偶像達の純真と人間の業・籘真千歳『スワロウテイル人工少女販売処』

 

 オスカー・ワイルド氏の有名な短編に『幸福な王子』という作品がある。金や宝石で飾られた王子像が、ツバメの手を借りて自らの体から装飾を剥がし、貧しい人々に分け与えるというストーリーは有名で、自己犠牲や博愛精神の尊さを説いているとされる。
 我が身を省みず貧しい人々に施しを与えようとする王子像と、その場を動けない彼の代わりとして人々に宝石や金を運ぶ為に飛び回り、最後は温暖な土地へ渡る時期を逃してしまうツバメの姿は確かに涙を誘うかもしれない。しかしながら、彼等の魂が神の御許に召され、報われるという結末を読んだ時に自分が感じたのは、むしろ神の無慈悲さだった。

 この世界に神はいるのだと言うのなら、何故彼は物語の中に出て来る様な貧しい人達をこそ真っ先に救わないのか。神は何を見ているのか。全てを見ていると言うのならば、ただ見ているだけか。神は病気の子供にオレンジ一つ買ってやる事が出来ない程貧しい母親が、お針子として金持ちが舞踏会で着る為のドレスに刺繍を施している事を知っている筈だ。父親からマッチ売りを命じられた女の子が売り物を溝に落としてしまい、靴も靴下も履けない様な姿のまま途方に暮れて泣いている事も知っている筈だ。そしてそれを救おうとする人間がその場には一人もいない事も。それでも神は何もしない。それでいて、全てが過ぎ去った後で王子とツバメの魂だけを救うのだ。それが不条理でないなら何だろう。
 人間達が王子から貰った宝石や金を売れば、確かにその場は助かるだろう。けれどそんな金銭的な施しは使い切ってしまえばまた元の木阿弥だ。相変わらず世界は不平等なままで、正しく生きようとする者を救わない。そして人間は身勝手な生き方を変えずに、自分より弱い立場の誰かを食い物にし続ける。

 前置きが長くなったが、『スワロウテイル人工少女販売処』を読んで自分が真っ先に思い出したのは、この『幸福な王子』だった。人間が喪った善性や希望が、人ではない偶像の中で生きている。それとも、人間ではない彼等にしか神が望む様な博愛精神や自己犠牲を体現する事は出来ないのだ、と言った方が適切だろうか。ともかくそれが両者の共通点だと思える。

 本作に登場する『偶像』は背中に蝶の羽を持った人工妖精(フィギュア)達だ。<種のアポトーシス>と呼ばれる感染症の蔓延により異性との接触や性交渉が危険視され、男女が完全に隔離された世界で、人工妖精達は異性と接触できない人間のパートナーとして創られた。男性には女性型の、女性には男性型の人工妖精が与えられ、子孫は人工授精によって生まれる社会。人間への奉仕を生まれながらにして刷り込まれた人工妖精達はどこまでも人の為に生きる。その痛々しいまでの献身は、それを強いている人間側の歪さを浮き彫りにする。

 人ではない偶像達の心が美しく描かれる時、それとは対照的に人間側の醜悪さが際立つ。それでも本作の中に救いがあるとすれば、それは『幸福な王子』とは違い、人間の中にもまだ幾許かの善性が遺されている事が描かれる事だ。自らの不実に気付き、社会の不条理に苦汁を舐めさせられながらも、それでも自分達に許される範囲で何とか現実と戦おうとする人間がいる。その各々の振る舞いは、想いは、咬み合わない歯車の様に空転しているだけなのかもしれない。もがく様に軋みながら、互いの歯車をすり減らすだけなのかもしれない。しかし、それでも人はそうして不器用に生きて行くのだろう。神に救いを求める事が出来ない、この世界では。

  

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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