正義は助けを求めている・上遠野浩平『ヴァルプルギスの後悔 Fire3.』

 上遠野浩平という作家を知る者にとって、そして彼が生み出した霧間凪という登場人物を知る者にとっては今更語るまでもない事だが、これは『正義の味方』の物語だ。

 子供の頃、自分は霧間凪程ではないにしろ、正義の味方という奴に憧れていた。そしてそんな子供時代を誰もが通り過ぎて来たのだろうと思う。でも自分は、自分達は、結果としてそうなる事を諦めてしまった。
 単にそうなるだけの力が無かったのだと言い切ってしまう事も出来るだろうし、意志が弱いせいだったのかもしれない。或いは周囲の状況に流される方が楽だと割り切ったのかもしれない。でも自分はこう思う。自分には、味方をすべき正義という奴が何なのかわからなくなったのだと。

 正義の味方をするには、当然正義とは何なのかを知らなくてはならない。でも成長して行く過程で、小さい頃なら無条件に信じる事が出来た筈の正義は次第に捕らえ所のないものに変化してしまう。
 例えば正義という奴は便利で綺麗な言葉だから、自分の正しさを表明したい連中はこぞって正義を唱える。結果として世界の戦争という戦争、紛争という紛争は全て正義対正義の戦いとなる。誰もが自分が正義だと思っていて、二つの正義が潰し合った結果として勝った方が本当の正義なんだとか、身も蓋もない事がまかり通っている。

 そうなると、結局正義という奴はそれを必要としている連中が自称しているだけのものなのかという事になるし、自分の立場が変われば信じる正義も変わるのかという事にもなる。勝った方が正義だというのなら、力がある奴が定めた事が正義という事で、弱者はそれを受け入れるしかないのかという問題もある。

 正義の味方は悪と戦う以前に、絶えず「正義って何なんだよ」という疑問と戦い続ける事を強いられる。だからその疑問に疲れ果てた自分達は正義の味方になる事を次第に諦めて行く。

 でも、正義という奴は本当にそんなつまらないものでしかないのだろうか。

 立場が変わる。時代が変わる。価値観が変わる。その度に変わる正義というものも確かにある。けれど一方で自分達は、そんなものじゃない『本当の正義』というものを信じたいと願っているのではないか。それが何に対して『本当』の正義かと言えば、きっと自分達は子供の頃にもうその答えを知っていて、忘れたふりをしているだけなんじゃないかという気がするのだ。自分は。

 自分達は正義を信じたい。だから世の中にはこんなにも『正義の味方』達の物語が溢れている。そもそも彼らは何故正義の『味方』なのかと言えば、それはきっと彼等が信じる正義こそが、彼等の助けを必要としているからだ。

 正義は少し気を抜くと、誰かに利用されてしまう。そして実態のない陳腐な言葉になってしまう。声の大きな奴が「俺が正義だ」と言えば、それがまかり通る事もある。更に自分達は互いに正義を掲げて潰し合って、結局は犠牲を積み上げただけなんていう愚かな事を平気でやるし、そうして多大な犠牲の上に掴んだ筈の正義を、今度は時代の流れだとか言って安易に投げ捨てたりもする。

 正義の味方は強くても、正義それ自体はこんなにも脆く、弱い。

 だから、愚かな自分達のせいで正義が危機に陥る時、正義の味方が現れて「おいおい、お前はもっと尊いものの筈だぜ」と体を張って助けに入るのだろう。貶められた正義の価値を、尊厳を、救ってみせる為に。正義とは何かという問いを、正義は確かにここにあるのだという意地で跳ね除け、自らの行動でもう一度確固たる正義の姿を体現してみせる為に。

 そんな意地を張り続ける事を、そうやって生き続ける事を選ぶ者を、自分達は正義の味方と呼んでいるのだろう。そしてその不器用な生き様を眩しく思いながら、正義の味方になれなかった凡人である自分はどこに行くのか。どんな正義を胸に生きて行こうとしているのか。そんなに簡単に答えが出せたら誰も苦労しないだろうが、ただ一つ確かな事は、まだまだ歩き続けるという事だ。その先に答えはないとしても。

 

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