反捕鯨運動に対する違和感

 最近ニュースを賑わせた反捕鯨団体『シーシェパード』について。
 自分は、実は調査捕鯨についてはさほど言いたい事もない。個人的にはクジラを食べなくても生きて行けるが、逆にクジラを守らなければという使命感もない。中立的な立場と言えば聞こえはいいが、要するに個人的見解を持つ程にはこの問題に詳しくない。当然調査捕鯨を行っている側にもシーシェパード側にも双方主張はあるだろうが、それもどうでもいい。自分の生活と捕鯨とはかなり遠くて実感がない。というのが正直なところだ。

 しかし環境保護団体等からするとこの問題も重大問題らしく、反捕鯨を訴えている団体は他にもある。例えばシーシェパードの設立者であるポール・ワトソンが過去に所属していた環境保護団体『グリーンピース』も同様に反捕鯨の姿勢だ。(現在、グリーンピースジャパンのHPには『グリーンピースはシーシェパードとはまったく別の国際NGOです』という注意書きが掲載されている)

 一連の報道を見た上で感じる違和感としては、シーシェパードのやり方が過激だとか違法行為だとかいう以前に『なぜクジラは食べちゃ駄目で、他の生き物はいいのか』という素朴な疑問がある。絶滅が危惧されるからというのであれば、じゃあ数が増えたらいいのかという事になるのだけれどそういう訳でもなさそうだしね。クジラやイルカは知能が高いから、かわいいから、ホエールウォッチング等で癒されるからというのであれば、母方の実家で乳牛を飼っている経験上、牛だって十分頭も良いし可愛い生き物なんだけどなーと思うだけの事だ。家畜と野生動物は違うんだよ、と言われるかもしれないけれど、それだって同じ命じゃないかとも思う。

 確かにポール・ワトソン本人は完全菜食主義者であるらしい。肉以外にも、動物から取られた食材である卵や乳製品も口にしないという事だそうだが、環境保護団体の活動家全員が完全菜食主義者だという話は聞かないし、与野党共同でシーシェパード支援を表明しているオーストラリアに至ってはオージービーフを輸出しまくっている。何だそれ。というか、厳密に言えばそもそも植物だって命に違いはない。

 繰り返しになるけれど、野生動物と家畜は違うとか、絶滅が危惧される生物だからとか、クジラは賢い生き物だからとか、調査捕鯨という行為そのものに学術的な根拠や価値が無いとか、調査捕鯨は税金の無駄遣いだとか、反捕鯨にも相応の理由はあるんだろうと思う。でも結局自分が感じるのは、『いつだって人間が保護しようとする自然は人間が好きな自然だけだ』という事だ。平たく言えば、偏っている。

 例えば、最新のアウトドアグッズに身を固め、(当然それは工業製品なのだが)完全に整備されたキャンプ場でテントを張り、雑草などが農薬で除草された綺麗な芝生の上に寝転んで、「やっぱり自然は素晴らしいなー」とか言ってしまう様な腐敗、或いは焼肉食べ放題で盛大に肉を焼きながら食糧問題を語ってしまう様な腐敗が、そこには生じ易いのではないかと思えてしまう。上手く言えないけれどね。
 それと同様に、クジラやイルカ等を特別に保護しようという時、自分はいつも「じゃあそれ以外の生き物はいいのか」という言葉が脳裏を過ぎる。本来保護しなければならない自然の中には、人間にとって不都合なものだって含まれる筈なのだけれどね。そんな偏りがいつも頭のどこかに引っかかる。

 別にクジラを食わなくても自分は飢え死にしたりしない。そういう意味では確かに反捕鯨もアリだ。でも自分が環境保護団体の活動に今ひとつ賛同しきれないのは、そうした自分の中で上手く処理出来ない引っかかりが依然として解消出来ないからなのではないかと思う。
 現に今自分は工業製品の権化であるパソコンで文章を打ち、部屋では煌々と照明を点け、寒いからといって石油ファンヒーターでガンガン化石燃料を消費している。ちなみに着ているフリースはポリエステル100%だ。そういう人間が環境保護を語る事の胡散臭さときたら、これはもう相当なものだと思う。自分も騙せない様な嘘を信じるのは無理だ。

 環境保護って大事だね、という時、反対する人はまずいない。でもそういう人達は、こういう自己矛盾をどうやって処理しているんだろうか。夕食が牛肉だった今日、ふとそんな事を考えた。

テーマ : 環境・資源・エネルギー
ジャンル : 政治・経済

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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