初代ゴジラと、ハリウッドスターとしてのゴジラ ギャレス・エドワーズ『GODZILLA』

 

 ハリウッド版『ゴジラ』としては2作目となる本作。最初に言っておくと、今回はちゃんと「ゴジラ」していたので一安心。いや、1998年に公開されたハリウッド版第1作目のローランド・エメリッヒ監督には申し訳ないのだけれど、ぶっちゃけ「二足歩行するでかいトカゲ」だった前作のハリウッドゴジラに比べれば、ちゃんと『怪獣』している本作のゴジラは見ていて安心感がある。ちなみに鑑賞したのは2D・字幕版。封切りとほぼ同時に観に行ったのだけれど、感想を書くのには少し時間を置いた方が良い気がして、個人的な宿題にしていた。

 今年はゴジラ生誕60周年であると同時に、初代ゴジラの映画音楽を作曲された伊福部昭氏の生誕100周年にも当たるメモリアルイヤーだ。そんな年に公開された映画から、日本のゴジラシリーズに対する敬意を感じる事が出来た事はとても良かったと思う。

 さて、本作の話に入る前に、まずは初代ゴジラについて。実はハリウッド版の公開に先立ち、日本でもこのメモリアルイヤーを記念した企画が催されていた。それが『第4回 伊福部昭音楽祭』である。
 この企画の面白い所は、初代ゴジラのデジタルリマスター版の全編上映に合わせ、その全ての劇伴をオーケストラの生演奏で行うという点だ。何という贅沢な企画だろうか。初代ゴジラを大きなスクリーンで観る機会はなかなか無いという事もあり、これはぜひ行きたいという事で友人と行って来た。

 第1部で『日本狂詩曲』『シンフォニア・タプカーラ』の演奏が行われ、オーケストラサウンドの迫力を堪能したところで休憩を挟み、映画の上映というプログラムだったのだけれど、休憩時間明けに予告無しで今回のハリウッド版ゴジラの予告映像が上映された。「予告無しの予告編」という事でコンサートホールも一瞬どよめいたのだけれど、予告編の最後で咆哮するゴジラを見て友人と一言。「鳴き声がいまいちゴジラっぽくない!」……いやまあ、新しいゴジラの咆哮も迫力があるといえばあるのだけれど、どうしても日本人にはあのゴジラ独特の咆哮が刻み込まれているのでこの違和感は致し方ないかと。

 さて、恐らく初代ゴジラを鑑賞したのは何十年振りになると思うのだけれど、そのテーマや作品の素晴らしさはここで再び語るまでもないので割愛する。もちろん東京フィルハーモニー交響楽団の演奏も大変素晴らしいものだった。

 そして、この初代ゴジラを踏まえた上で今回のハリウッド版ゴジラなのだけれど、これはもう初代と比較するものではないなという印象だった。本作はどちらかというと『ゴジラの逆襲』以降の、「ゴジラ対巨大怪獣」の物語を下敷にしており、「怪獣王ゴジラをいかに格好良く戦わせるか」というエンタメ方向に振り切った作品になっている。ゴジラはアメコミヒーローの様なアイコンであり、それが活躍する物語を観る事は日本人にとって、海を渡った日本人俳優やプロスポーツ選手、或いは世界大会に出場する日本代表チームを応援する時に近い心境を呼び起こす。ゴジラも初代ゴジラと本作のゴジラを比較すると随分巨体になり、よりマッシブにビルドアップされた体型になったなと思うのだけれど、そういう所も何となく日本人メジャーリーガー風だ。

 実際、本作でゴジラが米軍の攻撃を受けるシーンがあるのだけれど、戦車部隊の砲撃や歩兵の銃撃に曝されるシーン等では「フハハ、ゴジラにそんな攻撃が効くか!」と完全にゴジラ応援モードに入って観ていた。これは日本人特有のひいき目だと思う。例えば日本人メジャーリーガーが活躍すると、普段野球に興味が無い人間でも何となく嬉しいものだが、本作にもそれに近い部分はある。もちろん、特撮映画好きにとってゴジラとは「普段興味が無いプロ野球選手」以上に感情移入出来る存在な訳で、何を置いても「強いゴジラ」が描かれる事は重要なポイントだと思う。例の「ゴジラの背びれが光るシーン」の時は劇場全体が「来るぞ……来るぞ……!」みたいな一体感に包まれていて、皆これを観に来てるんだなと実感した。ティラノサウルスをでかくした様な前ハリウッド版ゴジラは、生物学的にはより正しいのかもしれないけれど、観客が見たいゴジラは生物ではなく『怪獣』なのであって、人間が太刀打ち出来ない様な圧倒的な力を持っていなければならない。恐竜と怪獣を分かつ線は、恐らくその辺りにあるのだと思う。

