今、『大人になりたくない子供』ってまだいるのかね?

 疲れ気味なのでちょっと砕けた文体で書いてみる。
 中身は題の通り。いや、きっとたくさんいるんだろうとは思いつつも、でもそれって昔、例えば今三十路の自分が中学生だった頃に、同級生が言っていた様な意味とは違うんだろうなと思う。

 何故こんな話をいきなり始めるかというと、最近職場で『学生時代に聴いた曲』の話になり、そこで自分が「そういえば同級生達は尾崎豊とか聴いてましたけどね」と言ったところ、「そういう『大人に対する若者の抵抗』みたいな曲は最近全く聴かないな」という話の流れになったからだ。

 確か自分が中学2年生の頃に尾崎豊が亡くなって、一時期クラスでも「尾崎が死んじゃった」みたいな喪失感が一部で漂っていたのを覚えている。自分はというと尾崎のファンでも何でも無く、聴いた事があるのも本当に代表曲みたいなものだけだったから、彼等の悲しみを理解する事は遂に出来なかった。
 尾崎以外はどうだったかと言えば、同級生の女子グループが中学校卒業の謝恩会の後、校庭で円陣を組んでXジャンプ(って言っても多分今の子には通じないと思うが)をしていた事くらいか。そのバンドも今じゃパチンコの題材になる位だから、それだけ自分も年をくったという訳だ。

 で、話を尾崎に戻すと、ああいう『大人の言いなりにはなりたくない』『大人の様に汚れたくない』『自分達には自分達の主張があるんだ』っていう曲が最近無いというのは、大人と子供の関係が改善された訳でも何でも無くて、単純に今の大人が弱くなったからなんじゃないのかと思う。だって『この支配からの卒業』とか歌ってみようとしたって、今じゃ教師が学級崩壊で頭を抱える世の中だ。大人はもう子供を支配なんてしていないし、やろうとしたって出来ない。支配の正当性を裏付けていた『自分達は絶対に正しいんだ』という自信が、もう大人の中に無いからだ。それは何故か。
 考えてみればそれは当たり前の話で、自分達が中学生の頃はまだ学歴社会も終身雇用もかろうじて有効だった。そういう時代だった。大人達は自信を持って「お前等は俺達大人の言う通りにやってろよ。それが正解なんだからよ」と胸を張る事が許されていた。そういう意味であの頃の大人達は壁の様に強固だったし、頑固だった。双方に話し合いの余地は全くなかった。それが今では崩れ去って跡形も無い。昔の大人達が信じていられた様な『成功への階段』は、今はもうどこを探しても存在しない。

 その上で今、実感として思うけれど、必死で何かに抵抗する為には、相手の強度が重要になる。今のヘナチョコな大人達は、自分も含めてもう子供達の壁にはなり得ない。だから彼等はもう必死に抵抗する必要もないし、支配から卒業する意味もない。盗んだバイクで走り出す必要もない。大人になりたくない理由がもし彼等の中にあるとすれば、それは心が汚れるからでも個性が尊重されないからでもなく、ぶっちゃけ『大人が皆つまんなそうに生きているから』でしかないのではないか。大人なんてもうその程度だよなと思う。

 でもあの頃の自分達は、もう今のこの状況に到るまでの流れみたいなものに薄々気付いていたのかなとも思う。あの頃の自分達が、盗んだバイクで走り出してもそれは『自由になれた気がした』だけで、本当に自由になんかなれっこないんだと気付いていた様に、大人だって社会という枠の中に囚われて生きているに過ぎない。それが大きく崩れれば、大人達が持っていたプライドや権力や正しさなんてあっという間に消えてなくなってしまうし、実際にそうなった訳だ。実に呆気無く。

 そんな状況で「君自身は大人になって今どう思ってるの?」とか上司に聞かれても、正直困る。何だか『こうなる予定だった大人像』の方が先に死んじゃってて、自分達は本当に大人になったのかね?とか思う訳だ。何ともヘナチョコな話だけれど。

 だからさ、今の子供達はもうこんなヘッポコな大人なんて相手にしないで、自力で、全力で自分をぶつけるに足る敵を探して欲しい。悪いけれど、自分達大人はもう君達の敵にはなれそうもないんでね。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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