人間的成長には程遠い自分自身

 今年ももう残すところあと僅かになった。今年1年を振り返ってああだこうだというと、何だか暗い話になりそうなのでやらないけれど、別に今年に限らず、人間生きていれば必ず何らかの変化はある。それが良いものであるか悪いものであるかは別として。

 良い意味での変化は成長と言い換えてもいいけれど、下記のサイトで人間的成長という事について考察している文章を拝読したので、引用させて頂きながら自分も考えてみようかと思う。

 G.A.W.『[断片]人間的成長とかよくわかんね』

 自分からすると、成長というのは2パターンある。一つは主観的なもの。もう一つは客観的な評価。自分に言わせれば前者こそ全てで、後者はどうでもいい。

 主観的な意味での成長というのは解り易い。自分がそう思うかどうかが全てで、それ以上でも以下でもない。言い換えればそれは『自分が目指す方向にどれだけ進めたか』という事だろう。
 目標があり、夢があり、己の中に描く理想の自分像がある。主観的な成長はそこに近付く事な訳だから、必然としてそれは社会的、客観的な評価が得られる様な人間像となる可能性が高い。引用させて頂くなら『「時代の要請に応じた理想的人格」に近付くこと』を成長と呼んだとしても一般的に差し支えは無い。あくまでも、自分の意志でそれを目指す限りは。
 それに、そうした変化はもう一方の成長である客観的な評価としての人間的成長にも当てはまる訳で、主観と客観の両者に齟齬がない限りは何ら問題無い。

 しかし、上で『主観と客観の両者に齟齬がない限りは』と書かなければならないのは、往々にして主観と客観は一致しないからだ。

 例えば昔コンビニでバイトしていた頃、同じ深夜勤の男はミュージシャンを志していたのだけれど、彼の知り合いで『公安を辞めて音楽を始めた変わり種』がいるという話になった事がある。客観的な評価を基準にすれば一言で言って馬鹿だ。それ以外の何者でも無い。当時の自分もきっぱりとそう言ったし、同じ道を志している筈のバイト仲間ですらそれに同意した。でも本人にとってそれは紛れも無く成長なんだろう。
 公安。警視庁公安部だったのかどうかは知らないが、ともかく彼は一度は公安の仕事に就いた。堅い仕事だし、周囲だって先の見えないミュージシャンよりは評価してくれる。生活も安定するに違いない。だがそれは、彼の進みたい方向ではなかった。彼が理想とした自分像ではなかった。だから彼は、客観的に見れば相応の社会的地位があるであろう職を辞して、明日をも知れないミュージシャンとして身を立てるべく方向転換をした。

 他人が客観的評価に基づいてどれだけ彼を袋叩きにしようと、彼にとってそれは成長に繋がる第一歩だったのに違いない。考え直せと言うのは周囲の勝手だが、「いつか自分の音楽を世界に轟かせるんだ」というロックな夢と共に彼が路傍で行き倒れて死を迎えようが、少なくとも公安を辞めようと決意した時点の彼の中では、それは正しい成長へと向かう方向性であり、このままだらだらと公安に留まるよりは一歩でも半歩でも理想の自分へと成長する為の道筋だったのだ。当然、彼が全く食えなくなった結果としてまた思い直すという可能性はあるとしても。
 再び引用させて頂くなら、それは『充実っつーか自分がまちがってないっていうか』という事だ。

 これは自分の考えになるけれど、極論すれば、自己肯定が可能ならば客観的評価などいらない。自分が間違っていないかどうかは自分だけで決めれば良い。逆の視点から言えば客観的評価がいくら積み上げられたとしても、それが自己肯定に結び付かなければ、人はそれを自らの人間的成長とは思えないだろう。それを『「おのれ」の絶対的優越』と言えるのかどうかは別として、当人にとっての人間的成長というものはそうした唯我独尊的なものだろうと思うのだ。他の連中なんか知るかっていう。客観的評価は自己肯定の後押しはしてくれるかもしれないけれど、イコールじゃない。

 だから引用元の文中にある様に、自己肯定を得られない極限の状況に置かれながら、それでもその先鋭化された文章表現が周囲の評価を集める様な芸術家肌の人物がいたとして、彼の表現が先鋭化して行く事、ひいては彼が追い込まれて行く事は成長と呼べないのかと問われるならば、客観的な評価を基準とすればそれは表現者としての成長と呼べるが、あくまでも本人にとっての成長とは程遠いという価値観の齟齬を受け入れるしかないと言える。もしくは彼が芸術家として望んで自分を追い込んでいるのなら、それは客観的には人格破綻者や社会不適応者に向かって突き進んでいる様に見えたとしても本人にとっての成長だと言える。こうした価値観の相違は悲劇だが、往々にして人の心を打つ芸術表現というものはそうした報われざる成長の結果として生まれる事がある。

 俗な話になってしまうが、例えば自分の歌や音楽で人を感動させる様なアーティストとしての成長を望んでいた人間が、遂にはアーティストとしては鳴かず飛ばずに終わり、プロデューサーとして大成したとする。当然周囲は評価してくれるし、彼がプロデュースした数々のアーティストが人々に感動を与えてくれるのなら、それは結果として彼の功績と言えなくも無い。
 彼がその周囲の評価を受け入れ、「最初に望んだ到達点ではなかったけれど、これもまた自分の努力の結果だったんだな」という自己肯定に至る事が出来たならいい。しかし、そうした世間の評価に背を向け、成功した仕事の裏で全く評価されない自分の音楽を作り続け、「あの人プロデューサーとして成功したのに何でまだあんな事やってんの?」とか冷笑されながら、「何故自分はアーティストとして成長出来ないんだ」ともがき苦しみ続ける一生を終える可能性もある。
 他者からの評価は、彼を慰撫するかもしれない。でもそれが彼の望む自分像からかけ離れた所で生まれる評価だとすれば、彼は報われない。そうした価値観の齟齬とすれ違いが是正される事は今までもこれからも無い。悲しいが。

 結論として、自分を評価出来るのは自分だけだし、自分が人間的に成長出来ているのか定義出来るのも自分だけだ。世間がどう言おうが、それは本人の心には入って行かないし、届かない。またそういう孤立は昨日今日始まった事ではない。

 翻って、自分を見直せば今年の成長はそれこそ皆無だった。足踏みしていただけだったり、前に進んでいる様でぐるぐる回っているだけだったりした。社会的に見れば『順応』や『適応』は一杯したし、仕事も頑張ってやった。その事に対する評価も周囲からはそれなりに頂いた。でもそれが何なの?と自問すれば、意味は無かった。何故なら、自分が目指す方向はそっちじゃないから。

 来年は成長したい。順応とか適応とかは今年飽きる位やったので。でも、来年の末頃も同じ事を言っている様な気もするけれどね。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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Author:黒犬
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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