 そしてゴジラ共々『日本代表』として本作に出演している芹沢博士役の渡辺謙氏の好演について。御本人は『俳優日本代表』扱いには辟易しているかもしれないけれど、『ラストサムライ』以降、どうしても周囲はその様に見てしまう部分があると思う。既に様々なメディアで報じられている様に、渡辺氏演じる芹沢博士が本作で最初に「ゴジラ」という名前を口にする事になる訳だけれど、その時日本語の発音で「ゴジラ」と言う。ただそれだけと言えばそれだけなのだけれど、これは嬉しかった。自分達が知っているゴジラと、海の向こうに渡ったゴジラが、この「ゴジラ」という一言で違和感なく繋がってくれた気がする。

 初代ゴジラを念頭に置いて本作を観ると、『反核』や『人類の驕りに対する警鐘』といった重厚なテーマを如何に盛り込むかという部分を期待してしまいがちだが、本作に関してはそれらを脇に置いて、まずは娯楽映画として鑑賞する方が楽しい。自分は福島在住なので、原発問題の扱い等、どうしてもテーマ性を掘り下げたくなってしまうが、少なくとも本作を鑑賞している間は完全に娯楽映画として楽しむ事が出来た。それ以外のテーマは、映画を観終わった後に余韻として感じる程度で、そのバランス感覚は正しいと思う。

 日本で現在進行形の原発問題は「既に起こってしまった事故」であり、その検証と反省は必要だとしても「まずは事態の収拾が何よりも優先される」事案だと言える。その直近の問題が山積するテーマに対して、映画が直に言及するのは適当ではないだろう。本作で描かれるテーマもまた、直近の原発問題の様な実務的課題ではなく、もう少し一般論的な、或いは概論的なものを見据えた内容だと思う。

 日本では3.11の震災があり、地元福島では原発事故が発生した。一方で2009年にはアメリカのオバマ大統領が『核なき世界』を訴えてノーベル平和賞を受賞したが、翌年に臨界前核実験を実施した事で批判を受けた。北朝鮮も核実験や弾道ミサイル発射実験を繰り返し、水面下で着々と核配備へ向けて動いている。こうした中で自分達が、平和利用にせよ兵器利用にせよ『核』の問題についてこれからどう考え、行動して行くのか。そして発展を続ける科学技術や遺伝子工学等とどの様に向き合って行くのか。それらを考える契機が必要かと思う。その「駆け足の状態からちょっと歩を緩めて考えてみる」為のきっかけとしての『ゴジラ』があってもいいのかなと感じた。

 これを書いている現在、次回作の企画も既に進行中で、ラドン、モスラ、キングギドラの登場が予定されているそうだけれど、本作がハリウッド版『ゴジラの逆襲』だとすれば、次回作はハリウッド版『三大怪獣 地球最大の決戦』になるのだろうか。ちょっと気が早いが、今から楽しみだ。

  

テーマ : GODZILLA ゴジラ2014
ジャンル : 映画

サカサマな世界の中で・吉浦康裕『サカサマのパテマ』

 

 ようやく観て来た。公式サイトによると、地元福島での公開は年明けになってしまうとの事で、県外まで足を伸ばした次第。先にtoi8氏が手掛けた漫画版の単行本が出て、書店で見掛けていたのだけれど、映画と同じストーリーをなぞるものではないと知っていても、作品の構造上、世界設定の種明かしが絶対に含まれていそうだったので映画を見るまで買わずにいた。こちらも映画を観てからようやく買って来たのだけれど、結果から言うとやはり「映画が先」の方が良い様に思う。

 ネタバレしない範囲で感想を書く事が困難なので、以下は既に映画を観たという人限定で。

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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

歩き続ける事=生き続けるという事を・新海誠『言の葉の庭』

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 ……行って来ました。劇場まで。

 自分が福島県在住だという事は主に原発問題について言及する時等に何度か書いたと思う。そして、福島では本作の劇場公開が無い。よって今日は宇都宮まで足を伸ばす事にした。
 劇場公開からブルーレイ等の一般販売まで間がない(というか、劇場では先行販売されているので実質劇場公開と同時リリースとも言える)作品なので、「まあ劇場に行かなくても自宅で観れば」と思いがちな作品だとは思う。でも自分はぜひとも本作を大きいスクリーンで観たいと思ったし、その判断は間違いではなかったと思う。もちろんソフト化されたものも買うけれど。

