自作自演の想いを胸に・上遠野浩平『ブギーポップ・アンノウン 壊れかけのムーンライト』

 与えられた使命とか、宿命とか、そんな大層なものを持たない凡人として自分は生きている。それをありのままに受け止めて生きて行くのか、それとも「自分には何も無いのだ」と嘆くのか。人によってそれはまちまちだろうが、確かなのは、無いものねだりをしても現実は変わる事が無く、そして誰かに与えられた使命など無くとも、時に人は決断を迫られるという事だ。

 一般的に、物語の登場人物は作者の明確な意図によって様々な役割を付加された上で生み出される。それは主人公としての役割であったり、その友人としての役割であったり、また或いは彼等の敵になる為であったりするが、現実に生きる自分達はそんな『配役』の様なものを持たない生の人間として生きて行かなければならない。それは平坦な様でいて長く辛いもので、だから時には自分の外側から与えられる『台本』の様なものを求めてしまう事もあるのだろう。使命を『背負う』という格好良い言葉で自分を騙しつつ、本当は使命に『逃げ込む』のが人間で、それは自分に酔っている、なんていうナルシスティックなものではなく、多分必死になって縋っているのに近い。溺れている者が藁にも縋る様に。
 『人生の主人公は自分だ』等という様な格好の良い台詞を耳にする事はあっても、それを信じさせてくれる程の特別が与えられる事など稀で、ふと気が付けば自分は誰かの物語にとっての脇役として機能しているかどうかすら怪しい。そんな自分の立ち位置すら不確かな世界を海だとして、自分達がその波間で溺れかけている存在だとすれば、誰かに与えられた使命などはそこに浮かんだ木切れの様なものなのだろう。

 では物語の登場人物達は皆、生まれながらに与えられた使命を果たす為の存在として、迷いなく、雄々しく生きているのかと言えばそんな事は無く、彼等は彼等でその重圧に耐えて行かなければならないのだった。だから使命を持つという事に関して言えば、持てる者と持たざる者のどちらが恵まれているかという問いに意味はなく、物語の主人公達も、現実を生きる自分も、結局は表裏一体の存在として世界の厳しさと向き合っているに過ぎない。この狭量な世界の中で、自分の立ち位置や居場所を求めて、傍から見れば滑稽なダンスを踊っている様なものだ。

 本作にはある使命を負った少女が登場する。彼女は『世界の敵』と戦わねばならない使命を帯びていたが、その使命を果たそうと必死になるあまり、逆に逃げ場のない状況に追い込まれて行く事になってしまう。そんな彼女を救おうとするのは、単純に彼女に好意を寄せているだけの、特別な力など何も無い少年なのだけれど、彼にとっては、そして彼の物語にとっては、『世界の敵』も『死神』も、自分が巻き込まれていく状況すらも、ある意味ではどうでも良い些末事でしかなかったのかもしれない。彼女を救うのだという、彼が自らに見出した『使命』の前では。

 自分達に出来るのは、もしかするとそういう意味での自作自演でしかないのかもしれないと思う。自分で自分の行為に、そして自分の生き死にに意味を見出して行く事。それが第三者から見て正しいのか、意味がある事なのかは誰にも検証出来ないし、自分以外の誰かがその正しさを保証してくれる訳でもない。ある意味では誰もが正しく、そしてある意味では誰もが間違っているのだろう、この世界では。

 そうした世界で生きて行く事の意味を問う時、自分達がまずしなければならないのは、目の前の相手を説き伏せる為の言葉を探す事よりも、自分自身を納得させる言葉を、そして価値を見付ける事なのかもしれない。まあ、こんな風に偉そうにまとめてみたところで、自分自身もまだその捜し物の途中なのだが。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon