現時点での、僕の解答・ヨゲンメ『キミと死体とボクの解答 3』

 

 1、2巻の感想はこちら置いておきます

 さて『人の心の死体が見える』という能力を持ってしまったが為に、他者の心が傷付けられる事や、その傷を抱えたまま生きる人達の存在を看過する事が出来なくなってしまったユウと喋は、何とか彼等の問題を解決しようと奔走するのだけれど、自分達が見ている『透明死体』の存在を証明出来ないが為に誤解を受けたり、反発されたりする。その繰り返しの中で、彼等は自分自身の心とも向き合う事を強いられるのだけれど、そこから生まれる問いは簡単に答えが出せる様なものではないから、他者を救おうとする彼等自身もまた壁にぶつかり、時に傷付き、悩む事になる。

 肉体の傷は目に見える。血が流れているのを見ればその痛みは他者にも容易に想像する事が出来る。でも、心の傷を、その痛みを、他者が共有する事は難しい。それ以前に、そこに傷がある事に気付く事も難しい。本作『キミと死体とボクの解答』は、その「目に見えない心の傷がもし見えたなら、人はどうするのだろう。そして貴方はどうしますか?」という問いを読者に提示する為の寓話である様に思う。ならば、ここにはやはり書いておかなければならないのだろう。現時点での『僕の解答』を。

 その前に、ひとつ触れておきたい事がある。本巻では、ある教育実習生の物語が語られる。彼は様々な理由から不登校になってしまった生徒達に、教育実習生という枠を超えた接し方で向き合おうとし、実際に何人かの生徒は彼に救われる事になるのだけれど、自分もまた、過去に教育実習生として高校に通った事がある。その時の事を思い返しながら書いてみようと思う。

 『学校じゃ何の権限もないただのお客様』

 本作で実習生自身がそう口にする様に、教育実習生は先生ではないから、学校での扱いはまさにこんなものだった。ただ、それは悪い意味ではないと自分は思っている。そうされる事で教育実習生は守られている部分もあるから。
 自分は2週間だけ高校に通った。教育学部ではなかったし、実習に行ったのもずいぶん前の事だから、今はもう少し長いのかもしれない。それで思う事は、「2週間という期間は何をするにしても本当に短い」という事だ。教壇に立って授業をするという事にしても、生徒達個人と向き合うにしても。ただ、受け入れる学校側からすれば、「仮に2週間とはいえずぶの素人である大学生を実習生として受け入れ、授業を任せる訳だから迷惑極まりない。後でフォローするのはこちらなのだから、受け入れてもらえるだけありがたく思え」「できれば実習期間中に何事も問題を起こす事無く出て行ってくれ」という事になる。実際自分は「教育実習生には懲戒権が無いのだから、生徒に対する生活指導その他は行わない様に」と厳命された。「余計な事は一切するなよ」と言われた気分だったが、『懲戒権』なる言葉を聞いたのはこの時が初めてだったので正直面食らった。生徒を叱る権利は、実習生には無いよ、という事だ。

 冷静に考えてみれば、確かに2週間でいなくなってしまう実習生は生徒達の事に責任を持てる立場ではない。実習を終えた学生が皆教員免許を取得し、採用試験を受けて先生になるとは限らないし、もし実習生が生徒と問題を起こしたとしても、大学生に負える責任なんてたかが知れている。だから受け入れ校では、最初から実習生と生徒に過度の交流を持たせない。実習生の側がその枠組みを乗り越えて行こうとするなら、それは実習生と生徒という関係ではなく「人間対人間」という生身の個人として接しなければならない。
 本作に登場する実習生はそうした。実習生という枠を自分から踏み越えた。それは高校を混乱させもしたし、生徒達を動揺させもしただろう。彼が高校を去る時にはその結果を--あくまでも大学生が負える範囲の責任ではあるにせよ--受け入れなければならない。それが良い事なのか。正しい事だったのか。その結論は人によって異なるだろう。ただ本作が読者の側に繰り返し問うているのは、「目の前で誰かが傷付き、助けを必要としている事を知ってしまった時、自分達はどうするのだろう。何が出来るのだろう」という事だ。

 「何もしないよ」「何も出来ないよ」という人はきっと多くて、自分もその中の一人なのには違いないと思う。自分が出来る事なんてたかが知れているし、誰彼構わず困っている人に手を差し伸べられる様な余裕もない。綺麗なものや優しい気持ちだけでこの世界は出来ていない。他人の都合を考えていては仕事にならない。こちらの要求を押し通す時、これで相手は困るんだろうな、なんていう事は容易に想像が付く。それでも、その事に気付かない振りをする事。気付いていながら無視する事。大人になってから自分はそんな事ばかり覚えて来たし、やって来た。食べて行く為に。生活をして行く為に。自分の取り分を守る為に。会社の中で居場所を確保する為に。上司からの叱責を躱す為に。二言目には「仕方ない」と言って自分を納得させて来た。でもそれが本当に「仕方がない」事だったのかどうかは、自分だけが決められる事だとも思う。本当に「仕方がなかった」のか「仕方がないと思いたかった」だけなのかは。

 正直、自分は漫画の登場人物の様に誰かを思いやって、手を差し伸べる事は出来ない。他人の事情に積極的に踏み込んで行く覚悟もないし、仮に踏み込んだとしても相手を助けられる力はないから。けれど、もしも自分に出来る事があるのだとすれば、それは誰かと一緒になって悩む事くらいなのだろうと思う。それが「誰かを助けよう」なんて思えない、そんな自信を持ち合わせていない自分にも最低限出来る事だろうから。

 誰かが隣で困っていたら、自分も隣で頭を抱えよう。誰かが近くで泣いていたら、もらい泣きしてみよう。誰かが隣で傷付いていたら、それを癒やす事は出来なくても、その痛みを想像してみよう。
 何の問題解決にもならない、その程度の事。いつからか止めてしまっていた、その程度の事。それをもう一度やってみよう。それで何かが変わる訳ではなくても。それで何が解決する訳ではなくても。自分がそうすべきと思ったなら。自分がそうすべきと思う人がもし近くにいるのなら。それがきっと今の時点での『僕の解答』だと思うから。

 

テーマ : 漫画の感想
ジャンル : アニメ・コミック

いつか、最期の日が来るまでは・ヨゲンメ『キミと死体とボクの解答 2』

 

 1巻の感想はこちらに。
 さて、本作について書く前に、全く違う事から書き始めてみる。自分の中ではそこに本作とも繋がっているテーマがある気がするのだけれど、その事を上手く言葉で説明できる気がしないので、読む人によっては無関係な話に聞こえるかもしれない。その事を予め断っておく。

 さて、槇原敬之氏の曲に『僕が一番欲しかったもの』という歌がある。
 その歌の中に登場する『僕』は『とても素敵なもの』を拾って喜んでいたのだけれど、自分の隣にいる誰かが今の自分以上にそれを必要としている事に気付き、自分が拾ったその『とても素敵なもの』を譲ってあげる事にする。その後も『僕』は何度か同じ様に『とても素敵なもの』を拾うのだけれど、結局はいつも隣にいる誰かにそれを譲るという事を繰り返してしまい、『最後には何も見付けられないまま』になってしまう。けれどその時にここまで来た道を振り返ってみたら、自分が譲ってあげたものを手にした人達が皆幸せそうに笑っていて、『それを見た時の気持ち』が自分の探していたものだと気付く。

 最初に言ってしまうと、自分はこの歌が苦手だ。

 良い歌だな、とは思う。でも大人になった自分は、この歌を素直に受け止める事が出来ない。それはこの歌に登場する『僕』の優しさが、現実的には何ら報われていない様な気がするからだ。
 現実に、例えば自分が、誰もが羨む様な『とても素敵なもの』を拾ったとする。それを自分より必要としている誰かなんてこの世界には大勢いるだろう。たとえ自分のすぐ隣にいなかったとしてもだ。では、その事を知っている自分が、自分以外の誰かにその『とても素敵なもの』を譲ってあげられるかというと、自分はそんなに優しい人間ではないと思う。

 現実には、皆自分にとっての『とても素敵なもの』を大事に抱えて生きている。それを落としてしまわない様に。誰かに奪われない様に。けれどそんな風に他人が大事に抱えている『とても素敵なもの』を力ずくで奪って平然としている人だってこの世には大勢いるし、強欲にも自分一人でそれらを抱え込んで、他人に譲るなんていう事を毛ほども考えない人だって大勢いる。そんな世界で、自分が拾ったものを他者に譲る事が出来る様な優しさを持っている人が最後に見付けるものが、本当に『他者の笑顔を見られた時に感じた気持ち』だけだったのだとしたら、それは悲しい事なのではないかと自分は思う。

 自分は、本当に優しい人は自分自身が幸せになるべきなのだと思う。他者からの感謝や自分の気持ちの満足だけではなく、もっと現実的な形で幸せになって欲しいと思う。自分以外の誰かに譲ってあげた以上の『とても素敵なもの』を、最後にはちゃんと手にして欲しいと思う。それが『当たり前』な世の中であって欲しいと思う。だから自分はこの歌が苦手だ。自分にとってこの歌は美談過ぎて、優し過ぎて、聴いているとどこか悲しくなる。

 ……長い前置きを経て、話は本作に戻る。
 
 今の世の中に馴染めない人はきっと大勢いる。他人と上手くコミュニケーションが取れなかったり、競争社会で勝ち抜く事が出来なかったり、心のどこかに弱さを抱えていたり。そして何よりそんな自分を変えられなかったり。そういう『弱さ』を今の社会は許容しない。弱者には『自己責任』という言葉が当たり前の様に投げ付けられる。努力もしていないくせに、結果も出せないくせに、という意味で。ではそうやって弱者に厳しい物言いをしている側が本当に強いのかというと、『自分が弱者と思っている相手よりは若干上』の辺りで同じ様にもがいているだけの似たもの同士だったりする。弱者に対する厳しさは、自分の努力を認めて欲しい気持ちの裏返しで、彼等もまた同じ様に『生き苦しさ』を感じながら生きているのだろう。多分ね。

 皆が同じ様に幸せになりたくて、でも時にはそうなれない人もいる。周囲の環境のせいで。他者からの干渉のせいで。狭量な社会のせいで。或いはそれらを乗り越えられない自分自身の弱さのせいで。でも『優しさ』というものが時に『甘さ』と断じられる事がある様に、『弱さ』として非難されているものの中にも『優しさ』があるのだろうと自分は思う。そして先に述べた様に、自分は優しい人は幸せになるべきだと思う。その優しさがいつか報われて、やがてどこかで『とても素敵なもの』を拾って、或いは『とても素敵な人』に出会って、それを今度こそ手放さずに、現実的に幸せになるべきなのだと思う。それが当たり前の世の中であるべきだと思う。でもそれは理想論で、現実は決してそうならない。これまでも、これからも。ならばその現実を前提として自分はどう生きられるかという事だ。

 自分達には様々な願いがあって、でもその全てが叶う事はない。願掛けの木札にも、流れ星にも、人々の願い全てを叶えてみせる程の力はきっとない。でもそれを知っている自分達が、その事を十分思い知らされている筈の自分達が、それでも願うのは、願ってしまうのは、そのささやかな願いを諦めてしまう事が、忘れ去り、捨て去ってしまう事が悲しいからだ。
 叶わない願いがある事、叶えられない夢がある事、報われない優しさがある事。それらを「そんな事知ってるよ」と言いながら飲み込んで、でもどこか割り切れないままで、自分達は進んで行く。作中に『幸せになりたくない人なんていないから』という言葉がある様に、願いを諦め切れないままで。それが良い事なのか悪い事なのか、正しい事なのか間違っている事なのか、そんな事はきっと、まだ道の途中である自分達には分からないのだろう。でもいつか、最後の時が来て振り返ってみた時、そこからどんな景色が見えるのか、自分の手の中に何が残っているのか、そんな事を思いながら今を歩く事だけは出来る筈だと思う。……まあ「それしか出来ない」とも言えるけれどね。

 

テーマ : 漫画の感想
ジャンル : アニメ・コミック

本当は見える筈のものから、目を逸らして・ヨゲンメ『キミと死体とボクの解答』



 こういう漫画が売れて欲しいと思う。

 自分はこういう良作を自力で見付けるのが苦手で、特に新人作家さんに関するアンテナが低い。今回は下記のサイトで紹介されているのを見て即買いした次第。素直に感謝。

 Book News「人の心の傷を癒すことができるのか。青臭い問いに挑む『キミと死体とボクの解答』」 

 帯の文章は『死体(キズ)だらけの世界で、僕は君に出会った』
 誰の目にも、写真にも写らない『透明死体』が見えてしまう高校生・ユウは、その死体写真をブログにアップし続けていた。死体写真と言っても、透明死体は写真に写らない訳だから、その写真はただ地面を写したものの様にしか見えない。

 『僕には透明な人の死体が視えます』

 ブログに書いた言葉には「嘘つき」というコメントが投げ返されてくる。誰にも理解してもらえない。何故自分にだけ透明死体が見えるのか。そもそも透明死体とは何なのか。何もわからないまま過ぎて行く日々の中で、ユウは初めて透明死体が見えるという少女と出会う。

 『ボクらが視えてるのは心の死体なんだ』

 少女は言う。想像出来ないくらい辛い事があると、人の心は死ぬ。そして死んだ心はその時のまま体から抜け落ちる。その死んでしまった心こそが透明死体の正体なのだと。彼女の願いは人の心の傷を癒す事。そうする事で、心の死体を消す事。

 透明死体=心の死体は、そこで誰かの心が傷付いたという証拠だ。しかし、本当の死体がそうである様に、透明死体もまた何も語らない。その心の傷が何によってもたらされたものなのか。どうすれば心の傷を癒す事ができるのか。それは誰にもわからない。たとえ透明死体が見えたとしても、どうすればその傷付いた心の持ち主を救う事ができるのかまではわからないのだ。

 仮に、自分にも透明死体が見えるとしたらどうするだろう、何が出来るだろうと考えてみる。子供の頃、自分達は「人の心がわかる人間になりなさい」「優しい人になりなさい」と教えられた筈だ。けれど大人になってから思い知らされるのはそれとは逆の事で、そんな感受性や優しさは自分自身を傷付けるだけという身も蓋もないものだったりする。楽に大人をやるコツは鈍感に生きる事だ。たとえ透明死体が見えたとしてもそれを無視して――いや、むしろ踏み付けて――通り過ぎる事が出来るくらい鈍感になれれば上出来だ。他人に優しくできたからって相手も優しさで返してくれるとは限らない世の中で、心優しい人ほど、相手の気持ちになって考える事ができる人ほど自分の心をすり減らして行く。だから自分の様に小狡さを身に付けた嫌な大人は鈍感さで世渡りをする事を覚えるのだ。そんな自分自身に、時に嫌気が差す事があったとしても。

 意地悪な考え方だけれど、本作を読んで自分はこう思ってしまった。透明死体が見える人は、自分が傷付けてしまった誰かの心が、目の前で透明死体になる瞬間を目撃してしまう事は無いのだろうか。それは自分自身の透明死体を見てしまう事と同じ位、或いはそれよりも辛い事かもしれない。自分が誰かの心を傷付けてしまった。誰かの心を殺してしまった。実際に自分がこれまで生きて来た中ではそんな事もあっただろう。現実には透明死体が見える事などないから、自分は「自分が殺してしまった誰かの心」に気付かずに通り過ぎてこれただけだ。気付かずにいられただけだ。そんな瞬間を見たくない。思い知らされたくない。その時の相手の気持ちなんて想像したくもない。そうやって鈍感さという名の鎧を着て身を守ろうとしてきた。でも時々思うのは、それは本当に正しかったのかどうかという事だ。

 むき出しの感受性や優しさのせいで傷付く事を恐れて、鈍感さを着込む事で心を守ろうとしてきた。でもその心は外から傷付く事が無い代わりに、内側から腐って行っていたのかもしれない。他人は傷付けたとしても自分が傷付かない様に、色々な物事から目を逸らす事を覚えた自分。本当は見える筈のものを無視する事が出来る様になった自分。透明死体を踏み付けて生きて行ける自分。そんな自分になる事を、昔の自分は望んでいただろうか。

 もしかしたら、かつての自分の心もまたある時点で死んでいて、今も透明死体として誰にも見付けてもらえないままどこかに転がっているのかもしれないなと思う。かつて過ごした街のどこかで、雨曝しになっている自分の心の死体を想像してみる。今からでも自分はそれを見付ける事が出来るだろうか。その心を、弔う事が出来るのだろうか。ふと、そんな事を思った。

テーマ : 漫画の感想
ジャンル : アニメ・コミック

この世界の中から、何を選び取るか 原作・舞城王太郎 漫画・大暮維人『バイオーグ・トリニティ 1』

 

 たまには漫画の感想を続けてみよう。というわけで、前回感想を書いた『亜人』と同じ「原作付き漫画」繋がりで、今回は大暮維人氏の新作『バイオーグ・トリニティ』を。何と原作者が舞城王太郎氏という事で、また凄い人選だなと。
 原作付き漫画といえば最近は『鋼の錬金術師』の荒川弘氏の作画で『アルスラーン戦記』が漫画化される、なんていうニュースもあったけれど、個人的には既に小説として世に出ている作品の漫画化よりも、本作の様に漫画の為に原作が提供される作品の方に興味がある。何せ小説好きなので、小説で読める作品なら漫画よりも小説で読みたいと思ってしまうのだ。

 さて、話を本作に戻す。
 個人的に大暮氏の漫画は結構好きで、『天上天下』とか『エア・ギア』とか読んでいたのだけれど、常に思っていたのは「大暮氏が原作付きの漫画を書いたらどうなるか」という事だった。

 大暮氏の漫画はストーリーが進むにつれて話のスケールが大きくなる傾向がある。最初は単純な学園バトルものだった『天上天下』は次第に前世からの因縁も含めた大掛かりな話になって行ったし、『エア・ギア』も最初は実在するインラインスケート等でもありそうな競技や技(トリック)等を扱っていたのが、次第に「玉璽(レガリア)争奪戦」「技名を叫んで衝撃波を撃ち合う潰し合い」に特化して行った。これらは良くも悪くも大暮氏の『味』なのだろうと思うけれど、敢えて悪く言えば「ストーリーが迷走しがち」だとも言える。そんな大暮氏が原作付きの漫画を書いたならどうなるかという興味があった訳だ。まあ中には原作者が原因で毎回ストーリーが迷走して行く作品もあるけれど。具体的には大塚英志氏の原作作品全般とか。あの「風呂敷を広げられるだけ広げて畳まない」作風は最早持ち芸と化している感がある。

 さて、今回原作者となった舞城王太郎氏もまた独特の作風を持った作家だと思う。というか独特過ぎてその作風を模倣しようとか追随しようとか、有り体に言えばパクろうとか思う人間が現れない位には独特だ。そんな強い個性を持つ漫画家と小説家にタッグを組ませた時、どんな化学反応が起きるか。本作はそうした実験としても面白い。
 「化学反応」なんていう書き方をすると全く性質の異なる物質同志を掛け合わせるかの様に聞こえるかもしれないけれど、大暮氏と舞城氏には共通点もある。それは結構ストレートに男女の恋愛を取り入れた作品を書いているという所だ。本作もまたその例に漏れない。何せ作中に書かれている主人公のモノローグは「…ヤバい、マジで榎本芙三歩のことが好き過ぎて俺死ぬ」だ。どうよこの直球ぶり。

