正しい余生と、間違った人生と・浅生楽『ミネルヴァと智慧の樹 始原』

“二十歳を過ぎた余生。
 それは、実にイカした言葉だった。”

“あれこれ考えるな。できることに専念しろ。
 不透明な社会、自己責任、自己実現。自分は何のために生まれ、どう生きていくべきか――いわゆる思春期のありきたりな悩みに少しずつ侵されつつあった俺には、まさに発想のコペルニクス的展開だった。”

 『二十歳を過ぎた余生』
 冒頭のこの言葉が、この作品を貫いている様な気がする。

 もちろん、他に語るべき部分はある。ゲーテの『ファウスト』から着想を得た物語や、その物語の中で活躍する個性的な登場人物達。また主人公の大学生・森本慧と、彼が出会う謎めいたヒロイン、天乃理との関係。しかしそれら数多くの魅力を差し置いて、自分が一番拘ってしまうのはやはりこの『二十歳を過ぎた余生』という言葉だ。

 それは慧の一年先輩である『師匠』が高校三年生の時に、慧に語った言葉だった。彼はそれまでの自分の生き方を捨てる様にして、社会に適応し、無駄なく、効率よく成果を得る為の生き方を選ぼうとする。彼の言葉を借りればそれは“これからは省エネでいかねえとな”という事であり“『夢』なんてもんは二十世紀の遺物なんだよ”という事になる。
 そこそこ名前の通った大学に入り、卒業後は公務員になって頑張り過ぎない程度に仕事をこなしつつ程々の報酬を得て、自分の快適な生活を守る事。それ以外の余計な事はしない。無駄な努力はしない。例えば潰しのきかない学問に入れ込む等は人生の無駄でしかないから止める。何かを学ぶ基準は将来の自分の仕事の為に使えるか使えないかであって、それ以外に無い。
 そうした処世術を身に付け、その中で社会と向き合う事。それが『二十歳を過ぎた余生』を生きる上で師匠が重視した事だった。それは言ってみればこの社会に対する一種の『攻略法』の様なものなのかもしれない。
 世の中のシステムはこの様になっている。だからそのシステムとルールに沿って生きるならば、成果を上げる上で最も効率の良いルートが存在する筈だ。そう考える事は不自然な事ではない。

 しかしどうだろう。現実を生きる自分からすると、そこには頷ける部分も確かにあるが、そうやってひたすら自分を社会に適応させる生き方に、何か『引っかかり』の様なものを感じてしまう事もまた事実だ。

 効率の良い生き方。失敗のない生き方。今までの人生を振り返っても成功例より反省点の方が遥かに多い自分からすると、それは確かにそうするべきなのだろう。見習うべきなのかもしれない。でも同時に、間違いだらけで効率の悪い、曲がりくねった自分の生き方を大事に思う自分もまた、ここにいる。そしてこれも攻略法に照らせば間違った考え方なのかもしれないが、今の社会の中で正しいとされている事が本当に正しいのか、自分は疑ってしまう。社会のルールを盲目的に信じるという事が出来ない。

 例えば自分は、効率が悪いと思いつつもこんな事を考えてしまう。
 懸命に空気を読んで周囲に合わせる事を求められる中で、でも誰もが受け身になって空気を読んでいるのだとすれば、その大本の空気を最初に作っている奴は誰なのだろう。もしかするとそれは『一応今はそういう事になっているから』という暗黙の了解が独り歩きしているだけの事なのかもしれない。確固たるものだ、乱してはならないものだと思われている『空気』が実態としてその様に曖昧なものだとすれば、それを読む事に必死な自分達は一体何をやっているのか。そして社会のルールというものもまた然り。今この時に正解とされているものが、これから先も正解であり続けるとは限らない。そこに自分自身を預けて生きて行く事は、本当に正解であり、間違いがない事であり、幸福を得る上で正しい生き方だと言えるのか。
 面倒な奴だと思われるだろうが、自分も人間という奴は実に面倒に出来ているものだと思うよ、と人間全般に責任転嫁しておく。

 さて、この物語で『二十歳を過ぎた余生』という師匠の言葉に耳を傾けて生きて来た慧は、理や他の登場人物達と出会う事でまた違った生き方を選ぶ事になるのだが、彼の生き方と師匠の生き方のどちらが正しいかという答え合わせに意味はないのだろう。自分の人生がこれで良かったか、最終的に決めるのは社会の誰かではなく自分自身だ。ならば現実を生きる自分は、この間違いだらけで効率が悪く、曲がりくねった自分の人生を、それでも是として生きて行ける様に歩いて行くしかない。それこそが小器用に生きる事が出来ない凡人の矜持という奴だ。

 効率よく正解を選び取る生き方が出来ないのなら、正しい余生を生きられないのなら、間違った人生を生きている事を誇れ。それが現時点での、自分の回答なのかもしれない。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon