戦争を語るという事・押井守『ケルベロス 鋼鉄の猟犬』

 日本人である自分が戦争を語るという事は、難しい。

 自分は戦争を知らない。そして自分は戦後民主主義教育を受けて育った。それはもう間違いなく。

 自分がここで『戦後民主主義教育とは』等と息巻いても仕方ない事は理解しているし、その功罪について語ろうとしても、その教育を当然のものとして受けて育った自分が客観的な意見を持つという事は難しい。ただ、戦争というものに対する姿勢という事で言うなら、自分の受けた教育とは以下の様なものだと理解している。

 戦争は忌避すべきものであって、語るものでもなければ論じるものでもない。『勝つ為の議論』等は論外であって『負けない為の議論』すら国民の話題には上らない。『あの悲惨な戦争を二度と繰り返さない為に、その悲劇を後世に語り継がなければならない』という姿勢だけが、日本人が戦争を語る上で許されたただ一つの立場なのだという事。その為の教育が戦後民主主義教育だったのだと言い換えてもいい。

 だから戦争について語るという事は一部のマニアや好事家、或いは評論家の間でしか行われないし、人はそれを聞けば露骨に嫌悪の表情を見せる。

 思えば自分も日々の暮らしで何か戦争や軍事について考える事があるかと言えば、何もない。せいぜい親戚や知人の誰かに自衛隊関係者がいたかどうかというレベルでしかない。自分の世代だと、祖父母の代が戦争を経験しているのだけれど、そうした伝聞の中の戦争体験には現実の様な生々しさは無い。つまり自分は、戦争について何も知らない。
 そういう人間が、なぜこんな戦争のウンチクに満ちた本を読んでいるのかといえば、自分でもちょっと説明するのは難しい。

 本作は架空の第二次世界大戦の中で、ドイツ軍第808宣伝中隊の女性大尉の視点から戦争を語る。宣伝中隊というと聞き慣れない名前なのだけれど、要するに記録映画、宣伝映画を撮影する為の部隊だ。だから本作は、戦争というものの具体的なディティールを執拗に描く事になる。

 日本人は、戦争を抽象的に語るという事は得意としているのだけれど、戦争を具体的なものとして語るという事が苦手だ。だから普段は忘れているのだけれど、戦争というものはどこまで行っても具体的な問題の積み重ねでしかあり得ない。
 現実の兵士ならばそれこそ自らの命にかかわる問題として決して忘れる事など無いだろうその事実を、平和な日本で戦争について考える時の自分達はあっさりと忘れる事が出来る。そして言葉遊びの様に戦争を語る事も出来る。現実問題を切り離した、抽象的概念としての戦争を。

 それで良いのか悪いのかと言えば、少なくともそれだけ日本が平和であるという意味において自分は現状を容認しているのだけれど、でもこれから先もそんな平和が維持されるだろうかと考えると、そんな保証は無いなという気もしている。脅かしでも、煽っている訳でもないけれどね。要するにこんな本を読んでいる自分は不安なんだろう、きっと。
 何の備えも無しに冬山登山に行く事が無謀な様に、事態に対する備えは常に必要なのだけれど、では何をどの様に備えておくべきなのかはその事態について詳しく知らない限り出来ない。冬山登山に対する備えは冬山というものの危険性を認識し、具体的な対処法を把握してからでなければ出来ないし、同様に戦争に対する備えというものもまた、戦争を知るという事からしか始める事が出来ないのだから。そしてもっと言えば、冬山ならそこに行くか行かないかは自分で選択すればいいけれど、戦争の方はそうは行かない。

 さて、最後に。本作は架空戦記ではあるのだけれど、押井守氏と岡部いさく氏の対談本『戦争のリアル』で語られた事と共通する部分も多いので、両方に目を通してみると更に興味深い。自分もクラウゼヴィッツくらいは読んでおくべきなのかもしれないなと思う。

 

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