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 コミュニケーションという言葉の定義・押井守『コミュニケーションは、要らない』



 まず、この『コミュニケーションは、要らない』という題名は「看板に偽りあり」だという話から始めなければならない。

 最近の新書の売り方として「一般人が常識と考えている事とはあえて逆の事を言って注目を集めよう」という方法がある様に思う。コミュニケーション能力が重要だと思っている人が多いから『コミュニケーションは、要らない』という題名の本を出す。葬式は必要だと思っている人が多いから『葬式は、要らない』という本を出す。病気になれば医者に行くものだと思っている人が多いから『大往生したけりゃ医療とかかわるな』という本を出す。『アリとキリギリス』の話にもある様に、アリの勤勉さが大事だと思っている人が多いから『働かないアリに意義がある』という本を出す。どれも常識とのギャップで注目を集める事を狙っていると言える。

 更に本作の場合『コミュニケーションは、要らない』というタイトルの下にある帯には『つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。』とまで書かれており、ご丁寧にもその隣にツイッター、メールという単語が添えられている。これだけを見ると「ツイッターやメール等のコミュニケーションツールを多用する事によって人はバカになる。そもそもコミュニケーション自体、人間には不要なのだからまとめてゴミ箱に捨ててしまうべきだ」という内容の本なのかと錯覚するだろう。
 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)がこれだけもてはやされているご時世に、アンチSNS的なタイトルを付ければ確かに注目は集め易い。しかし著者である押井守氏が、本著の中で「SNSによるコミュニケーションなんて何の役にも立たないから今すぐやめるべき」と言っているのかというと当然そんな事はない。このあたりが「看板に偽りあり」という事だ。

 押井氏が本著で問題にしているのは『コミュニケーション』なる言葉が何を指し示しているのか、日本人がコミュニケーションをどの様に履き違えているのかという事だ。
 日本人がコミュニケーションの重要性を説く時、それは「周囲との協調を重要視するコミュニケーション」の事である場合が多い。周囲の人間と衝突する事無く協力してやって行く為に、あえて相手の欠点を指摘しないとか、本音と建前を使い分けるとか、意見が分かれた時に合理的な意味もなく間を取るとか、そんなコミュニケーションだ。押井氏にいわせればそれは『現状を維持するためのコミュニケーション』という事になる。これは日本人が得意なコミュニケーションだ。よく言えば人間関係を良好に保つ為のコミュニケーションという事だが、悪く言えば生産性がないなあなあのコミュニケーションだとも言える。
 一方、押井氏が重要視しなければならないと指摘するのは『異質なものとつきあうためのコミュニケーション』だ。異質な世界、異質な文化とつきあう為、新しい関係性を生み出す為のコミュニケーションがこちらにあたる。それは議論であり、交渉であるから、時として摩擦を生じる。しかしこのコミュニケーションを避けていたのでは新しい関係性や価値観が生まれる事はない。

 本著において押井氏が懸念しているのは、日本人全体がまともな議論ができない人間の集まりになりつつあるという事だ。『現状を維持するためのコミュニケーション』に終始し、『異質なものとつきあうためのコミュニケーション』を蔑ろにしてきた結果として、日本人は議論するという事ができない民族になりつつある。例えば原発問題を語るにしても、原発推進派と反原発派の意見のやり取りは既に議論になっていないのではないかとの指摘だ。そして押井氏は本著の中で『僕は原発推進派である』とまで書く。福島県在住である自分は少し驚いたが、それはもちろんこれからも原発を無秩序に作って行けば良いと思っている、なんていう意味ではない。
 反原発派が「原発反対」「既存の原発は全て廃炉にするべき」という時、それは『情動的な原発批判』になってしまっているのではないか。情緒に基づいて反原発と言う事は理性的な議論を阻害する。それならばあえて自分は『原発推進派になります』と言う事にしよう、というのが押井氏のスタンスだ。氏は以下の様に指摘する。

“ジブリの横断幕がまさにその象徴だが、情緒というのは正常な思考を麻痺させる。
 計画停電以外の自主節電にしても、僕にはすべてが情緒と後ろめたさによって遂行されていたように感じられた。
 節電とはなんだったのか? むやみな自粛によって、沈没していく日本経済を見ていることなのか? これは情緒に流されて考えていい問題ではない。
 だから、僕は今、あえて「原発推進派になります」と言っている。
 それはひとことで言えば「責任をとらなければいけないだろう」という話であり、文化的にも歴史的にもそれが正しい態度だと考えているからだ。
 今さら「私は反原発派だ」などと言うことは、暗に「だから、私は原発については何も知らないし、関係ない」という態度を表明して、責任逃れをしているに過ぎない。自分たちを正義の味方と定義し、東電を悪と定めてもなんの解決にもなりはしない。反原発だろうが推進派であろうが「原発をどうするのか?」という問題は、現在抱えている問題なのだ。”

 ちなみに、引用文内の『ジブリの横断幕』とは、スタジオジブリが自社ビルの屋上に掲げた『スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい』という横断幕の事だ。これを見た押井氏は「正直がっかりした」という。いかにも押井氏らしい感想だ。

 繰り返しになるが、自分は福島県在住だ。だから押井氏があえて原発推進派を名乗るというのであれば、反原発の立場から意見を言うだろう。押井氏が批判する様な情緒によって麻痺した思考の結果としての反原発ではなく、可能な限り理性的に、実現可能な方法を考えた上で反原発の意見を表明したい。「あえて」だろうが何だろうが「自分は原発推進派だ」なんて間違っても言えないのが自分の立場だからだ。その上で意見を異にする両サイドの人間が議論する事、そして議論の結果として創造的な方針が打ち出される事、それが押井氏が今の日本人に要求しているコミュニケーションという事だ。「コミュニケーションは、要らない」訳がない。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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