コーランを燃やす牧師と中国の対日感情

 思えば今月は各国とも外交問題に明け暮れた様に思う。

 アメリカでは何時の間にか反テロリストが反イスラムになってしまったらしく、イスラム教の聖典であるコーランを燃やす、燃やさないの話で大騒ぎだった。結局最初に燃やすぞと騒いでいた教会が焚書を見送った一方で、別の教会が焚書に踏み切ったりもして、それに対する抗議も相次いだ。冷静な対応を求めていたオバマ大統領以下政府関係者は面目を潰された形だ。更には9.11の象徴であるグラウンドゼロ周辺にモスクの建設計画が持ち上がっていた事とも重なり、米国民の反イスラム感情が沸騰している。
 『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』の話ではないが、ある日突然に人種や信教の違いによってテロリストと同一視される事になったとしたら、その苦痛は筆舌に尽くし難いものがあるだろう。そればかりか、今度はアフガニスタンに駐留する米兵が民間人を故意に殺害していた可能性まで浮上している。ニュースソースは下記。

 AFPBB News『アフガン駐留米兵に民間人殺害容疑、遺体の骨を所持』
 
 この事態に、日本人は割と暢気なもので、ネット上では『これだから一神教は寛容さが無くていけない』なんてうそぶいたりしている人がいるらしい。何となく海の向こうの他人事といった感覚でいるのだろうけれど、そうこうしている間に日本もその海の向こうの国である中国、台湾との間で尖閣諸島の問題が持ち上がった訳だ。
 中国の温家宝首相は中国漁船船長の無条件釈放を要求しているが、今回の問題にしろアメリカが抱え込んでいる問題にしろ、こうした問題の根本にあるのはどれも同じで、突き詰めればそれは他者に対する不寛容だ。

 他者に対する不寛容というものは、『自分と相手は違う』という自意識と、両者の差異に対して『自分こそが正しく、相手が間違っているのだ』という根拠の無い自信を抱く所から始まる。
 人種、性別、信教、国籍、何でもいいが、自分達が他者を仲間だと判断したり、敵だと排除したりする時の基準は、自分が信じる枠組みの中で、相手との共通項を見付けたり、逆に差異を感じたりする事によって成り立つ。その些細な、しかし両者間では決定的な差異が、人間同士が対立する時の軸であり、差別意識の核ともなる。

 国と国との問題であってもそれは同じ事で、利害の対立や過去の歴史等様々な理由は付けられるとしても、突き詰めれば『俺達はお前達とは違う』とか『俺達はお前達の事が嫌いだ』とか、その程度のシンプルな国民感情にまで遡る事が出来る。実際今回中国が見せている強硬な姿勢を後押ししているのは一般の中国国民が抱いている反日感情だ。中国政府としてもここで対応の甘さを指摘される様な事になれば国民の批判の矛先が今度は自分達の方に向く事がわかっているから、より強硬な姿勢に出ている訳だ。

 こうなってくると最早この問題に関して『客観的に見てどちらに正当性があるか』なんていう事は問題解決の役に立たない。結局原因は目の前の相手が気に食わないという『感情』の部分に起因しているからだ。そして当然の事ながら、相手に悪感情を持たれている事を知りつつ、こちら側だけが好意的である事は難しい。そうなればますます両国間の関係が悪化する事は確実だが、そこまでわかっていても問題が解決出来ないのは、やはりそれが感情の問題だからだ。

 『お前が嫌いだ』という個人の感情が積み重なって『お前達が嫌いだ』という不特定多数に対する悪感情になる。それはやがて『○○人が嫌いだ』という大きな差別に成長する。実際に今回の問題では中国の日本人学校にレンガが投げ込まれたりもしているが、それは別に国家や政府が主導している訳でも何でもなく、一般市民の中から発生している事だ。歴史教育等の問題はあるとしてもね。自分達はそこだけは忘れないようにしておく必要がある。自分達の中にそうした差別意識に繋がる感情が確かにあるという事を自覚しておかないと、無自覚に同じ事をする可能性がある訳だから。

 アメリカで牧師がコーランを燃やすぞと言った時、大半の日本人は何でそんな事を、と思っただろうけれど、立場が変われば自分達だって似た様な差別意識を持って相手に接する事に躊躇しない訳で、これらの問題がこの9月に集中して起こった事は何か象徴的だった。そしてどちらの問題も、まだ出口は見えない。

テーマ : 時事
ジャンル : 政治・経済

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