虚構の世界から現実を振り返る時 パオロ・バチガルピ『第六ポンプ』

 

 以前『ねじまき少女』をご紹介したパオロ・バチガルピ氏の短篇集。実は『ねじまき少女』を読んだ時に「この作家の短編はきっと面白いに違いない」と思っていたのだけれど、その期待が現実のものとなって嬉しい限りだ。

 『ねじまき少女』が文庫にして上下巻構成の長編だったのに対し、本作は短編集という事で、各作品が様々な世界観によって描かれる事となり、読んでいて驚かされる。自分がSFを好きな理由として「作品毎に多種多様な世界観を楽しむ事が出来る」という部分は間違いなくあるのだけれど、そういう意味でもこの短編集に収録された作品が見せてくれる世界はどれも興味深いものばかりだ。

 表題作である『第六ポンプ』では痴呆化が進む人類の姿を描きながら、その中でも自らの責任を投げ出す事無く最後まで理性的であろうとする者の意思を尊ぶ。それは同時に現代人に自省を求める痛烈な批判の矛先でもあるだろう。痴呆化し『トログ』と呼ばれる様になったかつての人類の姿を描く事は、同時にトログ化するとはどういう事か、人は何を失った時に人ではなくなるのかという事を表している。
 また『フルーテッド・ガールズ』では『ねじまき少女』の作者らしいフェティッシュな部分も顔を覗かせる。人の手によって作られたアイドル。身体改造。創造主と被造物の関係。そして支配者と被支配者の関係。自由というものに付けられた値段。そうしたものが織り成す多層構造の中で生きるしかない個々の人間の姿と、その顛末。

 SFというものはどこまでも虚構であって、少なくとも今この時点では現実ではない。しかしそれでも、作品を生み出すのが人である以上、どこかでこの自分達が生きる現実と間違いなく地続きであるとも言える。そこで描かれる物語は、作品に登場する「彼等」の物語である一方で、現実を生きる「我々」の物語だ。だから自分達は虚構の物語に心を動かされる。『第六ポンプ』で描かれるニューヨークの姿は、今の日本にも通じているかもしれない。人間の痴呆化はトログ程進んではいないが、責任逃れを続けながら権力の座には居座ろうとする為政者達の姿は十分にトログ的だ。誰も彼もが責任を取らず、自らに課せられた役割を放棄する。それが無責任な一部の人間に留まらず、大衆にも伝播して行く時、社会は、そして世界は少しずつ壊れて行く。その壊れ行く様を自分達は作品を通してリアルに想像する事が出来る。それは悪夢に近いけれど、その兆しは今でも確かにある。

 自分はこうして虚構の世界から現実を振り返る。そして、まだ虚構が虚構のままである事に安堵する。少なくとも、今この時点では。もちろんこれから先はどうなるか、そんな事は誰も分からないけれど。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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