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例えば銀河帝国という虚構から現実社会を考える エーリッヒ・フロム:著 日高六郎:訳『自由からの逃走』

 

 自分は社会心理学や哲学というものに対する興味はあるのだけれど、全く詳しくなくて、本著の著者であるエーリッヒ・フロム氏の事もつい最近になって知った様な有様だ。ただ、そんな人間が読んでいる筈なのに、本著は現代の日本について言及しているのではないかと思う程に理解がし易い内容になっていて、その事に驚く。

 エーリッヒ・フロム氏が生きた1900年から1980年の間には、当然世界大戦があった訳だけれど、その当時フロム氏が見ていた社会と、今自分が生きている社会は相当変化している筈なのに、本著に描かれている様な「社会の中で個人であるという『孤独』に耐えかねた人間が、権威主義的な国家体制に対する帰属意識に縋る事による安定を求め、自らの意思で自由からの逃走を図る」という社会構造は、現在に至るも変わらないどころかより顕著になっている気さえする。

 難しく書こうと思うといくらでも難しく書けてしまいそうではあるけれど、あえて簡単な例を出して陳腐化させる事で分かりやすくしてみる。

 現代では、「個人の価値」というものが、あからさまに数値化される場面が多々ある。誰にでも分かる例えとしてSNS等のフォロワー数や、動画投稿サイトのチャンネル登録者数は分かりやすい指標だ。一部のインフルエンサーと呼ばれる様な人が呟く一言と、自分の様な人間が呟く一言は、仮に一言一句同じ言葉であったとしても社会に対する影響力が桁違いだ。フォロワー数の多さは「社会に対する発言力の大きさ」のみならず「発言の信用性」を担保するかの様に思われている。だから、インフルエンサーの一言は「正しいから支持され、広まる」のではなく「彼が言っているから正しいのだろう」という広まり方をする。

 ドラゴンボールで、スカウターを使うと戦闘力が測れるのと同じ感覚で、自分達はSNSを眺めているのかもしれない。だからフォロワー数が多いアカウントは強いし、みんな沢山の「いいね」が欲しいし、リアルマネーでフォロワーを売買する様な商売が成立する訳だ。

 「誰もが情報の発信源になれる。発言者として世界に意見を発する事ができる」のがネットが普及した現代社会なのだとして、それはある種『平等』であるのだが、実際には「誰もが情報を発信する社会で価値を認められる発信者になる」為には、世界中の個人と競争しなくてはならないという地獄が発生するとも言える。

 その競争の中で、一部の勝者が脚光を浴びる反面、大多数の個人は「自分が社会にとっていかに取るに足らない、無価値な存在であるか」を思い知らされる事になる。自分の言葉に誰も耳を傾けない。自己実現や仲間探しの手段であるSNSが、自己肯定感を斬首する断頭台に近いものになるのはそんな時だ、と言ったら言い過ぎだろうか。

 SNSの問題だけを取り上げたけれど、他にも少し前なら企業面接で次々不採用を言い渡されたり、非正規雇用から雇い止めされたりと、個人の価値観やプライドが粉々にされる様な仕組みが現代日本には溢れている。そんな風に、孤独で無価値だと思わされ、自己肯定感が低い人間は、自分も含めて『個人として社会に対峙する事』が辛くなってくる。個人である事は、他の束縛を受けない自由を手にしているとも言えるが、逆に言えば誰にも守られない状態であるとも言える。そうした中で、『自分より強く大きなもの』(国家でも政府でも特定政党でも好きなものを代入して欲しい)に帰属意識を持つ事で、安定を得ようとする事は、その結果として自分が帰属集団の価値観に縛られ、自由を失う事を意味するのだとしても甘い誘惑として映るのではないだろうか。

