自分の屈折に気付かされる物語として・長谷敏司『ストライクフォール 2』

 

 個人的に、スポーツを描いた作品はあまり読まない気がする。それはスポーツが『勝ち負け』がはっきりとした、言い換えれば『弱肉強食』を本質とした世界だからだ。プロスポーツならなおさら。そして自分は『負け』側であり、『喰われる』立場だと思っているからだ。

 自分は昔から運動嫌いで、体育の成績も悪く、団体競技ではチームの足を引っ張る様な人間だ。スポーツ観戦の趣味もなく、スポーツ全般に良い思い出がない。だから敬遠する。勝ち負けがはっきりとした世界。実力だけが物を言う世界。勝つ事の喜びを味わう為に努力し、己の腕で輝かしい成果をもぎ取る。そういう『勝者だけが輝く世界』は、自分とは縁遠いものだと思っている。そうした人間が、オタクの嗜みとして当然の様に好きなものである『宇宙』『ロボット』と組み合わされた、紛れもない『スポーツ』ものである本作を読む時、そこには手放しで「好き」とか「面白い」とか言えない微妙な感情が渦巻く事になる。

 以前書いた1巻の感想を読み返すと、その辺りの機微が自分の中で処理しきれていなくて、どこか「ねじれた」文章になっている。オリンピックの舞台で活躍するスポーツ選手達の姿は見る者の心を打つ。でも、自分が感情移入してしまうのは、どうしても『競争に敗れた側』なのだ。プロになれなかったかつての野球少年の様に、夢半ばにしてそれを諦めざるを得なかった人の側なのだ。

 自分の夢が叶わなかったのは、努力が足りなかったから。
 自分が羨む場所に自分以外の誰かが立っているのは、その人が自分よりも努力を住み重ねて、自分の力でその居場所を掴み取ったから。
 自分が今いる場所に不満があるのだとしても、それは全て自分の責任で、他の誰かを責められる事ではない。それは自業自得で、身から出た錆で、「1+1=2である」という事と同じ位動かし難く、自明な事なのだ。

 スポーツものを読むと、そういう当たり前の事が全部胸に刺さって来る様な気がする。

 そういう時、自分は完璧じゃないから、他人を妬んだり自分を蔑んだりしてしまう。正しく努力した者が勝者になり、結果として敗者が生まれるというだけのシンプルな話なのに、それを潔く受け止めるという事が出来ない。つい『敗者の弁』を述べたくなってしまう。言い訳がましい事をつらつらと書いてしまいたくなる。

 自分が好きなBUMP OF CHICKENの曲に『才悩人応援歌』という歌があって、その歌詞には『得意な事があった事 今じゃもう忘れてるのは それを自分より 得意な誰かが居たから』というものがある。

 「才能が無かったんだよ」っていうのは、努力が足りなかった人間が口にする一番ダメな負け台詞なのだけれど、それは言う側の当人が一番分かっていて、それを口にする度に一番傷付くのは自分なんだと思う。だから『才悩』なんであって、勝者になれなかったからといって止める訳には行かない、途中で降りる訳には行かない人生を続けて行かなけりゃならない悩みがいつもつきまとう。その途中で、本作の様な物語との出会いがあって、自分はまた複雑な思いを抱くのだ。

 自分はもう、努力して勝利を掴む主人公に感情移入して、それを素直に自分の力に変えられる様な年齢を過ぎてしまっているのかもしれない。自分の年齢は、本来ならもうとうに何らかの結果を掴んでいなければならないものだから。だからもっと若い、本来ライトノベルがメインの読者層として考えている若者世代が本作を読んだ時に抱くであろう素直な感想とは異なる部分で引っかかりを感じるのだろうと思う。それは『嫌い』でもなければ『辛い』でもない、言葉にする事が難しい感情だ。自分は紛れもなく本作が好きなのだけれど、好きとか面白いとか、それだけでは済まされない感情が裏側に張り付いている。

 努力する事。勝利を掴む事。主人公が真っ直ぐだからこそ、その物語を受け止める自分の側の曲がりくねった様が浮き彫りになるのだろうか。読み終えて、そんな事を思った。

 

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ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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