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目覚めたくて必死に耳を塞ぐ・the HIATUS『A World Of Pandemonium』

 目覚めると何だか長い夢を見ていた様な気がして、しかもそれが悪い夢だった様な感覚だけが澱の様に残留しているのに、内容を思い出せない。夢の中に何か大切なものを置き忘れて来た様な、或いは目覚めてもまだ夢の中から抜け出せていない様な、そんな違和感が消えてくれない。
 そんな時は、今自分が生きている事とか、これから先も生きて行く事とか、そんな事が全てどうでもよく思える事がある。価値が無いとか、意味が無いとか、そんな事よりもただひたすら、もうどうでもいいという感じ。脱力感。気怠さ。

 生命は大事だ。そんな事はわかっている。無駄にしていいものではないし、例えば今回の震災で亡くなられた方々の様な存在を思えば、今命がある事を日々感謝して前向きに生きなければならないのだろう。亡くなられた方々の分まで生きる、なんておこがましい事は口が裂けても言えないが、せめて自分に与えられた分は全うしなくてはならない。そう思う。そう、思うのだが。

 テレビをつければニュース番組は相変わらずクソッタレなニュースを垂れ流している。どこかで通り魔が女の子に刃物を突き刺しただとか、しかもその犯人が16歳の男子高校生だったとか。一方福島第一原発では汚染水が溜まり、保管場所の確保に行き詰まった東電が「処理した上で海に流そう」とかいう唖然とするような内容を平然と発表する。九電は九電で玄海原発のポンプ故障による汚染水漏れの公表が遅れる等、この後に及んでなお続く電力会社の隠蔽体質を露呈する。何なんだよ、と思うけれど、答えは返って来ない。悪いニュースは聞き飽きた。もうたくさんなんだ。

 長く続く悪い夢から目が覚めない様な、そして目覚めてもまだ悪夢の中から抜け出せていない様な息苦しさ。或いは生き苦しさ。だから自分は、昔よくそうしていた様に耳を塞ぐ事にする。悪いニュースを垂れ流し続けるテレビを消して、クソッタレな社会から目を逸らして、音楽で耳を塞ぐのだ。せめて世の中がもう少しマシなものに思えてくるまで。

“化学物質が焼き払い
 みんな眩ゆい青に変わり
 僕の頭はまだ
 自分をうつむかせるものだけを捉えている
 僕の心が大きく壁に書いてあった
 大きく壁に書いてあったんだ
 今度こそ目を覚ますんだ
 今度こそ目を覚ますんだ”

 『Shimmer』(対訳)より

 自分は多分、この世の中が懸命に生きるに値するものなんだという事を信じさせて欲しいのだと思う。本当にその通りかどうかはこの際どうでもいい。錯覚でも、嘘でも、一時でもそう信じさせてくれさえすればいい。世界や社会がもうめちゃくちゃだなんていう事はわかっている。だから多くは望まない。子どもの頃の様に本当の事が知りたいなんて言わない。本当の希望が欲しいとも思わない。嘘でいい。何とかこの疑り深い自分を騙してくれる様な嘘の希望でいい。

“ここにとどまるって言って
 このめちゃくちゃな世界にさ
 まだきっとなんとかなるから”

 『On Your Way Home』(対訳)より


 まだきっとなんとかなるから。

 『本当に?』という言葉を、自分は飲み込む。

 

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ジャンル : 音楽

長い長い行進の途中で・ASIAN KUNG-FU GENERATION『マーチングバンド』

 震災の年ももうすぐ終わろうとしている。

 これから先も2011年という年が震災の年として記憶され続ける事になるのは明らかだろうが、特に震災後、作家やアーティスト達は一体どの様な作品を発表するのかという事で相当悩んだのではないかと思う。
 以前と変わらない作品を発表するのか、それとも震災後という事を踏まえた表現を作品の中に織り込んで行くのか。あらゆるものの価値観が震災以前から変化しつつある社会の中で、表現者達はまず自分の立ち位置を明確にする事を要求されている。

 変わってしまったものがあり、変わらず残ったものがある。そのどちらも大切なものだろう。それらをどの様に受け止めて行けば良いのかという答えを出す事は容易ではない。ただ確かなのは、時の流れは自分達が答えを出すまで待っていてはくれないという事だ。先が見えないままでも、答えを見出せないままでも、自分達は歩き続けなくてなならない。

 何処へ? どうやって?