 フロム氏が指摘するのもそうした、「自ら望んで自由から逃走する(自由を放棄する)人々」の事だし、それ程に人は弱いという事だ。

 また逆に、社会的地位が高く、裕福で、大きな発言力を持った人間が個人として自由であるかというとそんな事もなくて、そうした人々は逆に自分が失敗して現在の地位を追われる事を極端に恐れている。でもこの社会には「こうすれば大丈夫」「絶対に失敗しないやり方」「人生の正解」などという便利なものは存在しない。だからこうした人々は、自分より弱い立場の人間には前述した様な「正解」を自らの意見として吹き込みつつ支持者を集める一方、自分もまた権威主義的な「より大きな価値観」に従属する事を求める。その上での失敗は、自己責任の度合いを薄めてくれるからだ。

 ここで話は逸れるけれど、権威主義やファシズムといったものに対する人々の姿勢として、最近考えている事があって、それは『銀河帝国』の事だったりする。

 一体何の話だと思われるかもしれないけれど、『スター・ウォーズ』の銀河帝国と、『銀河英雄伝説』の銀河帝国って、同じ銀河帝国という呼び名ではあるけれど、描かれ方には相当な違いがあって、国民性が出ていると思うし、後者の方が恐ろしいと思う。自分はどちらの作品もそんなに詳しくないのでこうして適当な事を書くと叱られそうではあるけれど。

 スター・ウォーズにおける銀河帝国は言ってみれば恐怖政治であって、帝国の威光に逆らう者は惑星ごと木っ端微塵にするレベルの圧政をしている。描かれ方も悪の権化的だ。だってシスの暗黒卿とかフォースの暗黒面とか言うし、「逆らう者は滅ぼす」以外に、具体的な『統治』の姿勢が見えて来ない。皇帝からして血色悪いし悪人面だし。

 これは、アメリカ人の価値観として『自由と平等』というのは国是であると同時に国民の中に広く根付いたものだからなのではないかと思う。最近はその価値観に若干の揺らぎが見えるとはいえ、皇帝のような独裁者が肯定的に描かれる事は少ないだろう。

 対して、銀河英雄伝説における銀河帝国は、特にラインハルトが即位してからは安定した治世を行っている様に見える。前王朝の悪習を一掃し、改革を断行する。そして民主共和制を採りながら、政治の腐敗が進み、統制国家になって行った自由惑星同盟と比較しても、その統治のあり方は優れたものとして描かれる。そこが帝政自体を許されざるものとして描いたスター・ウォーズとは異なる点だ。

 この2つの銀河帝国を比較して、後者の方が「より自分達が依存しやすい帰属先」である気がする。国民はラインハルトという優れた人物を信頼し、皇帝の威光に縋り、自分が個人として自由である事よりも、帝国の構成員として豊かさを享受する事を選ぶだろう。ただ問題なのは、その依存が長期的には国民をより暗愚に、無責任にして行くだろうという事と、皇帝の治世が「皇帝個人の資質」という何ら次代の保証がないものに委ねられている事だ。暗君が即位した時点で帝国の凋落が始まる。だからこそ、時に衆愚政治に陥る危険性を認識しながらであっても、自分達は自らの責任から逃避してはならないし、独裁政治への誘惑を断ち切らなければならないとされる訳だ。

 話を本著に戻すが、本著でフロムが明らかにした『自由からの逃走』という構図は、当時の世界情勢から切り離して現代に適用する事も出来るし、物語の中にある架空の歴史に当てはめる事も出来る。それはこの本に記されている事が特定の時代背景に依拠する論説ではなく、時代が変遷しても変わらない、人間の本質的な欲求を的確に射抜いているからこそなせる業なのだろうと思う。

 民主政治は独裁政治ほど強引な改革や方向転換が出来ない。改革のスピードは遅いし、議会と民意が乖離している様に思える時もある。それでも自分達が一度獲得した自由から逃走し、権威主義の中に後退して行く事を止めなければならないとするなら、今必要なのは本著が明らかにした視座に自分達が立ち返る事なのかもしれない。

 

テーマ : **本の紹介**
ジャンル : 本・雑誌

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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