前提を共有するという事

 最近思った事だけれど、自分と前提を共有している人とだけ会話するとか、自分と前提を共有している人にだけ読んでもらえればいい文章を書くというのはやっぱり楽だ。例えば友人とか、同じ趣味の人とか。

 話は少し逸れるけれど、このブログにはリンクっていうものが無い。普通個人サイトとかブログとかだと、友達のサイトです、みたいな感じで何件かはリンクがあっても良さそうなものなのだけれど、生憎と自分の狭い交友関係の中でサイトを持っている友人は数える程しかいないし、その内の一人のサイトは仲間内にだけ知らされたユーザー名とパスワードを入力しないとそもそもアクセス出来ない仕様になっている。そういう所にリンクを張る訳にも行かないので、このブログにはリンク集が存在しない。

 で、自分の友人がやっている様な閉じたサイトには限られた人というか仲間しか来ない訳で、必然的にそこでのやり取りは非常に砕けたものになる。何せネットで知り合ったという訳でもなく、リアルでずっと付き合いがある仲間なので、自分がどんな奴かとか、常日頃どんな事を考えているかとか、趣味とか、どんな価値観を持っているかなんていう事はお互いにいちいち説明するまでもなく、百も承知二百も合点というものだ。先程自分が書いた『前提』というのはつまりはそういう部分を指す。
 そうした人に向けて書く文章というのは、前提部分に関する説明を一切しないで書く事が出来るので、とても楽だ。言葉遣いももっといい加減だしね。

 で、昔オタクに対して『同じ趣味の奴ばかり集まってよく分からない会話をしている奴ら』とかいう様な見方が多かった頃、何であんなに同じ趣味の話を延々としていられるのかとか、初対面の相手とでも趣味の話だったらいくらでも出来るという彼等の姿に呆れる一般の方がいた。同様に、女子高生が中心となった文化というか、コミュニティーでは、様々な価値観や流行語が生み出されては消費され、それが理解できない人間からすれば意味不明な言葉を操る彼女達の姿を奇異なものとして見る向きもあった。オタクと女子高生というのはあまり重ならない層なのだけれど、実はこうして同じ様な事をやっていた訳だ。つまり、『同じ前提を共有出来る人間とだけつるむ』っていう事を。

 それは言い換えれば『前提を共有出来ない相手を排除する』という事でもあるのだけれど、オタク同士の会話にやたらと専門用語が多いとか、女子高生の生み出す新語が理解不能だとかいうのは一種のフィルタリングな訳だ。それを理解出来る人は仲間だけど、そうでない奴は余所者か、もっと言えば潜在的な敵だっていう。そうして異分子を排除すれば、仲間内でだけ通用する言葉を操ってコミュニケーションすればいい訳で、楽だし効率的だし、居心地が良い。

 で、出だしの部分に戻るのだけれど、例えば自分が仲間のサイトに文章を書く時、それはもう同じ前提を共有出来る人間の目にしか触れません、という条件で書き出せる訳で、これ程楽なものもない。逆に言うと、ここに書く文章にはそういう前提が通用しない分、気を使う。
 じゃあ気を使う事が悪いのかというとそんな事も無くて、逆にこうした文章を書く事で自分の考えを整理出来る場合もある。普段だと何の疑問も無く流してしまう様な事でも、前提を共有していない人にも何とか伝わる様にと苦心して自分の考えを解体して整理しようとしていると、『ああ、自分の考えはこういう所から来ていたのか』と、腑に落ちる瞬間がある。そういう発見というか、気付きの面白さは、このブログを始めてから特に感じる。後は大学の卒論も面白かった。自分の考えが、どうやったら相手に上手く伝わるかなという部分で苦労したけれど。

 他方、前提を共有する人間とのやり取りでは、より深く突っ込んだ内容について触れられる分の楽しさがある。どちらがより良いという事でも無く、それをバランス良く自覚的にやって行くという事が大事かなと最近特に思う。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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