この街を去れない僕等は アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』

 

 本作は短編集『風の十二方位』に収録されている。自分は先日感想を書いたマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』の中でこの作品が引用されていた事から興味を持ち、この短編集を手にした。
 『オメラスから歩み去る人々』は数ページの掌編だが、その鋭さは読者の心に突き刺さる。

 此処ではない何処か遠い場所に、オメラスと呼ばれる美しい都がある。
 オメラスは幸福と祝祭の街であり、ある種の理想郷を体現している。そこには君主制も奴隷制もなく、僧侶も軍人もいない。人々は精神的にも物質的にも豊かな暮らしを享受している。祝祭の鐘の音が喜ばしげに響き渡る中、誰もが「心やましさ」のない勝利感を胸に満たす。子供達はみな人々の慈しみを受けて育ち、大人になって行く。

 素晴らしい街。人の思い描く理想郷。しかし、そのオメラスの平和と繁栄の為に差し出されている犠牲を知る時、現実を生きる自分達は気付くのだ。この遥か遠き理想郷は、今自分が立っているこの場所の事なのだと。
 オメラスが求めた犠牲。それはこんな姿をしている。

“オメラスの美しいある公共建造物の地下室に、でなければおそらくだれかの宏壮な邸宅の穴蔵に、一つの部屋がある。部屋には錠のおりた扉が一つ、窓はない。わずかな光が、壁板のすきまから埃っぽくさしこんでいるが、これは穴蔵のどこかむこうにある蜘蛛の巣の張った窓からのお裾分けにすぎない。”

“その部屋の中に一人の子どもが坐っている。男の子とも女の子とも見分けがつかない。年は六つぐらいに見えるが、実際にはもうすぐ十になる。その子は精薄児だ。”

“その子はもとからずっとこの物置に住んでいたわけではなく、日光と母親の声を思いだすことができるので、ときどきこう訴えかける。「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」彼らは決してそれに答えない。その子も前にはよく夜中に助けをもとめて叫んだり、しょっちゅう泣いたりしたものだが、いまでは、「えーはあ、えーはあ」といった鼻声を出すだけで、だんだん口もきかなくなっている。その子は脚のふくらはぎもないほど痩せ細り、腹だけがふくらんでいる。食べ物は一日に鉢半分のトウモロコシ粉と獣脂だけである。その子はすっ裸だ。”

“その子がそこにいなければならないことは、みんなが知っている。そのわけを理解している者、いない者、それはまちまちだが、とにかく、彼らの幸福、この都の美しさ、彼らの友情の優しさ、彼らの子どもたちの健康、学者たちの知恵、職人たちの技術、そして豊作と温和な気候までが、すべてこの一人の子どものおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ。”

 「酷い話だ」と思うだろうか。自分もそう思う。彼、或いは彼女の不幸が、何故オメラスの繁栄の為に必要とされるのか。多くの読者がその理不尽さに憤るかもしれない。その嘆きは、怒りは、きっと正しい。けれど、オメラスがたった一人の犠牲の上に成り立っている事を思う時、現実を生きる自分達の住むこの国が、より多くの犠牲を他者に求めている事実が重くのしかかる。

 日本が豊かである為に、顔も知らない誰かが貧しさに耐えている。日本人が平和に生きる為に、誰かが血を流している。日本人が当たり前の様に手に入れている食料、資源、薬品、教育。そういったものは、当たり前の事だが全ての国の人々が同じ様に手に出来るものではない。そして自分達はオメラスの人々がそうであるように、その誰かの犠牲がある事を知っている。その犠牲が自分達にとって必要な犠牲である事に気付いている。そう、誰もが。
 だからといって、自分達がそれを知っているからといって、自分達はこの暮らしを捨てる事が出来るのか。出来はしないだろう。恐らく、ではなく、間違いなく。そしてこの街を去る事が出来ない自分達は、その不実を、いつか埋め合わせる事が出来るのだろうか。

 

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No title

初めまして。残酷な真実を知ってしまった人はもう昔みたいに楽しく笑えなくなるのですかね?

>シンジンさん

初めまして。コメント頂き、ありがとうございます。

『オメラスから歩み去る人々』は寓話だと思います。本作で語られている事は、全て現実問題に置き換えて考える事が出来るという事です。

シンジンさんが『残酷な真実』と呼ぶものに、自分達は皆、薄々気付いている様な気がします。ただ、直視する事が辛い為に、或いは問題を解決する手段を持たない為に、それらの『残酷な真実』から目を背けがちになってしまっているのではないでしょうか。

実際、色々な例があると思います。
例えば日本を含めた先進国と新興国(昔は発展途上国とか、もっと露骨に後進国とか言ったりしましたが)の間にある経済格差や貧困問題について考えたとすると、世界中の国全てが日本と同じ生活水準で暮らす事は不可能だと思います。

食糧問題を例にとって考えてみます。
自分は昔、コンビニエンスストアで働いていた事があります。極論すればコンビニという業態は「食品を廃棄する事」を前提にしています。24時間営業で、いつ来客があってもお弁当やお惣菜が一定数棚に並んでいる様にする為には、販売期限切れの廃棄が出る事を織り込み済みで経営をしなければなりません。もちろん廃棄が出ない様に努力する事は店側にとって当然ですが、発注数を絞り過ぎると品揃えが悪くなり、利便性が悪くなる事で客離れが起きます。だから店側は、食品廃棄を当然の事としています。

一方、食糧難や飢餓の問題が世界から無くなったのかといえば、答えは否です。

富める国には、単に顧客利便性の追求の為に捨てられる程食料が溢れているのに、貧しい国には飢餓で死んで行く人々がいます。オメラスの街の豊かさの為に、一人の少年が飢えている事と、この現実問題はどこか重なっている気がしませんか?

他にも例を出そうと思えばいくらでも実例がありそうですが、自分達はこうした『残酷な真実』がある事をとうに知っていて、それでも楽しく笑って日々を過ごしています。オメラスに住む大多数の人々がそうである様に。しかしそこから『歩み去る人々』は、自分達の幸福が何者かの犠牲の上に成り立っている事を良しとせず、その豊かな暮らしを自ら投げ捨てる事を選んだのだと言えます。それは容易な決断ではありません。

誰も犠牲にする事無く暮らす事。現実問題として、それが可能な事なのかどうかは分かりません。自分達は日本に住んでいる時点で、無自覚に(ただ半ば自覚的に)他者の犠牲から得られた繁栄を享受しています。だからといって、この国と、この国での暮らしを捨てて、誰かを犠牲にしなくても生きられる土地を探す為に『オメラスから歩み去る』事を選べるかといえば、それは困難な道です。ならば自分達はこの国の中で生きながら、この国の繁栄の為に犠牲となってくれている誰かに対して、少しでも自分達の不実を詫び、その埋め合わせをして行く他無いのでは、と思います。それさえ相手の目には「富める国に住む者の傲慢」と映るのでしょうが。

歯切れの悪い回答かとは思いますが、自分達が楽しく笑っている時、その裏側にある犠牲が如何程のものなのかを考えてみる事が必要とされているのかもしれませんね。

No title

昔あるアニメで(俺は嫌だね。)と世界は変わらないといけないという考えを最後まで捨てなかったキャラクターがいました。その頃の僕は(納得するしかないじゃないか。)と複雑な気持ちになりました。でもエヴァンゲリオンで(世の中にはかっこいい大人なんていない。)や仮面ライダー鎧武とダンスインザヴァンパイアで(上辺だけの平和な世界はいずれ崩壊するからこそ戦うための準備をしなければいけない。)という現実を突きつけられ今では(俺はこの世界と希望という言葉が嫌いだ。)という考えを持つようになりました。でもある漫画を立ち読みして(自分が嫌いだったのは希望という言葉に依存して他人に頼るだけの人間になろうとする自分自身だったのか?)と考えるようになりカッコ悪く感じました。

>シンジンさん

こんにちは。
頂いたコメントを読んで、いくつか考える事があったので追記してみます。コメントの内容を見るに、シンジンさんは多分お若い方なのかなという気がしているのですが、(間違いであれば申し訳ありません)小説やアニメ、漫画や映画等、様々な作品から影響を受ける事で、自分の物の考え方や価値観が変わって行く事は確かにあります。「自分の考え」というものも、何もない所から生まれるものではなく、外部からの影響を手本にしたり、逆に反発したりする中で形作られて行くものだからです。ただ、その中で何が正解であるのかという事は、誰にも決める事は出来ませんし、客観的な正解というものも存在しません。

『オメラスから歩み去る人々』では、少年の犠牲の上に成り立つ幸福を良しとせず、そこから歩み去ろうとする人々の姿が描かれます。しかし、別の小説を読めば、また違った価値観(=自分が信じる正しさ)を持って生きる人がいる事を知る事が出来ます。

