自分は人間として生きているか フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

 

 あまりにも有名な作品なので、今更あらすじを語るという事は避けたいと思う。仮に本作の題名に聞き覚えがなくとも、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』の原作と言えば誰もが思い出す事だろう。まあそんな事を言いながら自分はこれまで本作を読まずにいた訳だけれど。

 さて、本作には人間とアンドロイド、本当の生き物と電気仕掛けの模造動物という様な対比が様々な場面で登場する。物語の冒頭で、主人公のリック・デッカードは電気羊を飼いながら、自分の稼ぎでは本物の羊を飼う事が出来ないと嘆く。本物の羊と同じ様に手間をかけ、世話をしていても、偽物の電気羊は「どこかがちがう」のだと。電気羊は本物の羊の様に草を食み、生きているかの様に振舞う。壊れる時でさえ、まるで病気にでも罹ったかの様な芝居をしてみせるほどだ。電気仕掛けである事以外は限りなく本物に近い模造品。そしてアンドロイドもまた、本物の人間に限りなく近い模造品だと言えるだろう。

 人が、アンドロイドの様な『人間の似姿達』の物語を描く時、それは彼等について描きながら、同時に人間について描いているのだとも言える。彼等と人間との差異はどこにあるのか、という問いは『人間性』についての考察を求めるからだ。人間を人間たらしめているものとは何か。それを無くしてしまえばもう人とは呼べなくなってしまう様な、人間の核となるもの。人間を定義するもの。それは何だろうと考える時、きっと人それぞれが様々なものを思い浮かべる事だろう。その中のどれが正解なのかという議論に果てはないのだけれど、その果てがない問いについて考えてみる為の材料を本作は提示している。

 本作で人間とアンドロイドを識別する為に用いられるテストは『感情移入度測定検査』と呼ばれるものだ。それは一種の心理テストの様なものだが、アンドロイドがいかに人間の心理や思考、感情を模倣し、限りなく人間に近い反応を返そうと計算しても、そこには感情移入能力の欠如からくる差が生じるのだという。つまり作者のフィリップ・K・ディック氏は、人とアンドロイドとの決定的な違い、そして人間を人間たらしめているものは『感情移入』の能力だと考えている訳だ。

 感情移入の能力。相手の身になって考える事。それが『人間性』なのだとすれば、それを失った時、人間は人間でなくなるという事なのだろうか。自分は、ある意味ではその通りなのだろうと思う。
 おかしな話だが、自分も時々自分の中から「人間性が欠けて行っている」と思う事がある。そして大抵の場合、それは自分自身に余裕が無くて相手に機械的な反応を返すだけになってしまっている時や、相手の事情を無視して自分の都合を押し付けなくてはならない時、そして自分自身の感情を無視して黙々と何かをやらなければならない時など、心や感情といったものを無視して動いている時だと思う。そんな時、自分はある意味で「生きていない」のかもしれない。少なくとも人間としては。

 感情移入や共感が出来ない時。相手や自分自身の心を無視しなければならない時。そんな時には自分の心臓の鼓動でさえ機械的なポンプの作動音に思える。ただ心臓が動いているだけ。呼吸をしているだけ。まともな人間であるかの様に振舞っているだけ。ある意味では最初からアンドロイドである事より質が悪い。

 今日の自分はどれだけ人間だっただろう。そして明日の自分はどれだけ人間でいられる事だろう。そして今こうしてここにいる自分は、本当に人間だろうか。人間として生きていると言えるだろうか。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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