正しさを懐疑するという事・『タクティクスオウガ 運命の輪』

 ……買ってしまった。やっている暇なんて無いのに。というわけで、今30代前半の自分と同世代のゲーマーならばスルーする事は不可能であろうPSP用ソフト『タクティクスオウガ 運命の輪』について。ちなみに、やる時間が無くて全然進んでいない。比喩ではなく本当の意味で寝食を忘れてゲームに没頭出来たあの頃が懐かしい。

 プレイしての感想や、オリジナルからどう変化したかといった事等はここで書くまでもなく他でいくらでも語られているだろうから、興味がある方はそれらを参照して頂くとして、ここではストーリーについてネタバレの無い範囲で語ってみたい。オリジナルが出てから何年も経っているし、もうネタバレも何も無いだろうと思われるだろうけれど、自分としてはむしろ「タクティクスオウガってやった事無いんだけど」という若い人にこそ遊んでみて欲しいソフトでもあるので、核心部分についての言及は避けたい。

 さて、自分は和製RPGも好きで、そこそこ遊んでいる。それこそ学生時代はドラクエシリーズとか、FFシリーズとかをプレイしていたし、近年だとテイルズシリーズ等も結構やっている。そうすると思うのだけれど、そうした数々のRPGと、タクティクスオウガのストーリーが一線を画すのは、『主人公達の正しさ』というものに対する懐疑があるか無いかという部分なのではないだろうか。

 例えば『世界の危機を救う』というストーリーは、所謂大作和製RPGの基本とも言うべきもので、何度も繰り返し用いられている。その話の過程や登場人物達のキャラクター性、世界設定等は各々個性があるにしても、こうしたシナリオでは主人公達の正しさは既に『彼等が主人公である』というだけで保証されている気がする。登場人物達は最終的には敵を倒す事によって一つの世界を救ってみせる訳だが、その過程で彼等が思い悩み、選択して行った数々の行為は、最後には必ず肯定される様に出来ている。

 こうしたストーリーが好まれるのは、何よりもそれがプレイヤーにとって心地良い満足感、達成感を与えるものだからだろう。自分の行為を否定されるよりも肯定される方が気分は良いものだし、疎まれるよりは感謝される方が心地良い。しかし、タクティクスオウガが数々のゲーマーの記憶に残る作品となった理由は、恐らくその居心地の良さや、普通なら主人公達が無条件に獲得している『正しさ』というものを徹底的に懐疑して行った事、プレイヤーが求める居心地の良さをあえて与えなかった事にある。

 タクティクスオウガは戦争を描いている。それぞれの勢力が互いに自らの正しさを掲げて殺し合うのが戦争であり、そこには現実の戦争と同じ様に民族的対立が存在する。主人公であるデニムはウォルスタ人の立場から戦いに身を投じる事になるが、彼がウォルスタ人の為に戦うという事は敵対するガルガスタン人やバクラム人からすれば同胞を殺される事に他ならない。そしてまた、その戦い自体も決して綺麗なものではなく、彼は時として自らの手を汚す選択をする事になる。民族対立や非戦闘員への虐殺行為、収容所での強制労働や捕虜に対する拷問といった、現実に存在する重いテーマにも踏み込みつつ、本作は人の行いの正しさというものを徹底的に懐疑して行く。

 正しさとは何か。そして自らが信じる正しさの根拠とは何処にあり、仮にそれが失われた時、人は再び何を信じ、どの様に生きて行こうとするのか。更に人は、その信じる正しさの為に誰を、何を、どこまで犠牲にする事が出来るのか。それは許される事なのか。

 本作はそれら数々の命題に対する答えを用意するものではない。むしろただ執拗に答えの出ない問いをプレイヤーに投げかける様な、そんな作品だ。だから中には本作をプレイする事で一種の居心地の悪さや後味の悪さを感じる人もいるかもしれない。その可能性を否定しない。ただそのストイックなストーリーとゲーム性が、本作に他のRPGにはない重厚さを与え、長く記憶に残る名作としての魅力を与えてもいる。

 『運命の輪』として再構築された本作が、かつてこの物語に向き合った自分に今度はどの様な問いを突き付けるのか。それは恐ろしくもあり、楽しみでもある。
 
 

テーマ : タクティクスオウガ(PSP)
ジャンル : ゲーム

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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