伊藤計劃氏が書いた小説『虐殺器官』の中で、ある登場人物はこんな事を言います。

“「この世界がどんなにくそったれかなんて、彼女は知らなくていい。この世界が地獄の上に浮かんでいるなんて、赤ん坊は知らないで大人になればいい。俺は俺の世界を守る。そうとも、ハラペーニョ・ピザを注文して認証で受け取る世界を守るとも。油っぽいビッグマックを食いきれなくて、ゴミ箱に捨てる世界を守るとも」”

彼は妻子を持つ父親で、上で言う「彼女」とは妻の事です。彼は夫として、父親として、家族の幸せを何よりも望んでいます。家族の幸せに影を落とす様な真実なら、そんなものは誰にも知らされない方が良い。それが彼の信じる正しさです。彼の事を身勝手だ、自己中心的だと責める権利が、自分達にあるでしょうか? 立場が同じなら、自分も同じ事を言うかもしれません。

仮にオメラスで暮らす人々が、犠牲となっている哀れな少年の事を知らなければ、彼等は気に病む事無く幸福だけを享受できるのかもしれません。自分の目の届かない場所で誰かが犠牲になっていようとも、自分にとって大切な人がその犠牲者に選ばれない限り、その不幸は自分とは関係がないからです。自分にとって大切な人の目に『残酷な真実』を触れさせない事。大切な家族の幸福の為に他者の犠牲という悪徳を飲み込む事。それは例えるならオメラスという街で『残酷な真実』を知りながら生き抜く事です。

どちらの考え方が正しいのか。自分は、どう生きるべきなのか。決められるのは自分だけです。

様々な作品に触れる事で、また社会の中での自分の立ち位置の変化によって、シンジンさんの中の価値観も大きく変わる事でしょう。時には自分を「カッコ悪く」感じる時もあるのかもしれません。でも、それが普通なのではないかと自分は思います。その中で自分の生き方を見定めて行く事が、自分達の課題なのではないでしょうか。今は、そう思っています。

No title

去年の12月に20歳になった社会人見習いです!!!!!

楽園追放という映画はそれぞれの人間達が思い描く幸せの在り方が描かれていて悩みの種が増えたような気持ちになりましたが、(自分が心からいたいと思う居場所にいるのはいいけど他人の生き方を否定するのはどうなのよ?)という疑問が生まれました。

僕は暗い作品を観て(俺は絶対こんな人間にはならない。)と決意するタイプの人間なのですが、黒犬さんはどうですか?

2014年は仮面ライダー鎧武・るろうに剣心・アカメが斬る!・殺人偏差値70といった人の心の弱さや社会の闇を描いた作品をたくさん観たせいか最近は前向きになれる作品をもっと観てみたいと思うようになったので黒犬さんがバケモノの子を好きと書いてくれてうれしかったです(笑)

完璧な平和な世界?

先ほど伊藤計劃さんが世に送り出した作品の一つであるハーモニーというアニメの予告編を視聴しました。

僕がよく考えるようになった世の中に対する考えを映像化しているように感じたので観に行きたくなりました(笑)

>シンジンさん

こんばんわ。

伊藤計劃氏の小説が好きです。氏が亡くなってしまった事で、もう新作を読む事が出来ないのは読者としてとても残念な事だと思っています。

『meme(ミーム)』という言葉があります。伊藤計劃氏が敬愛してやまなかったゲームデザイナー、小島秀夫氏も好んで使う言葉ですが、伊藤計劃氏の遺したミームもまた、形を変えて誰かに受け継がれて行くのかもしれず、映像化というのもまた、その流れの一環なのかもしれませんね。

自分は小説を読んだり、映画を見たりすると、それがどれだけ自分達が生きるこの世界と『地続き』なのか考えるタイプの人間です。SFでも、ファンタジーでも、ライトノベルでもそうですが、設定がどれだけ荒唐無稽であっても、作者が現実を生きている以上、そこから生み出されるものは何らかの形で現実とリンクしています。時事問題を反映していたり、現実問題を風刺していたり、作者の願望が詰まっていたりと、形は様々ですが。

『ハーモニー』の予告を見て、シンジンさんが自分の考えや価値観に近いものを感じたのだとすれば、映画を観る事で、或いは原作を読む事で、自分の考えをより深める事が出来るかもしれません。自分の様な本読みにとって、それはとても『楽しい』事であり『興味深い』事でもあります。もしかすると、自分が全く思いもよらない視点や新しい価値観が、そこにはあるかもしれません。そして、そういうものと出会いたいが為に、自分は今日もまた新しい本に手を伸ばす訳です。

