かつて帝王であった僕等の為に・上遠野浩平『ブギーポップ・ビューティフル パニックキュート帝王学』

 

 『美しさ』というものについて考えてみる。

 物事の美醜の判断というものは、当然個人の主観によるところが大きいのだろうと思う。単純に誰かを見て、その外見が整っているとかいないとか、好みだとかそうじゃないとか、そんな単純なレベルの話でもそうだし、例えば誰か声の大きい人が「美しい国」とか言って国家という大きな枠組みの目指すべき方向性を指し示そうとする時に、「あの人の言う『美しい国』っていうのは、結局のところどんな国のあり方なんだろう」という事がいまいち受け手である自分にはピンとこなかったりする事もそうだ。

 『美しさ』というと単純で、誰にとっても自明で、自分が美しいと感じるものは他の誰にとっても同様に美しいものである筈だ、というのは残念ながらそう思っている個人の願望であったり、幻想であったりする。どんな形であれ美しさを感じさせる要素を内包しているものは人を惹き付けるから、それに魅せられてしまっている側はある意味心酔してしまって、そのものの美しさ=価値や正しさが絶対的なものであると思いがちなのだけれど、それはやはりどこまでもそのものを美しいと感じている自分の心の中だけに響いている美しさなのであって、同じものの前に立っても別の誰かは素通りするのかもしれず、もっと酷ければその美しさを否定されてしまう事もままあるのだろう。

 自分が感じている『美しさ』は、決して他の誰かと共有することは出来ない。

 そんな事を言っても、価値ある名画や美術品ならば、それを一目見ようと大勢の人が美術館に足を運ぶのだし、多くの人が認める、誰もが共有出来る美しさというものがある筈だ、と思うかもしれない。でも、例えば同じ絵画の、同じ彫刻の前に立って、同じ様にそれを美しいと感じている人達の心の中に響いている美しさは、本当に同じ美しさなのだろうか。

 昔聞いた話で、ある画家か彫刻家か忘れてしまったのだけれど、その人が『私の世界』という言葉で同じ様な事を言っていたのを思い出す。

 自分達は同じものを見て、同じものを聴いて、同じ様な街に住み、同じ様に暮らしているけれど、でもその目に映っているのは、きっと『同じ世界』ではなくて、人それぞれが決して他者と共有出来ない『私の世界』を見て、感じて、その中で生き、その中で死ぬのだという事。こう書くとニヒリズムの様に感じるかもしれないけれど、でもそれはある意味で、やはり事実なのではないかと自分は思う。

 今はSNSが個人を繋いで行く社会で、ネットに目を向ければそこにはたくさんの「いいね」が転がっている。動画投稿サイトにはチャンネル登録数や高評価の数といった尺度があるし、何かを買うにしても商品やサービスを評価する星の数を自分達は気にする。そこにあるのは価値観の共有と並列化だ。皆が評価しているかどうか。皆が良さを認めているかどうか。そして、皆が美しいと感じているかどうか。

 そんな事を気にして生きるのは、きっと安全安心が欲しいからだ。品質が保証されたものを求めたい。失敗したくない。誰かに笑われたくない。否定されたくない。それは正しい反応だけれど、でも自分達はきっと、その安心と引き換えに『帝王』の椅子から降りてしまったのだろう。心の中の帝王の座は、それからずっと空のままで、自分達はそこに据える「自分以外の誰か」を探し続けているのかもしれない。

 もう使わなくなった学習机の引き出しを開けた時に、その奥の方から出て来る、例えばちょっと模様の入った石ころみたいなガラクタの類は、きっとその時の――帝王であった時の――自分の中では価値があるものだったのだと思う。美しいものだった。宝だった。そんなものに価値はないのだという誰かの声など耳に入らなかった頃の名残。それはかつて帝王がそこにいたという事の証の様でもある。そして帝王が忘れて行った宝は、きっと自分の心の中にもあるのだろう。あちこちに、今もまだずっと。単に自分がそれに目を向けなくなっただけで。

 かつて帝王であった自分達は、今は空になったその玉座に、様々なものを座らせてみる。でもよく見ればその椅子は自分が作った、自分の為だけの椅子だから、他の何を座らせてみてもしっくりこない。ではやはり自分がもう一度その椅子に座るしかないのかと思いつつ、それはやはり、恐ろしくて出来ないのだった。誰かの目が、批判される事が、失敗する事が怖い。恐れを知らなかった頃の自分には戻れない。これが私だ、なんて誰に対しても胸を張って見せられる様な自分なんて、もうここにはいない。

