自分の、始まりの場所・漆原友紀『水域』

 『蟲師』で独特の世界を描いた漆原氏が新たに挑んだ長編作品が、この『水域』だ。『蟲師』が短編連作の形式を取っていたのに対し、『水域』は長編であり、また現代の日本を舞台としているという違いがある。しかし漆原作品に流れる空気や世界観は、両者に共通のものがあると感じる。
 普通ならここであらすじを紹介するところだが、今回は止めようと思う。出来ないと言った方がいい。何を書いても野暮になってしまう気がするからだ。もしも貴方がこの作品を未読なら、出来れば事前情報など何も入れずに、まっさらな状態で作品それ自体に触れてもらいたい。だから以下に書く事は全くの蛇足だ。既にこの作品を読んでいて、他の読者がどんな事を思って同じ作品を読んだのかが気になる、という事でもない限り、読む必要はない。なら書くなよ、という話なのだが、そこはご容赦を。

 さて、自分は地方に住んでいる。地方といっても色々とあるだろうけれど、自宅がある住宅街から車で数十分も移動すれば道路脇に田畑が広がっている様な場所に出る程度には田舎だ。母方の実家も丁度その位の距離にあって、農業を営んでいる。自分は小学生の頃、夏休みになるとよく母方の実家に泊まりに行ったものだ。そこでは頭数は多くないものの乳牛を飼っていて、自分は薄暗い牛小屋の中で牧草を食んでいる体の大きな牛達が実は怖かった。風呂は薪で火を焚いて湯を温めるもので、薪割りも経験したし、寝る時には蚊帳を吊ってその中で寝た。食卓の上にはハエ取り紙がぶら下がっていたし、生活用水は井戸水、手洗いは汲み取り式だった。そこには都会に住む人達が想像する様な『田舎暮らし』の姿がほぼ全て揃っていたと思う。
 やがて自分は大学生になり、都内で暮らす様になった。地方出身である自分は、いつか実家に帰らなければならないのだろうなと思いつつ、都会での暮らしにも馴染んで行った。隣人の顔も素性も分からない様な賃貸住宅での生活は、田舎特有の濃密な人間関係の中で育った自分からすればむしろ周囲の目を気にしなくて良い分気楽で、そのドライさを気に入ってもいた。

 田舎暮らしと都会での生活、どちらが自分に合っていたかと言われれば、自分は都会の便利さを選ぶだろうと思う。そして今でももし選択肢としてどちらかで暮らす事を選べるのなら、自分はもう一度東京に出て行く事を選ぶかもしれない。都会で暮らす人達が夢見る様な田舎暮らしへの憧れというものは、彼等が都会での生活を足場として確保しているから言える事であって、本当に地方に移り住んで、そこに根を張って生きて行くという事はそれなりに大変な事だと思う。

 ただ、そんな価値観を持っている自分の中にも、歴然と『故郷』としての地元は存在し続けていた。それは心の中に存在する飛び地の様に確固たる存在として、手触りのある存在として感じられた。都会で暮らしている間もずっと。それは望郷の念という程特別な感情では無いし、そこまで自覚的なものでもない。もっと普遍的に、日常的に、無自覚ながらも決して消える事がない核の様なものとして、『故郷』や『地元』という感覚はあった。
 これは推測だけれど、自分が生まれ育った場所というものは、きっと誰にとってもその様なものなのかもしれない。良い思い出も、辛い思い出も、皆その土地と結び付いた記憶としてそこにあるし、これから先もその場所にあり続ける。

 人は何処から来て何処に行くのか、という問いがある。哲学的な意味でその問いに答えを出す事は難しい。ただ、単純に自分という存在が何処から来たのかと振り返って考える時、間違いなく自分はこの場所から来たのだ、この場所から始まったのだという事実と結び付く地点というものはある。自分を含めた多くの人達にとっては、それは自分が産まれた土地だろうけれど、中には自分が産まれた土地以外の場所を、自分の出発点として記憶する人もいるだろう。それは人それぞれだ。そしてその地点は実際の場所としてそこにある以上に、自分の心の中にも同様の領域として存在し続けるのかもしれない。自分という存在のルーツとして。その出発点として。

 『水域』とはその様な領域の事なのではないかと自分は思う。実際の土地の事だけではなく、心の中に確保された領域。ふとこれまで歩いて来た道を振り返った時に、その視線の先にいつも存在しているだろう領域。時代が移り変わっても、実際の風景の中に昔の面影が一切無くなってしまっても、心の中にあるその領域は、昔と変わらず自分の出発点として存在し続ける。いつまでも消える事無く。いつまでも変わる事無く。

 『私は ここから来た』

 そう言える場所として。そう思える場所として。

 
 

テーマ : 漫画の感想
ジャンル : アニメ・コミック

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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