって、そういう意味で本作は、個人のあり方と人間同士の関係を描くものでもある。

 既に各所で話題になっている作品なので、あらすじ等は他に譲るとして、『家族』というものについて少し考えてみる。本作に登場する平浦家は、各々が強い個性を持っていながら、家族愛が強く、互いに尊重し合って生きている。理想の、というと少し語弊があるかもしれないが、家族が互いに思いやりをもって生きている姿を見て羨ましいと感じる人もいるかもしれない。現実は、そう上手くは行かないものだから。

 家族といってもその形は様々だ。身近な所では、父親が妻や子供の生活を顧みずギャンブル中毒になり、親戚に借金をして回る様になった結果、離婚に至った例を知っている。また親が子供に対して過干渉で、自分の敷いたレールの上を歩ませる事に苦心した結果、親子の信頼関係が崩れてしまった家もある。近年、『毒親』と言われる事もあるが、家族という関係だからこそ、その悪影響から逃げられない、という話はよく耳にする。

 特に過干渉が原因で親子関係が悪くなる場合、干渉している親は「良かれと思って」そうしている場合が多く、自分が正しいと信じて疑わないので、高圧的な態度を改めようとしない。自分が教えてやっている、指示してやっている、忠告してやっている、という態度がそれなのだが、子供が欲しいのは「道を間違える前に首輪に付いたリードを引っ張られる事」ではなく、「自分を信じてくれる事」であって、仮に道を間違えたとしても、その失敗を含めて自分の存在を許容してくれる事なのではないかと思う。それが『信頼』というものだし、その信頼が家族の中で形になったものが『家族愛』なのではないか。

 そして多分、他人との関係性にも、同じ事が言える。

 以前勤めていた会社の経営者は、何か癇に障る事があると「お前らに任せている仕事なんか自分がひとりで全部やった方が早いんだ。それを自分はお前達に任せてやっているし、仕事を与えてやっているし、食わせてやっているんだ。だから感謝しろ」と口走る様な人だった。確かにそれはそうなのだろう。他人を信用せず、評価しないなら、全て自分でやった方が早い。他人のミスで自分が頭を下げなければならない場面では腸が煮えくり返る事もあるだろうが、自分のミスなら自分自身が反省すれば良いのだから腹を立てる事もない。そして仕事で成果を出せば、それはチーム全員の貢献ではなく自分ひとりの手柄になる。上司が言うのももっともな事だ。ただ、言われた方はこう思うしかない。「じゃあ全部アンタひとりでやってろよ」と。

 家族を信用しない。他人を信用しない。自分の能力だけが信じられるもので、自分はひとりでも生きて行く。周囲の目なんて気にしていられないし、能力のない奴に構っている余裕はない。そんな風に生きて行く事も可能なのだろうと思う。或いは、競争社会を生き抜く手段としてそれが正しい場合もあるのかもしれない。でも、どんなに優れた人間でも、たったひとりで立っている世界の広さは、ひとりである事の限界に見合った広さにしかならない様にも思う。なんて、その「ひとりの世界」を守る事に汲々としている自分が偉そうに言えた義理ではないが。

 『平浦ファミリズム』は、家族と自分の能力だけが信頼に値するものだった少年が、その信頼の輪を少しずつ他者へと広げて行こうとする物語だ。そして『信頼』が『家族愛』になる様に、他者に対する信頼は、他者に対する友情や仲間意識に育って行くのだろうと思う。個人主義に立ってみれば、それは余計な荷物やリスクを背負う事になるのかもしれないし、時には自分の足を引っ張られる様な苛立ちを覚える事に繋がるのかもしれない。しかしながら、ひとりでは辿り着けない場所に至る為に人は仲間を求めるのだし、家族というものもひとりでは作れない。ひとりでは背負い切れないものも、誰かと荷物を分け合えば耐えられるという事もあるだろう。

 信じるという事は、裏切られる可能性を許容する事だ。それは自分以外の誰かの失敗を許容する事でもあるし、逆に言えば自分の失敗を受け止めてくれる誰かの存在がある、という事でもある。身近な所では、それは家族であり、友人になるのだろう。

 自分が抱える「ひとりだけの世界」を誰かが抱える「その人の世界」と重ね合わせる事。繋げる事。互いの価値観に触れてみる事。それは個人が持っている世界を、価値観を平均化して均一にならし、皆がひとつの価値観を信じ、それを正義として同じ方向を向けという事ではなく、それぞれの価値観を尊重しながら広げて行こうとする事だ。他者を尊重する事。それがきっと、最後には自分が生きて行く上での助けになる。そう信じられる事が、他者への信頼に繋がるのだろう。きっと。

 

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終わらない戦争の始まりに向けて・安里アサト『86―エイティシックス―Ep.2 ―ラン・スルー・ザ・バトルフロント―〈上〉』

 
 
 前回の藻野多摩夫氏の『オリンポスの郵便ポスト2』同様、受賞作出版後の次回作として刊行された本作。受賞作の『86―エイティシックス―』の完成度が高く、こちらも「続編は蛇足になるのでは」という危惧が聞かれたし、実際そうした声もあるが、個人的には1巻で描かれた結末に辿り着く為の物語として、読み応えがあるなという印象。

