『いつか』来る戦争の為に

 『汝、平和を欲するならば戦争に備えよ(Si Vis Pacem, Para Bellum)』と説いたのはローマ帝国の軍事学者、ウェゲティウスだったという。いや、自分も今ネット検索して得た知識だけれどね。言葉だけは前から知っていたけれど。
 さて、何を言わんとしてこんな書き出しをしたかといえば、それはもちろん今日のこのニュースについて語る為だ。

 YOMIURI ONLINE『韓国軍兵士1人が死亡、民間人も死傷…北砲撃』

 平和主義の国に住む自分達は、様々な教育の場で戦争や平和について教えられて来た。そして平和というものの価値や、戦争の悲惨さについて知り、平和を維持して行く事の重大さについて学んだ。その筈だった。しかし自分が思うに、自分達は戦争と平和について今日まで真剣に考えて来た様でいて、本当は思考停止していただけだったのではないか。

 戦争という問題は確かに自分達の目の前に存在する。しかしその事を自分達はどれだけ現実問題として考えて来ただろう。例えば今回の様な衝突を発端とするであろう『朝鮮半島有事』は以前からその可能性が指摘され続けて来た。でも、その『いつか』は棚上げされていて、実際にその時が来るまでは自分達は真剣に有事について考えるという事をしていなかった様に思う。

 いつか、戦争は起こり得る。
 いつか、化石燃料は枯渇する。
 いつか、巨大災害が来る。
 いつか、自分は死ぬ。

 人が『いつか』という時、その『いつか』とは具体的な期日を意味しない事が多い。今ではないいつか、今日ではない将来、でも確実に起こり得るだろう事を話す時、自分達は『いつか』という便利な言葉を使って想定し得ない将来について言及する。そうして自分達が抱えている現在進行形の問題を、今現在の時間軸から切り離して客観視してしまう。物事について客観的な視点を持つ事は大事だが、同時に何か他人事の様な空気がそこにはある。

 例えば『いつか』自分は死ぬ。確実に死ぬ。死なない者はいない。死は不可避であり、変更の余地は無い。しかし同時に自分はその期日を漠然とした『いつか』とする事で、それはまだ先の事だとして毎日を生きている。自分が明日も明後日も平穏無事に生きていられる保証などどこにも存在しないのに、無意識にその『いつか』死ぬ日の事を先送りし、棚上げしている。

 自分一人がいつ死ぬかという心構えの問題ならばまだいい。問題は、国民の生命財産を守るべき国家というものが現実問題として備えておくべき有事に関して、この国がその可能性を先送りし、問題を棚上げして来たという事だ。今回の戦闘はもしかすると想定されていた朝鮮半島有事、言い換えれば戦争に繋がるのかもしれない。であるにも関わらず、少なくともこの文章を書いている今現在、日本政府の動きは鈍い。事前にあれだけ有事の可能性有りとされて来た筈の問題に対して何の準備も無く、内閣総理大臣は『情報収集』などという既にやっていて当然の事を、改めて指示した等と会見している。要するに無策なんだなと思うが、突発的に発生する有事に関しての初動態勢が確立されていないから、こんな事になる。国家として何をどうするか、北朝鮮に対しどの様な意志を示すのか、誰も方向性を指し示せないまま時間だけが過ぎて行く。

 戦争に対する備えとは、軍備拡張だけを意味しない。むしろ必要なのは意思決定であって、いざという時に何をどうするのかという方向性無しにどれだけの装備と人員を備えようとも意味はない。戦争に備えよとは力以上に意志を備えよという事だと自分は考えるが、だからこそ今の日本政府に対する不安、不満、不信は拭えない。

テーマ : 国防・軍事
ジャンル : 政治・経済

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Author:黒犬
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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