数年後の自分へ向けて

 先日、33歳の誕生日を迎えた。
 このブログは自分の趣味として本の紹介等をやっているのだけれど、それも元はといえば作品に触れた時の感情を忘れない様に、自分の為の外部記憶装置を作っておこうとしてやっている事なので、特に誕生日等は意識して更新する様にしていた。何年か後の自分が、その時の自分を振り返る事が出来る様に。ただ今年は震災等もあり、色々と思う所があって更新が遅れた。

 心当たりのある人もいるだろうけれど、自分も30歳を過ぎて、何だか年を取る事に対してあまり嬉しくない様な感情がある。もちろん一年間無事に生きられた訳だから、それは素直に喜ぶべき事ではあるのだろうけれど、それとはまた別問題としてね。ただ、今年ばかりはそうした否定的な感情を持つべきではないのだろうな、という想いもある。

 あの3.11から4ヶ月以上が過ぎた。震災当日から今日までの間に、本当なら当たり前に誕生日を迎える事が出来たであろう人が何人いただろうと考える。震災さえ無ければ、と考える事に意味はない。それはもう起こってしまった事で、覆す事が出来ない過去だからだ。しかし、その事を知っていてなお、多くの人が思っている筈だ。あの震災さえ無ければと。

 あの震災さえ無ければこんな苦痛を感じる事も無かった。
 あの震災さえ無ければ生きられた命があった。
 あの震災さえ無ければ当たり前の平穏な日々が続く筈だった。

 けれど自分達は普段『当たり前の事』に特筆すべき価値を認めない。

 蛇口をひねれば水が出るという事。コンセントにプラグを差し込めば電気が使えるという事。店に行けば放射性物質に汚染されている心配などいらない安全な食材がいつでも買えるという事。そうした『当たり前の事』が本来持っている『価値』、つまりそれらが本当は当たり前の事ではなくて、誰かの手によって支えられているのだという事を、自分達は容易に忘れてしまう事が出来る。そしてその中には『自分達の命が明日も続いて行く事』も含まれる。

 自分達は普段、「明日、いや今日にも自分や家族、友人が死ぬかもしれない」等と考えながら生きている訳ではない。そんな事を日々意識しながら生きて行く事は苦痛だからだ。だから自分達は自分の年令と平均寿命等を照らし合わせながら、「まあ何事も無ければ後何十年かは生きていられるな」等と無邪気に生活していられる。
 でも多くの人達が想像すらしていなかった、決して来る筈の無かった震災は突然やって来て、多くの人達の『当たり前の明日』を飲み込んで行った。

 自分も含めて、多くの人達は思い知らされた筈だ。当たり前だと思っていた毎日にどれだけの意味が、価値があったのかを。そして二度と言葉を交わす事が出来なくなってしまった人が、自分にとってどれだけ大切な人であったかを。

 今更気付いても遅いのだろう。自分達はいつもそうやって、取り返しが付かない後悔の中で喪われたものの尊さに気付く。『当たり前の事』が本当は当たり前ではないという事に。「だから日々後悔が無い様に生きなければならない」等と口で言う事は容易い。自分が言いたいのはそんな事ではないし、言う権利もない。ただ自分に言える事があるとすれば、それは他の誰かに向けた言葉ではなくて、数年後にこの文章を読み返すであろう自分に対しての言葉だ。

 数年後の自分は「また年を取ってしまった」と溜息を吐いているのかもしれない。歳相応の成長が無い、と自分に悲観しているのかもしれない。それはいい。その感情を否定はしない。でもその毎日が、日々の積み重ねが、当たり前ではないという事だけは心のどこかで忘れずにいろ。続く毎日がどんなに無駄に思えたとしても、そこに隠された価値が、意味が、まだあるのだという事を心の片隅ででもいいから信じていろ。今日の自分から数年後の自分に言える事は、それだけだ。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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