死に切る事、生き切る事・押井守『ゾンビ日記』

 

 面妖なタイトルだと思う。

 自分も結構映画は好きだし、B級映画も好物だ。当然その中にはゾンビ映画も多数含まれる訳だけれど、寡聞にして「日記を書くゾンビ」なるものを目にした事は無い。という事は、この『ゾンビ日記』というタイトルがそのまま「日記を書くゾンビ」或いは「ゾンビが書いた日記」の話である筈も無く、その真意は別の所にあると考えるのが妥当であろう……などという婉曲な言い回しに特に意味はないのでこの辺にしておこう。
 この『ゾンビ日記』という題名を小説の内容に照らし合わせるとすれば、それは以下の様なものになる。

 『ゾンビ(に似た<死者>が徘徊する東京で人間として暮らす狙撃手=押井守の)日記』

 そう、これは作者である押井守氏が<死者>が徘徊する東京で、恐らくは最後にたった一人残った常人としていかに暮らして行くかが一人称で語られる日記だ。しかしそれは「自分がもしこんな状況に立たされたらこうやって生き抜く」という様なサバイバルをテーマにした作品ではない。むしろ「今の自分には既にこの世界がこんな風に見えている」という方がより作品の雰囲気に近いのではないかと思う。

 正確には、作中でビルの屋上からレミントンM700の軍用モデルであるM24というライフルで<死者>を狙撃する主人公(=俺)の名前が語られる事は無い。しかし彼の思考と嗜好、その行動原理は紛れも無く作者のそれであり、作中で語られる「俺」の姉に当たる舞踏家とは、押井氏の姉で、実際に舞踏家である最上和子氏の事だ。だから本作はある意味で「押井氏本人の日記」と言ってしまっても良いだろうと思う。その内容はもちろん架空のものだが、少なくとも本作の主人公には押井氏自身が強く投影されている。

 では、そんな俺=押井氏によって語られる<死者>とは何か。
 <死者>は映画等で一般的な、いわゆるゾンビとは異なる。一度死んだ者があたかも生き返ったかの様に再び活動を始めるという部分はゾンビと同じだが、<死者>は人間を襲い、喰らい、仲間を増やして行くなどという事はしない。彼等は意思もなく、目的もなく、ただのろのろと街を徘徊するだけの存在だ。心臓は停止し、呼吸もしていない。何かを食べる事も排泄する事も無い。腐る事も無い。何も見えず、何も聞こえず、感情も無く、しかし留まることもなく、ただ徘徊し続けるひとがた。『死を生きている人間』それが<死者>だ。

 死を受け止める事が出来ず、だからこそ十分に生きる事も出来なくなった人々が、やがて死に切れず<死者>として徘徊する様になった世界。<死者>が徘徊する世界という荒唐無稽な設定であるにもかかわらず、その世界観は妙に現実味を帯びている。それは東京を舞台にしているからというよりも、むしろ現代人の中に、既に<死者>としての要素があるからなのかもしれない。死と向き合う事を避け、結果としてよりよく生きる事も死に切る事も出来なくなり、目的を見失って徘徊し続ける人々。そしてその中に立つ自分。作者である押井氏には、この現実が既にその様に見えているという事なのかもしれない。その景色はとても乾いていて、殺伐としている様にも思えるが、しかしそれだけではない様にも思える。それは震災後の日本の風景とも、やはりどこか重なっている様に思えてならない。

 もし自分が同じ世界に立つとすれば、どの様に<死者>と向き合い、そして自分自身をどう生き、どう死ぬのだろう。ふと、そんな事を考えさせられた。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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