No title

はじめまして。
「オメラスから歩み去る人々」を読んでこの記事に辿り着いたのですが、自分と異なる意見を目にしたのでコメントさせて頂きます。少々批判的になってしまうかもしれないですが、まぁこういう意見もあるということでご容赦ください。

まず、黒犬さんは「オメラスから歩み去る人々」を現実の問題に置き換えているようですが、自分はそうは思えませんでした。社会が犠牲の上に成り立っているという事実は残念ながら擁護のしようがないのですが、オメラスと私たちの置かれている状況というのは少し異なる部分があるのではないかと。
オメラスでは一人の犠牲に対して誰かが手を差し伸べること、優しい言葉をかけることさえ禁止されています。なぜならその行為でオメラスの幸福は消え去ることになっているからなのですが、これが現実の社会と同じかと言われれば、自分はそうは思えません。犠牲に対して手を差し伸べること(言い換えれば犠牲を減らすこと)はもちろん禁止されていないですし、手を差し伸べる行為が不幸に必ずしも繋がるわけではありません。オメラスの人々とは違い、現実では実際に社会福祉や募金活動など、効果が出ているかは分かりませんが犠牲を減らす活動は行われています。私たちの社会が犠牲の上に成り立っていることは否定出来ないのですが、犠牲についての考え方というのはオメラスと私たちの社会の間に隔たりがあるのではないでしょうか。犠牲を減らそうと考えられる点において。

オメラスに住む人々というのは犠牲に対して、その存在を認知してはいるが何にもできない、困っている人がいても見て見ぬふりしか出来ない人間なのだと自分は考えます。「ブギーポップは笑わない」という作品があるのですが、その狂言回し・ブギーポップが泣いている浮浪者を無視する人たちに対してこう言うシーンがあります。
『君たちは、泣いている人を見ても何とも思わないのかね!』
弱者や犠牲は決してなくならないものですが、「歩み去る人々」のように見て見ぬふりが出来ない人間も確実にいるわけで、その時は黒犬さんの言うとおり「少しでも自分達の不実を詫び、その埋め合わせをして行く他無い」のでしょうね。

>ミヤシタさん

はじめまして。コメント、ありがとうございます。

『ブギーポップは笑わない』懐かしいですね。ブギーポップとエコーズが出会う件ですか。
上遠野浩平氏は自分が最も敬愛する作家の一人だと言えます。今でもシリーズは続いていて、自分も読み続けているのですが、今回コメントを頂いて、久しぶりに読み返してみました。すると、こんな台詞が目に留まりました。 

“「夢が見られない、未来を想えない、そんな世界はそれ自体で間違っている。でもそのことと戦うのは、残念ながらぼくではない。君や宮下藤花自身なんだ」”

ミヤシタさんが言う様に、自分達が住んでいるこの世界は、厳密に言えばオメラスとは違い、困っている人々や苦しみ悩む人々、貧しさに喘ぐ人々に手を差し伸べる事を禁じてはいません。自分達が享受している豊かさの影で誰かが犠牲を強いられているのなら、自分達はそれを是正する為に行動する事が出来ます。この世界のあり方が間違っていると思うのなら、その間違った世界と戦うのは、不気味な泡ではなく、自分達の役目なのでしょう。

長くなりますので、分割して書いてみます。

>ミヤシタさん

さて、自分は『オメラスから歩み去る人々』は寓話だと思っています。寓話はその寓意を人々に伝える為に、極端な世界観を持つものが少なくありません。『オメラスから歩み去る人々』であれば、街の繁栄の為にたった一人の子供に不幸を背負わせなければならない事や、その子供を助ける事が事実上禁じられている事等が当てはまります。それは一見すると理不尽にも思えるのですが、だからといって現実から乖離した荒唐無稽な話かというと、そうとばかりは言えない部分がある様に思えます。

ミヤシタさんは「オメラスに住む人々というのは犠牲に対して、その存在を認知してはいるが何にもできない、困っている人がいても見て見ぬふりしか出来ない人間なのだと自分は考えます。」と述べられました。耳が痛い話です。なぜ耳が痛いのかと言えば、自分にも心当たりがあるからです。