 今自分達が向かっている方向が正しいのか間違っているのか。そんな事に答えを出せる人間は誰もいないだろうが、そんな時に人が求めるのは、何があってもこれだけは正しいと思える様な普遍的な価値観なのではないかと思う。それは少なくとも今現在、自分達がまだ生きていて、明日も生き続けて行かなければならないという事だ。

“悲しくなったり
 切なくなったり
 ため息吐いたり
 惨めになったり
 いつかは失ういのちを思ったり
 それでも僕らは息をしよう”

 『マーチングバンド』より

 福島に住んでいて思うのは、これから先の長い時間の事だ。放射性セシウムの半減期が30年だという事は各種報道で嫌という程繰り返されているから皆知っている事だろうと思うけれど、今30代の自分からすれば、30年という時間は今までの自分の人生とほぼ同じ期間だ。そんな、自分という一個人にとっては途方も無い時間が経っても『半減』なのであって、消えてなくなる訳ではない。原発の廃炉にしたって、それと同じだけか、或いはそれ以上の年月が必要になる事は目に見えている。
 福島県の佐藤知事は福島県の復興ビジョンとして、事故を起こした福島第一原発だけではなく、第二原発も含めた県内全ての原発を廃炉にする事を求めて行く方針を示した。これはまだ単なる方針であって決定事項ではないし、県内でも意見の一致が得られているとは言い難いという問題もある。そして仮に全ての原発を廃炉にしても、既に福島という地名はチェルノブイリと並び称されるものになってしまっている訳で、その中での復興、地域振興というものがどの程度可能なのか先は見えていない。
 先に述べた30年というものは、その中での30年なのだ。そして30年経てば自分は60代になるのだ。そんな途方も無い先の事を今からリアルに想像しろ、計画しろと言われても正直困る。何なんだよという憤りがある。かといって他の誰かを責める事も出来ない。

 『それでも僕らは息をしよう』

 そう思えるか。思い続けられるか。
 先を見れば途方に暮れるしかない道程の中で、自分に出来るのはせめて今日自分がまだ息をしているという事を確かめる程度の事でしかない。そして、それを積み重ねて明日に進むという程度の事でしかない。その先の光景はまだ見えないけれど。

 

テーマ : 邦楽
ジャンル : 音楽

時にはネタ的なアルバムを・Imaginary Flying Machines『プリンセス・ジブリ』

 気付けば最近は堅っ苦しい文章しか書いていなかったなーと思うので、たまには砕けた書き方で、こんなCDでもご紹介。ただ、最初に言っておくと一般受けは絶対にしなさそう。

 さて、タイトルに入った『ジブリ』の文字を見ても分かる様に、本作はスタジオジブリの映画のテーマソングをアレンジしたアルバムなのだけれど、『プリンセス』の文字に騙されると痛い目に遭うというある意味「タイトルに偽り有り」なCDになっている。正直全曲聴いた今でもどの辺りが『プリンセス』だったのかさっぱりなのだが……ああ、女性ボーカルだからか?一応。

 しかしまあ、「あのジブリ映画の名曲を○○で!」というCDはそれこそ掃いて捨てるほどある訳で、ジャズとかボサノバとかダンスアレンジとかトランスっぽいのからと、よくもまあここまで、という感すらある。だから大抵のアレンジでは今更新鮮味は無い訳だ。それで企画者が「マッチする組み合わせに新鮮味が無いなら、ミスマッチの方向に振り切ったものを作ればいいんじゃね?」と思った……のかどうかは知らないが、今回のCDは正直よく企画が通ったなと感心してしまった。


 ……誰がジブリの曲に『デスメタル』混ぜろって言ったよ。


 まあ曲調全体がデスメタルかと言われるとちょっと違う気もするけれど。
 デスメタルを聴かない人に改めて説明しようとすると難しいのだけれど、デスメタルでよく言われる『デスヴォイス』とか『デス声』とか言われる歌声(?)がある。擬音で書くと「ヴァァァァァ」とか「ヴォォォォォ」とかいう感じになるんだろうか。ダミ声というか何というか、イメージ的には「なまはげがカラオケ歌ってるみたいな」感じの声だ。「泣く子はいねがぁぁぁぁぁ!」っていうあのノリで。うん、我ながら例えが意味不明だが、反対に普通の歌声をデスメタル界隈では『クリーンヴォイス』とか言ったりする。

 本作では女性ボーカルがクリーンヴォイスで歌い、そのバックで男性ボーカルがデスヴォイスで合いの手を入れるという展開が多い。その為、コアなデス好きが全編デス声を期待すると肩透かしをくらい、普段デスメタルを聴かない人が聴くとデス声部分が耳障りに聴こえるというある意味中途半端なアルバムに仕上がっていると言えなくもない。まあ自分の様な中途半端なリスナーにとってはこの中途半端感がネタとして丁度良いとも言えるのだけれどね。