 戦争を描いた作品を目にすると、それがどれだけリアルなのかという事が気にされる様に思う。戦闘描写や兵士の心理描写、兵器設定、戦略・戦術考証の正しさなどが主に注目されるのだと思うが、本作における「戦争のリアル」とは、そこから少し離れた所にある様に思う。

 無人の自律無人戦闘機械群<レギオン>が人類を滅ぼすまで終わらない戦争を続ける。対する人間側は、休戦も降伏も許されない。

 この様な戦争の形は、現実にはまだ存在しない。通常ならば継戦能力を失った時点で休戦なり降伏なりが検討される事になる。日本もかつての大戦では本土決戦と一億玉砕を掲げて戦ったが、最終的には降伏を受け入れる事になった。では『86』にリアルは無いのか、現実とは全く異なる絵空事の戦争なのかと言えば、それは異なる。本作で描かれる戦争は、むしろこれから自分達の前に表れるかもしれない新たな戦争の形だ。

 本作では無人機による戦争が描かれるが、現実に米軍などは偵察や対地攻撃などに無人航空機を活用し始めている。自国の兵士の命を守りつつ相手に打撃を与える手段として、攻撃機の無人化という流れは正しい。

 現在、特に民主主義国家の軍隊では、人命が重く扱われる。それはなぜかというと、何も人道的な理由ばかりではなく、教育・訓練の為のコスト意識を除けば、「人が死ぬ戦争は自国民からの支持を得られない」からだ。支持が得られないという事は、「戦争を続けられない」という事だ。

 過去の世界大戦の様に、何百万人も戦死者を出す様な総力戦は出来ない。戦死者が出れば、必ず国内で反戦運動が起こる。特に米軍の様に、他国に派兵しての戦闘で戦死者が増えれば、自国の若者を死なせてまで他国に介入する意義はあるのかという論調が強まる。

 戦争には人の死に見合うだけの正当性が必要だ。

 侵略戦争による他国の植民地化が許されないものとなり、武力によって他国を併合し、覇権国家の地位を得ようとする動きは鳴りを潜めた。やるにしても、ロシアのクリミア併合がギリギリのラインだろう。(代わりに、経済的影響力を強める事によって覇権国家たらんとする動きはある)

 犠牲に対する見返りが少なく、兵士を無駄に死なせる様な人命軽視の作戦も容認されない現代戦では、戦争の正当性をひねり出す事に苦心する様になる。その意味で、対テロ戦争というお題目は最新のトレンドになる訳だが、それとて無制限の犠牲を容認するものではない。自国民が死ぬ事が戦争の歯止めになるという前提は、まだ失われてはいない。

 ただ、ここで逆に考えてみる。戦争で戦死者が出なくなれば、何が戦争の歯止めになるのか。

 精密誘導された巡航ミサイルが一方的に敵拠点を破壊し、無人航空機が遠隔操作で敵地を攻撃する。相手の反撃が届かないアウトレンジから一方的に敵を叩いて潰す。今はまだ先の話だが、今後陸戦兵器が無人化される様な事があれば、市街地占領の一歩手前までは歩兵が介在しない無人の戦争が遂行可能になるかもしれない。歩兵の代わりをロボットがする様にまでなればまるでSFだが、恐らく軍は大真面目に研究しているだろう。

 それは自国の兵士の人命を守る為だ。表向きには。ただ実現したとすれば、それは『終わらない戦争』の始まりを意味するのではないか。

 兵士が死なない戦争において、勝利以外に攻める側が矛を収め戦争を終らせるに至る要因は、戦費の増加による経済的負担しかなくなる可能性がある。本作に登場するレギオンは悪魔的に描かれているが、その実、兵器の無人化を推し進める現実の軍隊にとっては正に夢の兵器だ。そして、人的被害を「気にしなくて良い」状況は、開戦の決断と戦争継続を容易にする。味方の兵士の人命を守ろうとして推し進められる兵器の無人化は、当初の人道的配慮とは正反対に、上層部に武力行使という選択肢を容易に選ばせ、結果として相手側の戦死者をこれまで以上に積み上げる事になるのかもしれない。

 現実に置き換えて考えれば、本作における「戦争のリアル」とは、そうした「人間の倫理の欠如」であり、もっと言えば「人間の愚かさ」だ。

 それは無慈悲な無人兵器が人間を蹂躙して行く様であり、それに対抗する為に同胞を人間扱いせずに『無人機のプロセッサー』として使い潰した結果、その亡霊とでも言うべき<黒羊>によって焼かれる事になる人間のどうしようもなさだ。無人兵器をもって戦争に踏み切った帝国も大概だが、対抗する共和国の非人道的な人種隔離政策も負けず劣らず邪悪だった。そしてその人倫にもとる戦争のツケを支払わせられる羽目になるのが連邦やエイティシックス達というのも皮肉だ。

 人命を守る為の無人機という建前が開戦の引金を軽くさせ、無制限に戦争の長期化を許した結果としてより多くの血を流させる。戦争の愚かさ=人間の愚かさとはそこにあって、それはフィクションの世界には収まらない。子が親に似る様に、レギオンの残虐さもまた、人に似ている。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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