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本質を貫く、哲学の鋭さ・國分功一郎『原子力時代における哲学』

 

 自分は福島県民だ。

 あの3.11・東日本大震災と、その後の原発事故が自分達に与えた衝撃は大きかった。当時自分は水素爆発で吹き飛んだ原子炉建屋の様子をテレビ越しに見ながら、「もしかすると自分は地元を捨てて他県に出て行かなければならないのか」と真剣に悩んでいた。

 放射能は目に見えない。テレビでは『有識者』などと言われている人達が繰り返し注意喚起していたが、それもどこか他人事の様に聞こえ、現実味が無かった。何をどこまで防護すれば良いか分からない中、同僚は外に出る時は日傘を差し、帽子を被り、手袋とマスクをして、なるべく放射性物質の付着から身を守ろうとしている様だった。それは完全に非日常的な光景だったが、それでも自分達の『日常』は続く。仕事があり、日々の暮らしがある。

 いっそ原発の周囲に住んでいて、自宅が非難区域に指定されれば諦めも付いたかもしれない。そうなればもう政府の指示に従うしかない。家を捨てて避難するしか無い。でも、原発から直線距離で約60キロという半端な場所で暮らしていた自分達にあったのは、自主避難するかこの場に踏み留まるかという二択だった。そして自分は、地元で暮らし続ける事を選んだ。自宅や職場といった生活基盤を全て捨てる事は出来なかった。

 その時の選択が正しかったかどうかは分からない。色々な事を言う人がいる。でも、誰が正しいかはいまだに分からないままだ。

 原発事故以来、地方ニュースの天気予報には『今日の県内各地の空間放射線量』という項目が追加された。各地のモニタリングポストで計測された空間放射線量が毎日テレビから流れてくる。でも、それを気にして何になる? 自分達一個人にどんな対策が立てられるというのか。だからその情報は「今日の洗濯指数」とか「今日の花粉の飛散量」等に比べると、既に何の意味もない、ただ日常の中を流れて行くだけの数字になっている。自分達は既に麻痺しているのだろう。

 でも、これだけの事故を経験してなお、「原発再稼働はすべきだ」という意見がある。全国でじゃなく、福島県内に限ってもそうだ。少なくとも福島県民はあれだけの原発事故を経験したのだから、皆反原発でまとまっているんだろうと思われるかもしれないけれど、そんな事もない。物事はそんなに単純じゃない。

 そんな中で、自分は本著を手に取った。

 まず、原子力発電の是非について語る時、これまで主に問題にされたのは発電コストと燃料の安定供給という『経済的問題』と、温室効果ガスを削減する為には原発が必要なのではないかとする『環境問題』が主だったと思う。そこでの主役は経済評論家や環境問題の専門家の様な人々だ。或いは電力が安価に、安定的に供給される事を望む財界の著名人や、政治家や官僚といった人々だ。別の場所で、その事については書いた。

 しかし、本著では『哲学』によって原発問題に切り込む。なぜ人は兵器である原子爆弾や水素爆弾がもたらす危険性には敏感に反応する一方で、原子力発電の様な核技術の平和利用には寛容だったのか。早くから核技術に対する警鐘を鳴らした哲学者・ハイデッガーの思想を中心に、著者は考察を重ねる。

 哲学が原発問題に対して切り込む際の手がかりになる事。まずその事が新鮮だった。それも、「哲学の分野でも原発問題は語り得る」というよりは、「哲学でなければ語り得ない原発問題の本質がある」という踏み込み方で、その事は自分の中にも存在しなかった気付きだった。

 同時に、哲学によって原発問題が語り得るのならば、自分が今まで抱えて来た原発問題に対する疑問や疑念を、自分自身が過去に学んだ仏教学の分野から語るという事もまた可能なのではないかという事にも気付かされた。特に原始仏教には哲学的な側面が色濃い。また、そこまで構えなくとも、「経済や環境問題だけが原発問題の本質ではなく、様々な分野の専門家がそれぞれの立場から意見を述べて行く事が必要なのではないか」という事がより鮮明になった気がする。

 例えば、(仏教学からという構えた意見ではなく、一個人の肌感覚からしても)原子力発電が抱える問題点のひとつは、「将来にツケを回す事で現時点での利益を得る」という『利益の先食い』にあるのだと言える。

 「原発は発電コストが安く、燃料の安定供給が可能だ」という主張があるが、仮にその主張が正しいとしても、原子力発電所という「金の卵を産むガチョウ」の寿命は60年しかない。標準的な40年の耐用年数と、最長20年の延長期間だ。それ以降は、廃炉にしなければならない。そして、福島第一原発の様に事故を起こして吹き飛ばなかったにしても、その廃炉費用と廃炉にかかる期間は相当なものになるだろうし、高度経済成長期に全国各地に建設された原子炉が、次々と耐用年数を超えて廃炉になる未来は、近い内に必ず来るのだ。

 更に言えば、使用済み核燃料や、高レベル放射性廃棄物をどの様に廃棄(貯蔵)するのか。最終処分場もこの国にはない。処分場を作れる見込みもない。(にも関わらず、福島県内には『中間貯蔵施設』があるのだが、いつまで中間貯蔵するつもりなのか誰も知らない)

 かくして自分達は、今この場で背負い切る事が出来ない、ある種の『負債』を、将来自分以外の誰かが背負わなければならなくなると知っていて、その上で原子力発電によって得られる利益だけを『先食い』してしまっている。それら『負債』が表面化し、誰かが困る時には自分は責任のある立場にはいないから、或いはこの世にいないから関係ないとでも思っているのだろうか。

 これと同じ事は、様々な場面で見て取れる。ある時は先程と同じ『利益の先食い』であり、またある時は『過去に積み上げた信用の切り売り』だったりもする。例えば外国人技能実習生に満足な報酬を支払わず、技能研修も行わずに単純労働者として使い潰す行為は、過去の日本人が築き上げた国際的な信用を切り売りして現金化する行為であると同時に、将来の日本人への不信という負債を積み上げる行為に他ならない。端的に言って愚かだ。

 他にも、環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏が怒りを顕にした様に、先進諸国の大人達が地球温暖化の問題についてその責任を回避しているのではないかという鋭い指摘がある。自分達大人は、既に将来ある若者たちの未来を食い潰す事が許されないのだと気付かなくてはならない。

 それは仏教的視点から見ると、人間が持っている『欲』というものを、いかに社会全体でコントロールして行くかという事でもあり、自分の責任から逃れていたいという人間の(自分達の)弱さについて、どんな風に倫理的なアプローチをして行くべきかという問題でもある。その上で、先進国と新興国の様な世界的な富の偏在について、どんな手当てをして行く事が出来るかという事もまた問われている。先進国が自国の若者達の未来を先食いしてしまったのと同様に、環境問題が表面化するまでに、自分達は本来新興国が使える筈だったリソースをもあらかた食い尽くしてしまっていた訳だから。

 この様に、政治経済が核技術や原子力政策を語るならば、倫理や宗教学や哲学もまた、自分達のいる場所からそれら社会問題を語り得るし、語らねばならないのだという事。本作はその事を鋭く指し示している。自分は集合知を盲信する訳ではないが、たった一人の意見や見識よりも、集団の中で知恵が鍛えられる事を、今は信じたい。

 

テーマ : **本の紹介**
ジャンル : 本・雑誌

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黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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