 小説にしろ漫画にしろ、アニメにしろ映画にしろ、ある作品に触れた時に、「ああ、自分はこの作家(或いは監督)の作品は、今後どんなものが発表されるとしても一生追い掛けて行く事になるだろうな」と思う時が稀にある。自分にとっては新海監督もその中の一人だ。『ほしのこえ』を観た時に、自分はそれを感じた。それは作品が面白かったからとか、登場人物に惹かれたからとか、作品のテーマに心打たれたからとか、そうした言葉で説明できる部分とはまた別に、上手くは言えないのだけれど、もっと感覚的な何かが原因になっているのだと思う。

 本作『言の葉の庭』を観て感じた事はいくつかある。まずは、新海作品について毎回言及される『背景の美しさ』について。本作もまた、何気ない日常の風景を本当に瑞々しく描いてみせる。

 自分は新海作品を観た後でいつも思う事がある。それは自分が生きているこの現実の方が、絵という平面で表現される作品世界よりも平坦で、色褪せたものに見えるという事だ。
 現実には、そんな事はあり得ない。現実であるこの世界の方が、そこにある色彩にしても、密度にしても、アニメで表現される世界より遥かに情報量が多い筈だ。しかし自分から見た現実はもっと無味乾燥としていて、平坦なものに思える。
 もちろん、映像作品とはただ現実を写したものではなく、本作で言えばそこに美しさや瑞々しさが感じられる様に脚色されたものだという事実はある。でも自分はそれ以上にこう考える。自分が見ているこの現実が、平坦で色褪せた、無味乾燥なものに思えるとするなら、それは自分の側にその原因があるのだと。

 世界は、現実は、それを見る人によっては本作と同じ様な美しさを、瑞々しさを持ったものなのかもしれない。何気ない日常の風景も、雨に濡れる街角も、公園の緑も、その美しさに気付ける感性を開いた人にとっては輝いて見えているのかもしれない。現に、ありふれた日常を、こんなにも色鮮やかな世界として描き出す作品があるのだから。もしも自分の見る世界がそこからかけ離れているのだとすれば、それは自分がそこにある光から目を逸らしているからだ。感性を閉ざして生きているからだ。それはきっと自分が大人になってから身に付けた悪癖であり処世術のひとつなのだろう。感性を閉ざして、鈍感でいる方が世の中では生き易いのだと勘違いしている、愚かな自分が身に付けた、本当は唾棄すべき処世術だ。そんな、自分自身でかけた灰色のフィルターを外して世界を見る事が出来たなら、そこには自分が現実だと思い込もうとしている世界よりも、もっと色彩に溢れた世界が見えるのかもしれない。

 そして本作が気付かせてくれる事がもうひとつある。それは大人であれ、子どもであれ、互いに向き合う時はひとりの人間であるという事だ。

 大人は子どもとは違う。子どももまた大人とは違う。けれど同じ人間として、両者は向き合えるという事。そして、向き合うしかないのだという事。それは当たり前の事の様だけれど、自分達はそれを忘れてしまう事がある。大人は大人の理屈でしか世界と向き合おうとせずに、自分がかつて子どもであった事を棚上げして、子どもの持つ感性を青臭い世間知らずの妄言だと吐き捨てる。また子どもはその潔癖さで、大人の生きる現実を、打算と妥協にまみれた汚濁として切り捨てる。そんな事はよくある現実で、ここで今更書く程の事でもない。では、もしもこの現実がその様なものであるとするなら、人はいつまでが子どもで、いつから大人になるのだろうか。両者を分けるその線は、そんなに明確に引かれているものなのだろうか。自分は思う。否だと。

 何も自分がまともな大人になる事に失敗した人間だからそう思うのではない。大人も子どもも、置かれている立ち位置が違うだけで、従わなければならない決まりや自分を縛る環境が違うだけで、本当は同じ様に「生きる事」という共通の課題を、重荷を背負ったひとつの人格なのだろうと思うのだ。当然、大人は大人の立場で話し、生きる。子どもは子どもの目線から見える世界の中で大人と相対する事になる。けれどどちらも、本当は同じ道を歩いている、対等な人格なのだ。どちらも同じ様に道に迷い、自分の居場所を探す事もある、対等な人格。だから、時にお互いがお互いの居場所になる事があっても良いのだと思う。何も恋愛感情を経て、彼氏彼女の関係になるという事だけが正解な訳ではないし、ハッピーエンドな訳でもない。お互いがお互いを必要として、互いの事を分かり合おうとして、そこで何かが通じ合う事が出来たなら。きっとその事を支えにして、人はどこまでも歩いて行けるのだと思う。どんなに遠い場所へも、歩いて行ける様になるのだと思う。

 本作のテーマもまた、歩く事=生きる事に集約されている様に思う。歩き続ける事=生き続ける事。その為に人が何を必要とし、求めて行くのか。その事に対する気付きを、本作は与えてくれる。そんな気がする。

 

テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

大人と子供の狭間で『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

 今回はネタバレありの感想を。一応、事前に警告は入れます。

 さて、これまで自分は他のエヴァファンと同じ様に、作品を何度も観て、物語について仲間と語り合ってきた。エヴァがどんな作品だとか、登場人物達がどんな存在だとか、語るテーマは尽きなかった。でも今振り返れば、それは「自分にとって」エヴァがどんな作品であり、「自分にとって」登場人物達がどんな存在かという事だったのだろうと思う。作品について語っているつもりが、いつの間にか自分語りになってしまっている。自分にとってエヴァとはそんな不思議な作品だと言える。

 もちろん、このブログに本の感想を書く事なども突き詰めていけば自分語りなのだろう。それを読んだ自分がどう感じ、どんな感想を抱いたかという事を記録する行為なのだから。しかしエヴァという作品について語る事は、他の作品について語る以上に「生々しい」自分語りを要求される行為だと思う。

 本作については鑑賞後の感想が賛否両論ある様だけれど、それも結局は映画を観た人がそれぞれどんな立場で作品について語るのかという部分に起因している気がしてならない。本作を観てシンジに最も感情移入する人と、アスカに最も感情移入する人とでは抱く感想も全く違ったものになるだろうし、シンジを取り巻く大人達の立場でものを考える人もいるだろう。自分達はそれぞれの立場から本作を観た時に感じたものを言葉にしている訳で、どれが正解だとか、どれが間違っているだとかは一概には言えない。だからこれから自分が書く事は、かつて10代後半でエヴァにはまり、今30代半ばになった男が、震災後の福島から発信しているものだという事を最初にお断りしておく。

 以下、完全にネタバレを含むので未見の方はここで退避願います。なお、かなりの長文です。

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テーマ : ヱヴァンゲリヲン新劇場版
ジャンル : 映画

よりシンプルに、より力強く・細田守『おおかみこどもの雨と雪』

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 ……これはまた凄い作品を観てしまった。アニメの底力というか何というか。

 昨日が公開初日という事もあって、まだ時期的に観に行けていない方も多いだろうから、以下の感想は物語のあらすじに関する内容は極力含まない方向で書いてみる。まあそれ以前に、未見の方はこんな文章を読む前に劇場に行こう。うん、それが一番。

 さて、「そもそも『おおかみこども』って何よ」とか「これって結局どういう話なの?」という疑問は、作品を観れば誰でも分かる事なのでここで書く事はしない。昨今のアニメというと設定が複雑だったり、原作を知らないと理解が追い付かなかったり、サブカル的な知識を大量に持っていないと楽しめなかったりする作品も多いけれど、本作はそんな事はない。物語はとてもシンプルで、飾り気がない。複雑な設定を持つ物語に慣れた人だと、あまりにもシンプル過ぎて味気なく感じる人もいるかもしれないと思うくらいだ。さながら味付けの濃い料理を食べ慣れた人が、薄味の料理を食べた時に物足りなさを感じる様に。でも自分は料理にたとえるならば、このさじ加減が素材の味を引き出していると思う。それは作品のテーマや登場人物達の心の動きが直接響いて来る感じがする、という事だ。

 自分は、細かい設定がこれでもかと盛り込まれ、作中で語り切れずに別途設定集や副読本を必要とする様な、いわゆる味付けの濃い物語も嫌いではない。むしろ一時期はそういった作品ばかり追い掛けていた時期もある。けれど、そういう風に大作志向になり、複雑化し、どんどん話のスケールが大きくなっていくものだけがアニメ作品かというと、必ずしもそうである必要はないと思うのだ。アニメは確かに何でも、どんなにスケールの大きな世界観でも映像化出来る表現形式だけれど、だからといって全てのアニメ作品がそういったものである必要はない。本作の様にシンプルで、素朴で、だからこそ力強い物語を描く事だってアニメには出来るのだから。

 本作は家族の物語だ。そこには父親の物語があり、母親の物語があり、成長して行く子ども達の物語がある。そして、周囲で彼等を見守る人々の物語でもある。伝えたい事はシンプルで、それぞれのテーマは誰の心にも直接届く様になっている。それがとてもいい。作品を観る人の年齢を問わない事。様々な人がこの映画に触れて、それぞれの『今』を想い、劇場を出る時にはその『今』を生きる上での大切な、何か温かいものを持ち帰る事が出来る様になっている事。そういう意味でのスケールの大きさをひしひしと感じた。重ねて言うけれど、本当に凄い作品を観たなという満足感がある。

 普段アニメ映画には足を運ばないという人も、本作だけは騙されたと思って観に行ってもらいたい。自分にしては珍しく、それ位強力にお薦めしたい作品。こういう作品が評価されて、興行的にも大成功して、次に繋がってくれると個人的にこれ以上嬉しい事はない。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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