人間に向いていない自分の為の物語・三秋縋『恋する寄生虫』

 

 重度の潔癖症が原因で周囲に馴染めず、転職を繰り返した末、最後の職を失ってからは1DKの賃貸マンションに閉じ籠もり、貯金を食い潰しながら、一日中ベッドに横たわって『何か考えるふり』をしている青年。それが本作の主人公である高坂賢吾だ。彼が唯一取り組んでいる事と言えば、プログラミングの知識を活かしてマルウェアを作成し、ネット上にばら撒く事。当然それは違法行為だが、高坂はそれを止めようとはしなかった。

 だがある時、そんな高坂の前に男が現れ、マルウェア作成の事実を突き付けて彼を脅迫する。しかしその脅迫内容は実に奇妙なものだった。それは『ある子供の面倒を見る』事。
 最初の目的はその子供と友達になる事だと告げられ、高坂は訳も分からず指示された公園に向かう。そして彼は運命と出会う。不登校の女子高生、佐薙ひじりとの出会いは、高坂の人生を大きく変えて行く事になる。

 高坂と佐薙は、ともに社会に馴染めず、『生き苦しさ』を感じて生きている『社会不適合者仲間』としての奇妙な信頼関係を築いて行く事になる。一回りも年下の少女との関係を、そして互いの思いを真っ当な恋愛だと認める事は難しい。ただこれまで互いに独りで生きる事を受け入れて来た二人が、共依存の様に互いを求め始める事は必然であったのかもしれない。

 ただ、二人の関係にはひとつの大きな問題が横たわっていた。それは、二人の感情が、その恋が、『寄生虫』によってもたらされた『操り人形の恋』に過ぎないという事――。

 さて、こういう事を書くと怒られそうだが、三秋縋氏の小説は、不思議と自分に『馴染む』様な気がしている。作品としての完成度とか、一般的な評価とか、文学賞を受賞した作品だとかいう外部からの「お墨付き」は、確かに作品を手に取る上である程度の参考にはなるのだけれど、読書というのはつまるところ読者と作品との関係性の中で、読者が作品をどう受け止めるかという事が要点である訳だから、皮膚感覚に近い部分で、作品や作風が自分に合うかどうかという点は、読者が作品に対する評価を決定する上で大きい割合を占めていると言える。

 なぜ三秋作品は自分に合うのか。もっと言えば、なぜ三秋作品は自分の心の琴線に触れるのか。ひとくちに語る事は難しいのだけれど、それは登場人物達が皆『生きる事に不器用』で、その事を自覚しながらも何とか生きて行かなければならないという「ままならなさ」の様なものを抱えているからではないか。そしてまた自分もまた常日頃彼等と同じ様に感じているからなのかもしれないと思う。

 作中で高坂は、『要するに僕は人間に向いていないのだ』という自己評価を下す。他の人が言う『普通』の生き方が高坂には出来ない。自分がしている事がおかしいという事は高坂本人が一番よく分かっている。けれど彼は洗浄強迫から逃れる事が出来ない。他人に触れられれば怖気が走り、何時間も手を洗ったりシャワーを浴びたりしてしまう。受け取った釣り銭を帰宅後に水洗いしたり、知人に貸したペンを処分したりといった行動が止められない。

 そして佐薙もまた、常に視線恐怖に苛まれ、大きなモニターヘッドホンで外界の音を遮断していないと、一人で外を歩く事もままならない。それでいて他人を避けて生きているから、周囲に頼りにできる人もいない。そんな佐薙がやっと見付けた相手が高坂だったとして、しかもそれが仕組まれたものであったとして、誰が二人を責められるだろうか。その共依存を、誰が嗤えるだろうか。

 自分は『普通』が出来ない。自分は『人間に向いていない』。そんな思いを抱えながら、誰とも触れ合わずに生きて来た彼等の姿に、自分はどうしても感情移入してしまう。程度の差こそあれ、自分もまた『人間に向いていない』タイプだからだ。

 上手く世の中を渡って行く事が出来ない。他の人達が普通に通り過ぎて行く様な場面で、自分はいつも躓いている様な気がする。そんな事を繰り返しながらここまで来てしまったし、これから先もそうなのだろうと思えてしまう。
 そんな人間が三秋作品に触れた時に感じる、登場人物達への深い感情移入。そして作品の中で描き出される登場人物達の心の動きや、彼等が求める幸福の形に対する共感は、他の作品では得難いものがある。だからこそ自分は三秋作品を読むのだろう。

 以前書いた気もするが、BUMP OF CHICKENの『才悩人応援歌』という曲があって、その中に『自分のために歌われた唄など無い』という歌詞がある。それはきっと「だからこそ自分自身が、自分の為の歌を歌うべきなんだ」という意味に繋がっているのだろうと思うけれど、自分はこうも思うのだ。たとえその唄が、自分の為に歌われたものではないのだとしても、それを自分の為の唄だと思い込んだって良いのではないかと。そしてそれは、小説でも同じなのではないかと思う。

 自分の為に書かれた小説などこの世に存在しない。自分が、自分の為に書かない限りは。けれど誰かが書いた物語が自分の心に寄り添ってくれた時に、その物語を自分の為のものだと思い込んだって良いのではないか。高坂と佐薙が互いを必要とした様に、人間に向いていない自分が、彼等の物語に感情移入する事で救いを感じ取ってしまう様な事があっても良いのではないか。そんな、都合の良い事を考えてしまう。

 『操り人形の恋』が本当の恋なのかどうか。それは実際、証明する必要がある問いなのだろうか。自分はそうは思わない。錯覚や思い込みや共依存が救いになって自分を前に進ませてくれる事がある様に、寄生虫によってもたらされた出会いが、その恋が、束の間であったにせよ二人にとっての救いになり得たのなら、それは正しさの証明など問題にならないだけの価値があると思う。それと同じ様に、自分の為に書かれた訳ではない物語を、自分の為のものだと勘違いして救われる自分の様な読者がいたっていい。この世に数多ある小説はそうして、読者に都合よく解釈されたり錯覚されたりしながら、また誰かを救う宿主になるのだろう。

 こうして物語に寄生して、人間に向いていない自分は何とか生きている。
 寄生虫にしても、不器用過ぎるとは思うけれど。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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