感想ではなく、告白として・河野裕『サクラダリセット3』

 河野裕氏が描き出すこの物語も3冊目に入った。1、2巻目の感想はこちらこちらに。

 さて、自分はシリーズ物の作品を読む時に、少し心配になる事がある。特に漫画の場合に顕著なのだけれど、その作品を初期から好きであれば好きであっただけ、続編が出る度に変わって行く内容を楽しめなくなってしまう事があるのだ。

 ここでどの作品とは言わないけれど、漫画や小説が連載され続けると、それが長期になればなる程その作品が初期に持っていた雰囲気が変わって行ってしまう可能性が高くなる。そうすると「ああ、この作品好きだったんだけど、最近何か違うよな」という風に、それまでは確かに好きだった筈の物語と自分との間に溝が生まれてしまう事がある。それは作品や作者の責任というよりも、受け手である自分の問題なのかもしれないけれどね。
 という訳で、自分は好きな作品が出来ると続きが待ち遠しい反面、不安にもなる。今度の作品を自分はまた純粋に楽しむ事が出来るだろうかと。

 しかし、事そういった意味において、この『サクラダリセット』は自分にとって完璧な作品だ。巻数を重ねる毎に更にこの物語が、そして登場人物達が好きになって行く。何故河野裕氏は毎回こんな透明感のある小説を書く事が出来るのだろうかという程に。

 「その作品が」でもいいし「その人が」でも同じだけれど、『好きだ』というレベルが一定量を超えると、そのものについて何か書こうと思ってもそれは『感想』というレベルでは追い付かない部分がある。だから多分この文章も感想ではなくて、自分がこの作品を好きだという事の『告白』になるのだろう。それは恋愛感情の告白や信仰告白に近い。

 感想という文章にはまだ対象との間に距離がある。告白というものはもっと切実に、自分の感情から湧き出すものを唇から、或いは文章を記す指先から溢れさせるものだ。だから整った文章にはならないし、もっと言えば第三者から見て見苦しいものになる事もある。それならいっそ書かなければ良いのだけれど、告白というものは堰を切って溢れ出すものだから、自制するという事が出来ない。難儀な話だね。そして更に難儀な事に、好きという事の理由はそもそも理屈では無かったりもする。

 それでも敢えてその理由を明確にしようとするのなら、恐らく自分はこの作品が持っている『空気』に捕らえられたのだ。それは『空気を読め』とか言われる時のあの薄気味の悪い空気ではなく、登場人物達や物語が織り成すものとしての空気だ。それは透明で、でも本当の意味で透明にはなりきれずに、自分にとって大切な何かを溶かし込んだような色をしている。けれどもそれは決して淡い色ではない。淡い、という言葉で表されるような曖昧さや優しさとは遠い、確固たる色。決意の色であり、強い意志の色だ。その色を表現する言葉を、自分はもう持たないけれどね。

 自分は、大人になった。なりたくてなった訳ではないにしろ、自分の心の中にわだかまる気持ちが残っているにしろ、世間から見れば大人だとみなされる様になった。なってしまった。そして大人になったその過程で、それ相応のものを得るとともに一方では失って来た。その失った中の一つが、この作品を表す色だったのではないだろうか。

 この物語では、世界が悲しいものだと知る少年少女が、それでもその前提を許さずに、受け入れずに生きようとしている。受け入れてしまった方が、諦めてしまった方が楽だと知りつつも、彼等は自分自身が折れてしまう事を許さない。それは自分には遂に貫き通す事が出来なかった生き方だ。仕方がない事を、仕方がない悲しさを、全て避けられない事として、変えられない事として、仕方がない事として受け入れ、飲み込み、社会という枠組みの中で生きる事を選択した、この自分には。

 だからだろう。きっと自分はこの作品に惹かれ続ける。彼等の透き通る様に透明な、けれど透明にはなりきれない意思の色に、惹かれ続ける。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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