人間の果てを見に行こう

 文庫化されたので、リチャード・モーガン『オルタード・カーボン』なぞ読んでいる最中。読み終わったらきちんと感想を書こうと思うけれど、その前にちょっと脱線して雑記とか。ちなみに今上巻の途中。

 さて、この作品、SFというかSF設定によるハードボイルド小説の様な雰囲気なのだけれど、この世界の人間は何かもう凄いというか酷い事になっていて、半不死を実現している。どういう方法によってかというと、人間の人格や記憶をデータ化してバックアップする事が可能になった為に、銃で蜂の巣にされようが刃物でメッタ刺しにされようが、自分の人格データを保存しているメモリー・スタックさえ破損しなければ、そのメモリー・スタックに保存されたデジタルデータとしての魂を新しい体(スリーヴ)に入れる事でいくらでも復活出来るという、本当に力技な方法によって。
 更に富豪や権力者は遠隔地にメモリー・スタックを持ち、定期的に自己をバックアップしているから、たとえ目の前にいるその人物を塵ひとつ残さずに消し去ったとしても、彼等は別のスリーヴで復活する事になる。

 作品について語るのはこの程度にするけれど、こういう『死を超越しようとする存在』について扱った物語は、大抵そうした生について『それは歪なものであって云々』という話になる。本作はどういう物語になるのかまだ分からないけれどね。

 例えば吸血鬼の物語には不死者故の孤独があり、サイボーグ化や魂のデジタル化には自己同一性に対する懐疑がある様に、手放しで賞賛される不死の形というものはなかなか存在しない。それは自然の摂理や信仰に反するからという事もあるのだろうけれど、未だ誰もそこに到達出来ない地点であるが故に、そうなった人の姿というものを容易には想像出来ないし、受け入れられないという事もあるのかもしれない。

 大体が、性別や人種が違うとか、言葉が違うとか、生活習慣や文化が違うといっただけでも相互理解の妨げとなるのに、『不死身』などという特性を持った人間は、もう人間の枠内から逸脱してしまっている。自らが不死身であるという事を受け入れた人間は、当然ものの考え方や価値観まで既存の人類とは異なってしまうだろう。
 例えば自分に置き換えて考えてみると解り易いと思うけれど、「今日から貴方は不死身ですから」となった瞬間に今までの常識とか倫理観とか、そんなものは意味をなさなくなる。そういう意味では、恐らく不死身になった瞬間にそれ以前の自分は一度死ぬ。

 でも、それでも自分は時々『不死』というものに酷く憧れる。

 何も歴史上の権力者や独裁者の様に、不死になれば未来永劫自分の天下が続くぜ、みたいな生臭い事を考えている訳じゃない。大体、不死身になってまで延々と統治者として君臨する程自分は働き者じゃない。
 ならば何かというと、少なくとも不死になれば、今生きている人間が辿り着けない様な、その先の世界を見る事が出来るという事だ。生き続け、他者を見続け、世界を見続け、人が生きて行くその先の先までを知る機会が得られるだろうという事だ。それは数多くの物語に描かれた通り、孤独な道行きになるのかもしれないけれど、それだけの価値はある。

 もちろんその結果として、酷い未来が待ち受けていて、こんなものを見なければならないならいっそ普通に死んでおくんだったと思う時が来る可能性はある。でも、その最悪の可能性を考慮したとしても、自分は知りたいと望むのだろう。人間の辿り着く、その果てを。いつか世界が終わるというのなら、その終わりを。

 
 

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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Author:黒犬
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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