死を充分に死なしめる者の生・押井守『ゾンビ日記 2 死の舞踏』

 

 まさか続刊が出るとは思っていなかった。前作『ゾンビ日記』では明らかに押井守氏本人を連想させる「俺」が主人公だったが、本作では女性の「私」が主人公となる。

 「俺」が、スナイパーライフルでの狙撃によって<死者>を弔った様に、「私」もまた銃によって<死者>を弔う。得物は『S&W M36』という小型の回転式拳銃(リボルバー)の派生型で、日本の警察向けのモデル『M360J』通称『SAKURA』だ。その気になれば服のポケットにそのまま突っ込んで持ち歩ける様なこの小型のリボルバーは銃身が短く、そうした拳銃は俗に「スナブノーズ」と言われたりもするが、その銃身の短さ故に、遠距離の狙撃には向かない。だから「私」は「俺」がスナイパーライフルのスコープ越しに<死者>を撃ち倒して行ったのとは対照的に、至近距離で<死者>の頭部を撃ち抜く事になる。その距離感の違いが、「私」と「俺」の行為を似て非なるものにしている。

 丁度自宅に置いてあった『S&W M40』のモデルガンを手に取ってみる。平たく言うとM40はM36の撃鉄(ハンマー)が露出しないタイプと思ってもらって構わない。なぜそんなものが自宅にあるのかはさておくとして、自分の様な手の大きい男からするとやや小さく感じられるグリップを握り、人間の頭部を狙い撃つイメージで構える。ダブルアクションオンリーのこの銃の場合、果たして何メートル先までを必中距離と言えるか。まあ海外の射撃場で拳銃からライフルまで本物を撃ちまくっている押井氏とは違い、自分は本物を撃った経験などないのであくまで感覚的なものだが、ろくに射撃訓練もした事がない自分の様な素人がヘッドショットを狙うなら、必中距離3メートル、離れたとしても5メートル先辺りで当てられれば御の字ではないだろうか。古き好きゾンビ同様、緩慢な動きしかしない<死者>とはいえ、相手は射撃場の的とは違い、常に動く目標である。その歩みに合わせてふらふらと揺れる頭部に命中させるには、距離を詰める以外に選択肢はない。

 「息がかかりそうな」などと書くと語弊があるだろうが、自分の目の前、数歩先に立つ人間を撃つという行為は、それが仮にゾンビであれ<死者>であれ、相当なストレスとなるに違いない。まして本著に記されている通り「必ず正面から頭部を狙い撃つ」という縛りを設けているとすればなおさらだ。背後から、その表情を見る事無く後頭部を撃ち抜くという「逃げ」が許されない以上、射手は必ずこれから撃ち倒される<死者>の顔を、その表情を自分の目に焼き付ける事になるからだ。

 自分以外の生者が存在しない世界で、死者を弔う為に銃を撃ち続けるという行為はある意味で狂気だが、一度眠りに就けば再び生者として目覚める保証の無い世界、明日には自分もまた<死者>として目覚め、街を徘徊する<死者>の一群に加わる可能性が高い世界で、それでもなお「生きる」という事は、それ自体が既に正気の沙汰ではない。それ故に、「自らの正気を保つ為にこそ狂気を演じる」という逆説が成立するのかもしれないとは思う。

 自分の様な弱い人間であれば、自分が<死者>になってしまう前に、先手を打って自らの頭部を拳銃で撃ち抜くという選択もあるだろう。自分の意志、或いは自我というものが消え去った後に、その抜け殻である体が街を彷徨う光景など想像したくもないし、いつ来るか分からない『その時』に怯えるよりは、自分の意志で最後の時を決められるだけまだましだ。だが、押井氏はそれ以外の道を示す。「私」や「俺」の様に、死を充分に死なしめる者の生を描く事によって。

 充分に生きる事無しに、充分な死を得る方法はない。その表裏一体である生と死の有り様を描く本作が、現代の日本を舞台にしている事。そこにもまた作者の思惑が垣間見える様な気もする。自分達は生きているのか、それとも<死者>の様に彷徨っているのか。自分達は充分な死に見合うだけの充分な生を、生きていると言えるのか。その答えは、自分で見付けるしかないのだろう。

 

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Author:黒犬
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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