功利主義では、『最大多数の最大幸福』という事が説かれます。民主主義もまた、功利主義的な考え方を基本理念としています。問題は、どうしてもこの『最大多数』の中に入れない人間が出るという事です。オメラスで虐げられる子供の様に。自分達にはまだ『最大多数』を『全員』に変える事が出来ていません。むしろ「そんな事は不可能だ」と考える人が大勢を占めているでしょう。自分も含めて。

『最大多数の最大幸福』を目指す上で、少数派に属する人間が出てしまう事。その少数派の犠牲を前提に構築されているのが民主主義であり、だからこそ多数派は少数派の意見に耳を傾け、彼等の犠牲を最小限にする事が求められます。しかしながら、多数派は往々にして数という力によって少数派を踏み潰そうとします。その方が楽だからであり、その方がより自分達の利益を追求できるからです。こうした社会では、自分が主流派である間は容易く利益を得る事ができますが、逆に何らかの弾みで少数派や弱者の立場に置かれると浮かび上がる事が難しくなります。

何の事はない、今の日本の話であり、自分の話です。

現実に「困っている人」はいます。自分のすぐ隣にもいるでしょう。ですが自分が具体的にそういった人達の為に何かしたか、動いたか、働きかけたかと言えば、答えは否です。せいぜい何かの時に募金でもしたかな程度のものです。でも本当は、それではいけないのでしょう。不十分なのだと思います。なぜならこの世界は、相も変わらず弱者の存在を黙認する事で--黙殺する事で--成立しているからです。間違った世界と『戦う』という事は、そうした前提を壊して行かなければならないという事なのですから。

ふと思う事があります。『オメラスから歩み去る事を選んだ人々』は、オメラスとは違う世界を見付ける事が出来たのでしょうか。もしもそれがまだこの世に存在しないのなら、新しい社会を創る事が出来たのでしょうか。オメラスとは違う、弱者の犠牲を必要とはしない社会を。そしてそれは、この現実で見付ける事が、創る事が出来るものでしょうか。

“あなたは、何かを追い求めているのですね。だったら泣くのはそれを見つけてからにしなさい”

あの黒帽子なら、きっとそう言うのでしょうが。

No title

先ほどいろんな社会派(戦争)を描いた映画の予告編を観て落ち込んでいた時にSEKAI NO OWARIというバンドが作ったSOSという歌を動画サイトで聞いて泣きそうなりました(しんみり)

>シンジンさん

こんばんわ。
『SEKAI NO OWARI』といえば、昔レンタルショップで何かのついでに『EARTH』というアルバムを借りた事がありまして、その時にアルバムジャケットに書かれた『SEKAI NO OWARI』というバンド名の、虹色に色付けされた部分だけを読むと『NO WAR』になる事に気付いたのが記憶に残っています。

彼等の曲を聴いて、青臭さを感じるのは自分がオッサンになった証拠なのですが、その青臭さが嫌かというとそんな事はないです。アルバムジャケットに『NO WAR』というメッセージを入れる感性も含めて。

『SOS』、自分も聴いてみましたが、上のコメントで書いた様な内容とも若干重なる部分がある様に思います。

戦争というのは間違いなく人命を踏みにじるものです。戦地に行く兵士はもちろんですが、戦争では弱い者程犠牲を強いられます。今、戦災孤児や難民が大きな社会問題になっていますが、彼等の『SOS』にどう応えるのかは難しい問題です。

丁度最近のニュースで「シリアからの難民がドイツに押し寄せていて、受け入れるドイツの財政負担増が懸念される」と報じていました。救える命があるならば、全て救いたいと思うのが人情ですが、この世界はそれ程優しくなく、単純でもないのでしょう。ドイツで受け入れ可能な難民も無限ではなく、今後どこかでこれ以上の受け入れを断念せざるを得ない状況が訪れる筈です。その時に行き場を失った人々は、どこを目指せば良いのでしょうか。

世界中に、虐げられた人々の『SOS』の叫びが響きわたっているとして、国際社会の中では=自分達の中では、それも気が付かない内に『騒音』になってしまっているのかもしれません。それを『無感覚』や『静寂』だと歌う彼等の事を、現実を知らぬ理想主義者であるかの様にしたり顔で批判する感覚が『現実を見る』事であり『大人になる』事だと言うのであれば、若者にはそんな大人を蹴飛ばして行って欲しいものだと思います。自分はその時、蹴飛ばされる側の様な気もしますが。

オメラスについて

すばらしいお話? 文章です。同感です。補足させて頂くと、オメラスの子供は、死にたくないのに、涙も流されずに殺されて行く沢山の家畜類も表していると思います。
ただ、恐らく、ではなく、間違いなく。の一文は、違います。それが出来た人を、私は知ってます。そして私もそうなりたいと、心から思います。プラトンのポリティアを読まれたのですね?

>伊藤 千恵美さん

はじめまして。コメント頂き、ありがとうございます。

自分がこの『オメラスから歩み去る人々』の感想を書いたのは2010年ですから、もう5年も前になるのですね。自分でも驚く程昔の文章なのですが、2015年になってから多くのコメントを頂く様になりました。結果として、このブログでは一番大きな反響があった記事になりましたが、もちろんそれは、この作品が持っている魅力の為です。

本作には、それを読む者に様々な社会問題について考えさせるきっかけとなる要素が詰まっています。それは貧困問題や格差社会の問題であり、差別問題でもあります。また民主主義の抱える問題や、理想主義者に突き付けられる現実問題であると同時に、伊藤さんが仰る様に哲学の問題でもあります。

・・・・・・とか格好つけて言っておいて、一つ謝らなければならないのですが、プラトンの『ポリティア』を自分はちゃんと読んだ事がありません。ご期待に添えず申し訳ないです。相変わらず読書傾向が偏っているので、基本が抜けている事は多々あります。

さて、もう元々の感想よりも、コメントを頂く度に追記している文章の方が長い有様なのですが、新たにコメントを頂く度に、様々な考え方や、異なった切り口がある事に気付かされます。それが本作の奥深さでもあるのでしょう。

家畜を飼育する事、とりわけ肉食の為の畜産が是か非かという議論は難しいものです。
畜産が残酷だと言うのであれば、狩猟はどうでしょう。同じ事だと思われるかもしれませんが、畜産と食肉加工が消費者と切り離される事で、誰でも容易に肉食が行える様になり、もっと言えば、人は肉を食べ残す事に頓着しなくなりました。文字通り自ら手を汚す事をしなくなった為に、自分の食卓に供される肉の有り難さが分からなくなったのかもしれません。狩猟者は自分が狩った獲物にも、それを与えてくれる自然にも敬意を払うものです。そして畜産に携わる人々もまた、自分達の生活を支えてくれる家畜に対して愛情と敬意を持っています。それらを忘れたのはむしろただ肉を消費する自分達の側なのでしょう。

肉食といえば、捕鯨に反対する人々がいます。本当かどうかは知りませんが、オーストラリア人の94%が反捕鯨だという話もあります。しかしその一方で、オーストラリアといえばオージー・ビーフで有名な国ですし、増え過ぎたカンガルーを大量に狩猟してもいます。鯨の命は重く、牛には利用価値があり、増え過ぎたカンガルーの命は軽いのでしょうか。それもまた、腑に落ちない話です。

オメラスから去る人々がいる様に、また伊藤さんが知る、この暮らしを捨てる事が出来た人の様に、自分達が暮らすこの社会から出て、その外側からこの世界を眺める事が出来たなら、自分達の暮らしはどんな風に見えるのでしょうか。酷く滑稽に見えるのか、或いは愚かしく見えるのか。それでも自分はまだ、この世界で暮らして行くのだろうと思います。

No title

素晴らしいです😍 ちゃかしてる訳でなく、本当に嬉しいです。感謝してます。私なんかの文章に、あなた様からのお返事がいただけて😍😍😍 正直でとても好感の持てる方だと思いました。
鯨に関しては、釣りをする主人とよく口論しました。牛は、そのままほっておいたら、狼に食べられるけど、世話をする人間がいるから、2年間生きられる。
鯨は人間に世話をしてもらってないし、今の日本人は、そもそも鯨を食べ残している。
だから、罪もなく、人間に負い目もない鯨に、人間に殺されてもいい正当な理由は、ないよ!
必要もない鯨の殺人が、世界の誰かの良心を傷つけるのであれば、隣人愛からの見地から、鯨取りの職業を辞める勇気も持てるはずだとね。
主人からは、「馬鹿とは話さない😡」と、言われました😓

>伊藤 千恵美さん

こんばんわ。

ご主人は釣りをされるのですね。もしかすると、釣った魚を自ら捌いて食べたりもするのでしょうか。
これは自分の経験則ですが、農業にしろ畜産にしろ、実際に『命』に触れて仕事をしている方や、狩猟や釣り等を通して『命をいただく』事の意味を知っている方は、皆さんとても誠実ですし、「食べ物を粗末にしない」という事を、頭で理解する道徳ではなく、皮膚感覚として身に付け、当然の事として生きていらっしゃる方が多い様に思います。自分はそんな人達を尊敬します。

以前このブログで佐川光晴氏の『牛を屠る』という本の感想を書いた事があります。これはノンフィクションで、牛を解体する食肉加工場で働いていた筆者が、その体験を書いたものですが、こうした方がいればこそ自分達は肉を食べる事が出来る訳で、食べ物を粗末にしない事は、肉となって食卓に上る動物だけでなく、畜産関係者の方々や、食肉加工に携わる方々への礼儀でもある様に思います。

さて、こんな事を書くと怒られてしまいそうですが、実は最近、鯨肉を食べる機会がありました。「若い人は鯨を食べた事など無いだろうから」という理由で、年配の方と同席した宴席で鯨ベーコンを食べさせて頂いたのです。まあ自分ももう正直「若い人」ではなく中年なのですが、学校給食で鯨肉を食べていた記憶は確かにありません。自分の住んでいる地域だと、今は一部の居酒屋や、回転寿司のメニューで鯨ベーコンを見かける位でしょうか。

自分の父親の世代だと、鯨肉といえば「小さい頃に食べさせられた」という記憶が強いらしく、牛でも豚でも鳥でも好きに食べられるこのご時世に、好き好んで食べたいものでもないという事らしいのですが、一方では捕鯨禁止により、かつての日本が持っていた捕鯨の歴史によって培われた文化が途絶えてしまう事を危惧する方もいます。どちらの主張が正しいか決める事は自分には難しいのですが、食糧難の時代が去った今、商業捕鯨にどの程度の需要があるのかと言えば、それは僅かなものに留まるのかもしれませんね。

捕鯨反対の声に反して、日本が調査捕鯨を続けるべきか否か。続けるとして捕獲頭数は妥当なのかどうか。逆に、一部の反捕鯨団体の様に実力行使で調査捕鯨を妨害する事に正当性はあるのか。感情論や口論ではなく、冷静な話し合いで解決する道筋は無いのか。それらについてもう一度考えてみる事が必要なのかもしれません。

No title

やっぱり、思ったとおりの素晴らしい人で、全て、正直少し足りない(でも、文章が長くなりますからね…)けど、私が想像した通りのコメントを頂きました😳。
今、接触を図ってますが、ジョーバイデンさんの返信よりも、貴方の返信?は、有り難くうれしいです💃
クジラヲコロサナイデは、他にも意味があって、ヤバいんですよ。鯨食は…
大体、血抜き出来ないでしょ?
聖書に書かれているように、血は避けた方がいいんです。
私の尊敬する人(あなたもですよ)辻野さんは、鯨ベーコンのせいで、今調子悪いんですから!
長年、鯨漁をして来たおじいさんが、原因不明の病に苦しんでいる映像を、1年ぐらい前だったかな…TVで見ました。
私は、鯨のたたり😜…と、呼んでますけど。

No title

この世、でなくセカイ ノ オワリ あれは、神がかった、いい曲ですね。私には死んでも書けません あんな曲…
あれはきっと、イスラム国のリーダーの為に書かれた曲ですよ。今の腐った日本にも、こういう感覚を持った人間がいるって事を彼なりに発信しているのでは…?
上手く12月18日に、東京に北朝鮮からミサイルが落とされなかったとしても、12月23,24,25日が、次の候補になります。
それでも無事だったら、来年の、1月1日を含む一月… その後は、3年後の2018年。
セカオワは、紅白に出場が決まったそうですが、ボーカルの方は、私同様、恥ずかしがりやさんだそうですから、上手くトチらないで、歌い終えて欲しいですね🙏 

なんせ日本の、命運がかかってますからね💦

ところで、このサイト?ですが、私はパソコンが出来ないので、いつもオメラスのGoogle検索から入城?しているのですが、ちょっと面倒で、もっとスマートに入る方法は、ないのでしょうか? お分かりになりましたら、お手数ですが教えて頂けたら幸いです😁💦



No title

あ、今偶然に思い付いて、触ったら出来ました😆
ブックマークですね💕

良かった。お騒がせスイマセン😝

>伊藤 千恵美さん

こんばんわ。

この平和な日本に住んでいても、戦争について考える事は多々あります。
ニュースを見ればイスラム国(NHKの呼称に従えば『過激派組織IS(イスラミックステート)』、アメリカ政府の呼び方に従えば『ISIL』)の台頭や、混迷を極めるシリア情勢と難民についての情報が入って来ますし、日本人を拉致している北朝鮮は言うに及ばず、隣国である中国や韓国との関係も、歴史認識の問題や領土問題等が入り混じり、決して良好とは言えません。

なぜ人は憎しみ合い、時に武力によって問題を解決しようとしてしまうのか。

こう書くと哲学や宗教の問題の様ですが、単純に考えれば人は誰しも程度の差こそあれ自分本位なのだろうと思います。かく言う自分にしても例外ではありません。

例えばシリア難民のニュースを見て、「かわいそうだ」と思う自分がいます。
戦火によって国を追われ、住む場所も家財も全てを失い、仕事もなく、身ひとつで命からがら国境を越えて来る難民達。彼等が命の危険を感じずに暮らす事が出来る様になる事を望まない人はいないでしょう。ですが、ここで問題が生じます。「誰が彼等を養うのか」という現実問題です。

日本は島国ですから、難民が徒歩で国境を越えて殺到するという状況にみまわれる事はまずあり得ないのですが、もし仮に朝鮮半島と日本列島が地続きだったと仮定して、体制が崩壊した北朝鮮から難民が大量に押し寄せたら、と考えると、今のドイツが置かれている状況の厳しさが想像できるのではないでしょうか。

難民達に与える生活保障は、当然タダではありません。そこには一般の国民が収めた税金が投じられる事になります。難民が大挙して押し寄せれば当然社会保障費は膨れ上がり、自分達の生活を圧迫する様になる訳です。

人道上の見地からすれば、そして心情的にも、本来は難民全てを助けてあげたいところです。しかし、現実にそれが可能かというと財源には限りがありますし、「難民を救う為に自国民の負担が増加するのならば、むしろ彼等難民を排斥すべきではないか。安全保障上も、その方が望ましい」という考え方も当然出て来ます。そうした状況で、全ての人が「自分達が犠牲を強いられる結果になったとしても、彼等難民を救うべきだ」という結論に達する事が出来るかといえば、それは難しい事です。今回のフランスの地方選挙でも極右政党が躍進しましたが、これもある意味正直な民意の反映と言えるかもしれません。

個人にとって世界は広大ですが、様々なエゴを持った人間全てが憎しみ合う事無く、衝突せずに暮らす為の場所としては狭過ぎるのかもしれませんね。

No title

読ませて頂きました。また、嬉しくなりました。
え~っと私は今度、小動物管理センターに、一億円を寄付する事になりました。
辻野芳孝さんと、私の弁護士 小島先生には、事前に話してあります😌
どういう目的に、使われるお金かと言えば、犬や猫の安楽死です。
黒犬さんが、おっしゃったとおり、全ての難民でなく、全ての不要になった犬や猫を救う事は、出来ません。
それでも、私達が文明人だと言うのなら、せめて幸せに殺してあげたいじゃありませんか?
私の希望は、死の一週間前まで、暖かい寝床と散歩と食事と愛情を注いで、本人?達が気づかないうちに、安らかにあの世に送り出してあげる事です。
私が与える金額だけでは、足りない事ぐらいわかります。
でも、このことを日本の金沢から発信して、世界の人たちの意識に一石を投じられればと思います。
私は幼少時、虐待を受けていたので、小学校1,2年の頃から、大人になったら、絶対私は、自分の子供を作らないと決めてました。
この世で一番嫌いな言葉が、母性愛
母性愛って、結局自己愛の事でしょ?人の子供は死んでも平気だけど、自分の子は死んだらイヤなのよねぇ~
子供が好きなら、親を失ったよその子を育てたらいいじゃない! その方が地球に、優しいよね。
みんな、大したDNAも持ってないくせに、なんで自分の子だけを残そうとするの?
もう地球は、人間なんか要らないって言ってます。70億は、すぐに140億になります。
聖書にも書いてありますよ。
妊娠してる女と乳飲み子に乳を与えてる女は、災いである。…と
マタイ24章18節だったかな?

話戻って、寄付した私は、お金がなくなりますので、トイレの掃除婦をします。まだ生きてる2匹の元ノラ猫と自分自身を食べさせなくては、なりませんから。
でも、したいことが出来て、とってもハッピーです😆
あ、でもまだ主人は生きてますから、財産は入って来てません😝

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黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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