 正直1曲目の『となりのトトロ』のデスアレンジを聴いただけでもネタとしての元はとれたと思っている。てか、何でこの曲だけデス声が全編通して頑張っているのかが意味不明。「ダァレェカガァァァァァァ!!コォッソリィィィィィィ!!」って出だしを聴いた時にはぶっちゃけ自分が今何の曲を聴いているのか記憶が飛んだ。間違っても子どもには聴かせない方が良さそうな感じ。「こんなのボクがしってるトトロじゃないー!」とか言われそうな。まあ逆になまはげ効果は期待できそうだけど。

 最近腹抱えて笑ってないなーという人、ネタに飢えている人、ツッコミ気質の人、様々な方にオススメなCDに仕上がっているのではないでしょうか。個人的には『耳をすませば』の『Country Road』が結構いい具合に「青春の爽やかさに絡み付くデス声」という絶妙なミスマッチ感を醸し出していてお気に入りです。聴く前から凄く食べ合わせが悪そうな感じに思わせておいて実際に聴いても正にその通りな所が特に。

 

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あの日のように笑えなくても・BUMP OF CHICKEN『ゼロ』

 人間が生きて行く為に何が必要かと考える。当然水や食料、空気といった最低限の生命維持に必要なものは要るだろう。それらを手に入れる為には金だって必要かもしれない。また「結局金か」とか言われそうだが、衣食住に不自由しない為にはいくらかの金はやはり必要だ。どんなに『人はパンのみにて生くるにあらず』と言っても、パンが食べられなければ人は飢える。いや、『パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない』とか「日本人なら米食ってろよ」とかいう話ではなく。

 そうした単純な話はひとまず置くとして、皆が生きる為に求めているものでありながら、なかなか手にする事が出来ずに苦しんでいるものに、自分は思い当たる。それは『居場所』だ。それは単に住む家があるかどうかという事ではなく、自分の存在を受け入れてくれる場所や人という意味での、本当の意味での自分の居場所を得られるかどうかという事だ。

 現代は社会の中で居場所を失う人が多い様に思う。例えば職を失うという事は単純に経済的な問題であるかの様に語られるけれど、それ以上に深刻なのは個人から社会的な居場所を奪う事だ。
 自分は昔コンビニの深夜勤で食いつないでいた時期があるのだけれど、そこを辞めて実家に戻ってからしばらくの間はなかなか職に就けず、無職の期間が続いた。ハローワークに行き何社も面接を受けたが、その度に不採用という結果になって落ち込んだ。この就職活動というものは不思議なもので、何社も受けては落ちてを繰り返していると自分自身が何の価値もないゴミクズに思えて来る。労働者として雇ってもらえない事が、即ち自分という人間に価値がない事の証明の様に思えて来るわけだ。で、「ああ、今の自分は間違いなくゴミクズだな。むしろゴミクズ以下だな」と他の誰に言われるまでもなく自分自身で考える様になった時に、嘘でも慰めでも何でもいいから「いや、そんな事ないって」と言ってくれる誰かがいるかどうか。結局はそれが生きて行けるかどうかの分かれ目だと思うのだ。まあ、そんな慰めの言葉が余計胸に突き刺さる事もあるし、勤め人になればなったで今度はまた別の苦労がある訳だけれど。

 社会は狭量で、個人の苦悩や悲しみを斟酌してはくれない。自分達は物語の主人公ではないからだ。都合の良いストーリーが用意されている訳ではない世界の中で、自分達は何度も挫けてはよろよろと立ち上がる事を繰り返している。何度も自分の価値を疑いながら、少しずつすり減っていく自分の可能性を悲しげに見つめながら、それでも何とかやっている。

 誤解を恐れずに言えば、社会にとって個人の価値など無だ。社会にとってはたかだかその中の構成員の一人が泣こうが笑おうが、生きようが死のうが何の影響も無い。そんな中で自分達に見付けられる居場所はきっと、同じ様に居場所を探して生きている誰かの隣なのだろうと思う。


“終わりまであなたといたい それ以外確かな思いが無い
 ここでしか息が出来ない 何と引き換えても 守り抜かなきゃ”


 お互いがお互いの居場所になること。
 友達でも恋人でも何でもいい。誰かにとって自分が無ではないこと。そしてその誰かが居場所を見失っている時に、自分もまた相手にとっての居場所になろうとする事。それは嘘かもしれないし、偽善かもしれないし、弱い者同士が傷の舐め合いをしているだけなのかもしれない。無様で滑稽なのかもしれない。でも、それでもこの狭量な世界の中で居場所を失うよりはいい。


“怖かったら叫んで欲しい すぐ隣にいるんだと 知らせて欲しい
 震えた体で抱き合って 一人じゃないんだと 教えて欲しい
 あの日のように 笑えなくていい だって ずっと
 その体で生きてきたんでしょう”


 最近は何を書いても震災や原発事故と結び付けてしまうのでいい加減自重しようとは思うのだけれど、それでも敢えて書くならば、自分があの日から感じている怒りや悲しみが何に起因しているのかというと、それは自分や自分にとって大事な人達の居場所が脅かされているからだと思う。

 原発事故から半年以上が経過した今も自宅の玄関先の放射線量は0.2マイクロシーベルト毎時で、自宅の隣にある土がむき出しの空き地は0.4マイクロシーベルト毎時だ。小さい子どもがいる家庭では母親と子どもだけが県外に避難し、仕事を抱えた父親と離れて暮らしているという話もよく聞く。どんなに平静を装っても、自分達はまだあの日がやって来る前の様には笑えない。もしかすると、これから先一生そうなのかもしれない。でも『あの日のように笑えなくていい』と歌ってくれる誰かがいるのなら、少なくとも自分はまだやって行ける。

 今この時だけは、まだそう思える。

 
 

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ジャンル : 音楽

敢えて青臭い音楽を聴くという行為・ONE OK ROCK『アンサイズニア』

 最近精神的にキツイので、少し砕けた文章で書いてみる。それと、何だか毎回繰り返し言っている様な気もするが、自分は音楽通でも何でもないのでその点ご了承頂きたい。

 さて、震災後、日々の暮らしを通して自分の中に蓄積して行く怒りというものがあって、それを上手く消化する事が出来ないでいる。それはただ純粋な怒りというものでもなくて、苛立ちや悲しみ等の様々な感情を内包した上での怒りなのだけれど、その怒りをぶつける対象の中には自分自身も含まれていたりして、精神的に苦しい。

 今30代前半の自分は既に大人として社会構造の中に組み込まれて生きている。だからこの社会のあり方を批判する事は天に唾する様なものだ。自分だけは汚れていないとか、自分には関係無いという訳には行かない。多くの若者にとってこの社会がクソだとするなら、自分はその腐った社会構造に依存して生きている体制側の人間という事になる。若者からすればそんな自分もこの社会と同様十分腐った人間に見える事だろう。事実その通りだと思う事もある。

 理想と現実とか、本音と建前とか、言い方はいくらでもあるけれど、社会の中で大人として扱われる様になると自分の意見や価値観を曲げなければやって行けない場面というものに出くわす事が多くなる。大多数の大人にとってそれは生きる上での前提で、その事をわきまえない若者を指して『青臭い』等と言う。
 しかし、大人が青年の主張を『青臭い』と思ってしまう時、そこには否定だけではなくて、彼等の想いの中にあるある種の正しさを無条件には肯定してやる事が出来ない自分自身に対する苛立ちがある様に思う。だからONE OK ROCKの楽曲を聞いた時に自分が毎回感じてしまう彼等の『青臭さ』は、言い換えれば自分の抱える矛盾に対する苛立ちなのだろう。

 自分がONE OK ROCKの曲を聴いたのはこの『アンサイズニア』が初めてで、その後既に出ていたアルバムを遡って聴いたりしたのだけれど、『内秘心書』や『じぶんROCK』等を聴くと、彼等の若さと自分との間に呆れるくらいの隔たりを感じる。『完全感覚Dreamer』まで行くともう振り切られてついて行けない状態だ。「十年一昔」なんて言うけれど、自分は彼等より丁度10歳程年上だから、全く同じ感性という訳には行かない。だから自分は彼等を『青臭い』と思うし、その事を間違いだとも思わない。

 では何故そんな彼等の『青臭い』曲を聴くのかと言えば、自分の中にもどこかこの社会の在り方に対して納得が行かない部分があるからだろう。

“死ぬ間際に悔いは無いと言えるように
 生きてたいだけ
 You stand here alive
 You know, the answer is inside of me”
 『アンサイズニア』

 『アンサイズニア』というのはまあ『answer is near』という事だろう。答えは近くにあるとか、自分自身の中にあるとか、そういう意味なんだろう。それを聞いて、自分の中のある部分は彼等に共感し、またある部分は「そんなに簡単じゃねーよ」と吐き捨てる。答えは自分自身の中にしか無い。そんな事は誰でも理解している。だがそれを貫き通して生きて行けるのかどうかは別問題だし、この社会では今日も誰かの想いが他の誰かの想いを踏み潰している。比喩ではなく。まあこんな事を書くと無理解で狭量な大人だと揶揄されるのだろうけれどね。自分では望んでそんなものになった覚えはないのだけれど。

 現実への苛立ち、自分への苛立ちは共に消えない。その苛立ちを、怒りを、自分は彼等の曲を聴く事で改めて噛み締めている。

 

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プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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