日常の及ぶ範囲

 最近報道番組では山で遭難者が救助されたとか、亡くなったなんていうニュースをよく耳にする様になった。特にテレビ局の記者が亡くなったニュースは事前計画や装備に問題は無かったのか等、物議を醸した。その他にも、中高年をターゲットにした登山ツアーで死者が出る等、痛ましい事故が相次いでいる。

 軽装で山に行く無謀さとか、自分の身体能力を過信し過ぎるとか、ガイドの判断ミス等、問題点は探せばいくらでもあるのだろう。亡くなった方に鞭打つ様な話だが、自己責任論も根強い。けれど自分が思うに、最も問題なのは『山に行く』という行為や山という場所そのものが既に日常化しているという事だ。言い換えれば自分達が日常を感じる範囲がここ数年で拡大し過ぎたという事だ。

 自分の感覚では、日常の範囲というのは携帯電話の電波が届く範囲と同じだ。

 携帯電話が繋がる範囲でなら、何かあってもすぐに連絡をつける事が出来る。その余裕や便利さが自分達にとってプラスに働いている間はいいとして、マイナスの面というものもやはりあるだろう。
 具体例を挙げるなら、携帯電話が普及して最も感じる様になった事として、『約束の時間を守らない』人間が増えた。携帯電話が普及する前は今よりも時間に厳しいのが当然だったし、事前に待ち合わせ場所を決める時もお互いが家を出てしまった後では変更がきかないからもっと計画的だった。それが今では遅れる時にも「ごめん、ちょっと遅れるわ」と電話を入れるなりメールを打つなりすれば済む様になったし、事前に待ち合わせ場所をはっきり決めなくても「今どの辺り?」と確認すれば済む様になった。

 携帯電話の普及なんてそんなに昔の話ではない筈なのに、この便利なツールが登場した事によって自分達の生活はこんなにも変化している。小説の世界でも、特にミステリーやホラーは大打撃を受けただろう。携帯電話で普通に外部と連絡が取れる状態なんて怖くも何ともない。助けが呼べない中で追い詰められる登場人物を描こうと思ったら、まず何らかの方法で携帯電話を不通にしなくてはならないのだから、電話線を切れば良かった頃からするとミステリーの殺人犯もホラー映画の殺人鬼も苦労する時代だ。

 山での遭難に話を戻すと、そんな携帯電話の電波が届く状態が山に入る寸前や、もしかすると山に入ってからも続くとして、緊張感を持って登山に臨むなどという事が出来るものだろうか。それは無理な相談なのではないだろうか。

 自分の場合、中学、高校時代にオートキャンプ場等の整備された環境ではない、本当にただの山の中みたいな場所で仲間とキャンプをした経験が何度もあるのだけれど、その中では痛い目にあった経験が割と多い。今思い返してみても、事前の準備に不備があって現地で困ったり、現地で判断ミスをして酷い目にあった事が真っ先に思い出される。当然携帯電話なんてないし、移動手段といえば自転車か徒歩だから、現地で困ろうが何しようが誰も助けには来ないし、すぐに街に戻る事も出来ない。だから最終的には目の前の問題を自分達で何とかするしかない。

 つまるところ、経験を積むというのは失敗をする事だ。失敗し、苦労し、次は同じ失敗をしない様にと準備や判断を見直す。そしてそれは失敗したら命が無くなる様な致命的な状況が起こり得る山に挑む前に、もっと安全な場所で経験しておくべきだろう。ツアー旅行ならガイドもいるし、他の人も一緒だから大丈夫、というのは実は落とし穴だ。

 山は日常ではないんだ、街の常識は通用しない場所なんだ、という意識も、そんな失敗の積み重ねから獲得して行くものなのだろうと自分は思う。 

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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