 でも、どうだろう。これはそういう、悲しいだけの話なんだろうか。
 誰もがいつかは通り過ぎる、避けられない挫折であり、傷なのだろうか。

 傷は傷として抱えたままで、空になった玉座はそのままで、気付けば自分達はそれに背を向けて歩き出してはいないだろうか。自分でも気付かない内に固く握りしめた拳をポケットの中に隠す様にして。そしてその拳の中には、どこかで拾った、自分にとっては価値のある、美しいと感じられる、でも他に何の裏付けもない宝が――あの日の石ころみたいな宝が――入っているのではないか。そうであって欲しいと、僕は思う。

 (で、他人なんてどうでもいいのか、誰かに認めて欲しいのか、結局どっちだよ)
 (そんな簡単にどっちか選べたら、こんなに悩んでないって)

 BGM “This is Me” by Keala Settle

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

願う自分は、どんな自分か・入間人間『もうひとつの命』

 

 “命をかけるって言葉がある。命がけでやりますって人は決意できる。
 もちろんそれは表現や比喩のようなもので。
 でも僕は違う。
 命が二つあるなら、本当の意味でそれができるのだ。”

 『もし生まれ変わったら』なんていうフレーズがある。それはありふれた願いというか空想で、そう思う事自体に罪はない。誰かに責められるいわれもない。

 「そんな現実逃避をしている暇があったら、今この時しかない人生を懸命に生きろよ」という指摘は正しくて真っ当で、でも悩んでいる誰かに、自分に、手を差し伸べてくれる事はない。

 正しい事は、正論は、正義は、誰かを救う為に存在している訳じゃない。

 もっとも、じゃあ悪い事が、間違った事が誰かを救うのかというと、そんな保証も無いのだけれど。特に『悪い魔女』の言う事なんて簡単に信用するもんじゃない。

 本作の登場人物達は、森で出会った魔女に『二つ目の命』を貰う。

 一度死んでも生き返れる事。命のストック。アクションゲームやシューティングゲームの残機が増えた様な手軽さ。でもそれは、ゲームのキャラクターが一度死んでも生き返れるというのとは全く別の覚悟を強いるものだという事が、次第に明かされて行く。

 『もし生まれ変わったら』っていう、よくあるフレーズの下には、大抵『現在の自分への否定』が続くものだと思う。「生まれ変わったら鳥になりたい」でも「生まれ変わったら今度こそ恋を実らせたい」でも「生まれ変わったら大金持ちになりたい」でも何でもいいけれど、今の自分がこの人生で取りこぼして来た何かや、捨ててしまった何か、或いは理想の自分像が『もし生まれ変わったら』という言葉の下には埋葬されている。

 叶えられなかった願い。果たせなかった約束。手を伸ばしても届かなかった夢。そうしたものをひとつひとつ埋葬しながら自分達は生きている。『もうひとつの命』は、そんな自分達に囁きかける。

 『じゃあ、本当に死んでやり直してみろよ』

 『もし生まれ変わったら』と嘆くなら、本当に今生まれ変わったつもりでたった今からやり直せ。タイムマシンに乗って過去に戻れたならと思う暇があったら、今何十年後の世界からタイムマシンで戻って来たつもりになって今動け。そういう聞き飽きた精神論の前に、自分達は多分気付かなければならない。本当に命を捨てて、或いは命をかけてまで願う自分の姿とは何なのかという事を。その為に、何をどこまで犠牲にできるのか。そもそもその願いは、間違っていないのかという事も含めて。

 事実は小説より奇なりとはいえ、今自分達の手にはたったひとつの命しかない。『もうひとつ』が与えられる事は無いだろう。いつか、そのたったひとつの命をかけなければならない時が来るのかもしれない。それは明日かもしれない。とはいえ、そんな張り詰めた気持ちのまま人は生きて行く事が出来ないし、覚悟を決められないままでも時間はどんどん過ぎ去って行く。今年がもう少しで去年になってしまう様に。

 だから自分はもうどうしようもない様な、落ち着かない気持ちで今この時に立ち尽くしている。迷いだらけで、決意には程遠く、焦りばかりが募る。それでも進む時計の針を止める事も出来ない。amazarashiの歌の様に、『季節は次々死んでいく』のだから。

 願う自分は、どんな自分か。それは間違っていないか。

 その問いに答えられないまま、また今年が終わる。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

それは顔のない誰かの死などではなく・安里アサト『86―エイティシックス―Ep.3 ―ラン・スルー・ザ・バトルフロント―〈下〉』

 

 最近、戦争についてよく考える。

 北朝鮮が大陸間弾道弾と原水爆の開発、実験を継続し、アメリカ本土を射程に収めようとする中、米朝間の緊張が高まり、日本も自国の安全保障について見直しを迫られているから、という理由もある。ただ、そうした『国家対国家』という大きなスケールの問題から関心を持つ事ももちろんなのだけれど、個人的にはもっと小さなスケールの問題、つまり『個人にとっての戦争』とは何なのだろうという事についての関心が強くなって来た様に思う。

 理由は単純で、自分が転職をして新たに務める様になった所には自衛隊出身者が多いからだ。

 これまで数社で働いたけれど、元自衛官という人はほぼいなかった様に思う。それが今の職場には自分が見知った範囲だけでも既に数名の元自衛官がいる。当たり前だけれど、話してみると皆普通の人だ。中には自衛隊内で事務系の仕事をしていた人もいるし、女性もいる。「大柄で体格の良い男性」といった様な、何となく元自衛官と聞いた時に抱くイメージはこちら側の勝手な妄想だったという事に気付いて少し恥ずかしい。

 でも、そうした普通の人達が、いざ戦争となれば戦うのだな、という事に思い至ると、はっとさせられる。

 最近、戦争についてよく考える。

 戦争とは何かを語る時、高い位置から俯瞰する様に、各国の軍事バランスや政治体制、宗教や人種、思想の違い、或いは歴史的背景から発する対立軸等に目を向ける事もひとつの見方だとは思う。ただもっと個人の顔が見える位置まで降りて行って戦争というものを考える時、それはやはりどこまでも個人の生き死にが掛かった問題なのだ。

 それは、昨日まで笑って話していた相手が今日はいなくなってしまうかもしれないという事。
 それは、父や母が子を残して逝くかもしれないという事。
 それは、子が親より先に逝くかもしれないという事。
 それは、見知った友人や縁者が、兵士という数字に置き換えられ、消費されて行くかもしれないという事。
 それは、傷痍軍人となった人々と、彼等が支えていた家庭に重い負担を強いるという事。

 いざ「その時」が来たら、自衛官が我が身の危険を顧みずに戦ってくれる事を、自分達は期待している。でも自分達の側は、彼等が背負った責務に対して充分な助けを用意しているだろうか。

 聞く所によれば、日本が戦争になって自衛官が負傷、或いは死亡した場合、隊員個人が自費で加入している生命保険は支払われないのだという。なぜなら、戦争における傷病死は免責事由に当たるからだ。では、公的な保証はどれだけあるのかというと、これが心もとない。身体に障害を負った場合の医療費にしろ、死亡した場合の遺族保証にしろ、充分なものではないという事を指摘している方もいる。自分には詳しい事は分からないが、今の職場で出会った様な人達が、もしもまだ自衛官として働いていて「その時」を迎えていたらと考えると、普段テレビ画面の向こう側で有識者やコメンテーターや政治家が論じている類の戦争が、いかに現実感の乏しい、机上の理論であるかが分かる。

 机上の理論や学問、論考の類が必要なものである事は分かる。物事を大局で見る事が必要である事も分かる。しかしそこからこぼれ落ちてしまうもの、兵士として戦わねばならない個々人の暮らしや人生というものに思い至らなければ、彼等を自分達と同じ人間であると認識できなければ、万が一の時に彼等を救う手立ては準備できないのではないだろうか。

 本作には、こんな一文がある。

 “哀れみも恐れも、一方的なそれは無理解と同義だ。哀れみ見下すにしろ恐れ仰ぐにしろ、それは相手を自身と同じ高さに置かず、わかり合おうともしない態度のことだ。”

 有事を論じる際、大手メディアにしろ政治家にしろ、或いは官僚組織にしろ、最前線で実際に働く人々の事をどれだけ『自身と同じ高さ』に置いて考えているだろう。自身は決して傷付く事のない位置から犠牲を強いて高みの見物を決め込むのなら、それは本作の中で繰り返し描かれている『白ブタ』の態度と何が違うのか。

 普通、ライトノベルは読者に「主人公側に対する感情移入」を促して行くものだと思う。でも自分が本作を読んでどうしても感じるのは、むしろ『白ブタ』こそが自分なんじゃないのかという事だ。他人の犠牲の上で安穏と暮らしながら、見たくないものからは目を背け、危機感も当事者意識も薄いまま日々をやり過ごす様に生きて行く。

 本作はそんな『白ブタ』に向けた、「これでいいのか?」という問いだ。その鋭い切っ先に向き合う気概は、まだ自分の内にあるだろうか。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

身体を喪失した現代人へ 押井守・最上和子『身体のリアル』

 

