存在証明という言葉

 最近色々と考える事がある。
 少し前から『ASIAN KUNG-FU GENERATION』を聴く様になった。まあ、それ自体は大した事ではないのだけれど、彼等の歌に出て来る『存在証明』という言葉が、日々の暮らしの中で酷く印象的なものに思えて来たのだ。

 『軋んだ想いを吐き出したいのは 存在の証明が他にないから』(リライト)
 『存在証明を鳴らせ サイレン』(サイレン)

 昔は、『自己実現』という言い方をしていた様に思う。
 元々は心理学の言葉だから実際の意味は異なるのかもしれないけれど、夢を叶える事、目標に到達する事、そういった前向きな目標として自己実現という言葉はあった。しかし、『存在証明』という言葉には、もっと切実な響きがある。

 存在証明。自分が今ここにいるという事。自分がこの場に存在しているという事。それを願うという事、叫ぶという事、証明しようとする事は、前提として自己の存在に対する否定がある。では個人の存在を否定するものとは何か。

 普通、個人の存在というのは否定されるものではない。誰が何と言おうが、ここにいる自分の存在を否定する事は出来ないし、自分自身が自らの存在を否定しようとしても、自分というものはもうどうしようもなくここに存在してしまっている。事故、殺人、或いは自殺といった形で個人の命を奪う事は究極的な存在の否定に繋がるけれど、それでも自分がそこに存在していたという事は、その死によってもたらされる個人の不在という空白と、周囲への影響によって証明される。
 もしも完全な存在の否定というものがあるなら、それは個人が死ぬだけではなく、後に遺された者全てから故人との記憶が抹消され、故人が遺した有形無形の全てがこの世から破棄されなければならないだろう。そんな事は不可能だ。

 ただ、それでも『存在証明』という言葉が胸に突き刺さるのは、自分達が日々存在の否定を感じているからに他ならない。それは恐らく、存在の完全な否定ではなく、存在価値の劣化、交換可能化によって個人の存在が貶められる事による。

 つまるところ、ここにいるのは自分でなくても構わないという感覚がそれだ。

 自分がやっている仕事は自分にしか出来ない事じゃない。才能と呼ばれる程の特技も無い。物の考え方も、表現の仕方も凡庸だ。自分が今日消えても世間は困らないし、明日も世界は続く。自分の不在など一顧だにせず。

 確かにそれは社会のあり方として正しい。構成員が一人減った程度でガタつくシステムというのは欠陥品でしかない。企業にしろ社会構造にしろね。ただ、それによってシステムの側が個人の上位に位置するかの如く振舞う時、自分達個人の存在が単にシステムを構成する交換可能な部品でしかないかの様な感覚が生まれ、それが個人の存在を圧殺する。

 言い換えればそれは『お前なんか別にいなくていいんだよ』という事だ。
 そしてある一面から見ればそれは全くその通りで、反論の余地がない。

 そんな社会で、そんな世界で、自分達は生きている。存在している。

 その消え入りそうな『存在』を、自分達は必死に繋ぎとめようとする。社会というシステムからすれば取るに足らない自らの存在を、身近な人間関係の中で守ってみたりもする。社会にとっては交換可能な一単位でしかない自分でも、誰かにとっての特別にはなれるかもしれないという思いで。それは確かに個人の存在を慰撫するだろう。
 ただ、それでも自分達は社会に対して自らの存在を証明しようとする事を諦め切れた訳ではないのだろうと思う。だから、軋む。だから時にこうしてそれを吐き出す。存在の証明が他にないから。

 存在証明を鳴らせ。

 自分がこんな事を書いているのも、きっとその為なんだろうと思う。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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