 両掌に穴が空き、好きなものをその穴から吸い込んで融合する事が出来る様になる病気「バイオ・バグ」の発生は世界に混乱をもたらした。一時は世界大戦にまで発展した事態は特殊な「薬」が開発された事でようやく終息を迎える。吸い込んだものを体から吐き出してリセット出来る「薬」の登場は、バイオ・バグ発症者=「穴あき(バグラー)」によって一度は崩された世界のバランスを危うい所で保つ事に成功したのだ。
 そんな世界の中で、主人公の高校生・藤井は同級生の榎本芙三歩に片思いをしている。ある日、バイオ・バグを発症した藤井は、同じく「穴あき」である榎本に近付けた事を喜んでいたのだが……。

 この「好きなものと融合できる病気」という設定がまず秀逸だと思う。何とでも融合できる反面、一度吸い込んだものを自力で吐き出す事は出来ない。だから重要なのは「何と融合するのか」という事になる。吸い込むものの種類や数に制限は無いが、限界を超えて融合すると自我を失って暴走してしまうし、融合を解除できる薬も無制限で使える訳ではない。そんな中で、この世界の中から自分が融合するものを選ぶ、という行為は難しい。何かと融合するという行為は「好きなもの、欲しいものを買って所有する」という行為とは全く異なる意味を持っているからだ。どんな自分になりたいか。自分とひとつにしてしまいたい程求めているものとは何か。この広い世界の中から何を選び取るか。その選択が物語を駆動して行く。

 何にせよ、まだ物語は始まったばかり。漫画家と小説家の融合の結果生まれるだろう、この先の展開が楽しみだ。

 

テーマ : 漫画の感想
ジャンル : アニメ・コミック

「人間」という輪の外側から 原作・三浦追儺 漫画・桜井画門『亜人 1』

 

 そういえばこのところ漫画の感想は全く書いていなかったなと思った。まあ何となく小説の感想がメインになっていて漫画の感想書きまで手が回らないだけで、読んでいない訳では無かったのだけれど。というわけで、久しぶりの漫画感想は三浦追儺・桜井画門両氏の『亜人』を。いや、切実にこういう作品が売れて欲しいなと思う。

 17年前、アフリカの戦場で『死なない兵士』が発見される。「決して死なない」人間の発見はその重大さ故に隠蔽されようとしたが、やがて露見。世界中に混乱を引き起こした。外見上人と区別する事が出来ない、不死身の存在。それはやがて『亜人』と呼称される様になる。これまで全世界で公式に確認された亜人は46体。日本では2体。亜人が人間に害を及ぼした事例は「確認されていない」とされており、その個体数の少なさもあって、一時期の混乱は収束している。
 医学部への進学を目指す高校3年生の永井圭は、交通事故に遭い、「生き返った」事で自分が亜人であると知る事になる。亜人捕獲の為に動き出す警察や厚生労働省。懸賞金の噂を聞き付けた市民。あらゆる『人間』に追われる事になった『亜人』の逃走劇が幕を開ける。

 本作の特色はいくつかある。まずは『亜人』がただ不死身なだけの存在ではなく、ある特殊な能力を有するという設定だ。ここで詳しく説明する事は作品を読んだ際に興が削がれるので避けるけれど、本作の表紙に描かれている、一見ミイラの様な姿をしたヒトガタを見た時に感じるただならなさから察してもらえればと思う。それにしてもこの装丁、凄く良いな。