 『戦争のリアル』『武道のリアル』に続くリアル三部作の最後は押井守氏の実姉である舞踏家の最上和子氏との対談。テーマは人間の身体性。

 人間の身体というものを語る上で難しいのは、それを言語化するという事自体が難しいという事なのではないかと思う。前作の『武道のリアル』でもその傾向はあったのだけれど、武道にしても、舞踏にしても、それを自らやってみた事がある人は分かるけれど、その外側にいる人に、言葉でもって自分の見ている世界を、その感覚を伝えるという事は難しい。ただ、「やってみれば分かるし、やらなければ一生分からないよ」と言うだけでは、自分の体験している世界は自分が死ぬ時に誰にも伝わらないまま消え失せてしまう。その意味で、言語化し難いものを敢えて言葉にして伝えて行く事の意味はある。

 自分は大学時代にゼミで彫刻を習った事があるのだけれど、当然美大でも芸大でもないから、芸術に対する基礎知識や技術を全く持っていなかった。鑑賞するのは好きだけれど、手を動かした事はないという人間に彫刻を教えるにあたって、長年彫刻をやっている先生方が苦労するのも、この『言語化する』という部分だったと思う。

 最終的には模刻(絵画の模写の様に手本となる彫刻をもとに彫刻を作る事)を完成させる事が目的なのなのだけれど、生徒が選ぶモチーフもばらばらだし、相手は素人だ。それが1年以内に国宝や重文になっている様な彫刻作品の模刻を完成させようとする訳だから、ちょっと一筋縄では行かない。

 最初は、手本を見てその通り作るという事がそもそも出来ない。手本を見る時に対象の本質的な部分が見えていない事と、それを再現する時に当然技術的に躓く事が原因なのだけれど、不思議なもので、同じモチーフに1年喰らい付くと、ど素人でも卒業制作として人様にお見せ出来るレベルのものが作れる様になる。先生の教え方がいい、というのもあるけれど。

 最初は見えなかったものが見える様になる。分からなかったものが「何となくこういう事かな」と掴める様になる。そういう個人レベルの進歩も面白かったけれど、それ以上に面白かったのは「先生の話している事が理解できる様になる」という事だった。最初は彫刻についての教えを受けても「何それ宇宙語?」というレベルで分からない。生徒同士でも自分や相手が何に躓き、何が理解できたのか言葉で表現できない。それが数ヶ月同じ部屋でああでもないこうでもないとやっていると、不思議とその中に共通の言葉が生まれて来る。

 「ここのグアッ感がね」とか、やたら擬音が多かった記憶があるのだが、頭が悪い感じで申し訳ないのだけれど、そういう言語化する事が難しい理解や気付きを、何とか言葉にする事が出来る様になる。そして言葉にする事で、自分の中にしか存在しなかったものの見方や気付きが他者と共有できるものとして整理されて行く。

 で、この長い前置きがどう「身体」と繋がるのかというと、このゼミでも「人間の身体性」という事がひとつのテーマになっていたからだ。

 自分達がやった様に仏像でもいいのだけれど、人体を模した彫刻を作ろうとする時、その彫刻が生命感を持つものになるか、ただ形が整っているだけの置物になってしまうかという分かれ道は、そこに身体性があるか、模刻であれば手本となる作品が持っている身体性を自分が読み取って再現できるかという部分に関わってくる。ただここで問題になるのが、「現代人が往々にして自身の身体性を喪失している」という事だ。

 自分達の生活を振り返ってみると、頭の部分、知識の部分ではどんどん機能の拡張が進んでいる。スマホやネット環境が行き渡り、地球の裏側で今何が起こっているか自分達は知る事が出来る様になったし、自分の言葉を世界中に向けて発信する事だって出来る様になった。ただ自分達は自分の身体、肉体をどこかおざなりに扱って、「頭でっかち」の状態になっている様な気もする。日々の暮らしの中で自分の身体を意識する瞬間がどれだけあるだろうと考えると、腹が減ったとか、トイレに行きたいとか、眠りたいとか、時々生理現象を訴えて来た時に何となく相手にしている程度で、自分は自分の体と向き合っていない様に思うのだ。

 自分の身体を意識していない人間が、例えば彫刻作品の中にある身体性を意識しようとすると、ここでまずどうしていいか分からない。そこで先生が教えるのは、「彫刻と同じポーズをとってみる」事だ。彫刻と同じポーズをとると、どこに重心があって、どこに力が溜まっていて、どこに力が流れているのかが何となく分かる。自分の体を物差しに使って、対象を理解するという事が出来る様になる。逆に言うと、自分の身体を意識していないと、対象の持つ身体性を読み取る事が出来ない。

