いつかこの自分が消えたとしても・入間人間『僕の小規模な奇跡』

 

 『起きないから奇跡って言うんですよ』って、誰の台詞だったっけ。

 さて、今回もちょっと砕けた文章で。
 入間人間氏といえば、以前『六百六十円の事情』の感想を書いた時にも思ったのだけれど、独特の世界観を持った作家だと思う。まあ自分がまともに読んだのは『六百六十円の事情』を除けば本作しかないので、氏の持っているある一面についてしか知らない可能性も高いけれどね。

 引用すると長くなってしまうので割愛するけれど、この作品の特徴として、軽妙な語り口というか、登場人物達の掛け合いの妙というか、言葉遊びにも似た印象を受ける部分が多い。しかしその反面、物語のテーマは酷くシリアスなものなのではないかと思う。それは突き詰めていけば相当重い話になってしまう訳だけれど、本作が持っている軽妙さがその重みを受け止め、ただの重苦しい話になってしまう事を避けている様に思う。
 では、そのシリアスなテーマとは何かという話になるのだろうけれど、自分が思うに、それは人間が日々何を求めて生きていて、これから先何を願って生きて行くのかという事なのではないか……等と言ったら言い過ぎだろうか。自分は決してそう思わないのだけれどね。


“僕が街の何処かで繰り広げられる、群像劇の一部であればいいと思う。何気ない思いつきが、誰かの人生を左右していればいいと願う。
 僕の思いつきと怠惰が些細に、しかも形が歪んではいるけれど彼女の幸福の助力になればいいと祈った。彼女の幸せに僅かにでも関与していたい、というのが僕の望みだった。実感なんかなくて誰にも伝わらなかったとしても、五年後、十年後。彼女がまだ世界の何処かで誰かに幸せを報告していたなら、それだけで僕はこの運命に手の平を返し、感謝する。”


 自分には、作中に登場する『僕』の生き方を嘲笑う事は出来なかった。傍から見れば不器用で、要領が悪くて、報われない。得るものは少なくて、喪うものは多くて、そんな釣り合いが取れない人生だと分かっていても、それでも本当に最後の時が訪れるまでは生きて行かなければならない。そんな姿が、現実を生きる自分達に重なる。

 本作に登場するのは、この『僕』の様に特別な力や才能を何ら持ち合わせていない凡人達だ。しかし彼等の日常が交錯する時、そこには確かに物語が生まれる。それはシンプルで、ある意味ではありふれていて、それと同時に『奇跡』としか言い様がない巡り合わせだ。
 それを言い表す言葉は数多くあるのだろう。一期一会とかね。けれどそれをあえて『奇跡』と呼ぶ時に、その奇跡を願ってやまない自分達の姿が見える気がする。

 『起きないから奇跡って言うんですよ』という言葉はどこまでも正しくて、そんな事は皆が知っていて、認めていて、それでも奇跡を願ってしまうのが自分達だとするなら、その奇跡というのはきっと、自分の存在が他の誰かにとって全くの無ではないという、そんな些細な、小規模な奇跡であり、それを願う祈りなのだろう。

 現実の、自分の人生を思う。

 自分の人生が、他の誰かにとって何かほんの僅かでも意味があるものになれるだろうか。そして、叶うならそれが良いものであって欲しいと思う。けれどそれは奇跡が起こる事を願う様なもので、確証なんかない。むしろ自分でも知らない間に、自分が生きる事で周囲に汚点を遺してしまっている確率の方が高いだろう。今からでもそのひとつひとつの汚点を拭い去る事が出来たらどんなに良いだろうと思うけれど、当然そんな事が出来る筈もない。犯してしまった過ちは過ちのままで、自分は先に進んで行くしかない。これまでがそうであった様に。
 「そんな高望みしなければいいんだ」と自分自身が言う。自分でもその通りだと思う。奇跡は起こらないのだから。起こらないからそれは奇跡と呼ばれるのだから。「その時」が来たら、全てを諦めて、受け入れて、ただ『無』になればいいんだ。そうなるしかないんだという諦観がある。でも、それでもなお心のどこか片隅で祈る様に願ってしまう奇跡を、その希望を、本当に捨ててしまう事は出来ないのかもしれない。

 いつかこの自分が消える時まで、その小規模な奇跡を信じていられるだろうか。その答えはまだ見えないけれど。
 
 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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