 次の特色。それは主人公である永井圭を取り巻く周囲の人間や、彼自身の思考が徐々に「亜人に対する人間」「人間に対する亜人」のそれに切り替わって行く所のリアルさだ。
 冒頭、まだ圭自身が自分が亜人である事に気付く前の日常との落差。人間ではないものを『捕獲』しようとする人間達の言動には、ほんの少し前まで捕獲対象が普通の人間として暮らしていた事に対する配慮が無い。それは例えばテレビ中継で「亜人の自宅前です」と話すアナウンサーの態度からも窺える。そこには対象が未成年だから氏名を伏せておくという『配慮』ではなく、「亜人は亜人であって、既に人間ではない」という『断絶』がある様に思う。また事情聴取を受ける圭の母親が「息子…いや…永井圭が人間じゃなかったなんて…」と言い直すシーンがあるのだけれど、ここからも亜人と人間の決定的な断絶が窺い知れる様に思う。

 作中の世界で、亜人である事が発覚した人間の『人権』がどの様に扱われるのか詳しい説明は無いが、少なくとも市民レベルでは「死なない人間に危害を加える事」に対する罪悪感や忌避感は相当薄い様に思えた。何せ何をしても相手は「死なない」と言われているのだし、仮にやり過ぎて一時的に死んでしまったのだとしても確実に生き返る。ならば相手を捕獲する上でどんな暴力を加えても咎められる事は無い筈だ、という認識。それはある意味で人間の『本性』とも言える。そうした『本性』を向けられる事で、圭もまた徐々に亜人としての『自覚』を持つ様になり、「人間に対する亜人」の思考に切り替わって行く。

 この亜人の『自覚』というものについては『ゲゲゲの鬼太郎』の歌を思い浮かべてもらうと分かり易いかもしれない。つまりお化けには「学校も試験もなんにもない」「会社も仕事もなんにもない」のであり、更にお化けは「死なない。病気もなんにもない」のだ。つまりお化けや妖怪には本来人間のルールに合わせる必要が無いし、人間が作った法律を守る必要も無い。人間世界の社会秩序や道徳・規範等は「人間が、人間として社会の中で生きて行く上で必要」だから定められているのであって、その埒外にいるお化けにとって本来そんなものは知った事ではない。だから人間に対して「殺人は許されない」という言葉が持つ拘束力は、亜人にとって意味を持たない。自分はその殺してはならない『人間』の仲間ではなく、その埒外に置かれた『亜人』だからだ。仮に亜人が殺人を避けるとすれば、それは「無用な混乱を生じて人間を刺激すると自分にとって不利益だから今はやめておこう」という計算から来るのであって、それがタブーとされているからではない。

 自分が既に人間ではなく亜人なのだと『自覚』する時、それまでただの高校生だった少年の思考は亜人的なそれに切り替わって行く。本作はそうした場面の描写が実にリアルで、生々しい。これまで設定やストーリーについて書いてきたけれど、その『生々しさ』を説得力のあるものとして漫画で表現する為には絵も重要になると思う。その点、桜井氏の絵はシリアスな場面でのリアルさと、少年漫画的な部分の描き分けが秀逸で、読んでいるとどんどん引き込まれる。

 相手を非難する言葉に「人間じゃない」というものがあるけれど、仮に本作の様に、本当に自分が「人間ではなくなった」時、そこにはどんな世界が見えるのだろう。まあ現実にはそんな事は起こり得ない訳だけれど、本作において『人間』と『亜人』という描き方をされている様な断絶、或いは区別や差別は現実にもある。それは単純化すれば敵と味方という事だけれど、性別・人種・国籍の違いとか、信仰の違いとか、主義主張の違いとか、本当に様々な部分で自分達は日々線引きをされているし、線引きしてもいる。その中で味方の輪の中から弾かれた存在に対して自分達が冷酷に振舞う事が出来る様に、『亜人』の側から見える世界もどこかこの現実の延長にある、自分達が見知った世界なのかもしれない。

 

テーマ : 漫画の感想
ジャンル : アニメ・コミック

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon