創造主への果て無き問い ディーン・クーンツ『フランケンシュタイン 野望』

 

 『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を著したのはメアリー・シェリーであるが、その後も様々な作家の手によってこの「創造主と被造物の物語」は続いて行く事となった。本作もまたその系譜に連なる物語であるが、フランケンシュタインその人と、彼が産み出した怪物の後日談を描いているという意味で、作者は違えど原作の直系に位置する物語であると言える。

 フランケンシュタインは自らの肉体を改造する事で現代まで生き延び、ヴィクター・ヘリオスと名乗っていた。彼は表向きは企業の代表として富と権力を得る一方、裏では自ら生み出した「新人種」を社会に紛れ込ませ、いずれは能力的に劣った従来の人間を駆逐して、自らを頂点とする新人種による世界を築く為に暗躍している。一方「フランケンシュタインの怪物」として最初に創られた男もまた現代まで生き続け、ギリシア神話に登場する神、プロメテウスの息子の名である「デュカリオン」を名乗り、ヴィクターを追う。ヴィクターとデュカリオン、そして正体不明の連続殺人犯を追う女性刑事、カースンの物語はやがて交錯し、新たな戦いが始まる。本作はその長い戦いの序章だ。
 物語の舞台を現代に移し、刑事もののドラマとする事で味付けは変化しているかもしれないが、その根底にあるテーマは一貫している様に思う。

 創られた存在は創造主に問う。自分は何故創られたのか。何故自分の様な存在を生み出したのかと。しかしその問いは、人造人間の問いであると同時に、自分達が常に抱いている問いでもある。

 何故自分達は生まれたのか。その問いは、時に子が親に対してする「何故自分を生んだのか」という問いかけとはまた性質を異にする、もっと根源的な問いではないか。特に一神教の世界観では、人は神によって創造された事になっている。しかし人は、創造主である神とは程遠い、不完全な存在だ。人が持っている残酷さ、悪意、業罪。そういった負の側面を思う時、自分などは「神が人を創ったというのなら、何故この様な不完全な存在として我々を創ったのか」と思う。
 神は人を「善なる存在」として創ったのであり、そこから勝手に堕落したのは人間だ、という考え方もあろう。しかし、現代に到るまでの歴史、とりわけ戦争や虐殺の歴史を振り返る時、我々を創った存在がもし真に全能なる神であり、彼がまだ自分の創った世界を、そして自分達の姿をどこかで見ているのだと仮定するなら、我々の創造主は一体何を見ているのかという疑念は拭えない。まあ『神は死んだ』と言い放ってしまえばそれまでの話ではあるが。

 自分達は、自分達の創造主に――もしそんなものが実在すればの話だが――自分達がこの世に生まれて来た理由を問う事は出来ない。それは各々が探すしかない問題だ。だからその困難な問いに向き合わざるを得ない自分達は、『人によって生み出された怪物』の物語を通して、自分達が生まれながらにして背負わされた問いの答えを探している。醜いフランケンシュタインの怪物・デュカリオンは自分達の鏡像であり、ヴィクター・フランケンシュタインが見せる独善的な精神は、自分達が神に対して抱いている怒りの投影だろう。神の有り様を直接に否定出来ない自分達は、人造人間の創造主である男の精神を否定的に描く事でその怒りをぶつけているのかもしれない。

 何故貴方は自分達を創ったのだ。こんな醜い怪物を。

 その問いに一生答えが与えられなくとも、自分達は自らの存在を、その中の醜い部分を抱えて生きて行くしかない。「時に自らの快楽の為に他者を傷付け、彼等から奪い、しかも罪の意識も感じない」こんな風に書けば、それは一体どんな凶悪犯の事かと思うかもしれないが、何の事はない。それは自分達の事だ。この国で安寧に暮らして行く為に自分達が他者から奪っているもの。それは目に見えない様に隠されているし、日々の暮らしの中では意識に上る事が無い。でも自分達はその『自らの不実』に気付いていて、フランケンシュタインの怪物であるデュカリオンに感情移入する。自らを殺人者だと言い、顔に一生消えぬ醜い傷を持った男に自分を重ねる事が出来る。

 本当の怪物は誰だろう。本当に醜いのは誰だろう。彼は、そして自分達はどこに向かおうとしているのか。この物語が指し示す先を、今は楽しみにしたいと思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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