本当の死神は誰なのか・和智正喜『消えちゃえばいいのに』

 

 あなたの目の前に、死体が転がっている。

 それが生きている人間ならば「寝ている」と思うべきなのだろう。でもあなたはそれが既に命を失った肉体、モノに過ぎない事を直感的に悟っている。だからそれを見たあなたは、ただそこに肉の塊が「転がっている」のだと知覚する。悲しみはない。そもそもこれが誰なのかをあなたは知らない。相手の死を悼むのに必要な最低限の情報を、あなたは持っていない。だからこの死には悲しみがない。他人の死。悲しみから切り離された死体。それを前にしてあなたが感じるのは

 「恐怖」

 声に驚いて隣を見ると、そこには見知らぬ男が立っている。
 恐怖。そう、恐怖だ。目の前に転がっている死体。病死、事故死、自殺、他殺。その原因は不明だが、死の結果として現れた物体。それは見る者に「もしかしたら自分もこうなるかもしれない」という恐怖を与える。もしも死因が他殺だったとしたら。そして犯人がこの男だったとしたら。激しい動悸とともに口の中が渇いて行く。握り締めた手に不快な汗の感触を覚え、無意識に半歩あとずさるあなたに、男は微笑みかける。
「君が今感じている恐怖と、君が今感じられずにいる悲しみと、死体を前にした時に人間が抱く感情としてはどちらが適切なんだろうね。君の物語にとってどちらがより正しいのだろう。妥当なのだろう。これは難問だよ」
 男は淡々と、それでいてあなたが口を挟む隙が無い程度には一方的に喋り続ける。
「まあいい、悩んだ時はまず試してみる事だ」

 次の瞬間、あなたは目の前の死体が自分の恋人だと悟る。

 なぜ忘れていたのか。なぜ自分はこんなにも大切な人の遺体を前にして「死体が転がっている」などと感じたのだろうか。あなたは男を突き飛ばす様にして遺体に駆け寄る。その僅かな距離が無限に思える程の焦燥の中で、これまでの二人の記憶が次々と蘇る。
 なけなしの勇気を振り絞って告白した日の事。繋いだ手のぬくもり。互いに交わした、たわいのない言葉の数々と、そこに込められた愛情。つまらない理由で喧嘩してしまった事。仲直りの為の言葉をいくつも思い浮かべては消した時のもどかしさ。もう一度二人で笑いあえた時の喜び。自分にとってそうである様に、相手にとっても自分が大切な存在でいられたら。そんなささやかな願いを抱いて過ごして来た日々の記憶。

 そして、それら全てが過去形となってしまった、今。

 悲しみに押し潰される。比喩ではなく。
 あなたはもう立っている事も出来ない。半ば崩れ落ちる様にして地面に膝を付き、恋人の遺体を抱き締める。渾身の力で。まるでそうすれば相手が蘇ると信じているかの様に。しかし体温を失った遺体の冷たさがその願いを打ち砕くのに、それほど時間は掛からない。
 絶望。自分自身が冷えて行く感覚。心が冷えて行く感覚。あなたは自分の心が壊れて行く音を聴く。そして許容量を超える悲しみに押し潰された心は、何かを感じるという行為を放棄する。もう何も考えたくないし、感じたくもない。出来る事ならこのままどこまでも沈んで行ってしまいたい。涙を流す事すら出来ないままで。

「……まあ、こんなものかな。物語としては安い部類になるが、得体の知れない恐怖よりは感情移入を得やすいだろう。それで、どうだろうね。君はどちらを選びたいだろう。見知らぬ死体を前に言い知れぬ恐怖に震える物語かな? それとも恋人の遺体を抱き締めながら悲しみに押し潰される物語だろうか? 生憎とハッピーエンドは品切れなんだが、君がどうしてもと望むのならば、死者が蘇る様な安っぽい奇跡を仕入れて来るとしよう。もっとも、それは私の本意ではないがね」
 男の乾いた声に、あなたは振り返る。
 どちらを選ぶか。しかしあなたは既に知っている。その選択権があなたには無い事を。自分が本当は何者なのかという事を。
 この世界では男の意志が全てを決定する。遺体が誰なのかという事も、その死因も、そしてあなたが誰なのかという事さえも。あなたの物語の支配者は哂う。
「……まあ、こうしてしまう事も出来る訳だが」
 男が無造作に手を振ると、音も無く世界は崩れ落ちる。砂の城が波に洗われる様に。そしてあなたが抱き締めたままの遺体も、あなた自身さえも、その崩れ落ちる世界と同じ様に風化して行く。あなたの意識は消えて行く。抗う術もないまま消されて行く。

 そう、物語の作者にとっては、登場人物を消し去る事など容易い。

 そしてあなたの物語は

 この物語は

 結末に辿り着く事も無く

 ここで消え――



 ――さて、ここからは普段通りの感想を書き始めよう。読んだ物語があまりにも奇抜だったので、感想の方もそれに負けない程度に変わったものにしようと思ったのだけれど、その目論見が成功したのかどうかは怪しい所だ。
 『消えちゃえばいいのに』というタイトルからして既に癖がある作品だが、表紙や挿絵に描かれるキャラクターの可愛らしさに騙されると足をすくわれる。何故なら、本作は390ページ程度の文庫本一冊に、登場人物達の死をこれでもかという程詰め込んだ作品だからだ。

 死者数の多さだけを見るならば、戦争や天災、或いは大きな事故等を描いた作品も数多いだろう。しかし本作は違う。現代の日本を舞台に、どこにでもいる様な高校生の日常を描きながら、それでいて登場人物達がバタバタと死んで行く。その有様は命の重さがまるで感じられない程だ。本作では蝋燭の火を吹き消すよりも容易く人の命が消されて行く。それが誰の手によってかと言えば、作者の手によって、と答えるのが正しいのだろう。もちろん、劇中での彼等の死に作者が直接関与する訳ではないが。

 物語の作者は、自らの作品に対してなら全知全能の神の様に振る舞う事が出来る。登場人物を生み出し、殺し、場合によっては生き返らせる事も出来る。登場人物達の性格や生い立ちを決める事も、彼等がこれから歩む事になる運命を決める事も出来る。悲劇を喜劇に、喜劇を悲劇に変える事も出来る。時に希望を与え、時に深い絶望に突き落とす事も自由自在に出来る。物理法則を無視し、時間と空間を操る事も容易い。そんな作者によって殺されるべくして生み出された登場人物達が、死者という役を演じる為だけに次々と現れては死んで行く。そんな物語を何と呼ぼう。そして、そうして集積された夥しい死に意味はあるのか。

 決して難解ではないが、不可解で理不尽な物語。そこに積み上げられた夥しい死を見つめながら、自分はその世界の住人ではない事に安堵する。自分の世界に気まぐれな『作者』がいない事を祈りつつ。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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