死にたいというエゴと、生きろというエゴ

 先日紹介した本に触発されたので、自殺という行為について思考してみる。

 今の若い人は知らないかもしれないが、自分が中学生だった頃に、鶴見済氏が書いた『完全自殺マニュアル』という本がベストセラーになった。その名の通り、様々な自殺方法や、その方法で自殺をした場合の遺体の見苦しさ、自殺の難易度等を判り易く解説した本だった。
 当時、その本を持った自殺志願者が富士の樹海周辺をうろついていた所を補導された事から、内容が自殺幇助にあたるとして、発刊中止の申し立てがされる等の事態にまで発展した。いや、今も普通に売っているけれどね。

 しかしこの作家が、ベストセラーになった完全自殺マニュアルの後、その反響をまとめた『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』という本を編集、出版していた事は意外と知られていない。自殺マニュアル騒動に対するマスコミの反応や、読者から送られた葉書に書かれた感想等をまとめたこの本は、もしかすると本編よりも価値がある内容なのではないかと常々思っているだけに残念だ。
 ちなみに鶴見氏はその後、「自殺する前に向精神薬や自己啓発セミナーで人格を改造して楽に生きる方法もある」として『人格改造マニュアル』という本を出版したのだが、最初に自殺という究極的なテーマを扱ってしまったせいか、以後の著作は自殺マニュアル程の反響を得る事は無かった。氏の著作を全部買って読んだ自分の様な酔狂な読者もいる事はいただろうが。

 閑話休題

 先に挙げた『ぼくたちの完全自殺マニュアル』や先日紹介した『15×24』でもそうだが、自殺というテーマについては皆思う所があるのだろう。様々な意見があって議論がまとまった例が無い。では自分の場合はどうか。自分は自殺を許すのか。

 答え。自殺しようとする人による。

 うわ、我ながらつまんねー答えだ。でもこれには理由がある。といっても別に『難病で助かる見込みの無い人が安楽死を望んだ場合』とか、そういう特殊な事例について想定している訳ではない。単純に、受験で失敗したからとか、仕事を首になったからとか、博打で借金作ったからとか、いじめにあったからとか、彼氏(彼女)に振られたからとか、そういうありふれた理由で死を選んでしまう人の場合だ。

 ありふれた、などと書くとお叱りを受けそうではある。ただ実際のところ、こうした理由での自殺は本当にありふれていて困る。どの位ありふれているかというと、この凡人思考の自分ですら考えた事がある。というか、生まれてから死ぬまで一度も自殺を考えずに生きている人っているのだろうか?
 もちろん程度問題として、それがふと頭をよぎるといったレベルから、リストカット症候群、自殺未遂、そして完全に自殺してしまう人まで、その本気度は様々だろう。しかしいかなる事情があるにせよ、『死なせろ』というのは死にたい人間のエゴだ。そして、それを知った周囲が『生きろ』というのは、自殺を許さない側の人間のエゴだ。どちらが正しいとか、間違っているとか、そういう客観的な切り分けは無意味だし、不可能だ。『神がお許しにならない』という意見もあるだろうが、ここでは人間同士の関係性の中だけに話を限定したい。宗教や信仰も議論に含めると話が広がり過ぎる。

 上記を踏まえて、自分が自殺を許すのかと言えば、自殺しようとする人による。正確には『許さない。ただし、自分のエゴが及ぶ範囲で』となる。自殺を止めるという事は、自殺は許さないというエゴ、自分は貴方に死んで欲しくないというエゴを相手に押し付ける事だ。
 その人が自分にとって大切な人だからとか、単に目の前で死なれるのは寝覚めが悪いからとか、遺される側の身にもなれとか、もっと辛い境遇でも頑張って生きている人がいるのにとか、もっと生きたいと望んでいたのに事故や病気で亡くなった人もいるんだぞとか、自殺に反対する理由は、綺麗な物から身勝手なものまで様々だと思う。しかしその全ては突き詰めれば自分の気持ちを相手に押し付けるという意味でエゴだろう。そして相手が誰であれそうしたエゴを押し付けられる程、自分は傲慢ではないし、強くもない。

 人には自分のエゴを発揮できる射程距離、有効範囲というものがある。薄情な様だが自分の場合、自分と何ら接点が無い人間の自殺に怒ったり涙したりする事が出来る程の情はかなり前から品切れで、この先の入荷も未定なのだ。だから自分が自殺を止めようとするとしたら、それは自分の言っている事がエゴだと知りつつ、それでもなお死んで欲しくない人に対してだけだろう。それがもし赤の他人なら、自分の目の前で今まさに死のうとしている人くらいの近距離でなければ無理だと思う。

 例えばインターネットで『自殺』というキーワードで検索すれば、今すぐにでも自殺志願者の大安売りを目にする事が出来る。自分はいつでもそれを知る事が出来るし、やろうと思えば微力かもしれないが、彼等の自殺を止める為の働きかけも出来る立場にいる。例えば自殺を思い止まらせる様な内容を掲示板に書き込むとか、しかるべき相談窓口へ誘導するとか、もっと緊迫している場合は通報するとかね。でも、やらない。能力的に不可能という訳ではなく、やらないだけだ。それは何故かといえば、彼等は自分のエゴの射程距離外にいるからだ。

 死なせろというエゴも自分勝手で酷い。だが死ぬなというエゴを押し付ける事も、それと同程度には酷い事だ。誰にも他人の本心は判らない様に、他者の苦しみがどれ程のものかを理解する事は人には出来ない。同様に他人の人生に責任を持てる人間もいない。
 自分達はつい、数々の自殺を一纏めにして『自殺』という一言で片付けてしまう。しかし本当はそれら個々の死は、全て個別の事情によってもたらされたものであって、一つとして同じものはない。自分達はそれらを自殺という大きな器に入れて、全ての死を同じ論理で扱ってしまうが、たとえどんなにありふれた理由であれ、全ての死とその選択は自殺者にとって唯一無二のものだ。それを横合いから一般論をぶつける様なやり方で論破し、自殺者を精神的弱者と断じる行為に、自分は価値を見出す事が出来ない。

 そして他人が自殺を許そうと許すまいと、今日も何処かで誰かが自殺しているだろう。それだけが変えようのない事実で、彼等にとってはこんな議論など何にもならない。相変わらず社会は『生き』苦しく、自殺志願者本人以外の誰もそれを救えないのだから。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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