 自分達はなぜ身体性を喪失してしまうのだろう。そこには様々な理由がある様に思う。よく言われる「バーチャルリアリティー的なものの普及によって現実と虚構の区別が付かなくなる」とか「子供は外で体を使って遊べ。昔の様な生活様式に戻れ」式の言説は余りにも安易だと思うのだが、自分は『日常』という奴には様々なものを押し流して行く力があるのだろうと思う。現代社会で日々を暮らし生きる事には結構エネルギーが必要で、それに忙殺されてしまうと他の事に気を配っている余裕がない。そしてそこには自分の身体も含まれる、という様な。

 舞踏家として日々身体と向き合っている最上氏と、『攻殻機動隊』『イノセンス』等の作品で人間の身体性をテーマにした押井氏の対談は、こうした身体論を考える上で面白い。単純に押井映画のファンとして押井守作品の副読本として読む事も出来るけれど、舞踏という自分が知らない世界の事を垣間見る事が出来る本としても本作は面白いものになっていると思う。

 

テーマ : **本の紹介**
ジャンル : 本・雑誌

怪獣映画の美味しい所、全部乗せ・大樹連司『GODZILLA 怪獣黙示録』

 

 「滅びるのは、人か、ゴジラか。」という事で何かと話題の虚淵玄脚本によるアニメ映画版ゴジラ『GODZILLA 怪獣惑星』の前日譚……と言ってしまえば一言で済むかというと、そうは問屋がおろさない特濃怪獣小説が本作『GODZILLA 怪獣黙示録』だ。

 映画では、怪獣の出現と、その頂点に君臨するゴジラによって絶滅寸前に追いやられた人類が、地球を脱出して他の惑星への移住を計画するも失敗。地球帰還派が主流となり、故郷の奪還をかけてゴジラとの決戦に挑むという物語が展開する。

 本作はその前日譚として、怪獣の出現とゴジラの登場によって人類がいかにして万物の霊長の地位から転落するに至ったかという事が語られる。

 巨大災害を超える世界規模の危機に対し、個々の人物の証言から全体像に迫るという描き方は、映画化もされたマックス・ブルックス氏の『WORLD WAR Z』でも用いられたオーラル・ヒストリーという手法だ。世界各地に出現した怪獣と、各国の対応。その中で翻弄される個人の体験。その集積の上に生々しい怪獣との闘争が現出する。ゾンビものでそれをやった『WORLD WAR Z』も面白かったけれど、怪獣映画でもその手法が有効である事を本作は証明した。

 ただ、本作が面白いのはオーラル・ヒストリーという手法を選んだ事よりも、むしろ作品の中に過剰なまでに詰め込まれた怪獣映画ネタ、特撮映画ネタの数々だ。それはゴジラシリーズだけに留まらない。個人的には第一章のカマキラスの時点でそこまで拾って来るのかと思うと同時に、小説という媒体ならではの強みを再確認した。

 小説は映画と違い、尺や予算の制約を受けない。作者の力量次第では無数の怪獣を登場させた上で世界観を損なう事無く物語をまとめ上げる事が可能だ。映画の予告編を観た後で本作を手に取った自分も、まさか目次にヘドラやビオランテ、ジラの名前があるとは思わなかった。そして作中での登場のさせ方にも唸らされた。ていうかここまで来るとずるい。好きしかない。

 かつて福井晴敏氏が『機動戦士ガンダムUC』で宇宙世紀の一番面白い所、美味しい所を全てかっさらった上で全部乗せした様なガンダムをやってくれた時にもずるいと思ったけれど、怪獣映画ネタをこれでもかと詰め込んだ上で同じ事をやってくれた大樹連司氏にも同じ様なずるさを感じるのは自分だけだろうか。もちろんここで言う「ずるい」とは「すいません大好きですそういうの」という意味だ。

 怪獣映画が大好きで、本作を未読の人がいると思うので「これが出ます」というのは目次で分かる部分以外は避けたいのだけれど、本音を言えば言いたくて仕方がない。だって○○とか○○とか平然と出て来ますからね。『機動戦士ガンダムUC』で言えばマリーダさんの過去が明らかになった時に唸るしかなかったというか「やってくれたな福井晴敏」としか言えなかった事を思い出すレベル。それが怪獣映画、特撮映画をベースにして全編に渡って散りばめられた時の破壊力たるや。よくアニメ映画版の前史として通ったなこれ、としか言えない。

 というわけで怪獣映画が好きな方は脳汁が出るレベルで楽しめると思うのでぜひ。きっと同じ気持ちを共有できると思うので。

  

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon