たった一つの命を抱えて・滝川廉治『テルミー きみがやろうとしている事は』

“この物語には、二十六人の高校生の男女が登場する。
 当然のようにこの物語は、二十六人の死と青春を描くものになる。

 そしてこの物語は、必ずハッピーエンドを迎える。
 なぜなら、この物語は始まりの時点が最も悲惨で、最も間違った状況だからだ。
 彼らのうち二十四人は、物語の始まりと同時に死亡している。”

 こんな書き出しから、この物語は始まる。それは綺麗な嘘と過酷な現実を混ぜ合わせた様な、形容し難い色をしている。

 修学旅行のバスが土砂崩れに巻き込まれ、24人の生徒が亡くなった。クラスで生き残ったのは、ある事情から修学旅行に参加出来なかった少年、灰吹清隆と、バスに乗っていた生徒の中でたった一人奇跡的に生き残った少女、鬼塚輝美だけだった。
 悲劇から始まるこの物語が、作者が言う通りハッピーエンドを迎える事が出来るのかどうか。正直なところ、読み終えた自分にも分からない。

 よく、『亡くなった人の分まで生きる』という様な言葉を耳にする。今日という日を生きたくても生きられなかった人がいる。だからこそ、今日を生きる自分達は、亡くなった人の分まで懸命に生きるべきだ、という様な意味合いがそこにはあるのだろう。綺麗な言葉だし、ある意味では素晴らしい考え方かもしれない。でも、自分は心底思うのだ。


 『そんな事が、出来てたまるか』


 自分の胸に手を当ててみるといい。当然、誰にだって大事な人がいる。その大切な誰かと死別した経験がある人もいる筈だ。けれど本当の意味で、その誰かの分まで生きられる人間など居はしない。自分自身の意志として、その大切な誰かの分まで生きるんだと決意するのならまだいい。他人が、お前は亡くなった誰かの分まで生きろという時、その言葉の裏側にどんな残酷さが横たわっているか、考えた事はあるのか。その言葉は励ましではない。その言葉は優しさではない。

 人間は皆自分自身が生きる事だけで手一杯だ。自分という身体には、自分という心には、自分自身の置き場所しか無い。そう思うのは、自分が心の狭い人間だからなのかもしれないが、それでも自分は誰かの分まで生きるという言葉を信じる事は出来ない。

 何故なら、もしも本当にそんな事が出来るのなら、この自分こそそうして生きて行きたかったからだ。

 かつて、大切な人がいた。その人は死んで、もうこの世にはいない。その不在という空白を感じながら、自分は今日まで生きて来たし、これからも生きて行くしかない。
 その人の存在を、どんなに大事に心に仕舞って生きて行こうとしても、記憶は風化して行った。この自分の出来の悪い頭は、どうでもいい事ばかり覚えているくせに一番忘れたくなかった記憶を守る事が出来なかった。そんな自分は、とてもその人の分まで生きるだなんていう言葉を口に出来る立場ではない。自分の分を生きる事もろくに出来ないで、大事な記憶も守れないで、そんな尊い約束をする事は出来ない。

 けれどこの物語は、物語であるが故にその不可能を可能にしてしまう。

 誰かの分まで生きるという事。自分の命だけではなく、亡くなった者の遺志を背負って生きるという事。現実には不可能な事を、物語は容易く叶えてみせる。この上なく悪く言えば、物語とは全て絵空事だからだ。そこでは死者の魂が生者に語りかける事も出来るだろうし、生者が死者に思いを伝える事も出来るのだろう。
 でもそこに、救いはあるのだろうか。作者が言う様なハッピーエンドはあり得るのだろうか。

 結局自分は、その綺麗な嘘で出来た物語を信じる事が出来ないでいる。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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